李香蘭と戦争(日中戦争10)

李香蘭は本名は山口淑子さんといい、戦争中は日本語が上手な中国人女優として知られていましたが、戦後になって日本人だということをカミングアウトし、その後は日本で、本名で活躍し、参議院議員にまでなるという、かなり数奇な人生を歩んだ人だと言えると思います。

で、どうして戦後になって日本人だとカミングアウトすることになったのかというと、これは日本の敗戦とばっちりつながっている話なんですよね。戦争中、李香蘭は満州映画協会というプロパガンダ映画会社の専属女優だったわけですが、日本の戦争協力をするための映画作品に出まくってます。たとえば日本人男性に殴られることによって、恋心に目覚める中国人女性とか、現代では考えられないようなプロットですが、当時はそれが日本国内では大いに受けたわけです。一方で、中国で上映された際には、不評だったとも言われていますが、現代に比べればまだまだ娯楽の少ない時代ですし、見目麗しい李香蘭に心を奪われた中国人男性もいたかも知れません。他にも皇民化をしっかり受け入れている台湾先住民の役とかもあって、李香蘭は日本大好きイエーイな中国人の役で映画に出まくっていたたわけですから、戦争が終わった後、中国で戦争犯罪人に指名されます。上海から日本へ逃れる船に乗る直前、「あ、お前李香蘭じゃないか」と職員が気づいて、中国人を裏切った中国人(漢奸)という扱いになって、裁判にかけられてしまったんですね。

で、どうやってこの危機を乗り越えたのかというと、日本の戸籍抄本を取り寄せて、はい、私は本当は日本人なんです。戸籍がありますから、ということになったんです。中国人を裏切った中国人ではないということが証明されて日本に帰ることができたというわけです。
終戦直後、中国大陸で命を落とした日本人はたくさんいるはずですから、李香蘭は運が良かったと言えるかも知れません。李香蘭と同時代人に川島芳子という人物がいますが、彼女は清朝皇族の娘さんとして生まれ、日本に養子に出され、戸籍上は日本人のはずなのですが、処刑されています。酷い話のようにも思いますが、川島芳子生存説もありますから、いずれまた詳しくそれについても考えてみたいと思います。李香蘭と川島芳子の運命を分けたものは何かというようなことを思うと、本当に紙一重だったようにも思えますから、当時の関係者は薄氷を踏む思いだったに相違ありません。溥儀の弟の溥傑さんと結婚した嵯峨侯爵家の浩さんも、戦争が終わってから日本に帰るまでの二年ほどの間、辛酸をなめつくしたことを自伝に書いています。

この手の本を読めば読むほど、日本人ですから、ついついびびりあがってしまいます。もう70年も前のことですしが、やっぱり自分その立場だったらどうしようというようなことを考えて、ぶるってしまいます。
田村志津江先生という高名な研究者の方が『李香蘭の恋人』という著作で、李香蘭の恋人だった説のある台湾人の男性のことを取り上げ、この男性は気の毒にも上海で映画の仕事をしているときに対日協力者という理由で銃で撃たれて殺されてしまうのですが、山口淑子さんが、「あの日、私は殺されたあの人と待ち合わせていたんですけど、現れなかったんです」という趣旨の発言をしたことや、墓参もしているので、李香蘭と劉さんというこの台湾人の男性とが交際していたのではないかという説がけっこう真面目にささやかれた時期もあったようなのですが、田村先生はこの著作で李香蘭は忙しすぎて、満州と東京を行ったり来たりしていて、新しい作品のクランクインが目前で、上海へ行っている場合ではなかったのではないかと疑問を呈しています。この著作では他にもいろいろ李香蘭批判が鋭く行われていて、何もそこまで…と思わなくもなかったのですが、戦争中は優遇されて、戦争協力も熱心にやっていて、戦後は戦後で反省もなく国会議員になって、あんた、映画芸術の関係者なのに、ちょっと権力に近すぎるんじゃないんですかと田村さんは言いたいのだと思います。

権力から近いことが=悪いかといえば、別にそこまで思いませんが、権力に抱き込まれてしまうのは確かに問題ですから、難しいところだなあとも思います。



日中戦争7 リットン調査団

満州事変が起き、満州国が誕生して溥儀が執政に就任するという流れが東洋で起きている一方で、西洋では中華民国から満州国は国際法違反によってつくられたものだとする提訴が国際連盟に対して行われ、日本側でも国際法に違反していないことは証明できるという姿勢を貫き、要するに諸方面が同意した上でイギリスのリットン卿を団長とするリットン調査団が組織されます。

実際に満州地方を歩いた期間はそこまで長かったわけではなく、東京や北京なども訪問し、日中双方の要人、その他当事者そのものと言える溥儀とも面談するなどしてリットン卿は実際のところを判断しようとしたわけです。調査と言っても諜報活動のようなことをしたというよりは、公正明大且つ貴族的優雅さを忘れぬ態度でジャッジしようとしたのがリットン調査団の仕事で、その成果がリットン報告書というわけです。

