台湾の沖縄人【台湾研究】

台湾は比較的日本人が多く暮らす土地だが、その中でも沖縄の人は独自のコミュニティを持っていて、それ以外の日本人のコミュニティとはやや雰囲気が異なる。私は海外での沖縄人の足跡に出会うと、ついつい憧憬や尊敬の念にかられ、大きな物語性を沖縄の人たちに見出そうとする心の動きの癖みたいなものがあるので、台湾の沖縄人コミュニティについても、同じような心の癖の角度から見ることになり、結果としてやや独特の雰囲気を持つコミュニティが存在するかのように見えるだけなのかも知れない。いずれにせよ、私が沖縄の人に独特の雰囲気があるなどと述べる場合は、沖縄の人への敬意を込めているつもりなので、もし、変な誤解をされたら撤回するが、できれば暖かく見守っていただきたい。

沖縄の人々の近現代史を考えれば、日本人社会の一員であることを強制されつつ差別も受けるという非常に難しい立場にたたされる場面が多いということに気づく。たとえば目取真俊さんが『神うなぎ』のような小説で、日本軍が守り切れなかった沖縄の村をアメリカ軍と交渉することで救った人物がスパイ容疑でリンチに遭うという深刻な物語を書いたが、これもまた沖縄の人への微妙な差別感情が日本軍人の内面に存在したからこそ、起き得たことではなかろうかとも思えてくる。たとえば東京でアメリカ軍と交渉する日本人がいたとして、スパイと即断して殺されることは考えにくい。飽くまでも日本軍が守り切れなかったので、現地住民はやむを得ずアメリカ軍と交渉することで治安を維持しようとしたのだから、落ち度は日本軍にある。

そのように複雑な沖縄の人々の立ち位置ではあるが、それは海外に行っても構造的なものが引き継がれてしまう。星名宏修先生の『植民地を読む』(法政大学出版局 2016)に収められている「植民地は天国だったのか―沖縄人の台湾体験」でも、その難しい立ち位置であるがゆえに、独特の苦難と経験があったことが述べられている。沖縄の人々は台湾に渡って後も一方に於いて日本人内部の階層の下部に置かれ、屈辱的な立場でありつつ、台湾人に対しては支配者の側として振る舞うことを求められたため、それだけでもアイデンティティクライシスを起こしそうなくらいに悩ましかったにもかかわらず、日本の敗戦によってそれはさらに複雑化した。台湾人や外省人からは、時として沖縄人は日本人ではなく漢民族の末裔として扱われ、一般の日本人よりも厚遇されたが、時として敗戦国民とみなされて挑戦的な言葉を浴びせられたりもしたし、場合によっては植民地支配に対する復讐の対象にもなった可能性も当該の著作では指摘されていた。沖縄の人は薩摩の侵攻を受けて植民地みたいにされてしまい、明治維新後も大久保利通によって強引に日本領に組み込まれたため、沖縄アイデンティティ的には被害者の面が強いはずなのだが、一方で、台湾のような植民地では加害者みたいに扱われるという複雑で悩ましいことがあったというわけなのだ。なんか私も書いていて、言葉のメビウスの輪をやっているような心境になってきてしまった。

世界中のどこに行っても沖縄の人は独自のコミュニティを持っている。私がアメリカに留学していた時も、そのコミュニティの結束の強さに驚いたことがあったし、南米でthe Boomが人気になったのも、多くの沖縄人が南米に渡り、沖縄文化を大切に受け継いできたからだ。サイパン島には日本人慰霊碑だけでなく沖縄人慰霊碑も別に立っている。

都内でも、たとえば上野公園の桜を見に行けば、日本各地の県人会が場所取りをしているが、沖縄の場合だけ宮古島島民会とか、石垣島島民会みたいにより細かなエリアに分かれていて、地元の結びつきが深いことがうかがい知れる。

そのように絆が強い理由はやはり、文化的な違いがあるからというような理由でヤマトから差別的な待遇を受けたからかも知れず、と考えると、ヤマトンチュの私は沖縄の人にはついつい優しくなってしまう。以前も沖縄の学生が実家へ帰る飛行機がどうこうと言い出したので、「レポート出したら帰っていいよ」と特別扱いしたことがある。沖縄の人なのだから、それでいいのだ。



