第三次桂太郎内閣

第二次西園寺公望内閣が陸軍大臣と山県有朋からの二個師団増強要求を拒否したことにより、陸軍は必殺の軍部大臣現役武官制を盾にとって陸軍大臣が辞任。内閣不一致で崩壊します。

慣例的に首相を指名する立場だった元老たちも次第に老いて行き、適切な人物が見当たらなくなり始めており、山県有朋は渋々第三次桂太郎内閣の組閣を認めることになります。ところが、今度は海軍大臣の斉藤実が「海軍の予算を増やさないなら海軍大臣はやらない」とまたしても必殺軍部大臣現役武官制を利用して桂太郎を右往左往させますが、桂太郎は天皇の詔書を引き出して斉藤実を留任させます。

で、ちょっと待て。という反応が議会と新聞の両方から出てきます。なんでもかんでも天皇の詔勅で押し通すつもりかと、それは天皇の政治利用ではないかというわけです。第一次護憲運動です。立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅が手を組んで桂批判を叫んで止まず、元老院では山県と対立、議会ではオール野党という状態で桂太郎は危機に陥ります。立憲政友会が内閣不信任決議案を提出しますが、桂太郎は大正天皇から立憲政友会に向けて「桂太郎に協力してやれ」という主旨の詔勅を引き出しますが、却って油に火を注ぐ結果を招き、立憲政友会はそれを拒絶。桂太郎は苦し紛れに議会を停止します。もはや憲法が半分停止した状態と言ってもいいかも知れません。国会議事堂の周辺には群衆が集まり、東京市内は騒乱状態になったと言います。極端に言えば革命前夜です。

ロシアの血の日曜日事件は、穏やかな群衆のデモ行進に軍に発砲させたことでニコライ二世は決定的に支持を失い、ロシア革命につながっていきましたので、天皇の詔勅を利用して事を収めるほかに手段を持たなかった桂太郎がちょっと間違った決心をしていたら、革命になっていても全くおかしくはなかったと思えます。

第三次桂太郎内閣は62日間で総辞職。その二か月後、桂太郎本人も失意の中で病死してしまいます。藩閥によって構成された元老による小手先の政治技術が通用しなくなったとも言え、藩閥政治の終わりの始まりと捉えることもできるのではないかと思います。山県有朋は密かに桂太郎下しが成功してほくそ笑んだのではないかとも想像してしまいますが、元老の内側で潰し合いを続けた結果、元老という慣例そのものの問題点を露呈することになってしまったとも言えそうです。

第三次桂太郎内閣の次は第一次山本権兵衛内閣が登場しますが、山本権兵衛は軍部大臣現役武官制を廃止し、再び政党政治への道を開いていこうとします。大正デモクラシーのエネルギーが漂い始めてくるという感じでしょうか。

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第二次西園寺公望内閣

第二次西園寺公望内閣では、明治天皇の崩御と大正天皇の即位がありました。明治創業の天皇がいなくなったことは当時の人々の心理に様々なことが去来したのではないかと思えますし、新しい時代を予感した人も多かったかも知れません。

西園寺の政友会が衆議院の多数派で、彼が育てた原敬が貴族院にも新派を増やすことにより、わりと安定した政権になる予感もありましたが、結果的には短命な政権で終わってしまいます。

日本の内閣制度の初期では、最初は伊藤博文が政権を担当し、その後は困った時の伊藤博文という感じで何度となく彼が登場してきますが、伊藤時代がフェードアウトした後は桂太郎が行き詰まったら西園寺にバトンタッチして仕切り直しというパターンで政権が運営されていくようになります。

しかしながら、政党政治を理想とする伊藤博文とけん制し合う関係にあった山県有朋が、伊藤が暗殺された後はそれだけ存分に言いたいことが言える立場になっており、元老の権威で西園寺に軍備の増強、具体的には陸軍の二個師団の増強を要求します。高杉晋作の功山寺決起に先に着いた伊藤博文に対しては後から駆け付けた立場…的な遠慮がありましたが、もう遠慮しなくてはいけない相手はいなくなったというわけです。

