森喜朗氏はなんであんなに失言を繰り返すのに(神の国発言やウクライナに対してのもの)これだけ、長く権力を持ち続けられているのでしょうか?彼の権力基盤とは?

森さんが首相になったのは運が大きいと思いますが、その後も政界のドンみたいな立ち位置でいられるのは部下や後輩を見捨てないという点で卓越しているのではないかなと私は考えています。

森さんが首相になった時のことを振り返ってみたいと思います。小渕恵三首相が小沢一郎の要求する無理難題にどうやって応えればいいのか悩み抜いて倒れ、帰らぬ人となってしまうことがありました。で、自民党長老会議で次の首相を決めることになったのですが、この時に森さんを次に推すということで決まったと言われています。文字通り密室で首相を決めたことになりますから、それに対する批判も大きいですが、やはり当時日本の政治を仕切っていた経世会が小渕さんの次をどうするかをまだ結論を出すことができていなかったので、ワンポイントリリーフ的に森さんにやらせようということになったのだと思います。この時、加藤紘一さんは推されなかったわけで、これで加藤さんは長老たちを恨みに思い、加藤の乱をしかけて自ら政治生命を失っていく選択をすることになります。思うに、森さんのような調整型の政治家なら、長老たちの要求に上手に応えて適度なところで政権を次に渡すであろうと予想できたため、長老たちにとっては都合が良かった一方で、加藤紘一さんが首相になれば、当然、我を貫くでしょうし、長期政権を狙ってくるに決まってますから警戒したということなんだろうと思います。諸事情が森さんにとって幸運だったわけですね。首相になったのは運が良かったのです。

しかし、その後のことは、森さんの生き方のようなものと関係してくると思います。他人を裏切らない、後輩を切り捨てないというのが徹底していて、人間関係が続くんだと思います。分かりやすい例としては、小泉純一郎さんがどうしても郵政民営化をやると息巻いていた時期、森さんがチーズと缶ビールを持って小泉さんを訪問します、で、二人でビールを飲みながら話し、郵政民営化を諦めるよう、森さんは小泉さんを説得したということになっているのですね。話し合いが終わった後で森さんはメディアの前で「小泉は全然言うことをきかない。俺はもう匙を投げるしかない」と発言しています。この発言は実は小泉さんへの援護射撃だったのです。もはや森元首相をしても小泉純一郎を止めることはできないというメッセージを発することで、政界全体に小泉阻止を諦めさせようとしたと考えられています。ですから、小泉さんは当然、その後も森さんを大事にし続けることになるに決まっています。安部さんと森さんのことについては特に私はエピソードは知りませんが、安部さんも森さんを立てていたように思いますから、おそらく、折に触れて安部さんを助けていたのではないでしょうか。



森喜朗内閣‐加藤の乱

小渕恵三首相が小沢一郎との会談の直後に倒れて意識不明となり、あたふたとしたドサクサの中で、とりあえず、森喜朗が自民党総裁ということに決まり、森喜朗内閣が登場します。

森喜朗首相はおそらく史上最もマスコミとの関係が良くなかった内閣ではなかったかと思えますが、パフォーマンスではなく官邸とメディアはがちで雰囲気が悪かったようです。元々失言の多そうな人ではありますが、更にメディアが悪意の編集を加えて放送することもあり、国民の支持は非常に低く、誰もがストレスフルに感じていたに違いありません。

更に森喜朗内閣不信任決議案の話が持ち上がり、ここでいわゆる加藤の乱が起こります。野党が不信任決議案を出せば加藤・山崎のいわゆるYKKで反乱を起こして野党につき、森内閣を潰すことも辞さないと宣言します。

森喜朗内閣ができあがったことで、恐らく最も悔しい思いをしたのが加藤紘一さんで、このままいけば加藤抜きで政権がバトンタッチされて行き、自分の出番はなくなるという焦りもおそらくは働き、自分にはYKKというある種の超派閥的派閥があるから、その手勢をここで使おうというわけです。

ただし、小泉純一郎はわりと早い段階で福田系の政治家として振る舞い始め、加藤系の議員たちは次々と野中広務によって切り崩されていくという事態に陥ります。

当時の加藤紘一さんのテレビなどでの発言を振り返ってみると、1、森喜朗内閣は倒す 2、自民党は離党しない 3、自分から「自分が首相になる」とはいわない 4、加藤待望論が起きて来るのを待つ という感じだったと思います。あくまでも行間を読むくらいな感じで、忖度、斟酌含みますが、特に4の加藤待望論を待つというのは自分からは絶対言えないですし、同時にそれ以外に加藤の乱を敢えてやる理由も見つかりませんので、この点は異論も出ないと思います。

実際には2の自民党を離党しないが有権者からは分かりにくく、少なくともマスメディアの方から積極的な加藤待望論は起きては来ませんでした。自民党内部からも加藤待望論は出ませんでしたが、これは権力維持を絶対の原則としている自民党にとって、内閣不信任決議案を盾に取るというゲームは危険すぎて絶対に容認しないはずですから、加藤待望論が出て来なくて当然と言えば当然と言えます。

通常なら小沢一郎が手を突っ込んできて何もかもぶち壊しにすることも考えられるのですが、加藤の乱に関する小沢一郎の目立った動きは特にありませんでした。加藤は小沢を危険視していた部分がありますので、小沢の誘いには乗らなかったでしょうし、小沢もあまり加藤紘一のことは好きじゃなかったんじゃないかなあという気もしなくもありません。また、加藤が自民党は離党しないということを大前提としている以上、小沢からの切り崩しは最初から拒絶しているということにも受け取れます。

加藤紘一が自民党を離党しないという原則を打ち出したのは、一つには河野洋平が新自由クラブを作って離党した結果、中曽根内閣に入閣し、結果としてオルタナティブとしての魅力を失って無残な出戻りをしていること、小沢一郎がなんだかんだとかっこいいことを言って飛び出した結果、野党を作っては壊すというある種の無軌道状態に陥ったことを目の当たりにしていることがあったと思います。そういう意味で、自民党を出ないというのは確かに正しいのですが、反逆を宣言した以上、離党しないということが分かりにくく、世論を引っ張り込むことができませんでした。マスメディアは小沢・羽田以来の政局劇場になれば、もてはやしたかも知れませんが、その辺りに加藤紘一の誤算・甘さがあったのではないかとも思えます。

主筋とも言える宮澤喜一が河野洋平の方を自分の後継者として考えており、加藤紘一を引きずりおろすことを狙い、敢えて加藤を引き止めなかったという説もあるようですが、私にはそこは何とも判断がつきません。

森喜朗内閣のことを書くつもりがほとんど加藤紘一さんの話になってしまいましたが、加藤さんは最近故人になられたばかりですので、お悔やみの気持ちも込めて、加藤さんメインで書かせていただきました。

森喜朗内閣が退陣すると、いよいよ賛否両論ある小泉純一郎内閣の時代に入ります。