日本はなぜ国際連盟を脱退したのでしょうか?

「日本はなぜ国際連盟を脱退したのでしょうか?」というquoraでの質問に対する私の回答です。

最近の研究でわかってきたことなのですが、現場の松岡洋右は国際社会と妥協する意思を十分に持っていて、特にイギリスは日英同盟以来、日本にはわりと甘いので、イギリスの方から助け舟を出しており、上手にイギリスと裏交渉して話をまとめるという選択肢は存在しました。ところが東京の内田康哉が「国際連盟を脱退すれば、国際連盟のルールを守らなくていいし、経済制裁も受けない」と考え、松岡に連盟脱退の訓令が送られることになったということのようです。松岡は訓令に従い、国際連盟を脱退して帰ってきました。松岡は失敗したと当初から思っていたようです。失敗を挽回するために後に松岡はヒトラーやスターリンと手を結ぼうとすることになります。やはり大局が見えない人(内田)が政治とか外交とかやっちゃだめですね。




リットン調査団の日本と満州国に対する「心証」

石原莞爾や土肥原賢二などの関東軍参謀たちが共謀し、柳条湖で満州鉄道が爆破されたのは蒋介石の国民党軍に参加している張学良とその兵力による秘密工作だとの言いがかりで満州全域が僅かな期間で占領されたのが満州事変だ。石原莞爾本人は、長い目で見て日本対アメリカの世界の覇権国を決める決勝戦で日本が勝つために後背地として満州を確保したつもりだったのだが、日本国内で過度な熱狂が生まれ、むしろ中国大陸への関心が強まり、最終的に何もかもめちゃくちゃになってしまう、その第一歩だったと言うことができるだろう。石原莞爾は頭が良かったに違いないが、人望がなかったので日本を彼の理想の方向に引っ張っていくことができなかった。彼の最大の誤りは自分に人望がないことを過小評価していたことかも知れない。

日露戦争で大連・旅順を含む関東州及び南満州鉄道を手に入れた日本は、満州地方全域を手中に収めることを意識するようになるが、その収め方については様々な在り方が研究されたようだ。たとえば日本の直接領有も検討されたが、第一次世界大戦後はパリ不戦条約で侵略戦争が国際法違反と認識されていたため、この手法は却下された。国際社会の理解を得られるとはとても思えなかったからだ。とすれば、ウッドロー・ウイルソンが提唱し、国際連盟の理念である民族自決を大義とすれば諸外国は手出しできないだろうとの計算が働き、張学良を満州国皇帝にする案と溥儀を引っ張り出す案が立案され、溥儀が選ばれた。おそらく、溥儀と張学良それぞれにアプローチがあり、より脈ありというか、より言うことをききそうなのは溥儀だと関東軍は判断したに違いない。なにしろ張学良は蒋介石に従ってはいるが、その軍事力は蒋介石を凌いでいた。当然、関東軍とも場合によっては一戦交えるという構えでくる。一方の溥儀は丸腰で抵抗の術がない。それでいて満州人で元清朝の皇帝という都合のいいプロフィールを持っている。結果として溥儀は売国奴呼ばわりされ、今も歴史的な評価は低いし、いろいろな人の回顧録や伝記を読んでもさんざんな書かれようである。張学良は愛国の士としてのイメージが中華圏では定着しているため、書籍での書かれ方も大抵の場合は同情的で、敬意が示された書かれ方もよく見られる。人間性というのは大事なものである。後に西安事件で張学良は蒋介石に要求を認めさせた代わり、半世紀にわたって軟禁される運命を辿った。だが、ともに西安事件を起こした、いわば同志のような存在である楊虎城の場合、12年にわたって監禁され、最期は一家全員惨殺されている。西安事件によって蒋介石が抱いた憎悪の深さを物語るものだが、張学良は命は助けられたし台北の温泉も出てくる別荘地で主として読書に埋没する生活を送った。奥さんも一緒である。蒋介石は時々張学良を訪ねていたと、張学良本人がインタビューに答えているのを読んだことがあるのだが、蒋介石は張学良を罰してはいるものの憎んではいなかったことが分かる。父親の張作霖が馬賊からの叩き上げだったのに比べ、張学良は生まれながらのプリンスで、素直で善良で上品で教養があるというプリンスの良い面がよく表れ、結果としてはそれが彼を救った。彼は蒋介石に対して率直であり、我欲を求めなかったので、蒋介石にすら愛されたのだと言うことができるだろう。

それはそうとして、その張学良の軍隊を関東軍は武力で排除し、張学良の代わりに溥儀を大連まで船で運んで満州国建国にひた走るのだが、中国が国際連盟に提訴することで世界の注目を集め、日本の侵略行為だと認識され批判が強まっていく。日本側は国際連盟の調査団を満州に派遣することを提案した。調査団をうまく取り込むことができれば全てうまくいくと考えたのだろう。この日本側の提案が受け入れられ、イギリス人のリットンやフランスの外交官であるクローデルなどで構成される調査団が組織され、公平を担保するために日中双方から随員も出された。中国側は顧維鈞という中国外交関係のトップ中のトップを送り込んでおり、手足となるスタッフも相当な数に上ったらしいので、日本より中国側の方が実は遥かに役者が上だったことが分かる。日本側の外交を甘く見る傾向はおそらく今日までも続いており、いろいろ知れば知るほど暗澹たる心境になるが、今回の話題もそうだ。リットン調査団は日本の提案によって派遣されたが、調査団の委員たちは基本的に中国の主張を支持するようになった。クローデルはやや立場が違ったが、それは日本が正しいと考えるからではなく、現実問題として日本がパワーを持っているから、日本の主張を無視することは不可能じゃないかという、消極的な理由からだった。

