天皇と信長

信長が京都の支配者だった時代の天皇は正親町天皇です。正親町天皇は在位期間が30年ほど続き、かなり長く天皇として在位しています。平安時代、幼少期に天皇に即位して大人になるころには退位して上皇になるというパターンが普通でした。後白河天皇が30歳近い年齢で即位したとき、年齢的におじさん過ぎるために超異例であったと言われているほどなわけですね。天皇は、かわいい少年が似合うわけです。お雛様人形でも、お内裏様とお雛様はお若いからかわいいのです。で、大人になる前に退位したということは、天皇の在位期間も短いんですね。天皇を退位した後の長い人生をみんな充実して過ごしたいわけで、儀式や慣例にしばられる天皇という立場はあんまり長くやらなくてちょうどいい、というような感じだったんだと思います。

ところがですね、じゃ、どうして正親町天皇がこんなに長く天皇として在位したのか、しかもかなりのご高齢になるまで続けていましたから平安時代とは真逆な状態になっていたわけですけれど、なぜそうなるのかというと、要するにお金がなくて、代替わりのための儀式にかかるお金を節約する必要があったというわけです。古代、天皇家は名実ともに日本でもっとも裕福な人々であったわけですが、だんだん武士に歴史の主役を奪われていき、室町時代では足利幕府にいろいろ面倒を見てもらっていたのが、戦国時代になると足利将軍も息も絶え絶えという感じになって生活が厳しくなってゆき、その日の朝食にも困るというところまで追い詰められていくようになりました。

で、天皇陛下が即位される時にはいろいろな儀式があるということは、最近令和になったばかりですから、みんなよく知っているわけですけれど、儀式をやるにはお金がかかるわけですね。特に、新しい天皇陛下が即位されたばかりのときに行われる大嘗祭は、非常に大がかりで費用もそれだけ嵩みます。しかも、お金がなくて大嘗祭を省略したりすると、天皇としての完全性が疑問視されたりするので、なるべく儀式の省略とかは避けたいということになります。ということになってくると、新しい天皇が即位されるた場合、できるだけ長く天皇に在位していただかなくては困る、できれば一生、在位していただきたいということになってきます。そのほうが節約からですね。一人の天皇が長く在位すれば、その次の天皇にバトンタッチされるころには、新しい天皇もすでにちょっとご高齢、で、がんばって長く天皇に在位されると、次の天皇もまたちょっとご高齢で即位し、がんばって長く在位。というようなことになっていきます。正親町天皇がご高齢で長く在位されたというのは、そのような事情が続いた結果なわけです。

その正親町天皇と信長の関係は、ちょっと微妙なものがあって、両者は互いに無視するわけにはいかないけれど、かといって、そんなに信用していない、というような感じの状態が続きます。1573年に将軍の足利義昭が信長によって京都を追放されますが、その後、信長が将軍になったかというと、そういうわけではありません。もし本当に信長を将軍に任命しようということになると、義昭を強引に将軍職から解任し、足利氏とは血縁でもなんでもない、特に名門というわけでもない、金と兵隊だけ持っている信長という尾張地方から来た男を将軍に任命するということになりますから、手続き的にも心理的にも壁が高いわけです。かといって、関白職というのは五摂家が独占する職位ですから、信長を関白に任命するのも、なんかおかしい。太政大臣はもともと名誉職みたいなものですが、単なる名誉職なので、それでお茶を濁すにしては信長は力がありすぎるわけです。で、なんかおかしいということになります。それで、とりあえず信長は右大臣ということになりました。右大臣も十分に位人臣を極めたポジションではあるんですけど、飽くまでも天皇や関白のために実務を行う、行政官のトップのような感じですから、天下人信長とは、なんとなく釣り合わないんですね。源氏将軍が右大臣に任命されましたが、それは源氏将軍の立場が武士のトップであるというだけで、日本の支配者でもなんでもないという認識があったからです。一方、京都を制圧した信長は天皇の次あたりに迫ってきて当然の人ですから、右大臣は微妙なんですね。で、1578年に信長は右大臣を辞職してしまいます。その理由はわかりませんけれど、多分、微妙だったからなんじゃないかなと思います。信長としては、自分の実績にふさわしい地位なら受け取るけれども、右大臣のような微妙な立場を続けると、朝廷の手足で終わってしまうところに不満なり不安があったのかもしれません。その後、本能寺の変まで、信長は特に職位のない支配者という、分かったような分からないようような立場で居続けます。