リットン報告書は北京で書かれ、当時の知識人らしく「満州とは」くらいの大上段から始まっています。リットン卿はインド総督もした人ですから、東洋についてはよく知っているという自負もあったのでしょう。カエサルの『ガリア戦記』で「ガリアは3つに分けられる」から書き出しているのを理想とする人が多いので、どうしても、ついつい、満州とは、中国とは、日本とは、みたいな大袈裟な話から入っていきたくなるのかも知れません。また、リットン卿としても自分の知性を発揮する絶好のチャンスでしょうから多少気負った感じもあったのだろうと思います。

リットン報告書では歴史的経緯を説明した上で、満州国は国際法違反であると結論しています。当時の国際法は、国際連盟の精神と連動して整備されたようなものだと言っていいと思うのですが、19世紀的な弱肉強食の世界、国益のために戦争をする世界、侵略戦争を是とする世界を辞めましょうという精神で構成されています。ウッドロー・ウイルソンの民族自決もその精神の一部であり、侵略戦争ダメ絶対!=諸民族は自分たちで意思決定する権利がある。他民族に意思決定されない(注意 民族とは何かという問題は今回はちょっと置いておきます。またいずれ議論できる日も来ることでしょう)。という思想が当時は特別重視されていました。第一次世界大戦でヨーロッパが荒廃し、科学技術の進歩が良かったのか悪かったのか大量破壊が可能になってしまい、もはや戦争はできない、戦争やってたら人類の文明が滅んでしまうという危機感が出発点になっています。この考え方は第二次世界大戦後の国際法にも影響していて、たとえばポツダム宣言でも日本の将来の政治形態は日本人が自分で決めると書かれてありますし、東京裁判でキーナン主席検事が「人類の文明を守るための裁判」と主張したのも、第一次世界大戦で世界は戦争には懲り懲りだと思ったのにも関わらず、また世界大戦をやってしまったので、第三次世界大戦を予防するための裁判だ!と言っているわけです。ここでは、その是非善悪を問うているのではなく、そういう考え方で彼らが仕事をしていたということを理解するために議論しています。東京裁判については考え方が分かれるでしょうが、一応、私はここに述べているような視点で理解しています。

で、以上のような国際法の観点から言って、満州国は国際法違反だとリットン卿は判断しました。満州地方は日本軍によって占領されていて、溥儀は傀儡に過ぎない。従って、溥儀を君主と仰ぐ満州地方人民の自発的分離独立運動と認めることはできないので、民族自決の精神にも合致しないと判断したわけです。さて、ここからがさすがは世界一の二枚舌の国であるイギリスらしい解決方法が提案されます。日本側はリットン卿に対し、主として2点を強調していました。

1は満州国は民族自決の理念に合致している。
そして2番目に、満州地方を手に入れるために、日本はめちゃめちゃ苦労したんだ。

ということです。1と2の言い分は完全に矛盾していますが、日本側は両方言い張りました。日露戦争で10万人の兵隊が死に、20億円の借金を作った。今もポンド建てで借金を返済している最中だ、そこを汲んでくれよと情に訴えたわけですね。で、リットン卿は日本側の主張1を認めてしまうとヨーロッパに帰ってあいつは馬鹿だと言われるのが嫌なので、1については明確に否定します。しかし、二枚舌が普通なので、日本が情に訴えて来た部分は受け入れてあげましょうという提案がなされました。満州国を独立国として認めることはできないが、日本に権益追求の優先権があることを認め、ついでに国際管理ということにして、ま、細かいことはこれから考えることにして、国際連盟の強い国でうまく分け合いましょうよ。日本は多めに獲ってもいいから、その他の国にもちょっとづつ分けてよ。そしたら、矛盾してるところとか、目をつぶってあげないわけでもないよ。というわけです。

満州地方がもし国際管理になっていたら、ロシアの南下も心配しなくていいし、国民党にも手が出せません。そして利権は日本に優先権がある。こんなにいい話はちょっと考えられません。なんとおやさしいイギリス様と思ってしまいますが、日本側は「満州国は民族自決の精神に合致する独立国だと認めろ」と強弁して話をまとめようとはしませんでした。ああ、これがニッポンの悲劇と思わず天を仰ぎたくなってしまいます。

次は国際連盟で松岡洋右が強弁している最中に起きた熱河作戦についてやってみたいと思います。




日中戦争4 満州事変‐石原莞爾と張学良

張作霖氏が殺害される事件が起きた後、息子の張学良氏‐この人は20世紀の東アジア関係史で最も謎に包まれた人物と言えるかも知れないですが‐が張作霖氏の軍隊と地盤を継承します。張学良氏にはいくつかの選択肢がありました。一つは南下の機会を模索するソビエト連邦と連携すること、もう一つは大陸での権益の拡大を模索する関東軍と連携すること、三つ目は軍閥が群雄割拠する中、力を伸ばしてきた蒋介石氏と連携することです。

で、結果として張学良氏が蒋介石氏との連携を選びます。普通に考えて、当時、張作霖氏が関東軍によって命を奪われたことは既に知れ渡っていましたから、人情の問題としても関東軍との連携はさすがにないだろうと思います。一部には実は張学良氏はソビエト連邦の工作員で、それで蒋介石氏に近づいたんだとする説もあるようですが、私は噂で聞いたことがあるだけなので、まあ、そういう噂もありますよ、くらいに留めておきたいと思います。張学良氏の回想インタビューは音声、動画、書籍など複数ありますが、私が中国語で発行された最近の回想ものの書籍では、若いころにどんなガールフレンドと付き合っていたかを張学良氏がいきいきと語っているような内容で、しかも実名を出していますから、本当にこんなものを外に出していいのかとも思いましたが、後に起きる西安事件については一切の口を閉ざしているあたり、墓場まで重大な何かを持って行ったことは確実で、それが何なのかは永遠の謎になると思います。

