歴史の中でいつから中華帝国とヨーロッパ諸国のテクノロジーの強さが逆転したのでしょうか?また、現代はどうでしょうか?

17世紀前半ごろ、日本が未来永劫カトリックを追放すると決心しスペインとポルトガルを拒絶し、オランダとイギリスに対して管理貿易のみを許可するという強気の態度で臨んだ結果、ヨーロッパは反抗できませんでした。蛇足ですがイギリスが日本との貿易から姿を消したのはオランダとの勢力争いに敗れてしばらく太平洋で活動できなかったからです。それぐらい当時のヨーロッパは弱かったのです。

で、19世紀前半ごろ、イギリスはでアヘン貿易を好き放題やりたかったのでアヘン戦争を起こして勝利したわけですが、日本の幕閣たちはアヘン戦争の報に接しヨーロッパは強いという認識を持つようになったそうです。

ということはこの200年の間に何かが起きていたわけですけれども、言うまでもなく産業革命がヨーロッパで始まったことが大きいと思います。日本も追いかけるように産業革命に成功し、列強入りしていきます。

さて、今起きていることですが、20世紀、中国は何度か産業革命を起こそうとして果たせず、21世紀に入り、新時代の産業革命をやっているところだと思います。

さて、中国と欧米のどっちが先を行っているかということですけれども、多分、まだしばらくの間は欧米が先を行っていると思いますが、その先はやっぱり雌雄を決することになるのではないかなあと思います。言うまでもありませんが、中国対欧米であって、日本が出る幕はないですね。



明・清時代の漢民族と満州族の文化、社会、政府の大きな違いにはどのようなものがあったのでしょうか?

ほんの部分的な話題しかできずに恐縮なのですが、清王朝の場合、官僚制度は満州族の貴人と科挙に合格した漢民族の地方出身者の二重構造になっており、やはり漢民族の方が出世するための苦労が多いものですから、満人は恨まれやすく、康有為のように一方に於いて科挙に合格したことを大いに自慢しつつ、一方に於いて光緒帝をうまく使い、憲法を導入して満人中心社会の終焉を狙うようなトリッキーな人物も出てくるわけです。彼のしたことは清皇室を維持しつつも清王朝の無力化を狙うものであるため、科挙に合格した官僚の身分としては自己矛盾をきたすのですが、ルサンチマンの塊になってしまっているので、光緒帝の命を危険にさらすところまで突き進むわけですね。一方のもうちょっと古い明王朝の場合、漢民族の王朝ですから、官僚制度に上に述べたような複雑な構造を抱える必要はなかったわけですね。ですが、最終的には社会矛盾みたいなことが原因で滅亡していきます。案外、清王朝の方が、自分たちは少数民族だという自覚が強いため、民衆を慰撫する努力をしたのかも知れません。

今書きつつ、「皇帝の末路」という言葉が思い浮かんだのですが、最も特異な人生を歩んだのは清朝の最後の皇帝の溥儀だと思いますけれど、明の最後の皇帝の崇禎帝は李自成に包囲される中、家族をほぼ皆殺しにして自殺してますから、その悲惨さという点では明の方が凄まじい最期を迎えたと言えると思います。



台湾近現代史9 朱一貫事件

台湾が清朝の版図に組み入れられた後、清朝は台湾に台湾府知府を設けて行政官を送り込むようになります。王珍という人物が台湾府知府を任じられていた時代、18世紀の初頭ごろですが、大地震と津波が起き、台湾住民の信仰心の不足が原因であるとして、多くの住民を拘束します。儒教では人の心が荒むと天災が起きることになっているので、本来なら為政者(今回の場合は王珍)の落ち度なのですが、王珍はそれを自分の責任ではなく、民の責任であると転嫁しようとしてきたわけです。17世紀終わりごろから大陸から移住してきた漢民族を指します。

朱一貫という人物が王珍は暴利を貪り、津波を他人のせいにしているなどと王珍を非難し、決起します。また、杜君英という人物も決起し、それぞれが手勢を率いて台湾府知府の軍隊と対決します。杜君英という人の動きは素早く、台湾府知府を陥落させ、王珍は澎湖へ脱走。ほどなく王珍は憤死ししたと考えられています。