折口信夫‐沖縄舞踊にみる三要素

この文章は1936年に発表された。日中戦争の始まる前年のことであり、国際連盟から脱退した後の時代で、日本人は自分たちの方向性に迷っていた。一方に於いて西洋化、モボ、モガのようなライフスタイルへの憧れがあったが、荒木貞夫が非常時日本という映画でアジテーション演説をしたように、日本精神、大和魂が吹聴された時代でもあった。そして現実は、モボ、モガを排除し、荒木貞夫の狙った通りの大和魂を尊しとする民族国家ができあがっていったのだった。しかし、ここで日本と日本人はふと立ち止まらざるを得なくなる。当時の日本は既に多くの植民地を獲得していた。北の樺太にはツングース系住民がいたし、北海道にはアイヌ、沖縄には琉球の人々、台湾の漢民族と様々な少数民族。朝鮮半島と南太平洋の島々にも日本民族ではない人たちが暮らしていて、事実上の植民地の満州国でもっとも流通しているのは北京語だった。満州国も五族協和をうたっているのだから、なかなかの多民族国家であり、当時の日本は、第一次大戦で消滅する前のオーストリア・ハンガリー帝国のような多民族帝国だった。そこへ、大和魂である。言葉は勇ましいが、実際に浸透させるとなると様々な困難があったことは言うまでもないだろう。大和魂という言葉を聞いて何かをイメージできる人は日本人しかいない。これは民族の物語だ。従って、台湾人とか朝鮮人とかといった人々が同じイメージを喚起されなければならないという筋合いのものではない。だが、イメージさせたいという帝国の願望がある。ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』みたいな話になってしまうのである。当時の日本という国家は、想像の共同体帝国を建設することの方に賭けた。植民地の人たちに、自分は日本人だとの意識を持ってもらおうとする努力が始まっていく。

植民地の人々に、実は私たちは日本人と同祖である、と思ってもらうためには、ストーリーを作り出さなくてはならない。1941年の夏休みに、柳田国男は東京帝国大学の農学部の学生たちに向けての集中講義を行い、日本各地の民俗的風習がいかなるストーリーに支えられているかといったことを論じた。その最後の部分で、今は朝鮮半島や台湾の人たちも、自分たちはかつて日本人であったということを思い出そうとしていると述べた。柳田国男本人が本気にしていたかどうかはかなり疑わしいのだが、そういうことにしなければならなかったのだという苦衷を察することはできる。日本は当時、そのような新しい伝統とそれを支えるストーリーを必要としていた。ドズル・ザビが、「俺は軍人だ。ザビ家の伝統を作る軍人だ」と言っていたのと同じである。ザビ家に伝統はなく、これから作っていかなくてはならなかったのと同様に、日本帝国には帝国を束ねる物語はなく、なんとか大和魂を納得してもらおうと新しい説得材料を作り上げようとしていた姿はある意味では涙ぐましい。言うまでもないが、涙ぐましいからと言って、支持しているわけではない。

折口信夫の『沖縄舞踊にみる三要素』では、沖縄の踊りが果たしてどこから影響を受けているのかということを論じた短い文章だ。この文章からは、上に述べたような、沖縄の人たちへの、実はあなたたちは日本人なのだ。大和魂を持ってくれとする日本側からの説得材料を作り出すための過程のようなものを垣間見ることができる。沖縄はちょっとは日本の影響もあるし、ちょっとは中国の影響もあるし、どこから来た人たちなのかよく分からないから日本人とまとめてしまっていいものかどうか悩ましいところではあるけれど、かと言って、大久保利通が力づくで日本の領域内に編入したのだから、沖縄の人は日本人とするストーリーも作りたい。さて、どうしようか…という中で、歴史的経緯から実際に見られる現象までをざっくりと総覧して、なんとか日本の文化の影響下にあると論じている。もちろん、折口は沖縄舞踊には日本の影響はもちろんあるが、南方諸島の影響も強く受けているとして、一方的な沖縄は日本の一部だ論を唱えるような浅はかなことはしていない。ただ、やや穿ってみるとすれば、中国の影響が見られないとしている点で、日清戦争まで続いた沖縄帰属問題は日本の勝ちという枠組みを守り抜いた形になっているし、南方の島々とはサイパン島のような南洋諸島のことで、第一次世界大戦のあとで日本の領域になった地域を連想させるから、それら地域の広い連帯という物語を生み出す前哨戦のような位置づけにこの文章はあるのかも知れない。もちろん、折口は慎重に言葉を選んでいて、安易に日本・琉球同祖論のようなことは述べていない。