さて、張学良氏が満州地方で実力を保ちつつ蒋介石氏と連携することは、関東軍にとってはなかなか面倒なことだったと言えると思います。関東軍が割って入る隙のようなものがありません。全ては張作霖氏を殺害した河本大作大佐が悪いのですが、そっちの方は放置したまま、どうやって割って入るかということを考え抜いた石原莞爾が柳条湖事件を立案します。当時、中村大尉が諜報活動中に張学良麾下の部隊に殺害されたこともあって、現状をなんとかしようと関東軍が模索していた様子も感じ取れます。繰り返しになりますが、河本大佐の件をうっちゃってなんとかするというのは、ちょっと難しいことではなかったかとも思えます。

いずれにせよ、1931年9月18日、板垣征四郎大佐や石原莞爾中佐らが柳条湖での南満州鉄道を破壊し、それを国民党の軍の仕業であると自作自演して先端を開きます。土肥原賢二、甘粕正彦が奉天占領に動き、関東軍は満州地方全域を手に入れる方向で動いていき、天津で亡命生活を送っていた愛新覚羅溥儀を迎え入れて独立政権の確立を目指します。日本領にせず、独立傀儡政権の確立へと動いて行ったことは、パリ不戦条約のような第一次世界大戦後の新しい国際秩序の中で、あからさまな侵略行動がとれない時代に入ったからだと説明することもできると思います。




リットン報告書は受け入れてもよかった

1931年に発生した満州事変が石原莞爾と関東軍による画策で行われたということについては、もはや議論の余地はないように思います。思想信条がいわゆる右の人であろうと左の人であろうと、そこは一致するのではないでしょうか。で、この事件は蒋介石の中華民国政府が国際連盟に訴え出て、国際公論の場でなんとかしてもらおうと考えます。軍事力では日本に対抗し難いので、国際世論に助けてもらおうというわけです。この辺り、私は蒋介石はなかなか考えたというか、戦略的思考のできる人だと思います。

さて、日本は満州事変によって誕生した満州国がウッドローウイルソンの提唱した民族自決の趣旨にそったもので、満州地域の住民が自発的に望んで独立したのだと主張したわけですが、蒋介石も第一次世界大戦以降の世界的な平和志向の流れに沿う形で、満州が中国の主権の及ぶ範囲であり、まあ、力による変更は認めないと真っ向から対立します。

で、イギリス人のリットン卿を団長とするいわゆるリットン調査団が日本、満州、北京と歩いてその報告書を提出します。リットン報告書です。一般的なイメージでは、リットン報告書は日本の主張を厳しく批判し、日本を糾弾するものだったかのように受け止められていると思うのですが、内容は全然そんなことはありません。リットン卿は北京で書いたとする報告書の中で、満州国は関東軍の実力行使の結果生まれたもので、現地住民の意思なんか全然反映されてないし、民族自決とは関係ないと壟断していますけれど、一方でその解決策としては中国の主権の及ぶ範囲であると認めつつ、現実的には当該地域の自治と日本の利権を認め、日本を中心とした国際管理を提案しています。即ち、中国には名を与え、日本には実を与えるというなかなかに現実主義的なプラグマティックで実現可能、双方の言い分をそれなりに取り入れた内容になっているように思えます。

しかしながら、日本の代表の松岡洋右はリットン報告書を受け入れるようにとする国際連盟の勧告に強く反発して国際連盟脱退するという悪手を選んでしまいます。この辺りに関するものはどの書物を読んでも非常にがっかりする場面で、読めば読むほどがっくししてしまうのですが、仮にプラグマティックに考えるのであれば、中国には名目上の主権はあるものの、満州に日本主導下の自治政権が立ち上がるわけですからその実をとり、スペードのエースともいえる溥儀を抱えているわけですから、溥儀に満州族の独立の必要性を訴えさせ、少しずつ満州国の既成事実化を図るという選択肢はあったはずです。リットン報告書は日本にとって全然損な話ではなく、受け入れ可能なものでした。にもかかわらず、日本側の主張を全て認めないのであれば脱退するという、残念ながらかなり一方的な外交が行われたことは、慚愧に耐えないとすら思えてしまいます。しかも、イギリス側からは国際連盟とは別のテーブルでみんなで仲良く満州で列強がおいしいおもいができるようにしませんか?という提案すらなされているのに、それをも拒絶しています。なんじゃこりゃ!と言いたくなってしまいます。イギリスの提案にのっかれば、リットン報告書を最低条件にして更に上乗せした条件で交渉できたでしょうから、こんなにいい話は本当はないはずです。それを断るというのは「世間知らず」というものです。

一応ことわっておきますが、日本がどうすれば満州を手に入れることができたかを考えたいわけではありません。「満州は日本の生命線」という当時の言説そのものがプロパガンダみたいなものですし、そもそもアメリカを仮想敵としたから後顧の憂いを断つために満州を手に入れたいという願望が湧いてきたわけですけれど、アメリカを仮想敵にする必要はありませんでしたから、満州は最初から日本人にとって必要のない土地なのだと私は思います。あくまでも当時の政治の責任者たちがどうしても満州に影響力を持ちたいというのなら、違った戦略的思考を持つべきだったのでは?ということです。

