もし、徳川幕府が何らかの理由で倒れ、天下統一される前の戦国時代のような状態で開国要求勢力が日本に到着したら、日本も清のような状態になっていましたか?

「もし、徳川幕府が何らかの理由で倒れ、天下統一される前の戦国時代のような状態で開国要求勢力が日本に到着したら、日本も清のような状態になっていましたか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

インドみたいになったと思います。インドは各地のマハラジャが互いに覇を競い合う状態であったため、イギリスがマハラジャAと組んでマハラジャBを滅ぼしたり、マハラジャCと組んでマハラジャDを滅ぼしたりを繰り返し、最終的にビクトリア女王を皇帝として戴くインド帝国になりました。清の場合は中央集権国家であったため、戦争に敗けるごとに列強に土地を切り与えねばなりませんでしたが、統一国家としてのまとまりを失うには至りませんでした。日本がもし戦国時代の状態で、英米仏露の艦隊がやってくるというようなことになれば、容赦なく、丸ごと飲み込まれるか、列強の間で分割され、日本という国は消滅したと思います。



溥儀と宦官

最近、どういうわけか、なんとなく宦官に関する書籍を何冊か読んだ。宦官は今となっては過去の時代のもので、ましてや日本には関係がなく、今さら宦官に関する知識を得てもしかたがないといえばしかたがないのだが、清末期の中国の歴史を知りたいと思った際に、宦官について多少の理解を持つことは有効だと言えるだろう。また、20世紀後半くらいまでは2000年続いた宦官の最終世代がまだ生きていて、インタビューも複数残っている。彼らは光緒帝とか溥儀とか西太后に仕えた経験があるので、生き証人としても貴重なため、インタビューもまた興味深い。インタビューを参照した論考も多い。

で、いろいろ読み進めるうちに分かってきたことは、宦官に対する考え方によって、その記述が大きく異なってくることだ。宦官は男性器を失っているがために、欲望の向かう先が富と権力へと先鋭化していき、そのため貪欲で、しかも権力者の近くにいるため影響力を発揮しやすく、国家の意思決定にも関わるが視野が狭いため最終的に国家を滅ぼす。ホルモンバランスも崩れているので外見や声なども異様。異形の者に操られる末期清王朝。みたいなイメージで描かれていく。

一方で、宦官には宦官の美があると考える書き手もいる。そもそも宮廷内部で勤務する宦官は眉目秀麗であり、おっさんくさくなることは絶対にない。ホルモンバランスが未知の領域なので、美しさもまた絶世の感あり。従ってモテる。最上級の王宮で仕事をしているため、マナーに詳しく気品に溢れている。教養もある。見た目よく、中身よく、マナーもできるのだから、結構完璧な存在だとすら言えるだろう。たとえば浅田次郎さんの蒼穹の昴で登場する宦官は、そういうタイプだ。宦官に憧れる人すら出てきそうな勢いだ。

私が読んだ宦官関連の本から得た感想としては、宦官が清朝の運命を左右するような決定的な意思決定にか関わった痕跡はどうもないらしいということだ。たとえば義和団事件の際に、清朝が列強に宣戦布告をするというような場面で宦官がああするべきだ、こうするべきだなどと述べていたなどの話はない。辛亥革命の際、もっとも影響力を発揮したのは袁世凱だが、袁世凱は宦官ではない。

宦官が宮廷内部でアヘンを売って儲けていたというエピソードはあるが、資本家になったというエピソードはないから大きな視点から見れば小商いに過ぎないとすら言えるだろう。

溥儀が宦官と遊んでいた話は多いが、宦官は基本的に奴隷みたいな存在なので、ひたすら溥儀の意思に合わせて行動するのが宦官だ。皇帝にとって宦官は奴隷であると同時に友達だ。しかし政治の相手ではない。

「最後の宦官」という呼ばれ方をした宦官は何人かいて、本当に本当の最後の人が誰なのかはちょっと悩ましい問題ではあるが、その中の一人に李連英という人物がいて、映画になっている。西太后に仕えた彼は、映画の中でどこまでも優しく西太后を包み込むような存在であり、西太后は体調不良の中、李連英におんぶされて最期を迎える。自分が一番弱っている時に体を預けることができるのが宦官というわけだ。中国映画なので、宦官がどういうものかというイメージはより我々よりも実感がともなった感じになっているとは思うのだが、宦官は優しく穏やかで、滅私奉公の精神を貫いている。ここまで徹してくれるのであれば、ちょっとくらいお金持ちになって余生を暮らしてもいいんじゃね?と思えるレベルだ。