僅かに話はずれるが、日本は数年後に大東亜共栄圏の建設を目指して東南アジアを席捲する。これまでの手法が植民地の人々の日本人化だったのだから、東南アジアの人々にも同じ手法が用いられた可能性は高い。だが、どうやって説得できただろうかと考えると、結構、難しい気がする。ビルマやインドネシアの人たちに日本人と君たちは同祖なんだよと言ったところで、あまり信頼性のある話にはならないだろう。そのような話になる前に日本が戦争に敗けて行ったので、神話制作担当者はある意味ではほっとしかも知れない。




目取真俊『神うなぎ』の沖縄戦に関する相克するロジック

目取真俊氏の『神うなぎ』という小説が三田文学に掲載されているのを読んだ。沖縄戦を主題にし、戦火の中、沖縄住民の生活を守ろうとした人物と日本軍との相克が描かれている。沖縄出身の主人公の父親は沖縄戦の最中、アメリカ軍の投降の呼びかけに対して、仲間の住民たちを説得して集団で投降する。主人公の父親はハワイに働きに行っていたことがあるため、アメリカの国柄をそれなりに知っており、本土から沖縄へやってきた日本軍将校からは「アメリカ軍に捕まると男は殺され女は犯される」と教えられてはいたものの、アメリカ軍はそのようなことはしないと判断し、投降することに決めたのである。

アメリカ軍に投降した後、住民は一時的にこれからどうなるのだろうと不安を感じるが、意外なことに「家に帰れ」と言われるので、あっけにとられた風に人々は帰宅し以前と同じ生活を営もうとする。しかし、昼間はアメリカ軍がいるので普通に暮らせるのだが、夜になると日本軍がやってくる。戦局的に不利な日本軍将兵は森の中に隠れており、夜になると食料を求めて住民の家屋へやってくるのだ。沖縄県民を守るために派遣されてきたはずの日本軍が、逆に沖縄県民に食料を事実上略奪するという矛盾とアイロニーが描かれている。

主人公の父親は住民の生活を守るためにアメリカ軍に協力し、アメリカ軍に対する住民側の窓口のような役割を果たすのだが、日本軍将校の目からは利敵行為に映り、ある時、日本軍に捉えられて殺害されてしまう。主人公はその後成長し、季節労働者として東京に働きに行くのだが、たまたま行った居酒屋で父を殺害したと思しき元日本軍将校を見かける。剣術の腕前があり、剣道を教えているというその老人は元日本軍将校らしく精悍な雰囲気を持ち、客や店の人とのやりとりの様子から信頼されていることも窺い知ることができる。主人公は父の死についてその老人に問い質したいと考え、「今さら…」とも思うのだが、やはり抑えきれずある夜、老人の帰宅の時を狙い、声をかける。驚いたことに老人は自分が殺害した主人公の父親のことを明確に記憶しており「君のお父さんは敵のスパイだったんだよ」と言い切る。スパイを野放しにすることは部下の生死にかかわる、従ってスパイを殺したことは適切な判断であったと的確なロジックで主人公を圧倒する。

もちろん主人公にもロジックはある。まず第一に自分の父親が殺害されているのである。問い質す権利があるのは当然だ。それに日本軍が沖縄県民を守ることができなかったから、住民はアメリカ軍に投降したのである。スパイの処断など、戦争に敗けた軍人の言い訳に過ぎない。沖縄県民は多いに苦しんだし、その主たる理由は日本軍が無力であった上に沖縄県民を道連れにしようとしたからだ。私は沖縄の人からいろいろと話を聞くことに努力をした時期があったが、沖縄県の人の心情は沖縄戦に対して深い複雑な感情を持っていることはよく分かった。また、この作品で示されるロジックも明快だ。日本軍が住民を守れないのであれば、住民は自らを守るためにアメリカ軍に投降する以外の選択肢はあり得ない。軍が国民を守るためにあるとすれば、その職責を全うできない軍人はそれを恥じなければならない。