近年の研究では内田康哉が松岡に対して「脱退せよ」との訓令を出し、松岡が「外交は腹八分目でなくてはならない」と返信したという発見があったみたいなのですが、この時の内田の発想法は国際連盟から脱退すれば、国際連盟の勧告に従う必要はないという場当たり的で大局観のないもので、このやり取りを見る限り、松岡の方が真人間に見えてきます。松岡は国際連盟の脱退を失敗だったと考えていたようですが、帰国すると国民からは拍手喝采で、日本が大きく道を誤った大きな要因として新聞による世論の誘導は無視できないだろうと思えます。その後、松岡はおそらくは相当に悩みぬいて国際連盟を軸とする世界秩序に対抗するために日独伊枢軸であったり日ソ中立条約であったりというものを構想していきます。近衛文麿内閣の東亜新秩序更にその後の大東亜共栄圏構想というのも、国際連盟による世界秩序に対抗する軸としてどんどん関係者の頭の中で膨らんでいったものなのだろうと思います。結果として日本は敗戦し、今も敗戦国民の地位にいるわけで、本当に後世の日本人の一人としては、なにやってんだよ…としょんぼり突っ込みたくなってしまうのです。





昭和史76‐太平洋戦争は何故起きたのか(結論!)

資料を読み続けてきましたが、一応、手元に集めたもの全てに目を通しましたので、ここで一旦、昭和史については終えることにしますが、そこから私が得た知見を述べたいと思います。太平洋戦争は何故起きたのか、私なりに結論を得ることができました。

1、蒋介石との戦争に固執し過ぎた

日本軍、特に陸軍は蒋介石との戦争は絶対に完遂するとして、一歩も引く構えがありませんでした。しかし、情報・宣伝・調略戦の面では蒋介石が圧倒的に有利に展開していたということに
気づきつつもそこは無視してとにかく重慶を陥落させるということに固執し、空爆を続け、蒋介石のカウンターパートとして汪兆銘を引っ張り出し、新しい国民政府を建設し、蒋介石とは
対話すらできない状況まで持ち込んでいきます。情報・宣伝・調略の面では、蒋介石はソビエト連邦を含む欧米諸国を味方につけており、しかも欧米諸国はかなり熱心に蒋介石を援助していましたから、長期戦になればなるほど日本は疲弊し、国力を消耗させていくことになってしまいました。フランス領インドネシアへの進駐も援蒋ルートの一つを遮断することが目的の一つでしたが、それがきっかけでアメリカからの本格的な経済封鎖が始まってしまいます。アメリカから日本に突き付けた要求を簡単にまとめると、「蒋介石から手を引け」に尽きるわけで、蒋介石から手を引いたところで、日本に不利益はぶっちゃけ何もありませんから、蒋介石から手を引けばよかったのです。それで全て収まったのです。更に言えば、日本帝国は満州国と汪兆銘政権という衛星国を作りますが、味方を変えれば中国の国内の分裂に日本が乗っかったとも言え、蒋介石・張学良・汪兆銘・毛沢東の合従連衡に振り回されていた感がないわけでもな
く、汪兆銘と満州国に突っ込んだ国富は莫大なものにのぼった筈ですから、アメリカと戦争する前に疲弊していたにも関わらず、それでもただひたすら陸軍が「打倒蒋介石」に固執し続けた
ことが、アメリカに譲歩を示すことすらできずに、蒋介石との戦争を止めるくらいなら、そんな邪魔をするアメリカとも戦争するという合理性の欠いた決心をすることになってしまったと言っていいのではないかと思います。

2、ドイツを過度に信頼してしまった

日本が蒋介石との戦争で既に相当に疲弊していたことは述べましたが、それでもアメリカ・イギリスと戦争したのはなぜかと言えば、アドルフヒトラーのドイツと同盟を結んだことで、「自分たちは絶対に勝てる」と自己暗示をかけてしまったことにも原因があるように思います。日本だけでは勝てない、とてもアメリカやイギリスのような巨大な国と戦争することなんてできないということは分かっている。だが、自分たちにはドイツがついている。ドイツが勝つ可能性は100%なので、ドイツにさえついていけば大丈夫という他力本願になっていたことが資料を読み込むうちに分かってきました。確かにドイツは技術に優れ、装備に優れ、アドルフヒトラーという狂気故の常識破りの先方で緒戦に勝利し、圧倒的には見えたことでしょう。しかし、第一次世界大戦の敗戦国であり、植民地もほとんど持たなかったドイツには長期戦に耐えるだけの資本力がありませんでした。更にヨーロッパで二正面戦争に突入し、アメリカがソビエト連邦に大がかりな援助を約束してもいますから、英米はドイツはそろそろ敗けて来るということを予想していたとも言われます。日本帝国だけが、ドイツの脆弱性に気づかなかったというわけです。ドイツは絶対に勝つ神話を広めたのは松岡洋右と大島駐ベルリン大使の責任は重いのではないかと思えます。