委員たちは、日本の説明を聞けば聞くほど、満州事変が日本の陰謀によって行われたと確信するようになった。話ができすぎていて、とても現地住民の自発的独立運動とは信じることができなかったからだ。関東軍の動きは手際が良すぎたため、事前に共謀していたと受け取られたのだ。臼井勝美先生の『満州国と国際連盟』(1995 吉川弘文館)によると、リットンは日本の強情な態度に愛想をつかし、日本は満州問題で妥協すれば望む全てを手に入れることができるが、満州問題に固執しているため破滅するだろうと予見したという。事実、その通りになった。日本外交のトップにいた内田康哉はリットン氏との会談の場に於いて、リットン氏から問いただされたあらゆる妥協案を拒否した。内田は一切の妥協を拒否しただけでなく、帝国議会で満州問題で妥協するくらいなら日本を焦土にすることも厭わないという、いわゆる焦土演説まで行った。私には内田の演説が不気味な予言のようにすら思えてしまう。経済の分野でたまに言われる予言の自己実現が政治・外交・戦争の分野で起きたのだろうかと思えてしまうのだ。

リットンたちは日本の立場にすっかり愛想を尽かし、予定を切り上げて報告書の作成に入る。予定を切り上げた理由は、日本側といくら話し合っても同じ反応しか返してこないので、意味がないからだ。このように思うと、中国の外交力が勝っていたからリットン調査団が中国側についたというよりは、日本外交があまりに稚拙だったので、日本はオウンゴールして外交的な敗北をしたのではないかと思えてしまう。

それでもリットン調査団は日本の権益を大幅に認める提案をした。中国の主権を残した状態での自治政府を作るというものだ。それは国際管理をうたってはいるが、事実上日本が好き放題できる広大なエリアの設置を国際社会が認めるというもので、中国のメンツを立てつつ日本には実益を与えた。それをこともあろうに日本は拒否するのである。本当に頭を抱えたくなってくる。当時の国際連盟日本全権だった松岡洋右は奮闘し日本の立場は正当であると主張し続けた。イギリス側が日本と裏交渉を持ちかけてきたのは、松岡の舌鋒の鋭さも影響したのではないだろうか。イギリスからの裏交渉に松岡は飛びつきたかったが、東京にいた内田康哉からの訓令でそれもごわさんになる。内田康哉は国際連盟から脱退すれば、決議にしばられなくてもよくなるじゃん♪と考え、松岡に脱退の訓令を送っていたことが最近の研究で明らかにされている。日本は決議に於いて完全に孤立し、否決は日本の一票のみで、ほとんどが賛成。いくつかの加盟国は日本に対する遠慮で棄権した。日本に国際社会の理解がないのは明らかだった。松岡はこの決議の直後に脱退を表明し、その場を去る。場が凍り付いたらしいのだが、それは日本外交の幼さに対する驚愕であっただろう。世界を敵に回すような話じゃない。いくらでも妥協できるじゃないか。なのに…というわけだ。松岡は一連のできごとは失敗だったと認める内容を日記に書き残したが、真犯人は内田だと言っていいだろう。

リットン調査団の心証を悪くし、国際連盟加盟国のほぼ全てから満州国を否定された日本は、それでも満州を維持しようとした。その代償は明治維新後に確立した国際的地位の全てだったわけで、個人の人生でも、あまりに執着が強すぎると身を滅ぼしかねないという教訓としたい。



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日中戦争8 日本の国際連盟脱退

満州事変について調査したリットン報告書については前回触れましたが、日本にとっては必ずしも不利な内容のものと言えるものではありませんでした。敢えて言えば、リットン卿は名を捨て実を得るという提案を日本にしたわけですが、日本は名も実利も両方もらわないと納得できないとごね始めたわけです。想像が入りますが、世界は日本帝国の強欲さにドン引きしてしまったのではないかと私には思えます。

ジュネーブの国際連盟本部では松岡洋右が熱弁を振るい、日本軍の行動の妥当性を主張しました。当時の世界情勢は第一次世界大戦後の平和志向の時代へと移行していましたので、あからさまな侵略戦争は国際法違反と認定されていましたが、松岡は満州事変は侵略戦争ではなく、ウッドローウイルソンの提唱した民族自決の精神に基づき、地元住民の自発的な独立運動であると強弁し、これは満州国の建国はその帰結であるとして一歩も譲ろうとはしなかったわけですね。しかしながら、国際連盟で議論されている最中に関東軍は熱河作戦を行って占領地を広げようとしましたから、日本の侵略意図に対する疑念は更に深まり、松岡の立場はますます厳しいものへと変わっていきます。

