大東亜共栄圏についての質問ですが、現在の視点から見れば、満州国は大日本帝国の占領地ですか、それとも植民地ですか?

植民地のバリエーションの1つであったと言えると思います。植民地には様々な形態があり得てですね、必ずしも直接的な占領・支配をしている必要はなく、たとえばイギリス国王がインド皇帝を兼ねていた時代、たまたまインド皇帝がイギリス王だというだけで、インドは独立国だと理屈を並べることもできるわけですね。保護国という名称が使われたり、自治領と呼ばれたり、委任統治領と呼ばれたりいろいろあると。

日本帝国も多くの植民地を持ちましたが、各地域の位置づけはバラバラでした。沖縄・北海道・樺太あたりは普通に日本の行政区として組み込まれ、台湾は直轄支配の地域、朝鮮半島は名目上はなんと日本との対等合併だったりしたわけです。遼東半島は租借地であり、南洋諸島は国際連盟委任統治領で、日本が国際連盟を脱退した後もその地位は変わらないという謎な事態も生じたわけです。

なんでこんなことになるのかというと、日清戦争のころは19世紀的な弱肉強食の論理で勝てば正義だという感じでわかりやすかったのですが、第一次世界大戦が終わると国際社会に侵略戦争の禁止とか住民自決とかの新しい概念が導入され、日本帝国としては版図を拡大するのに国際社会の波に合わせた方便が必要であったということでだいたい説明ができると思います。

で、満州国なわけですけれど、石原莞爾なんかは満州地方はソ連から日本を守るための拠点と考えてましたから、できれば日本領に組み込みたいと、そのほうが自由にやりたいことができると考えていたようなのですけれど、それでは国際社会に対して言い訳できないわけですね。日本は侵略戦争をしたとして非難され、最悪の場合は経済制裁されることもあり得ると。石原莞爾は満州事変は日本の自衛行動だと言い張ろうとしたかも知れませんが、だったら戦闘が終われば日本軍は撤退すべきだと言われてしまう。で、蒋介石と満州地方に関する協定を結ぶことができれば「租借地」にすることもできたかも知れませんが、蒋介石はそういうのは断固拒否して国際連盟に提訴していた状態でしたから、そういうのもできないわけです。で、日本としては住民自決の概念を使うことにして、満州地方住民の自発的な意思により独立国家が誕生するという体裁を選ぶことにしたわけです。もちろんリットン調査団は本気にはしませんでしたけれど。

そういうわけですので、ご質問に対するお答えとしては、植民地には多くのバリエーションがあり、満州国は日本帝国が版図拡大のために採用した1バリエーションでしかない。ということになります。



リットン調査団の日本と満州国に対する「心証」

石原莞爾や土肥原賢二などの関東軍参謀たちが共謀し、柳条湖で満州鉄道が爆破されたのは蒋介石の国民党軍に参加している張学良とその兵力による秘密工作だとの言いがかりで満州全域が僅かな期間で占領されたのが満州事変だ。石原莞爾本人は、長い目で見て日本対アメリカの世界の覇権国を決める決勝戦で日本が勝つために後背地として満州を確保したつもりだったのだが、日本国内で過度な熱狂が生まれ、むしろ中国大陸への関心が強まり、最終的に何もかもめちゃくちゃになってしまう、その第一歩だったと言うことができるだろう。石原莞爾は頭が良かったに違いないが、人望がなかったので日本を彼の理想の方向に引っ張っていくことができなかった。彼の最大の誤りは自分に人望がないことを過小評価していたことかも知れない。

