第二次・第三次近衛文麿内閣‐破綻と手詰まり

米内光政内閣が陸軍の倒閣運動によって崩壊すると、近衛文麿が再び首相に指名されます。大政翼賛会が作られ、近衛文麿の国家社会主義的な色彩が濃くなっていきます。その一方、第二次近衛内閣で特にその動きが目立ったのが松岡洋右です。松岡の基本的な外交に対する思想は、如何にしてアメリカに対抗するかであり、アメリカに対抗する力を持てば、自ずと両国間に平和がもたらされるというものだったようです。ある種のパワーバランス思想ですが、松岡の外交姿勢は後半から空回りをし始めます。

そのためにはソビエト連邦の抱き込みが肝心で、松岡はかなり早い段階から日ソ不可侵条約の構想を胸に抱いていたのではないかとも思えます。石原莞爾が世界最終戦争は日本とアメリカの間で行われると考え、その戦争に備えるために対ソ防衛の観点から満州という広大な緩衝地帯を得なくてはならないという考えを持ったことと、通底部分もあったようにも思えます。その他、陸軍を中心に日独伊三国同盟への強い推進力が働き、松岡は日独伊ソの巨大な対アメリカ陣営を築こうとしていたと言われています。

過去、日独防共協定を結んだ後に独ソ不可侵条約が結ばれ、平沼騏一郎が「欧米の天地は複雑怪奇」と言う言葉をのこして総辞職したことを考えれば、或いは松岡はその複雑怪奇な欧州事情に深入りし過ぎ、策士策に溺れるの状況に陥ったと見ることもそう的外れなことではないかも知れません。

松岡がヨーロッパとの外交に熱心だった時期、アメリカのハル国務長官と駐米大使との間で中国・満州問題で話が進み、松岡抜きで日米関係に進展があったことに腹を立て、閣議を休んだりするようになり、その辺りから松岡の孤立気味な面が目立ってきます。

ドイツが独ソ不可侵条約を破ってソビエト連邦に侵攻した際、松岡は北進論を唱えて日ソ不可侵条約を破棄してソビエト連邦に侵攻するべきだと主張します。近衛文麿が嫌がり、昭和天皇もそのことについて不信感を持ったと言われています。日ソ不可侵条約を成立させたのが松岡本人だということを思えば、その毀誉褒貶にはついていけないところも確かにあり、日独伊ソ連合が水泡に帰した時点で松岡の構想は破綻していたと見るべきかも知れません。一方で、ドイツとソビエト連邦が戦争している以上、ソ連の脅威は心配しなくていいという南進論が持ち上がり、閣内の意見もそちらへ傾いていきます。

一連の動きには「信義」というものが著しく欠けており、やはり、知れば知るほどがっくり来ます。

結果としては行き過ぎた南進によってアメリカの対日経済制裁とその先の戦争へとつながっていきますので、人間としてどう考えるかはともかく、大局的には北進してソビエトの脅威から自由になることを目指すべきだとした松岡の意見は必ずしも的外れではないとも言えます。もっとも行けども行けども果てしない広いシベリアで日本軍が立ち枯れする可能性の方が高かったでしょうから、何といっても早期に蒋介石との講和を確立することが最も大切だったのですが、それだけは絶対にしようとしない頑なさが日本を滅びる要因だったのかも知れません。

近衛文麿は南進論に絶対反対を唱える松岡洋右を外すため、昭和天皇とも諮って総辞職し、松岡抜きの第三次近衛内閣の組閣をその日に命じられます。

第三次近衛内閣では南部仏印に進駐してアメリカの経済制裁を受けるという顛末を迎えますが、そもそもルーズベルトは南部仏印まで来たら経済制裁をすると先に警告しており、その警告を甘く見た近衛内閣の失策と個人的には言わざるを得ません。また、アメリカはその前に日米通商航海条約も破棄しており「有言実行、約束は守る」というアメリカ人の価値観がよく見えて来るとも言えますが、ここまで明白に警告してくれちるのに、そこを華麗にスルーするのが私には謎に思えてなりません。

近衛文麿はハワイでルーズベルトと会談することで、率直な話し合いによって自体の打開を目指します。近衛はルーズベルトと面識があったため、実際に会って話せば何とかなると思ったのだと思いますが、仏印進駐、日中戦争、満州国と難題山積で、一体何を話し合うつもりだったのかと私には訝し気に思えます。果たして近衛にはそれらの大問題でルーズベルトを納得させるだけの大幅譲歩ができたのかと言えば、あまり期待できなさそうな気がしてしまいます。

