日中戦争8 日本の国際連盟脱退

満州事変について調査したリットン報告書については前回触れましたが、日本にとっては必ずしも不利な内容のものと言えるものではありませんでした。敢えて言えば、リットン卿は名を捨て実を得るという提案を日本にしたわけですが、日本は名も実利も両方もらわないと納得できないとごね始めたわけです。想像が入りますが、世界は日本帝国の強欲さにドン引きしてしまったのではないかと私には思えます。

ジュネーブの国際連盟本部では松岡洋右が熱弁を振るい、日本軍の行動の妥当性を主張しました。当時の世界情勢は第一次世界大戦後の平和志向の時代へと移行していましたので、あからさまな侵略戦争は国際法違反と認定されていましたが、松岡は満州事変は侵略戦争ではなく、ウッドローウイルソンの提唱した民族自決の精神に基づき、地元住民の自発的な独立運動であると強弁し、これは満州国の建国はその帰結であるとして一歩も譲ろうとはしなかったわけですね。しかしながら、国際連盟で議論されている最中に関東軍は熱河作戦を行って占領地を広げようとしましたから、日本の侵略意図に対する疑念は更に深まり、松岡の立場はますます厳しいものへと変わっていきます。

一方で、裏側でイギリスから国際連盟とは別の交渉テーブルを用意しないかと打診されていたことが最近の研究で分かっているようです。国際連盟のようなお上品な場所では、日本は正しいと言い続けるしかない。日本国内からの訓令もあるでしょうから、松岡さん、あなた板挟みで辛いでしょう。イギリス、フランス、日本などの世界の強国が本音で話し合える裏交渉の場を設けて、みんなでちょっとづつ得をすることについて具体的に考えましょうと持ちかけて来たというわけです。松岡はこの提案に乗り来だったようです。松岡洋右というと、ちょっと申し訳ないのですが、ややヒステリックでエキセントリックで独善的な人物という印象があるのですが、イギリスとの裏交渉に乗ろうというのは、なかなかに現実的です。ワシントン体制で日英同盟は解消されましたが、イギリスとしては元同盟関係国である日本への手心ということもあったかも知れません。ところが、日本からは裏交渉なんかせずに国際連盟脱退の覚悟も辞さずで押し切れないかと訓令が来ます。当時、日本の内閣行政の中核的な役割を果たしていた内田康哉がそういった趣旨の訓令を発していたようです。

松岡はそれに対する返信として「外交は腹八分目でなければならない」と述べているのですが、外交官は飽くまでも本国の代表者。本国から訓令がくれば、外交官一人の思想や判断よりも訓令が優先されます。そしてとうとう松岡は国際連盟の脱退を発表し、世界を愕然とさせヨーロッパを出発します。松岡の日記にはその時の外交的失敗に対する後悔の念が記されているそうですが、上に述べたような経緯を見ると、確かに外交的な敗北感に苦しむことになってしまいそうに思います。

当時の日本では国際連盟からの経済制裁に対する不安感が強く、国際連盟から抜ければ経済制裁されなくてもすむではないかというほっとしたというような声もあったようですから、当時の日本がかなりの近視眼的な意思決定に捉われていたように思えます。いつかこのブログで述べることになると思いますが、太平洋戦争もかなりの近視眼的な発想で始められたように私は考えています。

で、いずれにせよ日本は以上の経緯を辿り、世界から孤立するようになり、札付きの悪であるナチスドイツしか相手にしてくれなくなったので同盟関係を結ぶほどのずぶずぶの関係になり、それ以外の諸国、要するに連合国は敵は日本とドイツなりという感じでちょうどいい感じに結束し、日本帝国は滅亡の穴へと落ち込んでいくことになります。述べていて暗い心境になってきましたが、もう何回か日中戦争について述べたいと考えており、引き続いて太平洋戦争に入るかと言えば、そのように考えてはおらず、ポストコロニアル的な視点から台湾についてしばらく研究してみて、それからできれば満州国のこともやって、太平洋戦争に入ってみたいと思います。認めます。私、日本近現代史のマニアなんです。お付き合いいただければ幸いです。




日中戦争6 満州国の溥儀

1932年3月1日、第一次上海事変の停戦協定もまだ結ばれていない最中、満州国の建国が宣言されます。満州国の政治的なトップに溥儀を執政として据えて、事実上の関東軍の傀儡国家を成立させたことになります。

満州地方を関東軍が占領した後、日本領にするか、どこかの軍閥と手を組んで自治領みたいにするか、独立国家にするかは意見が割れたようですが、結果としては溥儀を利用した独立国家にする道を関東軍は選びました。第一次世界大戦を経験した後の世界秩序の中で、露骨に日本領を拡大することは既に憚られる状態だったこともありますが、溥儀は満州民族の君主ですから、満州地方の住民の自主独立運動、民族自決の帰結として満州国が建国されたのだと強弁する材料にすることができたことや、溥儀は自前の軍隊を持っていませんから、一度取り込んでしまえばとことん傀儡として利用できる、溥儀に抵抗するだけの力はないと見抜いたということもあると思います。

溥儀は紫禁城から追放された後、天津の租界で、特にやることもなく適当に遊んですごしていたわけですが、関東軍からの満州行きのオファーに対し、共和制だったら行かない、帝政だったら行くとの条件を出し、関東軍サイドが帝政だと約束したことを信用して満州へと秘かにわたって行きました。

で、どうなったかというと、皇帝ではなく執政という最高行政官みたいな肩書を与えられたわけですから、ちょっと騙された感はあったのではないかと思います。溥儀は徹頭徹尾、清朝の再建のために日本を利用しようと考えていたところがあるようですが、日本側は清朝の再建は全然考えていなかったという温度差、不協和音を感じてしまい、溥儀についつい同情してしまいます。

溥儀は二年ほど執政としての立場を真面目にこなし、念願かなって満州国の皇帝に即位します。関東軍から見れば、満州国の皇帝で、溥儀の主観では清朝の復活です。やはり温度差、不協和音はあったと思いますが、溥儀としては皇帝に返り咲くことができたことで、それなりに満足はしたかもしれません。中国のドラマで溥儀を扱っているのを見ると、わりと日本が戦争に敗け始めて大変なことになっている時期に、何も知らず呑気にタバコを吹かしてご機嫌に遊んでいる溥儀が描写されていたりしますので、当時はご満悦だったというのが定説になっているのかも知れません。ベルトリッチの『ラストエンペラー』を見ると、ずっと悲劇的な人世で、そんなご満悦どころではないのですが、まあ、溥儀本人の主観を想像するに、天国から地獄へのジェットコースターを何度も経験していますから、相当に疲労困憊する人生だったのではないかと思います。

溥儀は正確には三度、皇帝になっています。一度目は光緒帝が亡くなった後に三歳で指名されて即位した時です。その後、辛亥革命で廃位されますが、袁世凱が亡くなった後で張勲のクーデター的策略で再度皇帝の座に座り、二週間にも満たない短い期間ですが、清朝が復活しています。そして三度目が満州国皇帝即位というわけです。

実に大変な人生です。その後、満州国建国についてはリットン調査団が入っていろいろ調べて、民族自決ではないと結論されてしまったり、日本の国際連盟離脱につながったり、ソ連邦参戦の時には口に出すのも憚られるような酷いことが起きたりと重苦しい歴史の出発点になったというか、満州地方に固執したために日本はほろんだみたいなところもありますから、満州は日本の重苦しい過去の中心みたいな場所なのだなあと、ブログを書きつつ、改めてためいきをついてしまいます。