私が感じたのは主人公の父親を殺害した元日本軍将校のロジックと、日本軍将校に父が殺害された主人公のロジックがどちらも完璧だということにこの問題の複雑さが潜んでいるということであり、目取真俊氏はそこを読者に問いかけたのではないかということだった。主人公の父がアメリカ軍に協力する姿は日本軍から見ればまごうことなき利敵行為であり、それは戦時下であれば死に値するとして矛盾はない。将校が部下に対して責任を負うことは正しいことで、部下の命を守るために利敵行為を行うスパイを殺すことは、ロジックとして一貫している。一方で、住民を守るためにアメリカ軍に協力することは、これもまた全く正しい行為だと言える。日本軍が守れないのなら、そうするしかないではないか。住民の命と生活を守るためにはそうするしかないではないか。一貫していて矛盾がない。

太平洋戦争についての議論を考えるとき、我々が袋小路に入り込んでしまうのは、それぞれがそれぞれの立場で一貫して完成したロジックを持っているからではないかと私には思えるときがある。しかも戦後70年以上を経て、それぞれのロジックには磨きがかけられ隙のないものに進化している。互いに相手の立論を崩そうとあの手この手を繰り出すが、双方の立論があまりに立派にできあがってしまっているために互いに崩し切れず、議論は平行線を辿るのだ。

立論がいかに立派なものであろうと、戦争は人が死ぬ。悲劇がある。戦禍で犠牲になった人にとってロジックは関係ない。どれほど素晴らしい立論を示されても、現実に苦しんだ人にとってそれは関係がない。戦争は言うまでもないがしない方がいいに決まっている。

さて、太平洋戦争を直接経験した人は少ない。ましてや戦争中に将校なり政治家なり当事者の立場だった人はほとんど生きていない。この『神うなぎ』という小説でも、戦争が終わってから40年後ぐらいに老人と主人公が対決するような設定になっている。もう少し前までは戦争は現代人の物語だったが、今はもうそういうわけにもいかないくらい戦争は遠い記憶になろうとしている。ただ、目取真俊氏がそれでも今、この時代に『神うなぎ』を書いたのには、沖縄にとって戦争は風化させるわけにはいかない現代人の問題だということを問いかけたかったのではないだろうか。


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昭和史58‐創氏改名

日中戦争期の資料を読み続け、とうとう創氏改名のところまでたどり着くことができました。私の手元にある資料の昭和15年2月11日付の資料では、皇紀2600年行事についてや、皇紀2600年記念ポスター展覧会のことなど、華々しく「どうだ。皇紀2600年だぞ」という文字が躍っていますが、同時にちょっと厳かな感じで『本島人の内地式姓名変更に就いて』という記事が掲載されています。ここで言う本島人とは台湾人のことです。当該記事によると、姓名変更は明治38年から定められていたものの、昭和15年に至ってようやく実施するに至ったとのことです。

ですが、誰でも創氏改名できるというわけではなく、一定の条件がクリアされていなければならないとされています。それは1、国語常用の家庭(日本語を日常的に使用している家庭)2、日本精神を充分に有し、熱意ある人物という条件設定がされています。なんとなく不明確な、アバウトな基準であることのようにも思えますが、台湾人の人から創氏改名は地元の名士に限られていたという話を聴いたことがありますので、ある程度、エリートでなければなかったのかも知れません。昭和15年初期の段階で日本語教育の台湾での普及率は50%程度だったらしく、それまで台湾総督府が必ずしも熱心に日本語教育を進めていたようにも見受けられません。蒋介石との戦争が始まって、慌てて植民地の人々の日本人化(皇民化)に取り掛かったといったところではないかと言う気がします。日本語を常用している家庭というのは即ち学校教育を受けられる生活環境に居た人たちと言い換えることもできるでしょうから、やはり地元の名士、或いはエリートに限られざるを得ないのかも知れません。条件2の日本精神を充分に有しているかどうかは審査する側の主観に委ねられると思えますが、ここは想像になるものの、行政サイドである程度候補を絞り、「日本精神を充分に有している」ということにして審査を通したといったところではないかと思います。

さて、創氏改名は今に至るまで悪名高い制度で、一般的なイメージとしては日本帝国が強引に嫌がる植民地の人々を日本人化させたという文脈で語られることが多いように思えますが、そのイメージは半分正しく、半分間違っていると言うのが本当のところではないかと思います。上に述べたように、名士、エリートだけが創氏改名できるとすれば、日本式の姓名を名乗ることが「許可」されることは、自分が名士・エリートであるということの証明であり、当時は日本帝国滅亡とか誰も考えていませんから今後のことを考えれば日本風の姓名が使えることはいろいろ有利という意識もあったのではないかと思えます。一方で、行政の側から「あなた、創氏改名しませんか?」と、いわばスカウトされて、もし断ると有形無形の嫌がらせがあったという話も聴いたことがありますから、お上の意向には逆らえないという感じの圧力や目に見えない強制性はあったと言うこともできなくはないと思えます。

