第二次松方正義内閣

松方正義という人はどったんばったん騒ぎの渦中の人物になりやすい体質を持っていたのではないかと私は思っています。第二次松方正義内閣もやはりどたばたの大騒ぎです。

当時は政府も黒田清隆的超然内閣主義は無理らしいということに気づくようになっており、観念したというか、やむを得ずというか議会の協力を得るために進歩党の大隈重信を入閣させます。松方正義が財政規律派だったのに対して大隈重信は積極財政派だったため、財政論に於いては正反対の論敵でしたが、ここは政権運営のために涙をのんだと言えなくもありません。民主主義という観点から言えば、議会の人を閣内に入れるというのはより望ましいことだとも言えると思います。

論敵を閣内に入れたとはいえ、松方はヨーロッパ留学で得た金融知識を活かし、日本銀行の設立と金本位制の導入に漕ぎつけます。政府から独立した中央銀行が円を発行する上に金の保有量という縛りがありますので、財政規律派の目から見れば大変に結構なことと言えたかも知れないですが、結果としては日本はデフレの嵐に陥り、不況が続いて失業や悪条件労働などの問題が膨らんでいきます。資本家と労働者という近代的な階層の分裂が起き、日本で社会主義が流行する下地を作る時代になったと見ることができるかも知れません。

近代の資本主義社会は原則的にインフレを志向せざるを得ませんので、どんなに緊縮財政をしたところで必ずお金が足りなくなっていきます。松方は財政規律派らしく不況であろうと何であろうと増税で突き進もうとし、大隈たちの進歩党とぶつかります。内閣不信任決議案が提出され進歩党が賛成の気配を見せたところで松方は自ら衆議院を解散します。

宮澤喜一内閣不信任決議案の時は加藤紘一さんの発案で敢えて先に解散せずに不信任決議案の採決をしたわけですが、松方正義的に先に解散をうつのとどっちの方がメンツが立つのか、心理的な衝撃が少ないのかは当事者でなければ何とも言えない複雑なものがあるのかも知れません。宮澤喜一内閣の時の場合は、小沢一郎さんたちに不信任決議案に賛成票を入れるという見せ場を与えたという意味では、自民党が野党に転落したターニングポイントになったとも言えますし、小沢一郎さんに焦点を当てるとすれば、勢いのまま離党してしまって以来、長い長い流離譚を送っているように見えなくもありません。

松方正義は自分で衆議院を解散したにもかかわらず、その日に辞任します。解散はしたものの…この先いったいどうすればいいのか分からなくなったというか、当事者能力を失ってしまったことを認めたというべきなのかも知れません。薩長藩閥の中で特にどたばた感の強い人ですが、一緒にお酒をのんだら案外楽しい人だったりするかも知れません。この前代未聞の事態は伊藤博文が三度目の組閣を行って収集を図っていくことになります。


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第一次松方正義内閣は最初から最後までなかなかお気の毒な内閣だと言わざるを得ないように思えます。就任以来、伊藤山県の傀儡だと揶揄され、実際に多分大体その通りで、山県が嫌になって政権を投げ出した敗戦処理みたいなことに終始させられたように見えなくもありません。

しかも、ロシアの皇太子のニコライ二世が来日中に大津で巡査に襲撃されるという大津事件が起き、なんでこんな面倒なことになるのかと寿命が縮む思いをしたに違いありません。清隆内閣の時には西洋指向の強い森有礼が暗殺されるという事件が起きており、現代風に言えばグローバリズムvsナショナリズムと同様の葛藤が日本国内で起きていて、ひたひたと確実に浸透してくる「西洋」に対し、官が諸手を挙げて西洋化へひた走るのに対して、民の中ではついていけない、或いは侵されていると感じている人が多かったのかも知れません。

この時期は伊藤(長州)、黒田(薩摩)、山県(長州)で松方(薩摩)と薩長でピンポンみたいに総理大臣の座を回り持ちしている時代ですので、それへのルサンチマンもなかなかに強く、舵取りに苦労していたように思えます。更に輪をかけたのが海軍大臣の樺山資紀の衆議院に於ける演説で、要約すれば「薩長政府のおかげでお国が護られていると分かっているのかこの〇〇野郎(〇〇の中に何が入るかは人それぞれの想像力の発露に任されます)」的な本音で切れまくった演説を行い、これをきっかけに野党が優勢な国会が混乱。松方は衆議院の解散を決意します。憲政史上初の衆議院の解散です。

第二回衆議院総選挙では選挙期間中に官による民党への選挙妨害が激化し、死者が出る事態にまで発展します。松方内閣は山県内閣の閣僚を基本的に引き継いでいたものの、陸奥宗光が怒りの辞任。その他の閣僚も松方を支持しなくなってゆき、松方は裸同然の状態になります。第二回衆議院選挙の結果は官(与党)が124議席を獲得しており、過半数には達していないものの、第一回総選挙と比べればかなりの大躍進と言うこともできますが、松方内閣はすでに空中分解同然の状態となってしまっており、観念した松方は辞表を提出することになります。

最初から最後まで不測の事件も含んで実に気の毒で、あんまり揶揄するようなことを書くのもかわいそうに思えてきます。ただし、選挙妨害で死人が出るなどというのはもってのほかですので、辞任という形で事を収めるのもやむを得ないかとも思います。後年、第二次松方内閣が誕生しますが、この時も宿敵大隈重信との合従連衡でやいのやいのと騒がしい政権運営が行われます。

元々島津久光の側近で幕末の争乱をくぐり抜けてきた人だっただけに血気盛んで、なんだかんだと騒ぎを呼び寄せる体質だったのかも知れません。

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