いずれにせよ、日本に石油が入ってこなくなりましたので、遠からず連合艦隊は張り子の虎と化し、陸軍の戦車は動かず、飛行機も飛ばず、馬に乗るしかなくなる日が近づきます。対米会戦が検討されるものの、荻外荘での話し合いでは近衛が「戦争は無理なので外交で解決を…(どうするかは見通しは全然立たない…)」と言ったのに対し東条英機が御前会議で外交で目途が立たない場合は戦争すると決めたじゃないかと詰め寄り、このことで近衛文麿は難局丸投げ総辞職を選びます。

東条英機が次の後継首相に選ばれますが、事態がとことん悪化した後での責任とらされ内閣の要素が強いです。とはいえ、そこまで悪化させた責任は東条英機にもあるわけで、やっぱり繰り返しになりますが、知れば知るほどがっくりするほかありません。


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斎藤実内閣‐事件を呼ぶ首相

犬養毅が515事件で倒れた後、朝鮮総督を二度務め、シーメンス事件で失脚していた斎藤実が後継首相として西園寺公望に指名されます。

西園寺は荒木貞夫から「陸軍は政党政治には協力しない」と告げられており、昭和天皇からは「ファッショな人物は絶対にNG」と言われていたため、海軍出身でかつリベラルと目されていた斎藤実で双方の意見をまとめたという印象です。西園寺は政党政治志向の持ち主であったと考えられていますが、軍部が執拗に非政党政治を追及してくることをかわし切れなかったという感じで理解しています。

斎藤実はとにかく事件と一緒に生きた人という印象が強いです。朝鮮総督時代には爆弾テロに遭遇し、ドイツの企業から海軍の幹部に贈賄があったとされるシーメンス事件で失脚し、斉藤実内閣自体も平沼騏一郎の陰謀説がある帝人事件で総辞職し、226事件で非業の死を遂げます。新聞記者の世界には事件を呼ぶ新人というのがあって、その人物が配属された先ではやたらと事件が起きるという伝説みたいなものがありますが、斎藤実もまた、事件を呼ぶ軍人だったのかも知れません。

斎藤内閣では日満議定書を結んだほか、運命の国際連盟脱退をしています。1930年代の政権は一つ一つの選択がまるで狙ったように国際的孤立と最終的な滅亡へと着々と進んでいるようにも見え、やはり、日本はそういう運命だったのか…と思わなくもありません。

近年では日本全権として国際連盟の総会に臨んだ松岡洋右は国際連盟の脱退を避けたいと考えていたことが分かっているようです。天皇もしくはその側近から国際連盟の脱退は避けてほしいと内々に伝えられていたと言います。私は松岡洋右はとんでもない帝国主義者なのではないかという印象を以前は持っていましたが、最近の研究が正しければ、まっとうな常識人だったと言えるかも知れません。

ヨーロッパの総会で松岡が孤軍奮闘している時、関東軍は熱河作戦を行い、更に占領地を広げていきます。この難しいタイミングで関東軍は一体何をしているのか…とため息をつきたくなりますが、関東軍の作戦地域の拡大により、松岡は更に厳しい立場に追い込まれていきます。イギリスが本音ベースで話し合おう(列強でおいしいところを分け合おう)と持ちかけ、松岡はそれを渡りに船と考えたようですが、東京では「国際連盟を脱退すれば、満州のことで経済制裁を受けずに済む」という考えが持ち上がり、松岡に「脱退せよ」との訓令が届きます。松岡は後に「脱退したことを激しく後悔した」という主旨のことを書き残していますが、以上のような経緯を見れば、確かに後悔するであろうと思える展開です。松岡が東京を説得してイギリスの提案に乗ることができれば、太平洋戦争は起きなかったかも知れません。

ただ、陸軍はまるで過食症の患者のようにどこまでもどこまでも拡大し続けようとしていましたから、日本という国が当時の陸軍という組織を抱えている限り、どこかで日本は破綻したのではないかという気がしなくもありません。

斎藤実内閣の次は、岡田啓介内閣で226事件が発生します。誰か陸軍を止めてくれ…。

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