そうは言ってもここに来ての創氏改名は、それまで軍夫の志願者を募集したり、徴用令で労働させたりと言った次元を超えて、正真正銘の日本人だという自意識をもたせることは徴兵にも応じさせようという布石にようにも思えます。実際に全面的徴兵が行われるのは昭和20年に入ってからのことで、既にフィリピンも陥落しており、そもそも兵隊をどこかへ送る船を出したら即撃沈されるという滅亡必至の状況下で行われましたから、海外侵略のための徴兵ではなくて良く言えば台湾防衛のため、悪く言えば台湾を焦土にして本土決戦までの時間稼ぎのためと理解することができると思います。太平洋戦争で台湾が焦土になることはありませんでしたが、その理由が蒋介石の意向に拠るものなのかどうか私は知りません。アメリカ軍はそもそもフィリピンも素通りしてもいいのではないかと考えていたくらいですから、疲れるだけの台湾上陸には関心がなかったのかも知れません。それに対して沖縄については米軍は本気で攻略にかかっていましたから、明暗を分けたとも思え、運命という言葉が頭をよぎります。沖縄で戦争に関する資料をいろいろ読んだことがありますが、それは壮絶なものでブログのような場所で簡単に語れるものとも思えませんが、沖縄には「特別の高配」あってしかるべしと個人的には思います。

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首里城の周囲を歩いた話

琉球王朝の首府であった首里城は、太平洋戦争でアメリカ軍の激しい攻撃により全焼してしまったということなのですが、現在は再建され、美しくかつ堅固な威容を私たちに見せてくれます。

以前訪問した時は首里城の中に入りましたが、今回は外壁の周囲をぐるっと回る、そのエリアをてくてく歩くというのをやってみました。座間味に行った時もそうですが、てくてく歩くのが私はかなり好きなのです。

お城の外壁は相当に堅固なものに見えますから、マスケット銃の軍隊に囲まれた程度では陥落するとは考えにくく、エンフィールド銃の軍隊で囲まれたとしても全然OKに見えます。即ち初期近代の軍隊の装備ではとても陥落させられない、巨大な要塞だと私には思えます。また、立地条件もよく沖縄の東側、西側の両方の海まで視界が届き、那覇市内を一望できる高台にあるお城ですので、敵の来襲があればすぐに分かりますし、繰り返しになりますが敵が上陸しても堅固な要塞で跳ね返すことができるように見えます。来襲してくる敵にとってはアウェーで常に補給の問題がありますから、しばらく城に立てこもっていれば敵は自壊し自ずと勝利できるように思えてなりません。

そのため、ペリーのような少人数のアメリカ軍が首里城に入城し、事実上占領したということは私には簡単には信じられませんし、薩摩藩による侵攻についても同じ理由で首を傾げてしまいます。そうは言ってもそのような歴史的な事実はあったわけですから、それには違う要素も含めて考える必要があるのかも知れません。

首里城の周辺を歩くと、古い石畳や泡盛の蔵元である瑞泉の看板などを見ることができ、かつての城下町の雰囲気を感じることができます。大変に立派なお城ですので、沖縄に行けば是非訪れるべきと思います。

古い城下町の雰囲気を伝える石畳
このエリアもドラマチックでぐっときます
泡盛の蔵元、瑞泉の看板。お店の前にて。



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那覇のぱいかじで「いーどぅし」のライブを観た話

沖縄に行けば、やはり三線ライブにも行ってみたいものです。食事しながら三線ライブを観るというのはいかにも「観光客です!」という感じで、まあ、ちょっと素人くさいというか、沖縄ビギナーみたいでちょっと恥ずかしい面もありますが、やっぱりそれでも沖縄に行ったら三線ライブに行きたくなってしまいます。三線ライブで有名なお店としては国際通りの「ぱいかじ」や沖縄音楽食堂ライラなどがありますが、今回はぱいかじで「いーどぅし」のライブを観ました。