日露戦争で大連・旅順を含む関東州及び南満州鉄道を手に入れた日本は、満州地方全域を手中に収めることを意識するようになるが、その収め方については様々な在り方が研究されたようだ。たとえば日本の直接領有も検討されたが、第一次世界大戦後はパリ不戦条約で侵略戦争が国際法違反と認識されていたため、この手法は却下された。国際社会の理解を得られるとはとても思えなかったからだ。とすれば、ウッドロー・ウイルソンが提唱し、国際連盟の理念である民族自決を大義とすれば諸外国は手出しできないだろうとの計算が働き、張学良を満州国皇帝にする案と溥儀を引っ張り出す案が立案され、溥儀が選ばれた。おそらく、溥儀と張学良それぞれにアプローチがあり、より脈ありというか、より言うことをききそうなのは溥儀だと関東軍は判断したに違いない。なにしろ張学良は蒋介石に従ってはいるが、その軍事力は蒋介石を凌いでいた。当然、関東軍とも場合によっては一戦交えるという構えでくる。一方の溥儀は丸腰で抵抗の術がない。それでいて満州人で元清朝の皇帝という都合のいいプロフィールを持っている。結果として溥儀は売国奴呼ばわりされ、今も歴史的な評価は低いし、いろいろな人の回顧録や伝記を読んでもさんざんな書かれようである。張学良は愛国の士としてのイメージが中華圏では定着しているため、書籍での書かれ方も大抵の場合は同情的で、敬意が示された書かれ方もよく見られる。人間性というのは大事なものである。後に西安事件で張学良は蒋介石に要求を認めさせた代わり、半世紀にわたって軟禁される運命を辿った。だが、ともに西安事件を起こした、いわば同志のような存在である楊虎城の場合、12年にわたって監禁され、最期は一家全員惨殺されている。西安事件によって蒋介石が抱いた憎悪の深さを物語るものだが、張学良は命は助けられたし台北の温泉も出てくる別荘地で主として読書に埋没する生活を送った。奥さんも一緒である。蒋介石は時々張学良を訪ねていたと、張学良本人がインタビューに答えているのを読んだことがあるのだが、蒋介石は張学良を罰してはいるものの憎んではいなかったことが分かる。父親の張作霖が馬賊からの叩き上げだったのに比べ、張学良は生まれながらのプリンスで、素直で善良で上品で教養があるというプリンスの良い面がよく表れ、結果としてはそれが彼を救った。彼は蒋介石に対して率直であり、我欲を求めなかったので、蒋介石にすら愛されたのだと言うことができるだろう。

それはそうとして、その張学良の軍隊を関東軍は武力で排除し、張学良の代わりに溥儀を大連まで船で運んで満州国建国にひた走るのだが、中国が国際連盟に提訴することで世界の注目を集め、日本の侵略行為だと認識され批判が強まっていく。日本側は国際連盟の調査団を満州に派遣することを提案した。調査団をうまく取り込むことができれば全てうまくいくと考えたのだろう。この日本側の提案が受け入れられ、イギリス人のリットンやフランスの外交官であるクローデルなどで構成される調査団が組織され、公平を担保するために日中双方から随員も出された。中国側は顧維鈞という中国外交関係のトップ中のトップを送り込んでおり、手足となるスタッフも相当な数に上ったらしいので、日本より中国側の方が実は遥かに役者が上だったことが分かる。日本側の外交を甘く見る傾向はおそらく今日までも続いており、いろいろ知れば知るほど暗澹たる心境になるが、今回の話題もそうだ。リットン調査団は日本の提案によって派遣されたが、調査団の委員たちは基本的に中国の主張を支持するようになった。クローデルはやや立場が違ったが、それは日本が正しいと考えるからではなく、現実問題として日本がパワーを持っているから、日本の主張を無視することは不可能じゃないかという、消極的な理由からだった。

委員たちは、日本の説明を聞けば聞くほど、満州事変が日本の陰謀によって行われたと確信するようになった。話ができすぎていて、とても現地住民の自発的独立運動とは信じることができなかったからだ。関東軍の動きは手際が良すぎたため、事前に共謀していたと受け取られたのだ。臼井勝美先生の『満州国と国際連盟』(1995 吉川弘文館)によると、リットンは日本の強情な態度に愛想をつかし、日本は満州問題で妥協すれば望む全てを手に入れることができるが、満州問題に固執しているため破滅するだろうと予見したという。事実、その通りになった。日本外交のトップにいた内田康哉はリットン氏との会談の場に於いて、リットン氏から問いただされたあらゆる妥協案を拒否した。内田は一切の妥協を拒否しただけでなく、帝国議会で満州問題で妥協するくらいなら日本を焦土にすることも厭わないという、いわゆる焦土演説まで行った。私には内田の演説が不気味な予言のようにすら思えてしまう。経済の分野でたまに言われる予言の自己実現が政治・外交・戦争の分野で起きたのだろうかと思えてしまうのだ。

リットンたちは日本の立場にすっかり愛想を尽かし、予定を切り上げて報告書の作成に入る。予定を切り上げた理由は、日本側といくら話し合っても同じ反応しか返してこないので、意味がないからだ。このように思うと、中国の外交力が勝っていたからリットン調査団が中国側についたというよりは、日本外交があまりに稚拙だったので、日本はオウンゴールして外交的な敗北をしたのではないかと思えてしまう。