3、国策を変更する勇気がなかった

昭和16年7月2日の御前会議で、南進しつつ北進するという玉虫色的な国策が正式に決定されます。フランス領インドシナへの進駐もその国策に則ったものですし、構想としてはアジア太平洋エリア丸ごと日本の経済圏に組み込むつもりでしたから、その後も南進を止めることはできなかったわけで、南進を続ければそのエリアに植民地を持つイギリス・アメリカとは必ず衝突します。アメリカとの戦争を近衛文麿が避けたかったのは多分、事実ですし、東条英機も昭和天皇からアメリカとは戦争するなという内意を受けていたのにも関わらず、国策に引っ張られ、国策を決めたじゃないかとの軍の内部からも突き上げられて戦争を続けてしまったわけです。

以上の3つが主たる原因と思いますが、どれもみな、日本人が日本人の意思としての選択であったと私には思えます。蒋介石との戦争に必然性はありませんから、いつでも辞めてよかったのです。ドイツを信用するのも当時の政治の中央にいた人物たちの目が誤っていたからです。国策だって自分たちで決めることですから、自分たちで変更すれば良かったのです。そう思うと、ほんとうにダメダメな選択をし続けた日本帝国にはため息をつくしかありません。私は日本人ですから、日本が戦争に敗けたことは残念なことだと思います。しかし、こりゃ、敗けるわなあとしみじみと思うのです。

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手元の資料の昭和17年1月1日付の号では、表紙にでかでかと『帝国遂に立てり』と大きな字が書かれています。やっちまったのです。アメリカと戦争するという一番やってはいけない悪手をとうとう選んでしまった、悪い意味での記念号なのです。

それより少し前の資料では近衛文麿首相の退陣と東条英機首相への大命降下について書かれており、そこでは近衛内閣は閣内不一致で総辞職になったが、国策そのものに関する不一致ではなく、国策遂行手段に関する不一致で総辞職になったと説明されていました。現代を生きる我々は知っています。近衛は大幅に譲歩することでアメリカとの戦争を避けたかった、一方で東条は昭和16年7月2日の御前会議で行われた国策決定をひっくり返すことを拒絶し、アメリカとの戦争も辞さないという彼の態度が内閣不一致に至ったことを。

東条英機は首相就任後に木戸内大臣を通じて昭和天皇から「戦争より外交を優先するように」との内意を受けていましたが、それでもやっぱり戦争することに決定し、その日の夜は自宅で号泣したと言われています。号泣したいのはこちらの方です。政治家たちが何とか戦争を避けたいと思っていたのに対し、陸軍は蒋介石との戦争を止めるくらいならアメリカとも戦争するという主戦派で、アメリカと戦争するとなれば実際に動くのは海軍なわけですが、連合艦隊は準備万端整えており、更に予算がつくのなら半年一年はやってみせると言うものですから、政治家たちも迷い出し、おそらくは戦争になったら儲かる考える財界人も居て、なんのこっちゃらわからんうちに「アメリカと戦争する以外に道はない」という結論に至ってしまいます。船頭多くして船山に上るとはこのことを言うのかも知れません。

私の推測も交えて言えば、当時日本帝国は既に火の車です。蒋介石と戦争するための戦費、満州国の維持費、汪兆銘政権の維持費、更に海軍力の増強に航空戦力の強化と金がザルに水を灌ぐようになくなっていったはずです。それでも世界で一番資本力のある国と戦争しようと言うのですから、正気の沙汰とは残念ながら思えません。

当該の号では「アメリカが癌なのだ」と主張し、癌は切開して切り取らなくてはならないとしていますし、日本軍の強力さも主張しています。短期戦でなら勝てるという見込みは確かに正しかったし、実際に短期的には大勝利なわけですが、後はじりじりと押されてやがて圧倒され、滅亡に至ります。そしてその禍根は種々の面で今に至るまで続いています。あー、やってらんねえと資料を自分で読みながらも、読む気がしなくなってきます。まあ、もう少し、頑張って読み続けたいと思います。

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昭和16年4月、日本の松岡洋右外務大臣と、ソビエト連邦のモロトフ外務人民委員が署名し、日ソ中立条約が成立します。内容としては日ソ相互不可侵、満州国とモンゴルの領土保全、第三国と戦争になった場合は中立を守るというもので、当時は松岡洋右の外交の大勝利と言われたようです。松岡はベルリン、モスクワ、満州、汪兆銘南京政府、日本帝国にわたる広大な地域が協力関係を結ぶことによりアメリカに対抗するという構想を考えていたと言われており、それはたった一つの誤算を除いて概ね正しい考え方だったかも知れません。ヨーロッパ戦線ではドイツはイギリス上陸こそ阻まれたものの、優勢であることには変わりなく、日本はソビエト連邦と戦争する心配がなくなったので安心して南進に専念できるというわけです。

しかし、たった一つの誤算によってその構想は結果としては大破綻へと繋がって行ってしまいます。私の手元にある資料の昭和16年5月1日付の号では、松岡は先にヒトラーとムッソリーニの諒解を得たうえで日ソ中立条約を結んだとされていますし、実際、ドイツとソビエト連邦が不可侵条約を結んでいて、このことで防共を国策にしていた平沼騏一郎首相が欧州事情は複雑怪奇と首相を辞任するという状態でしたから、日ソ中立条約で松岡洋右がユーラシア大集団安全保障ができあがったと考えたとしても不思議なこととは言えません。ただ、まさかアドルフヒトラーが独ソ不可侵条約を破ってソビエト連邦に攻め込むとは考えていなかったというのが唯一の誤算であり、いろいろな意味で命取りの誤算だったとも言えるように思えます。