『覇王別姫』という梅蘭芳を題材にしたで登場する宦官は、清朝が滅亡したことへのやり場のない怒りを抱え、男性器を失っているためにやはりやり場のない欲望の処理に困り、不正蓄財は思いっきりしているので、それで美少年を買い続けたりしてやがて破産する。この映画での宦官のイメージは悪いというか、かなり気の毒なものだ。但し、中国映画の場合、辛亥革命以前の権威は原則否定されなければいけないので、溥儀のことも西太后のことも大抵は思いっきり批判的な視線で描かれている。中国映画を観ると、清朝関係者は全員最低な人間ばかりみたいな錯覚すら起こしそうになる。実際はどうかは知らないが、全員最低ということはさすがにないだろう。ということは上にあげた李連英の映画の方がやや異色なのかも知れない。史上最悪のイメージの西太后と李連英の心温まる日常というのは、案外と新鮮かつチャレンジングな内容なのだろう。

エドワード・ベアは溥儀の伝記を書くために宦官に取材して思いっきりキレまくられてしまい、インタビューそのものが破綻してしまっている。エドワード・ベア自身の東洋人蔑視も酷いので、宦官の方が心を開いてくれなかったのだろう。エドワード・ベアは田中上奏文が本物だと信じていたような人物なので、あんまり相手にしても仕方がなさそうな気もする。

中国人の賈英華が溥儀に仕えた宦官の孫耀庭にインタビューした時は、結構なんでも赤裸々に親しい感じで話ができているようなので、やはりインタビューはインタビュアー次第なところもありそうだ。このインタビューを読むことで宦官に対する理解はかなり進むのではないかと思える。宦官について知りたい人がどれだけいるかはわからないが、中国近現代史の理解にもつながるので読んで損はない。溥儀の私生活についてかなり突っ込んだことを話しており、私は政治上のアクターとしての溥儀には関心はあるが、彼の私生活には関心がないため、あんまり詳しく述べられても食傷してしまうのだが、溥儀の人物像を知る上では確かに有効だ。

最後の宦官で有名な人でもう一人、小徳張という人がいるのだが、その人に関連する本はまだ読んでいない。読んでみて、新たな知見が得られたらブログに備忘として書き残したい。



日中戦争6 満州国の溥儀

1932年3月1日、第一次上海事変の停戦協定もまだ結ばれていない最中、満州国の建国が宣言されます。満州国の政治的なトップに溥儀を執政として据えて、事実上の関東軍の傀儡国家を成立させたことになります。

満州地方を関東軍が占領した後、日本領にするか、どこかの軍閥と手を組んで自治領みたいにするか、独立国家にするかは意見が割れたようですが、結果としては溥儀を利用した独立国家にする道を関東軍は選びました。第一次世界大戦を経験した後の世界秩序の中で、露骨に日本領を拡大することは既に憚られる状態だったこともありますが、溥儀は満州民族の君主ですから、満州地方の住民の自主独立運動、民族自決の帰結として満州国が建国されたのだと強弁する材料にすることができたことや、溥儀は自前の軍隊を持っていませんから、一度取り込んでしまえばとことん傀儡として利用できる、溥儀に抵抗するだけの力はないと見抜いたということもあると思います。

溥儀は紫禁城から追放された後、天津の租界で、特にやることもなく適当に遊んですごしていたわけですが、関東軍からの満州行きのオファーに対し、共和制だったら行かない、帝政だったら行くとの条件を出し、関東軍サイドが帝政だと約束したことを信用して満州へと秘かにわたって行きました。

で、どうなったかというと、皇帝ではなく執政という最高行政官みたいな肩書を与えられたわけですから、ちょっと騙された感はあったのではないかと思います。溥儀は徹頭徹尾、清朝の再建のために日本を利用しようと考えていたところがあるようですが、日本側は清朝の再建は全然考えていなかったという温度差、不協和音を感じてしまい、溥儀についつい同情してしまいます。