西園寺は財政の観点から軍備の増強を拒否しますが、軍には憲法の規定上、天皇に直接上奏する権利があり、これを帷幄上奏権と言いますが、それを大義名分にして上原勇作陸軍大臣が辞任します。当時は内閣不一致は即総辞職ですので、第二次西園寺内閣も上原辞任を受けて総辞職という運命を辿りました。

第二次山県有朋内閣の時に導入された陸海軍大臣現役武官制が山県の期待通りの効果を発揮したとも言えますが、軍の意向が通らなければ、軍から大臣を出さないという形で内閣を崩壊させるという悪しき前例となってしまったわけです。

第二次西園寺公望政権が崩壊した後は、第三次桂太郎内閣へとバトンタッチされるのですが、政党政治を理想とする西園寺公望と、長州閥の利益を重視し陸軍の大ボスになっている桂太郎がある意味では気脈を通じ合い政権を禅譲し合う様子は如何にも奇妙です。

元老の力関係という言葉である程度の説明は可能とも思えますが、理念なき政権のたらい回しとも言え、第三次桂太郎内閣では尾崎行雄と犬養毅が脱藩閥政治を掲げて「護憲運動」なるものを展開し、それが大正政変へと向かうという流れが生まれることは十分に理解できます。大正デモクラシーの本番までもう少しです。

西園寺公望もその後は自ら首相になることはなく、悪い見方をすれば元老政治を続けて行くことになりますが、元老が自動的に議会の第一党の党首を首相に指名するという憲政の常道の道を開きつつ、政党政治家の腐敗に落胆するという悩ましい日々を送ることになり、やがて運命の近衛文麿首相指名へとつながっていきます。

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第二次桂太郎内閣

第二次桂太郎内閣は3年あまり続きましたが、中身は結構濃い内閣だったと言えるかも知れません。まず明治天皇の詔書を引き出し、国家国民一致して維新創業の心を思い出せ的な発破をかけます。

日露戦争の結果、儲かった資本家もいたと思いますが地方の疲弊が激しくなっており、その辺りの不満がいろいろ出てきます。孝徳秋水の大逆事件も第二次桂太郎内閣の時に起きています。孝徳秋水が本気で明治天皇の暗殺を考えていたとはちょっと思えないのですが、天皇暗殺謀議がたとえ冗談半分とは言え半分くらいは本気で考えられていたとも言え、戦争に勝ったわりには世の中が殺伐としており、桂太郎はパワーでそういったものを押しつぶしていこうとしたように見えなくもありません。特に大逆事件では関係ないとしか思えない寺の坊さんや、金持ちの気まぐれ的に社会主義を気取って慈善活動をしていたお医者さんまで逮捕されて処刑されていますので、明らかにやりすぎで、当時の官憲の方を持つ気にはなれません。

足利尊氏と後醍醐天皇の時代は南朝と北朝のどっちが正統かという南北朝正閏問題が取り沙汰されるようになり、そんな当時から見ても500年も前のどっちでもいいようなことについて本気で議論がされるというあたり、頭でっかちなイデオロギーが歪な形で噴出しているように見えますが、これも世の中の矛盾を明治天皇の「みんな仲良く一致団結」詔書を引き出して、その威光を借りる形で物事を進めようとした結果の副作用と言えるかも知れません。更に日韓併合もこの内閣の時に押し切っていますので、本当にこの内閣が西園寺公望と気脈を通じていたのかと首を傾げざるを得ません。

第二次桂太郎内閣時代に伊藤博文がハルビンで暗殺されていますので、ある意味では重しがとれたとも言えますが、反対の見方をすれば、明治維新を実務的に引っ張った伊藤博文がいなくなったことへの不安も感じていたのではないかと思えます。