一方で、裏側でイギリスから国際連盟とは別の交渉テーブルを用意しないかと打診されていたことが最近の研究で分かっているようです。国際連盟のようなお上品な場所では、日本は正しいと言い続けるしかない。日本国内からの訓令もあるでしょうから、松岡さん、あなた板挟みで辛いでしょう。イギリス、フランス、日本などの世界の強国が本音で話し合える裏交渉の場を設けて、みんなでちょっとづつ得をすることについて具体的に考えましょうと持ちかけて来たというわけです。松岡はこの提案に乗り来だったようです。松岡洋右というと、ちょっと申し訳ないのですが、ややヒステリックでエキセントリックで独善的な人物という印象があるのですが、イギリスとの裏交渉に乗ろうというのは、なかなかに現実的です。ワシントン体制で日英同盟は解消されましたが、イギリスとしては元同盟関係国である日本への手心ということもあったかも知れません。ところが、日本からは裏交渉なんかせずに国際連盟脱退の覚悟も辞さずで押し切れないかと訓令が来ます。当時、日本の内閣行政の中核的な役割を果たしていた内田康哉がそういった趣旨の訓令を発していたようです。

松岡はそれに対する返信として「外交は腹八分目でなければならない」と述べているのですが、外交官は飽くまでも本国の代表者。本国から訓令がくれば、外交官一人の思想や判断よりも訓令が優先されます。そしてとうとう松岡は国際連盟の脱退を発表し、世界を愕然とさせヨーロッパを出発します。松岡の日記にはその時の外交的失敗に対する後悔の念が記されているそうですが、上に述べたような経緯を見ると、確かに外交的な敗北感に苦しむことになってしまいそうに思います。

当時の日本では国際連盟からの経済制裁に対する不安感が強く、国際連盟から抜ければ経済制裁されなくてもすむではないかというほっとしたというような声もあったようですから、当時の日本がかなりの近視眼的な意思決定に捉われていたように思えます。いつかこのブログで述べることになると思いますが、太平洋戦争もかなりの近視眼的な発想で始められたように私は考えています。

で、いずれにせよ日本は以上の経緯を辿り、世界から孤立するようになり、札付きの悪であるナチスドイツしか相手にしてくれなくなったので同盟関係を結ぶほどのずぶずぶの関係になり、それ以外の諸国、要するに連合国は敵は日本とドイツなりという感じでちょうどいい感じに結束し、日本帝国は滅亡の穴へと落ち込んでいくことになります。述べていて暗い心境になってきましたが、もう何回か日中戦争について述べたいと考えており、引き続いて太平洋戦争に入るかと言えば、そのように考えてはおらず、ポストコロニアル的な視点から台湾についてしばらく研究してみて、それからできれば満州国のこともやって、太平洋戦争に入ってみたいと思います。認めます。私、日本近現代史のマニアなんです。お付き合いいただければ幸いです。




リットン報告書は受け入れてもよかった

1931年に発生した満州事変が石原莞爾と関東軍による画策で行われたということについては、もはや議論の余地はないように思います。思想信条がいわゆる右の人であろうと左の人であろうと、そこは一致するのではないでしょうか。で、この事件は蒋介石の中華民国政府が国際連盟に訴え出て、国際公論の場でなんとかしてもらおうと考えます。軍事力では日本に対抗し難いので、国際世論に助けてもらおうというわけです。この辺り、私は蒋介石はなかなか考えたというか、戦略的思考のできる人だと思います。

さて、日本は満州事変によって誕生した満州国がウッドローウイルソンの提唱した民族自決の趣旨にそったもので、満州地域の住民が自発的に望んで独立したのだと主張したわけですが、蒋介石も第一次世界大戦以降の世界的な平和志向の流れに沿う形で、満州が中国の主権の及ぶ範囲であり、まあ、力による変更は認めないと真っ向から対立します。

で、イギリス人のリットン卿を団長とするいわゆるリットン調査団が日本、満州、北京と歩いてその報告書を提出します。リットン報告書です。一般的なイメージでは、リットン報告書は日本の主張を厳しく批判し、日本を糾弾するものだったかのように受け止められていると思うのですが、内容は全然そんなことはありません。リットン卿は北京で書いたとする報告書の中で、満州国は関東軍の実力行使の結果生まれたもので、現地住民の意思なんか全然反映されてないし、民族自決とは関係ないと壟断していますけれど、一方でその解決策としては中国の主権の及ぶ範囲であると認めつつ、現実的には当該地域の自治と日本の利権を認め、日本を中心とした国際管理を提案しています。即ち、中国には名を与え、日本には実を与えるというなかなかに現実主義的なプラグマティックで実現可能、双方の言い分をそれなりに取り入れた内容になっているように思えます。