溥儀は二年ほど執政としての立場を真面目にこなし、念願かなって満州国の皇帝に即位します。関東軍から見れば、満州国の皇帝で、溥儀の主観では清朝の復活です。やはり温度差、不協和音はあったと思いますが、溥儀としては皇帝に返り咲くことができたことで、それなりに満足はしたかもしれません。中国のドラマで溥儀を扱っているのを見ると、わりと日本が戦争に敗け始めて大変なことになっている時期に、何も知らず呑気にタバコを吹かしてご機嫌に遊んでいる溥儀が描写されていたりしますので、当時はご満悦だったというのが定説になっているのかも知れません。ベルトリッチの『ラストエンペラー』を見ると、ずっと悲劇的な人世で、そんなご満悦どころではないのですが、まあ、溥儀本人の主観を想像するに、天国から地獄へのジェットコースターを何度も経験していますから、相当に疲労困憊する人生だったのではないかと思います。

溥儀は正確には三度、皇帝になっています。一度目は光緒帝が亡くなった後に三歳で指名されて即位した時です。その後、辛亥革命で廃位されますが、袁世凱が亡くなった後で張勲のクーデター的策略で再度皇帝の座に座り、二週間にも満たない短い期間ですが、清朝が復活しています。そして三度目が満州国皇帝即位というわけです。

実に大変な人生です。その後、満州国建国についてはリットン調査団が入っていろいろ調べて、民族自決ではないと結論されてしまったり、日本の国際連盟離脱につながったり、ソ連邦参戦の時には口に出すのも憚られるような酷いことが起きたりと重苦しい歴史の出発点になったというか、満州地方に固執したために日本はほろんだみたいなところもありますから、満州は日本の重苦しい過去の中心みたいな場所なのだなあと、ブログを書きつつ、改めてためいきをついてしまいます。




台湾近現代史16 劉銘伝の台湾近代化政策

清仏戦争が終わった後、ベトナムを狙っていたはずのフランスが台湾に軍を派遣をしていた事情から、清朝はそれまでよく分からない土地だという理由でわりとほうっておいた台湾をより積極的に統治する方向で動き出します。

想像ですが、基隆におけるフランス占領地包囲戦がわりとうまく作動し、その戦いを通じて台湾に関する情報がより多く北京に届くようになったことや、フランスという外敵が訪れたことによって台湾内部にあった福建系、広東系、客家系などの漢人同士が団結しやすくなったなどの背景があったのではとも思えます。

清朝政府はそれまで福建省の飛び地のように考えていた台湾を台湾省という独立した行政単位に昇格させ、台湾巡撫使という官職を設けます。巡回の巡ですからパトロールや監視の意味がある一方で慰撫する撫ですので、民心を平定するという意味があり、監視しながら平定するという感じで、巡撫使には方面軍司令官兼地域警察長官兼行政長官というべき強い権能が与えられていました。その最初の台湾巡撫使にフランスとの台湾攻防戦で善戦して功績を挙げた劉銘伝が任命されます。

劉銘伝はフランスとの戦闘の経験から学んだのだと思いますが、台湾の近代化が必要であると考え、電信電報設備や鉄道などの通信交通インフラの建設を計画し、炭田開発などの資源開発にも取り組みます。うまく回転するようになれば、炭鉱が産業化し、鉄道で港まで運んで輸出もできますので、台湾にはちょっとした産業革命が起きたかも知れません。砲台や軍需工場などの建設にも着手します。

しかしながら、それらの建設には当然のごとく莫大な費用がかかり、費用が発生するところには利権も生まれ、しかも施設の整備には必ず現地で暮らす人々との調整が必要になります。劉銘伝は強い権力が与えられてはいましたが、国際情勢が切迫していることを熟知する彼は急ぐあまりに現地住民との軋轢が生じるようになっていきます。原住民の反乱もありましたが、漢民族系の人々との軋轢も生まれていたようです。

施九緞という人物が彰化地方での測量の進め方に異議を申し立て、人々の心に火をつけ、当該の地域は騒乱状態に陥り、地方政府を包囲する騒ぎになります。救援部隊が駆けつけますが、群衆によって殺されるという事態にまで至ります。

劉銘伝が新たな部隊を派遣すると群衆は四散し、掃討作戦をかけたものの、施九緞の行方を掴むことはできませんでした。

財政の疲労、官僚の腐敗、民衆の不支持などが重なり、劉銘伝は中国大陸の故郷へと帰ることになり、後任の官僚は劉銘伝が行った近代化政策の多くを中止します。もったいないと言えばもったいないですし、財政的に無理だったらしようがないと言えば、確かにそうかも知れません。