それでもリットン調査団は日本の権益を大幅に認める提案をした。中国の主権を残した状態での自治政府を作るというものだ。それは国際管理をうたってはいるが、事実上日本が好き放題できる広大なエリアの設置を国際社会が認めるというもので、中国のメンツを立てつつ日本には実益を与えた。それをこともあろうに日本は拒否するのである。本当に頭を抱えたくなってくる。当時の国際連盟日本全権だった松岡洋右は奮闘し日本の立場は正当であると主張し続けた。イギリス側が日本と裏交渉を持ちかけてきたのは、松岡の舌鋒の鋭さも影響したのではないだろうか。イギリスからの裏交渉に松岡は飛びつきたかったが、東京にいた内田康哉からの訓令でそれもごわさんになる。内田康哉は国際連盟から脱退すれば、決議にしばられなくてもよくなるじゃん♪と考え、松岡に脱退の訓令を送っていたことが最近の研究で明らかにされている。日本は決議に於いて完全に孤立し、否決は日本の一票のみで、ほとんどが賛成。いくつかの加盟国は日本に対する遠慮で棄権した。日本に国際社会の理解がないのは明らかだった。松岡はこの決議の直後に脱退を表明し、その場を去る。場が凍り付いたらしいのだが、それは日本外交の幼さに対する驚愕であっただろう。世界を敵に回すような話じゃない。いくらでも妥協できるじゃないか。なのに…というわけだ。松岡は一連のできごとは失敗だったと認める内容を日記に書き残したが、真犯人は内田だと言っていいだろう。

リットン調査団の心証を悪くし、国際連盟加盟国のほぼ全てから満州国を否定された日本は、それでも満州を維持しようとした。その代償は明治維新後に確立した国際的地位の全てだったわけで、個人の人生でも、あまりに執着が強すぎると身を滅ぼしかねないという教訓としたい。



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日中戦争8 日本の国際連盟脱退

満州事変について調査したリットン報告書については前回触れましたが、日本にとっては必ずしも不利な内容のものと言えるものではありませんでした。敢えて言えば、リットン卿は名を捨て実を得るという提案を日本にしたわけですが、日本は名も実利も両方もらわないと納得できないとごね始めたわけです。想像が入りますが、世界は日本帝国の強欲さにドン引きしてしまったのではないかと私には思えます。

ジュネーブの国際連盟本部では松岡洋右が熱弁を振るい、日本軍の行動の妥当性を主張しました。当時の世界情勢は第一次世界大戦後の平和志向の時代へと移行していましたので、あからさまな侵略戦争は国際法違反と認定されていましたが、松岡は満州事変は侵略戦争ではなく、ウッドローウイルソンの提唱した民族自決の精神に基づき、地元住民の自発的な独立運動であると強弁し、これは満州国の建国はその帰結であるとして一歩も譲ろうとはしなかったわけですね。しかしながら、国際連盟で議論されている最中に関東軍は熱河作戦を行って占領地を広げようとしましたから、日本の侵略意図に対する疑念は更に深まり、松岡の立場はますます厳しいものへと変わっていきます。

一方で、裏側でイギリスから国際連盟とは別の交渉テーブルを用意しないかと打診されていたことが最近の研究で分かっているようです。国際連盟のようなお上品な場所では、日本は正しいと言い続けるしかない。日本国内からの訓令もあるでしょうから、松岡さん、あなた板挟みで辛いでしょう。イギリス、フランス、日本などの世界の強国が本音で話し合える裏交渉の場を設けて、みんなでちょっとづつ得をすることについて具体的に考えましょうと持ちかけて来たというわけです。松岡はこの提案に乗り来だったようです。松岡洋右というと、ちょっと申し訳ないのですが、ややヒステリックでエキセントリックで独善的な人物という印象があるのですが、イギリスとの裏交渉に乗ろうというのは、なかなかに現実的です。ワシントン体制で日英同盟は解消されましたが、イギリスとしては元同盟関係国である日本への手心ということもあったかも知れません。ところが、日本からは裏交渉なんかせずに国際連盟脱退の覚悟も辞さずで押し切れないかと訓令が来ます。当時、日本の内閣行政の中核的な役割を果たしていた内田康哉がそういった趣旨の訓令を発していたようです。

松岡はそれに対する返信として「外交は腹八分目でなければならない」と述べているのですが、外交官は飽くまでも本国の代表者。本国から訓令がくれば、外交官一人の思想や判断よりも訓令が優先されます。そしてとうとう松岡は国際連盟の脱退を発表し、世界を愕然とさせヨーロッパを出発します。松岡の日記にはその時の外交的失敗に対する後悔の念が記されているそうですが、上に述べたような経緯を見ると、確かに外交的な敗北感に苦しむことになってしまいそうに思います。