しかしながら、日本の代表の松岡洋右はリットン報告書を受け入れるようにとする国際連盟の勧告に強く反発して国際連盟脱退するという悪手を選んでしまいます。この辺りに関するものはどの書物を読んでも非常にがっかりする場面で、読めば読むほどがっくししてしまうのですが、仮にプラグマティックに考えるのであれば、中国には名目上の主権はあるものの、満州に日本主導下の自治政権が立ち上がるわけですからその実をとり、スペードのエースともいえる溥儀を抱えているわけですから、溥儀に満州族の独立の必要性を訴えさせ、少しずつ満州国の既成事実化を図るという選択肢はあったはずです。リットン報告書は日本にとって全然損な話ではなく、受け入れ可能なものでした。にもかかわらず、日本側の主張を全て認めないのであれば脱退するという、残念ながらかなり一方的な外交が行われたことは、慚愧に耐えないとすら思えてしまいます。しかも、イギリス側からは国際連盟とは別のテーブルでみんなで仲良く満州で列強がおいしいおもいができるようにしませんか?という提案すらなされているのに、それをも拒絶しています。なんじゃこりゃ!と言いたくなってしまいます。イギリスの提案にのっかれば、リットン報告書を最低条件にして更に上乗せした条件で交渉できたでしょうから、こんなにいい話は本当はないはずです。それを断るというのは「世間知らず」というものです。

一応ことわっておきますが、日本がどうすれば満州を手に入れることができたかを考えたいわけではありません。「満州は日本の生命線」という当時の言説そのものがプロパガンダみたいなものですし、そもそもアメリカを仮想敵としたから後顧の憂いを断つために満州を手に入れたいという願望が湧いてきたわけですけれど、アメリカを仮想敵にする必要はありませんでしたから、満州は最初から日本人にとって必要のない土地なのだと私は思います。あくまでも当時の政治の責任者たちがどうしても満州に影響力を持ちたいというのなら、違った戦略的思考を持つべきだったのでは?ということです。

近年の研究では内田康哉が松岡に対して「脱退せよ」との訓令を出し、松岡が「外交は腹八分目でなくてはならない」と返信したという発見があったみたいなのですが、この時の内田の発想法は国際連盟から脱退すれば、国際連盟の勧告に従う必要はないという場当たり的で大局観のないもので、このやり取りを見る限り、松岡の方が真人間に見えてきます。松岡は国際連盟の脱退を失敗だったと考えていたようですが、帰国すると国民からは拍手喝采で、日本が大きく道を誤った大きな要因として新聞による世論の誘導は無視できないだろうと思えます。その後、松岡はおそらくは相当に悩みぬいて国際連盟を軸とする世界秩序に対抗するために日独伊枢軸であったり日ソ中立条約であったりというものを構想していきます。近衛文麿内閣の東亜新秩序更にその後の大東亜共栄圏構想というのも、国際連盟による世界秩序に対抗する軸としてどんどん関係者の頭の中で膨らんでいったものなのだろうと思います。結果として日本は敗戦し、今も敗戦国民の地位にいるわけで、本当に後世の日本人の一人としては、なにやってんだよ…としょんぼり突っ込みたくなってしまうのです。





昭和史73‐南部フランス領インドシナ進駐とアメリカの経済制裁

昭和16年7月下旬、日本軍は既に北部フランス領インドシナに進駐していましたが、更に南部フランス領インドシナへの進駐も開始します。当時、フランス本国はヴィシー政府という親ドイツ政権が一応、正統政府ということになっていて驚くなかれイギリスと戦闘状態に入っていました(そのカウンターパートとしてドゴールの亡命政府である自由フランス政府があり、戦後、ドゴールの政権が「戦勝国」としての立場を得ることになります)から、日本とヴィシー政権は友好国の関係になっており、進駐そのものは平和的に行われました。もちろん、フランス領インドシナのフランス人社会にとっては、日本軍の進駐はおもしろくなかったはずですが、力関係的にしぶしぶ受け入れざるを得なかったという感じだったのではないかと思います。この進駐エリア拡大は、同年7月2日の御前会議で決められた国策に素直に従って行われたものであり、官僚的に粛々と既定路線を歩んだようにも見え、無限の拡大は必ず滅亡をきたすと思えば官僚に指示する立場の政治家の資質に疑問をもたざるを得ないとも思えます。

当時の日本帝国としては援蒋ルートを全て遮断することに情熱を注いでおり、それを実際に実行するには重慶政府を完全包囲するという遠大な構想を持っていたようです。単に陸路を塞いでも空路で援助が届きますから、この包囲網を完成させるには、インドも含む飛行機でも届かない程度の広大なエリアを手中に収める他なく、これは太平洋戦争が終わるまで実現することはありませんでしたし、戦争の末期になって無理に無理を重ねて強行したインパール作戦が如何に無残な結果になったかは後世を生きる私たちのよく知るところです。

さて、アメリカは日本の南部フランス領インドシナ進駐に対して敏感に反応し、日本に対する経済制裁、在米日本資産の凍結、石油の禁輸を打ち出します。私の手元の資料にある9月1日付の号では、「米国恐る々に足らず、我に不動の覚悟あり」という勇ましい記事が掲載されており、「わが国では数年前からかうなることを予想して、あらゆる対策を講じて」いるから驚く必要はないし、アメリカには強力な日本軍と戦う覚悟はないから不安はないというような主旨のことが述べられています。当時、既にオランダ領インドネシアとの協商が模索され、交渉に失敗した後なのですが、当該記事の著者が誰かは不明なものの、その念頭には武力によるオランダ領インドネシアへの侵攻によりパレンバン油田の石油を手に入れるという構想があったのではないかと思います。