いずれにせよ、そのような経緯を経て、日清戦争の結果、下関条約に拠って台湾は日本に引き渡されます。ただし、日本の台湾平定もそう簡単な仕事ではありませんでした。

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台湾近現代史15 清仏戦争と台湾

1840年代、フランスはインドシナ半島に領土的野心を燃やすようになります。ベトナムの阮朝は南ベトナムの幾分かの行政区域をフランスに事実上の割譲をしますが、フランスは80年代に入ると北ベトナムを視野に入れて北上していきます。

通常の世界植民地化の当時の流れでいけば、このまま一機に併呑ということになっても別に不思議ではないのですが、北上するフランスに対して強大な妨害者が登場します。

劉永福という天地会に所属する人物が、天地会の信条である反清復明に則って中国南部で清朝と対峙していたのもの、ベトナムまで押し出されてしまい結果としてフランス軍とぶつかることになります。重火器においてはフランス側が有利なはずでしたし、当時すでにクリミア戦争の以降の時代ですので機関銃もぶっぱなしますが劉永福の黒旗軍はひるまず、双方泥沼の持久戦になります。

洋務運動を進めていた李鴻章は清朝が近代化を遂げるまでは列強との対立を善しとせずなんとか適当なところで話をまとめたいと思っていたようですが、劉永福が善戦していたために清朝内部の主戦派が活気づき、フランス軍もさほど強いわけでもなく、清仏戦争は一進一退を繰り返すようになります。

そのころ、フランス軍は台湾にもその足跡を残しています。1884年、フランス軍は台湾北部の淡水沖とそこからほど近い基隆沖に現れ、上陸を企図しますが、劉銘伝が率いる清国軍が意外に強いと言うか、兵隊の数が半端なく多いので、フランス側が圧倒され、戦線にも混乱が生じます。淡水では占領を諦めて引き下がった一方、フランス軍は基隆のごくわずかな地域を占領することに成功します。

基隆で包囲されたフランス軍はある意味では善戦し、占領地を死守しますが、ベトナム方面での戦いが停戦合意に至り、その後天津条約で清仏が合意したことを受けて撤収することになります。清軍を指揮した劉銘伝も善戦した名将と称えられ、彼の名をとった銘伝大学が今も台湾の桃園に存在しています。

興味深いのはフランス軍が占拠した一年弱の間に狭い占領地はフランス風に整備された家屋や道路が建設され、あたかもフランスの植民地であるかのような様相を呈していたということです。おそらくは占領した当初から恒久的なフランスのテリトリーであるという印象を形成するための都市計画を実施したということが推察されます。占領地に自国風の地名をつけ、自国風の建物を立ててそのテイストに染めてしまうということはどこでもやることで、日本も大いにそうしたわけですが、それが帝国主義の定石であるということがこの一事からも見て取ることができます。大連旅順、または奉天あたりでも今もロシア風建築が残っているといわれますが、ロシア帝国がそのエリアに影響力を発揮していたのはほんの数年のことですから、急いで都市建設をしたわけですが、そういったことも自然とそうなったのではなくて、意図的に懸命に計画していたと考える方が或いは自然な見方かも知れません。

現代の基隆でフランスの足跡を見つけることは簡単ではありませんが、当時の戦闘で戦死したフランス兵のための墓所が今も残されているそうです。

ローバー号事件牡丹社事件とひたひたと台湾に海外列強の陰が忍び寄り、清仏戦争では本格的な戦場にまでなった台湾ですが、その後、日本の植民地になるという運命を辿ります。なるべく中立的な視点を保つよう意識しながら、その後の展開を辿って行きたいと今は考えています。


台湾近現代史14 牡丹社事件

1871年、宮古島の70名近い島民が首里への年貢を納めた帰りに遭難し、台湾に漂着しますが、原住民のパイワン族によってその大半が殺害されるという事件が起きます。強いて殺さなければならないというを見つけることが難しいため、原住民の独特の死生観にその理由を求めようとする論者の方もいらっしゃるようです。個人的には原住民の視点からすると、福建省移民、広東省移民、客家人などの漢民族が続々と台湾に移住している時代であったほか、オランダ東インド会社が拠点を作り原住民を奴隷労働に駆り立てるなどの出来事の記憶も残っていたため、外から来る人間はなるべく殺して台湾の土地に根付かせないというある種の方針のようなものがあったのではないかと推察します。