これにより、朱一貫と杜君英の連合政権が生まれるに至たものの、今度は朱と杜が対立します。朱が福建系移民の利益を代表し、杜が広東系移民の利益を代表するような形になっていたようです。この戦いでは福建系の朱が勝利し、杜は台湾を脱出して清朝に降伏します。杜君英はその後北京に送られて斬首刑に処されるという運命を辿ります。現代の台湾人が主として福建系で構成されている主要因はこの抗争の結果かも知れません。

杜君英を排除することにした朱一貫は未だ服していない客家系住民と原住民の人々の平定に乗り出します、ただしこれはうまくいかず、朱一貫は敗走させられています。

その後、清朝が放った討伐軍が台湾に上陸します。清朝としては台湾は「化外の地」としておきながらも明朝の遺臣を自称する者が跋扈していることは統治・宣伝上好ましくないので、統治理論上どうでも討伐しないわけにはいかなかったものと言えます。

当時、朱一貫は杜君英の残党狩りにも忙しく、清軍の台南上陸も阻止できず大敗して捕らえられ、北京に送られて凌遅刑に処せられます。親族もただでは済まなかったようです。

清朝はこの事件を経て台湾統治をより固めることができたとも言えますが、その後、原住民の反乱である大甲西社抗清事件を招くことになります。

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第三次伊藤博文内閣

第二次松方正義内閣が衆議院を解散した日に辞任するというどたばた劇を兎にも角にも収集するために伊藤博文が三度目の組閣をします。とりあえずは選挙管理内閣としてスタートしたと言っていいかも知れません。

選挙結果では板垣退助の自由党が第一党となり、大隈重信の進歩党が僅か一議席の差で第二党となります。この時代になると官の政党は影も形もないありさまとなっており、議会で政府をつつきまくってきた大隈なり板垣なりの協力がないと政策が全然通らないという状況になっていきます。

伊藤博文は外交面では対ロシア融和策をうまくこなしており、日清戦争後の日露対立を避けることに一応は成功していますが、内政面ではなにしろ反政府の大隈と板垣の二大政党で三分の二を獲っている状態ですので増税もできなければ選挙制度改革もできず、伊藤は衆議院解散をうちます。自由党と進歩党が合併して憲政党結成して伊藤に対抗しようとしますが、嫌気がさしたであろう伊藤は辞任し、清・朝鮮半島への旅に出てしまいます。

政権の担い手がいなくなり、首相を推薦する元老会議で「大隈重信で行こうか」という話になり、第一次大隈重信内閣が誕生しますが、大隈と板垣の間で亀裂が生まれ、要するに「なぜ大隈重信が総理大臣で板垣退助が内大臣なのか」というポストの問題で感情的な溝が深まり、憲政党は分裂するというカオスった状態が生まれて行きます。

第一次大隈重信内閣は日本の憲政史上初の政党内閣と位置付けられており、それは確かに意義のあることのように思いますが、一方でゴネれば順番が回ってくるという悪い循環が生まれたようにも思えますし、それまで文句を言っていれば仕事していることになっていたのが責任のある立場になってブーメラン現象に見舞われるというお決まりのパターンもこの時から生じていたように思えます。

この時期、清では康有為や梁啓超などによる明治維新をモデルにした戊戌の変法運動とその瓦解という政変が起きており、最近の研究では国内政治を投げ出して外遊中だった伊藤博文が一枚噛んでいたらしいという説もあるようです。その説によると、康有為と伊藤博文が協議して英米日清の合邦を光緒帝に奏上したということらしく、それが本当なら清は戦わずして外国の植民地になってしまう恐れがあり、それを知った西太后が待ったをかけて愛国ゆえの血の粛清を行ったということになるらしいです。私にはそれを否定する根拠はありませんが、伊藤が独断で外国との合併を進めたというのはちょっと話ができすぎのような気がしなくもありません。


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