アメリカが日本と戦争する覚悟がなかったという一点に於いて、情勢分析は正しかったかも知れません。真珠湾で鮮やかに勝ちすぎてアメリカ人は日本に対する復讐を誓い、覚悟を決めることになったわけですから、真珠湾攻撃さえなければアメリカも大戦争みたいな面倒なことは避けて、どこかで適当な折り合いをつけようとしたかも知れません。当該の資料では「ドイツを見よ」というような言葉も書かれており、日本帝国が如何にドイツ信仰を強くしていたかも見て取れるのですが、アドルフヒトラーがいるから大丈夫という実は薄弱な根拠が、日本帝国を強気にさせたのだと思うと、やりきれなくなってきます。松岡洋右がドイツ、イタリアの了解を得て日ソ中立条約を結び、ドイツもソビエト連邦と不可侵条約を先に結んでいたにもかかわらず、ドイツはバルバロッサ作戦でソビエト連邦への侵攻を始めたわけですから、遅くともこの段階で、アドルフヒトラーはおかしい、信用できない、ヒトラー頼みで国策決定をすることは危ないと気づいていなければいけません。

真珠湾攻撃まであと少し、ため息をつきつつ、引き続き資料を読み進めるつもりです。

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昭和史72‐昭和16年7月2日の御前会議‐日本帝国終了のお知らせorz

昭和16年7月2日、近衛内閣が御前会議で「情勢ノ推移二伴フ帝国国策要綱」を採決します。閣議決定ではなく、御前会議ですから当時の感覚としては変更不能な絶対神聖な決定だと考えられたに違いありません。

私の手元にある資料では「御前会議にて重要国策を決定 内容は公表せず不言実行」と書かれてあります。当時の一般の人はどんな国策が決められたのかはさっぱり分からなかったというわけです。もちろん、現代人の我々はその内容を知る事が出来ます。1、大東亜共栄圏の確立を目指す 2、南進するが状況次第で北進もする 3、そのためには万難を排して努力する、というのが当該の御前会議で決められた国策だったわけです。

「大東亜共栄圏」については、当時はブロック経済圏を持たなくては生き延びることができないと信じ込んでいる人が多かったですから、まあ、理解できないわけではありません。大東亜共栄圏という美名を使って日本円経済ブロックを作ると言うのは、当時、覇権国のプレイヤーを自認していた日本帝国としては悲願だったということは、分かります。しかし、2番目の南進と北進両方やるというのは、玉虫色、ご都合主義、政府内の南進論者と北進論者の両方を満足させるための無難に見えて実は滅亡必至の国策だったと言わざるを得ません。日本帝国はもともとは南進を志向し、広田弘毅内閣以降、それは国策として進められ、日本帝国が南へ拡大しようとしていることは周知の事実であったとも言えますが、一方でソビエト連邦と共産主義に対して警戒感を持つグループでは北に備えるべしとの声が根強く、松岡洋右がソビエト連邦と中立条約を結んだことは平和的且つ低コストで北の脅威を払拭できた「はず」だったにもかかわらず、ドイツが不可侵条約を破ってソビエト連邦に侵攻したことで、「あわよくば」的な発想が持ち上がり、ドイツ側からは日本のソ連侵攻について矢の催促が来ていたことで、まあ、迷いが生じてしまったと言えるのではないかとも思えます。そもそも西で蒋介石と戦争を継続中で既に軍費が嵩んで日本帝国は青色吐息になり始めていたわけですが、更に東のアメリカと睨み合う中、南にも攻めていく、北にも攻めていくというのは、無理難題というものです。日本帝国は誰にも強要されたわけではなく自分たちで無理難題に挑戦することを選択してしまったと結論せざるを得ません。

仮に、ドイツと一緒に戦争に勝って日独新世界秩序みたいなものを作り上げることを優先するとするならば、断然、北進が正しく、ソビエト連邦は二正面戦争になりますから、日独勝利でもしかたら英米も弱気になって妥協するということはあり得なくもなかったかも知れません。この国策を受けて関東軍は満州で関東軍特別演習を行い、北進の機会を伺いますが、世界に「私たちは野心があります」とわざわざ宣言するような行為をしておきながら、日ソ中立条約もありますし、ノモンハンのトラウマもあって一線を越えることはありませんでした。資本力でドイツが劣っていることは一般知識だったとすら言えますから、長期戦でソビエト連邦に絶対に勝てるかと問われれば、普通なら絶対に勝てるとは思えないはずですが、ヒトラー信仰の空気が支配的になっており、日本が加担しなくてもドイツが努力でソビエト連邦を滅ぼしてくれるだろうというあまりに甘い観測で、状況を見誤ってしまったとも思えます。

一方で、南進は以前から国策だったこともあり、南部フランス領インドシナへの進駐をアメリカからの警告を受けていたにもかかわらず遂行し、結果としては経済封鎖を受けて、やむを得ず真珠湾攻撃へと至ります。すなわち、北進優先だったら戦争には勝てたかも知れないのに、南進の方を積極的に進めて日本帝国は滅亡への道をまっしぐらに大急ぎで駆け抜けてしまったと言ってもいいのではないかと思います。しかも「3」で万難を排してそれを遂行すると昭和天皇の隣席で決めてしまったので、アメリカと戦争してでも南進を推し進めることになってしまったわけです。日本帝国終了のお知らせorzです。資料を読めば読むほどがっくしですが、まだしばらくは続けます。