イギリス・アメリカはヒトラーのソビエト連邦侵攻は既に予想しており、その予想については松岡の耳にも届いていたとも言われています。ヒトラーはバイエルン地方の山荘に大島駐ベルリン大使を招き、ソビエト連邦へ侵攻する意思を伝えるということもありましたから、松岡が上に述べた大安全保障構想はそれが成立する前から既に破綻する方向に向かっていたのかも知れません。欧州事情、正しく複雑怪奇です。真っ直ぐで正直、誠実を美徳とする日本人が策士を気取って動き回れるような甘いものではなかっとも言えそうです。

ナチスドイツがヤバい集団だということは当時も多くの人たちが気づいていたはずですし、日本人にも見抜いていた人はいたに違いないと思いますが、アメリカを脅威に感じる不安によって現実を歪んだ形で理解されるようになってしまったのかも知れません。ドイツがバルバロッサ作戦でソビエト連邦に侵攻したのは、松岡構想の破綻を意味しますし、本来であれば国際信義を無視するナチスを見限ってこそ正解になるはずですが、日本帝国の中枢では大島大使の情報が正しかったことに驚き、その後大島大使から主観と願望が入り混じったドイツ必勝の確信の電信を信じ込んだというのは、現代人から見れば、この点に関しては同情する気にもなれず、がっくしするしかありません。ドイツからは日本も極東ソ連に侵攻するように矢のような催促があったと聞いたことがありますが、日本帝国はそれでも律儀に日ソ中立条約を順守し、最後の最後でスターリンにはしごを外されるという無残な終焉を迎えます。

日本はヒトラーに騙されてスターリンにも騙されるという、まるで滑稽なピエロのようなものだったわけですが、日本人として情けなさ過ぎて涙も出ません。ただただ、がっくしです。アドルフヒトラーには彼個人の妄想があり、日本帝国には打倒蒋介石という別の妄想とアメリカに対する恐怖心があって頭がいっぱいになっており、日本とドイツの同盟は同床異夢の感を拭うことができません。日本はドイツと単独不講話の約束もしており、これはドイツだけ講話して日本だけはしごが外されてはたまらないという不安を払拭するためにした約束ですが、太平洋戦争が始まった後、シンガポール陥落後に講和への努力をしなかったのは、ドイツとの約束が足かせになっていたからで、騙されまくりながらも自分たちは律儀に約束を守り、結果として滅亡するわけですから、目も当てられないというか、資料を読みながら「見ていられない」という絶望感に打ちのめされます。

当該の資料では、他にヒトラーユーゲントに着想を得て植民地の若者に体験入営させるたという内容の記事もあり、当時の日本のドイツ信仰が如何に強力だったかを思い知らされます。宮崎駿さんが「日本人は戦争が下手だから、戦争はやらない方がいい」と言っていた動画を見たことがありますが、私も全く同感です。

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昭和15年11月30日、日満華共同宣言というものが出されます。同日、南京で日華基本条約も結ばれています。ここで言う「華」とは、汪兆銘政権のことを指します。当該の共同宣言では、日本と満州国、汪兆銘の中華民国の相互承認及び日満華経済ブロックの確立、更に防共をうたっているわけですが、私の手元にあるとある情報機関の昭和16年1月1日号(新年号)では、当該情報機関がその後の展開をどう考えていたかがよく分かる(つまり、日本帝国の考えていた方向性がよく分かる)記事がありましたので、ちょっと紹介してみたいと思います。

当該の記事では日満華は「共同の理想」があるとし、その共同の理想とは「アジア人によるアジアの解放」であり、「大東亜広域共栄圏」の確立としています。「大東亜共栄圏」ではなく、「大東亜広域共栄圏」としているあたり、いわゆる大東亜共栄圏構想がまだはっきりとは定まっていない、手探りの段階だったことを示すのではないかとも思えてきます。

続いて、当該の記事では日本と蒋介石政権との戦争は単にその二つの勢力の戦いではなく、蒋介石を支援する英米を中心とした列強との闘いであるとも強調されています。即ち、遅くとも昭和16年初頭の段階で日本帝国は世界を敵にして戦う決意を固めつつあったということが見えてきます。言うまでもないことですが、世界を敵にして戦って勝てるわけがありませんから、その後、日本帝国が滅亡の過程を辿って行ったのは当然の帰結と言うことができるかも知れません。当該記事ではフィリピンに於いてアメリカの航空勢力が拡充されている点に警戒感を示し、オランダ領インドネシアでは排日運動が盛んになって、嫌がらせされていることへの嫌悪感も書かれており、やはり世界を相手に戦争をする気がまんまんであったということが分かります。

