神聖ローマ帝国‐教皇権と皇帝権のせめぎあい



フランク王国ではメロヴィング朝が廃止され、宰相であったカロリング家が国王の座を得るようになります。領土の拡大もあり、メロヴィング朝を倒したカールマルテルの子であるピピンがローマ教皇に教皇領を寄進したことから、カロリング朝とローマカトリックの関係は良好なものとなり、ピピンの子であるカール大帝はロンバルト王国と倒すほどの軍事的強さも理由だったと思いますが、当時のローマ教皇レオ三世から西ローマ帝国の称号を与えられます。更にオットー1世にも皇帝の権威が授けられますが、これが神聖ローマ帝国の始まりになります。

フランク王国は東西に分裂しフランス王国の建設へとつながっていきます。西フランク王国ではカロリング家の後継者が断絶したことで、ユーグ・カペーがカペー朝を開き、ルイ16世がブルボン王朝の王位をはく奪された際、ルイ・カペーと名乗らされましたが、カペー朝の名称がその時代まで生きていた名残のようなものであったからこそ、そういう名前を名乗らされたのではないかという気がしないでもありません。

さて、いずれにせよ神聖ローマ皇帝は現代のドイツとその周辺の広大な地域を支配し、ドイツは封建的な領主・貴族がひしめき合っていましたが、その頂点としてローマ教皇から認められた絶大な権力を持つ者として君臨し、爵位や領地の与奪の権利を持つようになります。日本の歴史で言えば源頼朝が鎌倉幕府を開いたみたいな感じと言ってもいいのかも知れません。

当初はローマ教皇が最高権威者で、神聖ローマ皇帝は授権された立場であったと解されていましたが、実際の軍事力と経済力を持つ神聖ローマ皇帝の方がより高い力を持つようにないます。両者の対立は深まりましたが、ローマ教皇グレゴリウス7世が神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を破門にし、赦しを請うために数日間門の前で皇帝が立つというカノッサの屈辱事件は、これは皇帝権よりも教皇権が優越することを人々の目にはっきりと分からせるという効果があったようです(もっとも、その後ハインリヒ4世は反撃に出、グレゴリウス7世は「憤死」に追い込まれます。その状況について詳しいことについて書かれてあるのを読んだことはないのですが、戦死という理解でいいのではないかと思います)。また、神聖ローマ皇帝はプロイセン王国などの諸侯の集合体であったため、強いといってもそこまで強いというわけでもなく、皇帝空位の時代が続くという時期もあり、そこまで安定していなかったとも言えるかも知れません。カール4世は、7選帝侯という制度を作ることで、ドイツ諸侯・貴族が皇帝に協力する構造を作ろうとしましたが、却って諸侯が皇帝を選ぶというシステムは、皇帝の権威を更におとしめたと捉えることもできるかも知れません。独立した自治権を持つ都市も多く、「都市は人々を自由にする」という言葉もあるように、皇帝権はいずれかの段階で名誉職になっていった感もなくもありません。

15世紀ごろからはハプスブルク家が事実上の世襲をする状況で落ち着きますが、ナポレオンの時代に残り少ない領地をあっさり切り取られて、事実上の自然死消滅みたいな感じになってしまいますので、そんなにすっげー活躍したとも、ヨーロッパの主役!という感じではなかったという印象です。

その後、カペー朝はフランスとしてのまとまりを持つようになり、神聖ローマ帝国はドイツ+アルファ、イタリアは教皇領+都市国家、とそれぞれの特色を持つようになっていきますが、当時、なんと言っても強いのはウマイヤ朝、その語はセルジュークトルコ、更にその後はオスマントルコと中東・ムスリムの世界からの圧迫を受けるようになり、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が防波堤の役割を果たしていましたが、やがてビザンツ帝国の滅亡とともにムスリムのヨーロッパ進出という、当時のヨーロッパ人としてはかなりびびったであろう展開が待っていることになります。

もっとも、ビザンツ帝国滅亡の前には十字軍というあまり評判の良くない遠征活動が行なわれたり、同帝国滅亡の後には結果としてルネッサンスが起きるわけですから、それはそれでおもしろいのですが、その辺りはまた後の機会に述べたいと思います。