一般に原住民は客家人との関係は悪くなかったとも言われており、客家人を通じて外の世界の情報や通貨や銃器を手に入れていたとも言われているため、漂流者を身代金狙いで監禁する例も少なくなかったことを合わせて考えると、死生観だけで説明がつかないように思え、彼らなりの駆け引きが働き、殺す人間と身代金と交換する人間の区別もつけていたのではないか(人質が多すぎると食わせるのが大変なので、大体殺して少数を身代金と交換する)と想像することも不可能ではないように思えます。

明治新政府は清朝から冊封を受けつつ薩摩藩の支配も受けるという両属状態だった沖縄を日本のテリトリーとして確定したいという狙いがあり、宮古島の島民が台湾で大勢殺害されたこの事件を日本人が殺された事件として外交問題化させようとします。外務卿の副島種臣が清に渡り、交渉しますが、清サイドとしては「台湾の原住民は自分たちの管轄外」という態度に出ます。副島が「ならば日本人が台湾に渡って征伐しても文句はないですね」と畳みかけると清の側からは「好きにしてください」という返答だったため、外交上の問題を処理した上での台湾出兵へとつながっていきます。副島の畳みかけには「沖縄は日本のテリトリー」という前提をくっつけているものであり、勝手にくっつけて何をするのかと反論することもできますが、清の官僚としては台湾や沖縄の事情はよく分からないので関わり合いになりたくなかったというのが本音だったのかも知れません。

このような経過を経て台湾出兵が決まりますが、征韓論にも反対していた木戸孝允が台湾出兵に反対して辞任、新政府は空中分解の危機を迎え、大久保利通は一旦台湾出兵を見送らせることにします。しかしながら、現場の兵士たちの士気は高く、やる気まんまんで、台湾征討軍は出発し、台湾に上陸します。ローバー号事件で対応したルジャンドルが台湾出兵に同行する予定で、ルジャンドル本人も原住民との交渉には自負するものがあったのかも知れないのですが、台湾出兵延期の報に触れて自身の出発を見合わせ、改めて軍が出発した後は迎えに来た大久保と一緒に東京へ向かっています。

台湾出兵では日本側の戦死者は必ずしも多くはありませんでしたが、マラリアなどの熱帯性の感染症に罹患する兵士が続々と倒れるというありさまになります。これは日清戦争後の台湾平定戦でも同じことが起きており、兵士の病死の原因が栄養失調かそれとも感染症によるものかで議論されることにもなります。結論としては感染症によるもので、それを教訓に日露戦争では感染症予防のために兵士たちに「大地に積もった雪を食べるな」との訓練がなされてもいますが、酷寒の大地にマラリアや赤痢の細菌がうようよいるかといえばかなり怪しく、初期日本軍の兵士の健康に対する認識の脆弱さもうかがわれます。

日本の台湾出兵は清朝サイドに「まさか本気でやるとは思わなかった」という狼狽の態度を採らせ、駐清イギリス公使パークスも清朝の味方につき、この件について大久保利通が北京に渡って李鴻章と交渉することになります。李鴻章側から見舞金を支払うと申し出があり、日本軍の撤退の時期なども決められますが、李鴻章としては勢いで台湾を日本にとられてしまうよりは、見舞金を払うことで結果的に台湾は清朝の領土であるということをはっきりさせられることの方を優先したのものと思えます。

一連の事件は以上のような経過を辿りましたが、日本では宮古島島民遭難事件と台湾出兵を別の事件として語られることが多い一方、中華圏では一つにまとめて牡丹社事件(牡丹社とは、パイワン族の集落という意味)で語られることが多く、関連性とはつながっているということも考慮して、今回は一つにまとめ、牡丹社事件として述べてみました。

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台湾近現代史8 清の版図に組み入れられる

鄭経の死後、台湾の鄭家王室内部で紛争が起こります。鄭経は聡明なことで知られた長男の鄭克ゾウを摂政に指名していましたが、次男の鄭克塽を擁立するグループがその地位と地位の継承者の証である印璽を譲るように迫り、長男は自殺したとも殺害されたとも言われています。いずれにせよこのクーデターで次男グループが鄭家王室の実験を掌握することになります。鄭政権が滅亡する少し前のことですから、政権の末期の血なまぐさい感じは非常に悲劇的なものに思えます。

鄭経の死後、清朝では元々鄭芝龍に仕えていた施琅を台湾攻略の総司令官に任命します。施琅という人は鄭成功から味方するよう誘われ、断った結果、家族を皆殺しにされたという過去を持っており、そのため、鄭氏の台湾攻略には個人的にも強い動機を持っています。