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昭和史70‐日ソ中立条約

昭和16年4月、日本の松岡洋右外務大臣と、ソビエト連邦のモロトフ外務人民委員が署名し、日ソ中立条約が成立します。内容としては日ソ相互不可侵、満州国とモンゴルの領土保全、第三国と戦争になった場合は中立を守るというもので、当時は松岡洋右の外交の大勝利と言われたようです。松岡はベルリン、モスクワ、満州、汪兆銘南京政府、日本帝国にわたる広大な地域が協力関係を結ぶことによりアメリカに対抗するという構想を考えていたと言われており、それはたった一つの誤算を除いて概ね正しい考え方だったかも知れません。ヨーロッパ戦線ではドイツはイギリス上陸こそ阻まれたものの、優勢であることには変わりなく、日本はソビエト連邦と戦争する心配がなくなったので安心して南進に専念できるというわけです。

しかし、たった一つの誤算によってその構想は結果としては大破綻へと繋がって行ってしまいます。私の手元にある資料の昭和16年5月1日付の号では、松岡は先にヒトラーとムッソリーニの諒解を得たうえで日ソ中立条約を結んだとされていますし、実際、ドイツとソビエト連邦が不可侵条約を結んでいて、このことで防共を国策にしていた平沼騏一郎首相が欧州事情は複雑怪奇と首相を辞任するという状態でしたから、日ソ中立条約で松岡洋右がユーラシア大集団安全保障ができあがったと考えたとしても不思議なこととは言えません。ただ、まさかアドルフヒトラーが独ソ不可侵条約を破ってソビエト連邦に攻め込むとは考えていなかったというのが唯一の誤算であり、いろいろな意味で命取りの誤算だったとも言えるように思えます。

イギリス・アメリカはヒトラーのソビエト連邦侵攻は既に予想しており、その予想については松岡の耳にも届いていたとも言われています。ヒトラーはバイエルン地方の山荘に大島駐ベルリン大使を招き、ソビエト連邦へ侵攻する意思を伝えるということもありましたから、松岡が上に述べた大安全保障構想はそれが成立する前から既に破綻する方向に向かっていたのかも知れません。欧州事情、正しく複雑怪奇です。真っ直ぐで正直、誠実を美徳とする日本人が策士を気取って動き回れるような甘いものではなかっとも言えそうです。

ナチスドイツがヤバい集団だということは当時も多くの人たちが気づいていたはずですし、日本人にも見抜いていた人はいたに違いないと思いますが、アメリカを脅威に感じる不安によって現実を歪んだ形で理解されるようになってしまったのかも知れません。ドイツがバルバロッサ作戦でソビエト連邦に侵攻したのは、松岡構想の破綻を意味しますし、本来であれば国際信義を無視するナチスを見限ってこそ正解になるはずですが、日本帝国の中枢では大島大使の情報が正しかったことに驚き、その後大島大使から主観と願望が入り混じったドイツ必勝の確信の電信を信じ込んだというのは、現代人から見れば、この点に関しては同情する気にもなれず、がっくしするしかありません。ドイツからは日本も極東ソ連に侵攻するように矢のような催促があったと聞いたことがありますが、日本帝国はそれでも律儀に日ソ中立条約を順守し、最後の最後でスターリンにはしごを外されるという無残な終焉を迎えます。

日本はヒトラーに騙されてスターリンにも騙されるという、まるで滑稽なピエロのようなものだったわけですが、日本人として情けなさ過ぎて涙も出ません。ただただ、がっくしです。アドルフヒトラーには彼個人の妄想があり、日本帝国には打倒蒋介石という別の妄想とアメリカに対する恐怖心があって頭がいっぱいになっており、日本とドイツの同盟は同床異夢の感を拭うことができません。日本はドイツと単独不講話の約束もしており、これはドイツだけ講話して日本だけはしごが外されてはたまらないという不安を払拭するためにした約束ですが、太平洋戦争が始まった後、シンガポール陥落後に講和への努力をしなかったのは、ドイツとの約束が足かせになっていたからで、騙されまくりながらも自分たちは律儀に約束を守り、結果として滅亡するわけですから、目も当てられないというか、資料を読みながら「見ていられない」という絶望感に打ちのめされます。

当該の資料では、他にヒトラーユーゲントに着想を得て植民地の若者に体験入営させるたという内容の記事もあり、当時の日本のドイツ信仰が如何に強力だったかを思い知らされます。宮崎駿さんが「日本人は戦争が下手だから、戦争はやらない方がいい」と言っていた動画を見たことがありますが、私も全く同感です。

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昭和史66‐「反米」言説

とある情報機関が発行していた昭和15年11月15日付の号では、「あわてだしたアメリカ、日本の南進をねたむ」という記事が登場します。昭和12年ごろの分から一冊づつ読み続けて愈々来たなという感じです。当該記事によると、ドイツとイタリアがヨーロッパに新秩序を打ち立て、日本も東亜に新秩序を打ち立てようとしているにもかかわらず、アメリカがその新秩序を乱そうとしていてけしからん、みたいな内容になっています。日本の北部フランス領インドシナの進駐と日独伊三国同盟が結ばれた時期がほぼ重なっているのですが、それに対してアメリカは「いやがらせ」をすべく日本に屑鉄の輸出を禁止したとしてまず現状を述べています。続いて今後の予測としてアメリカは日本に石油を売らなくなるかも知れないとも書かれていますが、それはかえってアメリカが困ることになるとも述べています、アメリカで産出される大量の石油の一番の買い手は日本なのだから、日本の石油を売らなくなればアメリカの石油業者が困るだけでなく、東南アジアは枢軸国側が抑えているのだから、東南アジアの資源がアメリカに輸出されなくなり、アメリカは干上がるという議論の組み立てになっています。

