松岡洋祐の焦り

 松岡洋祐はオレゴン大学の卒業で、当時の日本人の中でもとくにアメリカを良く知る人物であったと言われます。自他ともにそのように認識していたことでしょう。
 
 その松岡は満州事変の後の国際連盟の勧告を拒否し、脱退の道を選びます。国際連盟脱退は必ずしも本人の意思ではなかったとも言われますが、日本からの訓令もあったらしく、どうしても脱退しない方向でまとめようという決心もなかったかも知れません。何故なら、国際連盟にはアメリカが参加しておらず、松岡としてはアメリカの入らない国際機関の価値はさほど高くないという判断もあったように感じられるからです。

 松岡がアメリカをどれほど重視していたかは、その後の松岡外交がひたすらアメリカに対抗できる軸を作ることに情熱を傾けていたことから理解できます。ドイツのヒットラーと手を結び、その足でソ連に行ってスターリンと中立条約を結びます。当時日の出の勢いだったヒットラーと巨大な陸戦力を持つソビエト連邦と手を結べば、アメリカも日本に顔を向けざるを得なくなるとの期待を持っていたに違いありません。ですが結果としてはアメリカが日本打倒の意をより強くする方向に進んだと見るべきで、英米協調を主軸として安定を図ってきた日本外交の明治以来の伝統から見れば、大失敗、無理ゲーと言ってもよい試みを松岡していたと見て良いでしょう。

 フランス領インドシナ進駐後に始まった対日経済封鎖を解くため、松岡はアメリカとの交渉を担当しますが、アメリカ側から忌避され、近衛内閣は松岡を外すためだけに総辞職し、第三次近衛内閣が誕生します。自他ともに認めるアメリカ通であり、国運を左右する交渉には強い決意で松岡は臨んだことでしょうから、アメリカ側に忌避されて出る幕をなくしたことは本人にとっては相当に残念なことだったでしょう。

 戦後、松岡はA級戦犯に指名され、東京裁判にも姿を現しますが、裁判の初期の段階で病没してしまいます。本人の心中にはヒットラーと手を結んだことがアメリカを本気にさせ国を滅亡に導いたという自覚は十分にあったでしょうから、最期の日々はとても辛い回想を繰り返していたのではないかという気がしてならず、責任の重い人物ではありますけど、かわいそうだなあともやはり思うのです。