もちろん、このように強気の姿勢で事態に臨むことができたのは日本にはドイツのアドルフヒトラーがついているということが自信の根拠となっていたわけなのですが、さすがにアドルフヒトラーと組むという悪手を選んでしまったことに、21世紀の現代を生きる日本人としてはがっくりするしかありません。ドイツの技術力は見事なものだったらしいのですが、資本力の底力みたいなものの点では英米に対しては各段に劣っており、長期戦になれば資本力がものを言うわけですから、アメリカ、イギリスサイドではさほど悲観的ではなかったようです。イギリスでは既にチェンバレンが退き、チャーチルが首相の座に就いていましたが、チャーチルはアメリカの参戦を心待ちにしており、ルーズベルトは日本に先に一発撃たせることで国内のモンロー主義を一掃し、英米世界秩序みたいなものを維持しようと考えていたという話は随所にありますから、日本がアドルフヒトラーをどんなに頼りに思っていても、アドルフヒトラーは実はそこまで強くなかったという現実に気づいていなかったというのが日本帝国の悲劇なのかも知れません。ドイツと同盟していなければ日本の政治家や軍人がここまで強気になることはなかったでしょうから、かえすがえすもがっくし、残念、何をやっているのだか…と辛い心境にならざるを得ません。私の手元にある資料は昭和17年までありますので、もう少しの間、資料の読み込みを続けたいと思っていますが、どうしても暗い心境になってしまいます。

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昭和史63‐日本型植民地とオランダ型植民地

昭和史66‐「反米」言説

とある情報機関が発行していた昭和15年11月15日付の号では、「あわてだしたアメリカ、日本の南進をねたむ」という記事が登場します。昭和12年ごろの分から一冊づつ読み続けて愈々来たなという感じです。当該記事によると、ドイツとイタリアがヨーロッパに新秩序を打ち立て、日本も東亜に新秩序を打ち立てようとしているにもかかわらず、アメリカがその新秩序を乱そうとしていてけしからん、みたいな内容になっています。日本の北部フランス領インドシナの進駐と日独伊三国同盟が結ばれた時期がほぼ重なっているのですが、それに対してアメリカは「いやがらせ」をすべく日本に屑鉄の輸出を禁止したとしてまず現状を述べています。続いて今後の予測としてアメリカは日本に石油を売らなくなるかも知れないとも書かれていますが、それはかえってアメリカが困ることになるとも述べています、アメリカで産出される大量の石油の一番の買い手は日本なのだから、日本の石油を売らなくなればアメリカの石油業者が困るだけでなく、東南アジアは枢軸国側が抑えているのだから、東南アジアの資源がアメリカに輸出されなくなり、アメリカは干上がるという議論の組み立てになっています。

その後の歴史の展開を知っている現代人としては、上のような見方は非常に甘いもので、日本帝国はこてんぱんにぼこぼこにやられて終了してしまうわけですが、それはあくまでも結果論ですから、当時の人間になってこの記事を考えた場合、半分正しいくらいの評価を与えてもいいのではないかと思います。というのは、実際に当時のアメリカは日本に輸出することで儲けていたわけで、時間が経てばアメリカの内部で日本に輸出させろ、でなければ商売あがったり困るじゃないかという声が出ることはある程度予想可能なことだからです。

とはいえ、第一に日本はナチスドイツと手を結んでしまいましたから、アメリカに於ける日本に対する「敵」認定は既に済んでおり、やるならやるぞと言わんばかりに太平洋艦隊は西海岸からハワイへと移動していきます。場合によってはグアム、フィリピンあたりまで主力艦隊が進出してもおかしくないかも知れないという事態へと展開していくわけですが、この段階でアメリカとしては、日本なんて資源のない国はちょっといじめてやれば膝を屈するに違いないという、あちらはあちらでちょっと甘い見通しがあったようにも思えます。

その後、連合艦隊が鮮やかに真珠湾奇襲を行い、ワシントンDCの日本大使館では寺崎英也氏の転勤パーティを前日に行って宣戦布告文の手交が予定より遅れてしまい、宣戦布告前の奇襲攻撃ということになってしまい、アメリカ人をして日本への復讐を誓わせることになってしまいます。ちょっと幻的ではあるもののアメリカが満州国を承認して、日本は蒋介石から手を引くという日米諒解案が実を結ぶ可能性もなかったわけではなく、これを松岡洋右が潰してしまうのですが、或いは真珠湾まで出かけていかなくても日本が一番ほしかったのはインドネシアのパレンバン油田ですから、直接パレンバン油田だけ狙えばよかっただけだったかも知れません。アメリカは元々モンロー主義で、世論は戦争に介入することには否定的だったわけですが、真珠湾攻撃という悪手で日本帝国は自分で生存の可能性を潰したと言えなくもないように思えます。

当該記事の重要な点は、この段階で日本でもアメリカを「敵」認定しますよというある種の宣言みたいなところだと思うのですが、当時はフランスを倒して「最強」に見えたナチスドイツと同盟を結び、ソビエト連邦ともうまくやって松岡洋右は自分の外交が成功していると確信していた時機でしょうから、アメリカに対しても強気でいられたのかも知れません。その後の歴史を知る現代人としては、今回紹介した記事に潜む危うさが目に付いてしまい、このようにして国が滅びていくのかと思うと目も当てられない、見ていられないという暗澹たる心境にならざるを得ません。