まず、ボーカルのかーなーさんがとにかく歌が上手いです。いい声です。なみなみさんがギターを担当していますが、沖縄三線ライブでギターも組み合わせるというのは珍しいと思いますから、そういう意味でも希少という貴重というか、定番の沖縄民謡もやってくれますし、ちょっと変化球で『海の声』とかそういうのもやってくれますから、ギターがある分幅広くいろいろやれるということではなかろうかと素人なりに考えてみたりしています。

三線ライブをしている「いーどぅし」。もし関係者の方から「肖像権の問題がある」と指摘されれば削除します。

三線ライブのお店は「ライブチャージは無料」という場合が多いですが、お料理の単価は結構高いです。とはいえ、ライブをするための費用はお店が負担しているわけですから、それがお料理の単価に反映されるのはやむを得ないことではないかとも思います。安く飲みたいのであれば、牧志で千ベロ(千円で三杯、おつまみ一皿が定型スタイルのようです)もありますし、国際通りには海援隊もありますから、そこはそれぞれの判断で、初日は千ベロ、翌日は三線ライブとかに使い分けるのがいいのではないかと思います。

今回は三線ライブで個人的には充足感を得られましたので、感謝したいです。




フェリー座間味で座間味島に行った話

那覇市の泊港(通称、とまりん)からは毎日朝10時に座間味島へ行く定期便が出発します。阿嘉を経由して12時ちょうどに座間味島に着き、午後3時に帰りの便が出発しますから、那覇と日帰りができ、大変に便利です。大人一人往復で4000円ちょっとですので、ちょっと高いようにも思えますが、せっかく沖縄に来たのだから、やっぱり離島にも行ってみたいという人にはちょうどよいのではないかと思います。

マリンスポーツを目的にする人もいますし、時間の節約をしたい人は高速船のクイーン座間味を利用したいという人もいますが、私の場合はぼんやりと海を眺めることが目的ですので、フェリー座間味のちょっとくったりとした感じで船に乗ることの方が自分のニーズにも合っています。

座間味島に上陸して、まずは沖縄そばのお店で腹ごしらえです。ちょうどお昼ですからどうしてもお腹が空いてしまいます。

座間味で食べた沖縄そば。お店の人が親切にしてくれました。

その後は午後3時までてくてく散策です。レンタル自転車のお店もありますが、個人的にはてくてく歩きたいので自転車は借りませんでした。

見知らぬ土地の見知らぬ路地は魅力的に見えるものですが、ここでもこの写真のような路地に遭遇。個人的にはこの路地の雰囲気にはぐっときてしまいます。

知らない土地の路地はドラマチックに見える。

「太平洋戦争沖縄戦上陸第一歩之地」という碑文もありました。当時、アメリカ軍は沖縄本島東側からの上陸を企図し、その前哨戦として座間味に上陸したのですが、多くの人たちが集団で自決したとされています。強制性については議論が分かれており、私は強制性があったとする意見と、米軍に子女を襲わせたくないという考えから自発的に行われたとする意見の両方に接したことがあり、何が真実であったかは判断が難しい部分があるように思えます。そうとは言え、実際に多くの人が亡くなったことは重い事実として存在するわけですから、哀悼の心境を持たなくてはいけないと思った次第です。

太平洋戦争沖縄戦上陸第一歩之地と記された碑

帰りの船では那覇の街がだんだん近づいてくる様子がとてもドラマチックです。考えてみればこの海域には特攻隊の飛行機が沢山沈んでいるはずです。そういう重みのある土地なのだということをよくよく自覚し、敬意を保ちつつ、沖縄本島へ帰還したのでした。

フェリー座間味から見える那覇市街

そうは言っても夜は居酒屋さんでオリオンビールを楽しませていただいたわけですが…。

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那覇の居酒屋さん海援隊に行った話

沖縄に行くと、必ず足を運ぶのが、安くておいしい居酒屋さんの「海援隊」です。オリオンビールが100円で、何杯飲んでもずっと100円です。お店には貼り紙がされてあり「オリオンビール100円を維持するために、多くの肴をご注文ください」というようなことが書かれています。

上の写真は馬刺しですが、馬刺しとその日のお刺身、オリオンビール二杯飲んで2000円程度という破格の安さです。しかもおいしい。食べれば、あ、新鮮なお魚だなとすぐに分かる大変に素晴らしいお店です。