その後の歴史の展開を知っている現代人としては、上のような見方は非常に甘いもので、日本帝国はこてんぱんにぼこぼこにやられて終了してしまうわけですが、それはあくまでも結果論ですから、当時の人間になってこの記事を考えた場合、半分正しいくらいの評価を与えてもいいのではないかと思います。というのは、実際に当時のアメリカは日本に輸出することで儲けていたわけで、時間が経てばアメリカの内部で日本に輸出させろ、でなければ商売あがったり困るじゃないかという声が出ることはある程度予想可能なことだからです。

とはいえ、第一に日本はナチスドイツと手を結んでしまいましたから、アメリカに於ける日本に対する「敵」認定は既に済んでおり、やるならやるぞと言わんばかりに太平洋艦隊は西海岸からハワイへと移動していきます。場合によってはグアム、フィリピンあたりまで主力艦隊が進出してもおかしくないかも知れないという事態へと展開していくわけですが、この段階でアメリカとしては、日本なんて資源のない国はちょっといじめてやれば膝を屈するに違いないという、あちらはあちらでちょっと甘い見通しがあったようにも思えます。

その後、連合艦隊が鮮やかに真珠湾奇襲を行い、ワシントンDCの日本大使館では寺崎英也氏の転勤パーティを前日に行って宣戦布告文の手交が予定より遅れてしまい、宣戦布告前の奇襲攻撃ということになってしまい、アメリカ人をして日本への復讐を誓わせることになってしまいます。ちょっと幻的ではあるもののアメリカが満州国を承認して、日本は蒋介石から手を引くという日米諒解案が実を結ぶ可能性もなかったわけではなく、これを松岡洋右が潰してしまうのですが、或いは真珠湾まで出かけていかなくても日本が一番ほしかったのはインドネシアのパレンバン油田ですから、直接パレンバン油田だけ狙えばよかっただけだったかも知れません。アメリカは元々モンロー主義で、世論は戦争に介入することには否定的だったわけですが、真珠湾攻撃という悪手で日本帝国は自分で生存の可能性を潰したと言えなくもないように思えます。

当該記事の重要な点は、この段階で日本でもアメリカを「敵」認定しますよというある種の宣言みたいなところだと思うのですが、当時はフランスを倒して「最強」に見えたナチスドイツと同盟を結び、ソビエト連邦ともうまくやって松岡洋右は自分の外交が成功していると確信していた時機でしょうから、アメリカに対しても強気でいられたのかも知れません。その後の歴史を知る現代人としては、今回紹介した記事に潜む危うさが目に付いてしまい、このようにして国が滅びていくのかと思うと目も当てられない、見ていられないという暗澹たる心境にならざるを得ません。

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『昭和天皇独白録』を読む

昭和天皇は昭和史の主役と言えます。また個人的には国民的スーパースターだったと言っていいのではないかとも思えます。その側近が数回に渡り、昭和天皇にインタビューし、それを書き起こしてまとめたものが、この『昭和天皇独白録』です。

御用掛だった寺崎英也が「文責」を担ったもので、同書に一緒に収録されている、寺崎氏のお嬢さんの手記によれば、ずっと長い間、家で保管(あるいは放置)していたのだが、お嬢さんがアメリカで育ったために日本語で書かれた寺崎氏の原稿を読解することができず、日本の学者に依頼して解読と分析を頼んだところ「稀有な史料」との返答を受け取り、これを世に出すことが自分の責任であると考えるようになって、ようやく出版されたという経緯があるそうです。

この寺崎英也という人は、もともとは外務省の人で、宮内省に出向していた時期に御用掛を務めて、この聞き書きを行ったわけですが、太平洋戦争との関連では実に不思議な役回りを負った人と言えます。1941年12月7日に日本はアメリカに対して交渉の打ち切りを通告する(宣戦布告)わけですが、その通告が予定よりも遅れてしまい、ハル国務長官に手交された時には既に真珠湾攻撃が始まっていたことは、よく知られています。その要因として当時のワシントン駐在の大使館員たちが前日に歓送会を開いており、翌日は日曜日でみんな休日モードに入っていたため、要するにだらっとしてしまったために日本から暗号電文で送られてきた交渉打ち切りの通告の文章をタイプに打ち出して正式な文書にするという作業が遅れてしまい、結果としては「真珠湾は宣戦布告前に行った騙し討ち」と後々まで言われ続け、アメリカが原子爆弾投下を正当化する理由の一つにもされてきました。外務省のその時のあまりに重大な失態をおかしてしまった時、寺崎氏は駐ワシントン大使館の職員で、中南米に転任することが決まり、真珠湾攻撃の前日は寺崎氏のための歓送会がチャイナタウンで開かれたということらしく、要するに寺崎氏の転任が宣戦布告の通知が遅れたことの要因となってしまったとも言え、寺崎氏の外務省人生でも痛恨の一事になってしまったに違いありません。