澎湖諸島を攻略して鄭家軍が台湾に撤退した後、鄭氏台湾より降伏の申し出があり、施琅はそれを受け入れ、鄭氏は爵位を授けられます(しかし、鄭克塽以後、爵位の継承者は現れず、鄭氏は事実上終了します)。

その後、200年にわたる清朝による台湾支配が始りますが、福建省からの移民も多く台湾に入ってきます。現代で言われている「本省人」とはその多くがこの時代に移民してきた人たちの子孫だと考えられています。客家の人々もこの時代に入ってきたようです。移民してきたという性質上、それ以前から台湾で暮らしていた原住民とは利害相反が起きやすく、原住民の人々は次第に山岳部へと追いやられていきます。

また、原住民の人々には当時は紛争が起きれば相手の首を斬るというのがある種の慣例になっていたため、そういう事件もいろいろ起きたようですが、私が知っている客家人の方からは「祖父母の代では実家が原住民の生活圏に近く、もめ事があれば襲撃されるので、友好的な関係を維持するためにたいへん努力した」と聞いたことがあります。

清朝の台湾支配を成功していたと見るか、成功していなかったと見るかは、台湾が中国の一部か、それとも独立した国家か、或いはその帰趨、帰属はまだ決まっていないと見做すかという現代の国際政治に直接結びついてくるデリケートな話題ですが、清朝が支配した時代には次第に台湾の華人にも科挙を受験する門戸が開かれたり、19世紀の後半には鉄道施設の計画が立てられるなど、清朝が必ずしもほったらかしにしていたわけでもないようです。その一方で、全島が完全に施政下にあったかという点にも疑問が残るようです。

台湾近現代史1 近代以前

台湾には日本の縄文時代にあたる一万年ほど前から人が暮らしていたと言われています。しかし、その人たちが今の台湾原住民と呼ばれる人々と民族的に同系統の人々かどうかは確認されるに至ってはいません。

人間は古くから舟での移動を得意としていますので、当時の感覚から言っても中国大陸とは目の鼻の先に当たり、中国大陸から人が渡ってきていたのでは考える人もいるようです。

但し、原住民の人々は漢民族とは民族的な系統を別にしています。彼らは南太平洋からフィリピンにかけてのエリアにルーツを持っていると考える人もいます。原住民の言語はタガログ語とある程度の相似性が認められるそうです。そのため、今でも原住民の人がフィリピン人のタガログ語を聞くと、なんとなく分かるという話も聞いたことがあります。

一方で北方から南下して行ったと考える人もいて、台湾からフィリピンや南太平洋へと散って行ったのだとみることもできるようです。台湾原住民の入れ墨の文化は北海道のアイヌ文化にも共通する部分が見受けられますので、或いはもともと遥か北に居た人たちが南へ南へと辿るように広がって行ったのかも知れません。その場合、魏志倭人伝の邪馬台国では、人々が体に入れ墨をしていたという記述がありますので、或いはこの人たちが邪馬台国の人々だったということもまったくの見当違いということではないかも知れません(古事記との整合性の問題もありますので、機会があればまたゆっくり考えてみたいと思います)。

原住民の部族は相当な数に上り、台湾政府が現状で公認しているだけで16部族あり、非公認の部族も幾つかあるようです。日本統治時代、またはその前の清の統治時代に淘汰された部族もそれなりにあったかも知れませんので、元々幾つあったかは分からないものの、総合すれば決して少なくないと言えます。

原住民の人々は縄文時代の日本人と同じような生活を送っていたとのことですが、色とりどりの衣装のセンスは機織りの技術の発達を示すもので、いわゆるギャートルズみたいな原始人とは一線を画すものだと考えるのが適切ではないかと思います。

彼らが独自の文字を持たなかったためにわかることは少ないですが、現代の部族にも王を戴いている部族もいるため、それなりに社会制度が整えられ、部族間の往来にも秩序があったものと推察することが可能です。

漢民族がいつごろから台湾に移住し始めたかを特定することは難しいですが、清朝の時代には多くの移住があったことは確かですし、オランダ人が漢民族を使い、台湾でプランテーションを計画していたということですので、遅くともオランダ時代には漢民族の移住があったものと考えることができます。

原住民は台湾の広い地域で暮らしていたはずですが、漢民族が平地で農耕を広げていくのに連れてじょじょに山岳部へと居住地域が限られていきます(平地で暮らし続けた原住民ももちろんいます)。

台湾の姿がもう少しよく分かるようになってくるのは、オランダ時代からです。