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昭和史57‐南進論とフィリピン

フィリピンは長年スペインの植民地下にありましたが、米西戦争の結果、アメリカ領になります。ただ、フィリピンではスペイン時代から独立運動、抵抗運動が根強く、アメリカ領になってからもその抵抗は続き、しかも宮崎滔天のようなアジア主義者がフィリピン独立運動に協力する動きも見せていましたから、アメリカも相当に手を焼いたようです。結果としては、アメリカの議会でもフィリピン分離論が盛り上がり、フランクリン・ルーズベルト大統領の時代にフィリピン独立法が成立し、第二次世界大戦後の1946年に既定路線通りにフィリピンは独立を果たします。

日清戦争の結果、日本が台湾を領有して以降、西洋列強は日本が更に南に位置するフィリピンに対して領土的野心を持っているのではないかと警戒していたようですが、1905年に桂・タフト協約でアメリカのフィリピンに対する権益を日本が犯さないと約束し、日本が朝鮮半島に対する権益をアメリカは認めるという交換協定のようなものが結ばれ、双方、手出しをしないという状況が続きます(上述したように、宮崎滔天のような民間人はいろいろ動いていたようですが…)。1908年には高平・ルート協定というものが結ばれ、日本はアメリカのハワイ・フィリピンに対する権益を犯さないと約束し、アメリカは日本の朝鮮半島及び南満州の権益を黙認するという協定が結ばれます。アジア太平洋地域に於ける勢力図の再確認のようなものだったと言っていいかも知れません。

ですが、日本国内では南進論が根強く、第一次世界大戦の結果、フィリピン東方の南洋諸島が日本の委任統治領になったことから、フィリピンは日本の領域に囲い込まれたアメリカ領という、ちょっと難しい位置になってしまうことになりました。

さて、先にも述べたように、フィリピンが1946年に独立することは30年代から既定路線になっていたわけですが、日本側が不安に感じたのはフィリピンに米海軍基地が存続するかどうかということだったようです。私が追いかけているとある情報機関の発行していた機関紙の昭和14年1月11日発行の号では、フィリピン独立法について述べられており、しかしその後もアメリカ海軍基地が存続するかどうかについての懸念が述べられています。当該記事では「比律賓の永久中立の問題」と「米軍海軍根拠地の問題」があると指摘しています。当時、この記事が出た段階では、日本帝国は広田弘毅首相の時代に五相会議で南進が決定された後なわけですが、それは云わばこっそり五人の大臣でそういうことにしようと相談して決めた程度のもので、具体的に南進論が閣議で正式に決定されるのは1940年7月、近衛文麿内閣でのことです。当該記事は同じ年の1月という微妙な時期に出されたことになるわけですが、独立後のフィリピンの「永久中立」を求めるというのは、日本の南進にアメリカ海軍が脅威になるという認識があったからに相違なく、もうちょっと踏み込んで言えば、南進論が国策になっている以上、そのうちフィリピンも獲りたい、控えめに言っても「大東亜共栄圏」構想にフィリピンを取り込みたいという狙いが背景にあったことは間違いないように思えます。欧米列強が自国の植民地が日本に獲られるのではないかと警戒したのは、読みとしては正しかったとも言えますし、結果的にこの国策が日本帝国を滅ぼすことになったとも言えるため、何もわざわざ遠い南国を獲りに行かなくても良いものを…という残念な心境になってしまいます。

日本の南進論が具体的に発動するのは北部仏印進駐からで、その後アメリカ側からは日本に対し、もし日本帝国が南部仏印にまで手を出したら経済制裁をすると警告を出していたにもかかわらず、南進の国策通り、日本帝国は南部仏印にまで進駐を始めます。フランス本国がナチスドイツに降伏した後なので、おそらくは渋々ではあったではあろうものの、日本のインドシナ進駐は平和的に行われました。ナチスドイツがフランス本国を抑えてくれていたおかげで楽にインドシナを獲れたという意味ではラッキーだったわけです。ただし、それが結果としては太平洋戦争への引き金へと発展していくわけですから人間の運勢と同じく、国運という言葉がついつい頭をよぎります。当時は、自国のブロック経済圏を持たなければやられてしまうという強迫観念のようなものがあったのではないかとも思えてきます。

太平洋戦争で山本五十六が真珠湾攻撃に出たのも、帝国海軍が如何にアメリカ海軍を脅威に感じていたかを示すもので、フィリピンにアメリカ海軍基地が存続するかどうかは当局者にとっては重大な関心事であったに違いありません。アメリカ軍は蛙飛び作戦で重要な島だけを獲って日本本土へ迫る方針で臨みますが、当初フィリピンは無視していいのではないかとの議論があったのに対し、マッカーサーが良心の観点からフィリピンは奪還しなければならないと主張した背景には、アメリカがフィリピン独立を約束していたということでより説得力を持ったのかも知れません。フィリピンでの戦いでは関東軍の主力が投入され、ほぼ全滅という悲惨な結果になりますが、更には関東軍の主力が不在になっていたために終戦直前になってソビエト連邦の侵攻がより容易になったと思うと、日本帝国がひたすら負のスパイラルへと落ち込んで行ったことが分かります。

フィリピンもインドシナも満州も日本から遠く離れた土地で、それらの地域が誰の主権に収まろうと日本人としては知ったことではないとも言えますが、その遠い土地を巡って何百万人もの日本人が命を落としたと思うと、いったいあの戦争はなんなのだと首をかしげざるを得なくなってしまいます。

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