それはともかく、『昭和天皇独白録』の内容はなかなか面白いもので、多少の記憶違いも指摘されてはいますが、田中義一首相の時には、関東軍の河本大作大佐による張作霖事件について、田中首相がうやむやにしてしまおうとしたことに頭に来た昭和天皇は「辞表を出してはどうか」と言ったとこの本の中では認めています。田中義一首相が昭和天皇に「叱責された」ことは有名で、昭和天皇がなんと言ったのかは議論のあるところですが、当時まだ若かった昭和天皇が、かなりはっきりと辞めろと言ったという本人の回想があるわけですから、語気や語彙については多少の議論が残るとしても、だいたい田中義一首相辞任事件の真相ははっきり見える言っていいかも知れません。

それから、松岡洋右に対する意見が非常に厳しいものだったことも個人的には興味深いことのように思えます。ヨーロッパから帰ってきた松岡は有頂天の大得意で大のドイツびいきになっており、昭和天皇は「ヒトラーに買収でもされたのではないか」と述べています。本当にお金をもらうという形の買収があったかどうかは分かりませんが、松岡がヒトラーから大いに持ち上げられ、歓待されて、すっかり抱き込まれてしまっていたということは言えるかも知れません。松岡洋右がそういうこともあって、枢軸国を固めればアメリカと対抗できると信じるようになり、儚いまでも僅かな希望だった日米諒解案に大反対して潰してしまったというのは本当に日本が助かる最後のチャンスを不意にしてしまったとも言え、松岡という御仁の責任の深さについて、私は改めて考え込まずにはいられませんでした。

側近が昭和天皇にインタビューして聞き書きした理由としては、昭和天皇が戦争犯罪人の訴追から逃れるために、ある種の記憶の整理を目的としていたと言う人もいますが、当時は既に昭和天皇の訴追はないということがだいたいはっきりしていた時期でもありましたし、大変にリラックスしてざっくばらんに語っているということが読み取れますので、昭和天皇にとっては本当に信頼できる人だけに語った回想であり、寺崎氏も飽くまでも史料として保存するだけのつもりだったのかも知れません。

昭和天皇が何を考えていたのか、何を感じていたのかを知る貴重な情報源ですし、普通に読んでいておもしろい歴史の本とも言えます。昭和史の予備知識を充分にもってから読むと、より味わい深いというか、楽しんで読めるのではないかなあと思います。




台湾近現代史19 漫画日米戦争

台湾が日本の領土だった時代、台湾通信社というところがあり、そこが『台湾』と題した定期刊行物を発行していたようです。台湾国立図書館のデータベースで検索してみると、「台湾通信社」というキーワードで600以上の記事が登場しますが、昭和の初期に刊行され、その後しばらく運動していたことが発行日の日付等から確認できます。台湾通信社について詳しいことは私も知らないのですが、昭和9年11月20日付の記事にちょっとおもしろいものを見つけました。

映画の上映会の宣伝なのですが「本社の台湾軍慰問映画会」とされています。台湾通信社(おそらくは国策会社)が台湾の日本軍の兵隊さんに楽しんでもらおうと映画会を企画したというわけです。場所は台北山砲隊に於いてと記されていますが、果たして台北山砲隊がどの辺にあったのかみたいなことはさっぱり分かりません。台北市内や周辺で山砲をぶっ放す必要性は多分なかったでしょうし、野戦の準備とかも別にしていなかったとは思いますが、満州事変以降、中国での戦争が常態化しようという時期でしたので、おそらくは台湾経由で上海へ行かされる兵隊さんもそれなりにいたのではないかなあと思います。この会社では満州軍慰問映画会も開いていたようなので、台湾軍であろうと満州軍であろうと関東軍であろうと上海派遣軍であろうと要するに日本陸軍ですから、おそらくは宣伝方面で陸軍に協力する目的を持った会社だったのだろうと推察できます。

で、上映会の映画の内容なのですが『松岡洋右氏演説、日本人なればこそ、漫画日米戦争』の音声映画となっており、随分と勇ましい内容のものであったであろうことが想像できます。個人的には漫画日米戦争というタイトルがやたらと気になります。一般的には昭和9年の段階では日本人がアメリカと戦争することは想定していなかったと考えられていると思いますし、政策決定のレベルに於いてはアメリカとの戦争は空想の段階に過ぎなかったに違いありません。「漫画日米戦争」の中身がどういうものかはさっぱり分かりませんけれど、映画という娯楽のレベル、そして多分に宣伝性を持つレベルに於いては漫画であれ何であれアメリカとの戦争が既に人々の念頭に浮かんでいたということの証左と言えるのではなかろうかと思います。

日本が国際連盟を脱退したのが昭和8年ですから、この上映会はその翌年のことになります。松岡洋右がアメリカとの対抗軸を作るためにドイツやソ連との連携・同盟の可能性を探っていた時期にあたりますから、こういう上映会をするのにも冷静な目で見れば宣伝戦略が行われていたと見ることができますし、もうちょっと感情的な言葉を用いるとすれば、ずいぶんと焦っている様子を感じることもできると言えるかも知れません。

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