民主化運動はたくさんありますが、反民主化運動は人類の歴史であるのでしょうか?

「民主化運動はたくさんありますが、反民主化運動は人類の歴史であるのでしょうか?」というquoraでの質問に対する私の回答です。

たとえばファシズムは民主とは逆の概念であると思いますので、ファシズム運動をした人、ファシストを自称した人、ファシズムに近い体制を確立するための努力をした人は反民主化運動家たちであり、彼らの運動は反民主化運動と言えるのではないかと思います。例としては、たとえばアドルフヒトラー、国家総動員法を成立させた近衛文麿、クメール・ルージュのポルポト、スペインのフランコ、イタリアのムッソリーニなど、多くの自覚的ファシストまたは事実上のファシストが歴史に名を残しています。おそらく、フロリダのキューバ移民はフィデロ・カストロをファシストを呼び非難することでしょう。毛沢東やスターリンのような有名な共産圏の指導者をそのようにカテゴライズするべきかどうかについても、議論する人の立場によって違ってくるように思います。




昭和史76‐太平洋戦争は何故起きたのか(結論!)

資料を読み続けてきましたが、一応、手元に集めたもの全てに目を通しましたので、ここで一旦、昭和史については終えることにしますが、そこから私が得た知見を述べたいと思います。太平洋戦争は何故起きたのか、私なりに結論を得ることができました。

1、蒋介石との戦争に固執し過ぎた

日本軍、特に陸軍は蒋介石との戦争は絶対に完遂するとして、一歩も引く構えがありませんでした。しかし、情報・宣伝・調略戦の面では蒋介石が圧倒的に有利に展開していたということに
気づきつつもそこは無視してとにかく重慶を陥落させるということに固執し、空爆を続け、蒋介石のカウンターパートとして汪兆銘を引っ張り出し、新しい国民政府を建設し、蒋介石とは
対話すらできない状況まで持ち込んでいきます。情報・宣伝・調略の面では、蒋介石はソビエト連邦を含む欧米諸国を味方につけており、しかも欧米諸国はかなり熱心に蒋介石を援助していましたから、長期戦になればなるほど日本は疲弊し、国力を消耗させていくことになってしまいました。フランス領インドネシアへの進駐も援蒋ルートの一つを遮断することが目的の一つでしたが、それがきっかけでアメリカからの本格的な経済封鎖が始まってしまいます。アメリカから日本に突き付けた要求を簡単にまとめると、「蒋介石から手を引け」に尽きるわけで、蒋介石から手を引いたところで、日本に不利益はぶっちゃけ何もありませんから、蒋介石から手を引けばよかったのです。それで全て収まったのです。更に言えば、日本帝国は満州国と汪兆銘政権という衛星国を作りますが、味方を変えれば中国の国内の分裂に日本が乗っかったとも言え、蒋介石・張学良・汪兆銘・毛沢東の合従連衡に振り回されていた感がないわけでもな
く、汪兆銘と満州国に突っ込んだ国富は莫大なものにのぼった筈ですから、アメリカと戦争する前に疲弊していたにも関わらず、それでもただひたすら陸軍が「打倒蒋介石」に固執し続けた
ことが、アメリカに譲歩を示すことすらできずに、蒋介石との戦争を止めるくらいなら、そんな邪魔をするアメリカとも戦争するという合理性の欠いた決心をすることになってしまったと言っていいのではないかと思います。

2、ドイツを過度に信頼してしまった

日本が蒋介石との戦争で既に相当に疲弊していたことは述べましたが、それでもアメリカ・イギリスと戦争したのはなぜかと言えば、アドルフヒトラーのドイツと同盟を結んだことで、「自分たちは絶対に勝てる」と自己暗示をかけてしまったことにも原因があるように思います。日本だけでは勝てない、とてもアメリカやイギリスのような巨大な国と戦争することなんてできないということは分かっている。だが、自分たちにはドイツがついている。ドイツが勝つ可能性は100%なので、ドイツにさえついていけば大丈夫という他力本願になっていたことが資料を読み込むうちに分かってきました。確かにドイツは技術に優れ、装備に優れ、アドルフヒトラーという狂気故の常識破りの先方で緒戦に勝利し、圧倒的には見えたことでしょう。しかし、第一次世界大戦の敗戦国であり、植民地もほとんど持たなかったドイツには長期戦に耐えるだけの資本力がありませんでした。更にヨーロッパで二正面戦争に突入し、アメリカがソビエト連邦に大がかりな援助を約束してもいますから、英米はドイツはそろそろ敗けて来るということを予想していたとも言われます。日本帝国だけが、ドイツの脆弱性に気づかなかったというわけです。ドイツは絶対に勝つ神話を広めたのは松岡洋右と大島駐ベルリン大使の責任は重いのではないかと思えます。