現代風に言うと、会社の筆頭株主が経営陣をやめさせた後、自分が社長とかCEOとかに就任するわけでもないのに、社長のオフィスで仕事をしている、というような感じでしょうか。あの人はいったいどういう資格で社長室を使っているのか?との疑問は誰にでも湧くんだけれど、かといって、筆頭株主ですから誰も文句が言えないという感じでかなあと思います。

このような信長の動きは、正親町天皇とその周辺の朝廷の人々からは、極めて警戒すべきことのように考えられたはずです。この男は、右大臣では不満らしい。じゃ、何が狙いなのか?という疑心暗鬼も生まれたかもしれません。信長は延暦寺焼き討ちとかやる男です。延暦寺を焼き討ちする根性があるのなら、朝廷の御所を焼き討ちするのも厭わないかもしれない。実力行使で天皇家をつぶしにかかってくるかもしれないという不安が全くなかったとは思えません。その不安が決定的なものだったかどうかは、わかりませんが、関係者の誰もが、ちらっとは頭の中に思い浮かべたはずです。

しかも、信長は正親町天皇の譲位を求めたこともあって、こいつは天皇家をコントロールしようとしているのか?との疑念も抱かせたに違いありません。信長が正親町天皇の譲位を求めず、さらに長く在位することを求めたのではないかとの説もあるようなのですが、要するに信長は天皇人事に介入していたということになりますから、天皇人事に口を出す時点で、ちょっと危ないやつだと思われたはずです。なにしろ信長は無冠の帝王なわけですから。

そういうわけですから、信長に何らかの地位を与えようという動き生まれてきます。猫に鈴をつける、猛獣に鎖をつけるというわけです。天皇から与えられた役職を受けるということは、天皇のしもべとして朝廷に尽くすという意味です。ですから、信長みたいな巨人には、なんとしてもそういう誓いを立てさせておきたいと朝廷側は思うでしょうねえ。武田勝頼が織田信長と徳川家康によって滅亡させられたのち、信長に対して、朝廷の方から役職に関するオファーが入ります。征夷大将軍、関白、太政大臣、好きな役職を選べというものです。これを三職推任といいます。3つの職を推薦して任命するということで、三職推任というわけですね。

その話を聞かされた信長は即答せず、こんど京都へ行ったときに正式に返事しますんでお待ち下さいというような返事をしたそうです。で、朝廷に返答をするために本能寺に宿泊し、いよいよ翌日、朝廷へ行くという前に明智光秀に討たれてしまいます。

本能寺の変、朝廷黒幕説を支持する人は、このタイムスケジュールに着目するわけですね。信長が返答する前に殺してしまえと考えたということなわけです。

普通、征夷大将軍か関白か太政大臣か、どれか好きなのを選べと言われたら恐れ入って、素直にどれか選ぶと思うはずです。ところが、ちょっと待ってくださいと信長は言うわけです。信長のことだから、新しい注文をつけてくる可能性があります。で、それがどれほどの注文なのかは、予想がつきません。なにせ、これまでに信長は蘭奢待という正倉院の宝物である素敵な香りがする香木の破片を切り取らせたり、天皇家が使用する暦について、織田氏が使用している三島歴というものに変更するよう求めたりしています。蘭奢待の破片をくれというのは、かなり破格な要求なわけですが、暦の変更はさらに大きなインパクトがあります。というのも、暦の決定権こそがすなわち、日本の統治権と考えられているからです。暦によって今日が何月何日かが決められます。陰陽道的な占いも暦によって左右されます。お金や物を超越した、目で見たり手で触ったりできない究極の次元にあるパワーが暦の決定権で、それを持つのは天皇と決まっているわけです。信長は天皇の統治権に介入したとみなされてもおかしくはなく、即ち、信長は天皇の権威に挑戦していた可能性もあるわけです。もし、信長が本気だしたら金と兵隊は信長の圧勝ですから、やっぱり朝廷を焼き討ちされてもおかしくはない、あいつにはその能力だけでなく意思もあると判断されたとしても不思議ではないんですよね。

これまでに、蘇我入鹿、平清盛、足利義満あたりが天皇家の権威や統治に挑戦した結果、あとちょっとくらいのところで突然命を落とすという黄金パターンと言っていいようなものがありますねえ。というようなことは私も述べてきましたが、そのトリが信長という風に位置付けていいかもしれません。んー、やっぱり現代まで続いている可能性が雑誌『ムー』に指摘されている八咫烏の人たちがお仕事をされたんでしょうかね。どうなんでしょうね。本当のところは永遠に分かりませんけれど、そういうのを推理して楽しむという感じでいいと思います。