一人で行くとカウンターに通されます。カウンターの向こう側にはこの道何十年と思しきダンディなおじさまが包丁を振るっています。常連さんが多いらしく、常連さんとはにこやかに話しますが、その時以外はなかなかの強面です。

以前行った時には私を挟んだ両隣のお客さんが会話を始め、どちらもご老人だったのですが「戦争が終わった時はどこにいましたか?」「ああ、私は〇〇地区で終戦を迎えましたよ」などというディープな、或いは貴重な話を聞くことも運が良ければ可能です。沖縄は観光地ですから、ついつい「遊び」に出かけてしまうのですが、沖縄に行けば私のような性格ですとやっぱり沖縄の土地や歴史について学びたいとついつい思ってしまいます。

以前には対馬丸記念館やひめゆりの塔を参観させていただいたことがあり、「沖縄のみなさん、すみません。お疲れ様でした」という言葉が頭の中に浮かんできます。本来、辺野古も見学に行くべきなのですが、私はレンタカーを借りたりしないですし、バスを乗り継いでどう行けばもよく分からないので今に至るまで辺野古には行っていません。

その点、ちょっと私も努力不足ではあるのですが、海援隊は観光客よりも地元の人をメインに営業している感じのお店ですので、地元の人が本音ベースでどんな会話をしているのかを知り、学びを得るのに適しているのではないかと思います。そのうえ安くておいしいのですから、言うことはありません。

オリオンビールとお通し。お通しもおいしかったです。ありがとうございました。




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報道の自由と取材の自由

「報道の自由」が果たしてどこまでゆるされるのか、虚報や誤報は別としてその内容が真実だとしても、なんでもかんでも報道していいのかというのは結構議論のあるところというか、それぞれ人がそれぞれに意見があるのだろうと思います。なんといってもマスメディアには権力を監視するという大切な役割がありますから、そこに制限がかけられることは望ましいことではありません。原則として、無制限であるべきで尾はないかと私個人は思います。報道は取材しないとできませんから、「取材する自由」についても同様に広く求められるべきと思います。尤も、それは飽くまでも権力の監視に限ったことだと思いますので、それ以外のことではある種の節度が求められるかも知れません。

報道の自由に関する議論としてよく話題にされるのが、いわゆる西山事件と呼ばれるものです。毎日新聞の西山記者が外務省の女性事務職員と男女の仲になり、その関係性を利用して沖縄返還に関する秘密の電文を入手し、それを社会党の議員に渡して国会で暴露されるという展開のもので、刑事事件にまで発展しています。

私個人の意見ですが、報道の自由という観点から論じるのなら、新聞記者には外務省の秘密文書を世に問うという権利は当然に認められなくてはならないものだと思います。しかしながら、この事件で世間の耳目を集めたのは、記者が事務職員の女性と男女の仲になるという手段で情報を手に入れたということです。この点に関しては感情的な面でいやーな気分にどうしてもなってしまいますし、当時も激しく批判されたようです。男女の情を利用して秘密情報をと手に入れるというのはほとんどスパイ映画みたいな話になってしまうのですが、情報を手に入れるためにそのような人間的感情を弄ぶというのは、やはり許容の範囲外なのではないかという気がしないわけでもありません。

そういう意味では、取材の自由や取材源の秘匿については新聞記者は広くその権利を認められてしかるべきとは思えるのの、そういう権利があるからこそ、ネタのためには何をやってもいいのかどうかについては節度のようなものが求められるのではないかと思えます。

また、西山記者の事件で問題にされたのは、自分の勤務する新聞紙上で公開するとすれば、ジャーナリズムと権力との闘いとも言えますので、新聞がんばれ!と応援したくなるかも知れないのですが、当該記者はそういう手段を採らず、野党の議員にネタを流して国会で暴露させています。そういう風になるともはやジャーナリズムですらなく、権力の監視とは別の話になってしまいますので、裁判所もわりと厳し目な判断をしたのではないだろうかという気がします。

西山記者はその後毎日新聞社を退社しましたが、21世紀に入り、アメリカで日米間の秘密文書が公開され、確かに密約があったことが確認されたとも言えますが、西山さんがテレビに出演して「俺の取材した内容は正しかったじゃないか」的な感じのことをお話ししていらっしゃいましたが、テレビを見ている人の中には「いや…問題はそこにあるのではなくて…」と絶句した人が多かったのではないでしょうか。

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