一方で小村寿太郎とタッグを組み不平等条約改正を成し遂げていますので、そこは評価して良いのではないかとも思います。条約改正に成功した裏には、日本が一人前の列強というか、帝国主義の国として認められたという面もあると言えますから、この辺り、切り離して考えるわけにはいきませんので、果たしてどう評価するかは難しいところにはなると思います。

大逆事件で揺れていた第二次桂太郎内閣は条約改正の仕事を終えると、西園寺公望と「情意統合」しているという理由で、つまり仲良しだからという理由で、西園寺公望に首相の座を譲り、第二次西園寺公望内閣が登場します。リクルート事件の「竹馬の友」をちらっと思い出さないでもありませんが、当時は桂太郎のような国権派と西園寺公望のような政党政治派が持ちつ持たれつでやっていたことが分かります。

西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通が維新第一世代とすれば、伊藤博文、山県有朋が維新第二世代と言え、桂と西園寺は維新第三世代と言ったところですが、大正デモクラシーというある種の結実の時代、原敬内閣登場の時代まではあともう少しと言ったところです。原敬内閣は民主主義の成熟や成功という意味でよく引き合いに出されますが、原敬は同時に政党政治の腐敗はどういうものかをよく示した人でもあり、国民の政党への熱が急速に冷め、西園寺も同じように冷めて軍部独裁の時代へと入って行くことになってしまいます。

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第一次桂太郎内閣

桂太郎は戊辰戦争に参加したいわば歴戦の勇士みたいな人ですが、維新後短期ドイツに留学し、帰国後に大尉クラスで陸軍に入り、山県有朋派で軍歴を積んだ人です。

第四次伊藤博文内閣が政党政治運営をしようとして行き詰まり、次の首相の成り手がいない中で「桂にでもやらせよう」みたいなノリで首相に選ばれますが、結果としては政治の世界の世代交代につながった上に、桂太郎と西園寺公望が交代で首相になるという桂西時代を作っていくことにもなります。

発足当初は伊藤博文の立憲政友会が議会で小村寿太郎に協力しないというまさかの嫌がらせにも遭っており、よく見てみると伊藤と山県のつばぜりあいの道具に桂が使われていた側面があったようにも思えます。桂は立憲政友会側の西園寺公望を次の首相に推すという密約をすることで、政局をどうにか乗り切ったと言われており、桂と西園寺の仲介をしたのが原敬だという話もあるようです。

桂太郎内閣では小村寿太郎が外務大臣になり、日英同盟の締結に成功した他、日露戦争でも勝利し、小村寿太郎がポーツマス条約でどうにかぎりぎり日本が勝ったと言える内容に持ち込んだと言うのも桂太郎内閣の功績と言えるかも知れません。

日英同盟が結ばれたのは、ロシアの東洋進出を妨害したいイギリスと進出される側の日本の思惑が一致したからと言えますが、当時から火中の栗を日本が拾わされるのだという揶揄もあったものの、日清戦争が始まると議会が一致して伊藤博文に協力するという展開になったこともあったように、結果としては対外戦争によって国が一致団結し政権が国内的に安定するという効果があったように見え、そういう意味では明治憲法時代の内閣には潜在的に戦争を許容するというか、場合によっては戦争で内閣が延命できるという無言の法則ができたというような、戦争に親和性の高い内閣が作られやすくなっていったという側面あったのではないかという気がしないわけでもありません。

日露戦争では局地戦では日本が連戦連勝と言っていい成果を収めたものの、ポーツマス条約ではいろいろ難航してしまい、南樺太という当初は両国民雑居の地として主権が曖昧だったところを日本がどうにか手に入れることができた他、日清戦争によって得た当然の権益をロシアに横取りされたと当時の人が考えていた遼東半島の租借権を得ただけで、賠償金はなしということで話を収めたことから、桂太郎に非難が集まり、というか新聞が煽って市民が激昂して日比谷焼き討ち事件も起きて、桂太郎は西園寺公望に首相の座を譲ることになります。ただ、その後は桂と西園寺が交代で政権を担うようになり、伊藤・山県時代が少しずつ終わっていくことになります。


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