3、国策を変更する勇気がなかった

昭和16年7月2日の御前会議で、南進しつつ北進するという玉虫色的な国策が正式に決定されます。フランス領インドシナへの進駐もその国策に則ったものですし、構想としてはアジア太平洋エリア丸ごと日本の経済圏に組み込むつもりでしたから、その後も南進を止めることはできなかったわけで、南進を続ければそのエリアに植民地を持つイギリス・アメリカとは必ず衝突します。アメリカとの戦争を近衛文麿が避けたかったのは多分、事実ですし、東条英機も昭和天皇からアメリカとは戦争するなという内意を受けていたのにも関わらず、国策に引っ張られ、国策を決めたじゃないかとの軍の内部からも突き上げられて戦争を続けてしまったわけです。

以上の3つが主たる原因と思いますが、どれもみな、日本人が日本人の意思としての選択であったと私には思えます。蒋介石との戦争に必然性はありませんから、いつでも辞めてよかったのです。ドイツを信用するのも当時の政治の中央にいた人物たちの目が誤っていたからです。国策だって自分たちで決めることですから、自分たちで変更すれば良かったのです。そう思うと、ほんとうにダメダメな選択をし続けた日本帝国にはため息をつくしかありません。私は日本人ですから、日本が戦争に敗けたことは残念なことだと思います。しかし、こりゃ、敗けるわなあとしみじみと思うのです。

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昭和史61‐蒋介石と汪兆銘と張学良と毛沢東

昭和15年5月11日付のとある情報機関の発行した機関紙によると、同年4月26日に南京に於て国民政府遷都慶祝大会が挙行されたという内容の記事が掲載されていましたので、ちょっと紹介してみたいと思います。「遷都」というのがポイントです。ここで言う国民政府とは蒋介石政権のことではなく、汪兆銘政権のことを指しています。つまり、汪兆銘政権が正式な中国の「国民政府」であり、重慶にいる蒋介石の国民政府はニセモノで、本物の国民政府を南京に「遷都」させて誕生させたというわけです。ですので、当時の段階では国民政府が2つあったということになってしまいます。国旗も酷似しており、どっちがどっちでどうなのかと言うわけのわからない混乱状況に陥ってしまった感があるのですが、「和平反共及び日華親善」という標語も見られ、日本帝国が汪兆銘政権の既成事実化を狙っていたことが分かります。当該記事をざっと読むと要するに蒋介石が共産党と手を組んだのがいけないということらしく、蒋介石が容共を続ける限り戦争は継続されるということらしいです。で、本当は日本人と中国人は大の仲良し、悪いのは蒋介石という構図になっているわけですが、不思議なことに毛沢東の名前をこれまで一度も見たことがありません。張学良の名前も全然出てきません。ひたすら蒋介石、蒋介石です。この辺り、裏があるとすればどんな裏があるのか、情報不足で推測するのもちょっと難しいのですが、打倒蒋介石に慣性の法則が働いて加速しているようにも思えます。このように日中戦争は「反共」を大義に継続されていったわけですが、一方で松岡洋右がスターリンと接近して日ソ不可侵条約を結び、太平洋戦争の最後の方になると、ソビエト連邦を唯一の友好国と頼みにするようになるのですから、やはり何かが誤っていた、どこかに齟齬が生じていたと感じないわけにはいきません。やっぱりゾルゲと尾崎穂積に誘導されていたということなのでしょうか。

国共合作も謎が多く、張学良がその真相については最期まで明かさなかったため、今に至るまで実際のところははっきりとはしていません。蒋介石が西安事件で監禁された時に脅迫されて共産党と協力することにしたということまでは分かります。しかしその後、自由の身になった蒋介石が太平洋戦争が終わるまでその約束を守り続けたことや、張学良が軟禁され続けたことも疑問です。普通に考えれば蒋介石が自由を回復すれば張学良を殺して既定路線通りに毛沢東と戦争を続けていたはずですが、そういう風にはなりませんでした。張学良の口述という中国語の本をパラパラっと読んだことがありますが、張学良は蒋介石を信頼していたらしく台湾に移転してからも親交が続いたと言っています。一体、裏に何があってどうなっていたのでしょうか。考え込んでいくうちに、蒋介石と汪兆銘の仲間割れ、張学良と毛沢東も加わった集合離散、合従連衡に日本帝国が振り回されていたようにすら思えてきます。

当該の号には上に挙げた記事の他に援蒋ルートについても説明されており、一般に援蒋ルートと言えば東南アジア、たとえばフランス領インドシナ、或いは英領ビルマからの重慶へのルートが知られていますが、ソビエト連邦から新疆方面を通って重慶への援助ルートがあると記載されています。ソビエト連邦からも援助がもらえたから蒋介石は西安事件後も国共合作を続けたという安易な判断でいいのかどうか、結論しかねるところですが、考えれば考えるほど、中国の近現代史は奥が深いというか、裏が深いというか、質実剛健とか武士に二言がないのが大和魂とかみたいにわりと真っ直ぐなことが好きな日本人にはとても太刀打ちできないよう事柄のように思えてしまい、その意味でも日中戦争は早々に決着させておくべきだったと思えてなりません。


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