当時の日本では国際連盟からの経済制裁に対する不安感が強く、国際連盟から抜ければ経済制裁されなくてもすむではないかというほっとしたというような声もあったようですから、当時の日本がかなりの近視眼的な意思決定に捉われていたように思えます。いつかこのブログで述べることになると思いますが、太平洋戦争もかなりの近視眼的な発想で始められたように私は考えています。

で、いずれにせよ日本は以上の経緯を辿り、世界から孤立するようになり、札付きの悪であるナチスドイツしか相手にしてくれなくなったので同盟関係を結ぶほどのずぶずぶの関係になり、それ以外の諸国、要するに連合国は敵は日本とドイツなりという感じでちょうどいい感じに結束し、日本帝国は滅亡の穴へと落ち込んでいくことになります。述べていて暗い心境になってきましたが、もう何回か日中戦争について述べたいと考えており、引き続いて太平洋戦争に入るかと言えば、そのように考えてはおらず、ポストコロニアル的な視点から台湾についてしばらく研究してみて、それからできれば満州国のこともやって、太平洋戦争に入ってみたいと思います。認めます。私、日本近現代史のマニアなんです。お付き合いいただければ幸いです。




日中戦争6 満州国の溥儀

1932年3月1日、第一次上海事変の停戦協定もまだ結ばれていない最中、満州国の建国が宣言されます。満州国の政治的なトップに溥儀を執政として据えて、事実上の関東軍の傀儡国家を成立させたことになります。

満州地方を関東軍が占領した後、日本領にするか、どこかの軍閥と手を組んで自治領みたいにするか、独立国家にするかは意見が割れたようですが、結果としては溥儀を利用した独立国家にする道を関東軍は選びました。第一次世界大戦を経験した後の世界秩序の中で、露骨に日本領を拡大することは既に憚られる状態だったこともありますが、溥儀は満州民族の君主ですから、満州地方の住民の自主独立運動、民族自決の帰結として満州国が建国されたのだと強弁する材料にすることができたことや、溥儀は自前の軍隊を持っていませんから、一度取り込んでしまえばとことん傀儡として利用できる、溥儀に抵抗するだけの力はないと見抜いたということもあると思います。

溥儀は紫禁城から追放された後、天津の租界で、特にやることもなく適当に遊んですごしていたわけですが、関東軍からの満州行きのオファーに対し、共和制だったら行かない、帝政だったら行くとの条件を出し、関東軍サイドが帝政だと約束したことを信用して満州へと秘かにわたって行きました。

で、どうなったかというと、皇帝ではなく執政という最高行政官みたいな肩書を与えられたわけですから、ちょっと騙された感はあったのではないかと思います。溥儀は徹頭徹尾、清朝の再建のために日本を利用しようと考えていたところがあるようですが、日本側は清朝の再建は全然考えていなかったという温度差、不協和音を感じてしまい、溥儀についつい同情してしまいます。

溥儀は二年ほど執政としての立場を真面目にこなし、念願かなって満州国の皇帝に即位します。関東軍から見れば、満州国の皇帝で、溥儀の主観では清朝の復活です。やはり温度差、不協和音はあったと思いますが、溥儀としては皇帝に返り咲くことができたことで、それなりに満足はしたかもしれません。中国のドラマで溥儀を扱っているのを見ると、わりと日本が戦争に敗け始めて大変なことになっている時期に、何も知らず呑気にタバコを吹かしてご機嫌に遊んでいる溥儀が描写されていたりしますので、当時はご満悦だったというのが定説になっているのかも知れません。ベルトリッチの『ラストエンペラー』を見ると、ずっと悲劇的な人世で、そんなご満悦どころではないのですが、まあ、溥儀本人の主観を想像するに、天国から地獄へのジェットコースターを何度も経験していますから、相当に疲労困憊する人生だったのではないかと思います。

溥儀は正確には三度、皇帝になっています。一度目は光緒帝が亡くなった後に三歳で指名されて即位した時です。その後、辛亥革命で廃位されますが、袁世凱が亡くなった後で張勲のクーデター的策略で再度皇帝の座に座り、二週間にも満たない短い期間ですが、清朝が復活しています。そして三度目が満州国皇帝即位というわけです。

実に大変な人生です。その後、満州国建国についてはリットン調査団が入っていろいろ調べて、民族自決ではないと結論されてしまったり、日本の国際連盟離脱につながったり、ソ連邦参戦の時には口に出すのも憚られるような酷いことが起きたりと重苦しい歴史の出発点になったというか、満州地方に固執したために日本はほろんだみたいなところもありますから、満州は日本の重苦しい過去の中心みたいな場所なのだなあと、ブログを書きつつ、改めてためいきをついてしまいます。