机上の空論を見事なまでに体現した事例はありますか?

「机上の空論を見事なまでに体現した事例はありますか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

東条英機の国防圏の設定は机上の空論に過ぎませんでした。彼はインドネシアのパレンバン油田を獲り、そこと日本との間の航路を守るという構想を立て、航路を守る海域を守る海域くらいまで日本の哨戒ラインを広げ、後はそれを防衛し続ければアメリカを倒すことはできなくとも、不敗の態勢は維持できるとの考えを持っていたそうです。実際には哨戒ラインが広すぎたために防御は手薄になり、アメリカの潜水艦が悠々と奥深く入ってきて次々の日本の船を沈めるという展開になりました。また、アメリカ側はじっくり考えて一番攻めやすいところに集中すれば良かったのですが、日本側はどこを攻められてもいいようにガチガチにする必要があり、広すぎる防衛圏の維持に疲れ果て、各個撃破されてしまいました。



昭和史77‐日米交渉暗号対応表

昭和16年11月26日付で東郷茂徳外務大臣から、ワシントンDCでアメリカのハル国務長官宛に送られた電報で、暗号対応表のようなものが見つかりましたので、ちょっと紹介してみたいと思います。当該の電報では、状況が逼迫しているので電報では時間がかかりすぎる場合があるので、電話で話し合わなくてはいけないから、その時のために「隠語」を使うことにするという趣旨のことが書かれています。電報は当然暗号電報ですから、その解読に時間がかかるわけですが、そんな悠長なことをしている場合ではないと、電話で話し合わなくてはいけないが盗聴されているだろうから、それに備えて暗号を使って電話で会話するというわけです。で、その対応表は以下のようになっています。

三国条約問題=ニューヨーク
無差別待遇問題=シカゴ
支那問題=サンフランシスコ
総理=伊藤君
外務大臣=伊達君
陸軍=徳川君
海軍=前川君
日米交渉=縁談
大統領=君子サン
ハル=梅子サン
国内情勢=商売
譲歩する=山を売る
譲歩せず=山は売れぬ
形成急転する=子供が生れる

となっています。11月26日の段階というのは、東条内閣は開戦の意思をほぼ固めていたころで、海軍は真珠湾攻撃のための準備万端整えていたころになります。この時期は、アメリカとの戦争を決意したけれども、その決意を悟られないために交渉を続けるようにと東条英機首相から東郷外相に意向が伝えられた上に、開戦予定日は秘匿事項として教えられないとも言われ、東郷外相からは「そんなことで外交交渉ができるか」と反発があったのと大体同じ時期です。

当該の電報では、譲歩する、譲歩しない、形勢急転するについての暗号も決められていますから、少なくとも東郷外相個人は日米交渉にまだぎりぎりの希望を抱いていたのではないかと推察できます。国内情勢についての暗号も決めていたということは閣内の意見が変わるかも知れないという期待も込められていたのではないかという気もします。そのように思いながらこの対応表を見ると、実に惜しいというか、ぎりぎりまで戦争回避の可能性はあったのではないかと思えて来ます。伊藤君と伊達君の意見が一致して商売で山を売ることになり、縁談がうまく進んで子供も生まれてくれれば良かったのになあと、残念な思いも湧いてきますねえ…。

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昭和史76‐太平洋戦争は何故起きたのか(結論!)

資料を読み続けてきましたが、一応、手元に集めたもの全てに目を通しましたので、ここで一旦、昭和史については終えることにしますが、そこから私が得た知見を述べたいと思います。太平洋戦争は何故起きたのか、私なりに結論を得ることができました。

1、蒋介石との戦争に固執し過ぎた

日本軍、特に陸軍は蒋介石との戦争は絶対に完遂するとして、一歩も引く構えがありませんでした。しかし、情報・宣伝・調略戦の面では蒋介石が圧倒的に有利に展開していたということに
気づきつつもそこは無視してとにかく重慶を陥落させるということに固執し、空爆を続け、蒋介石のカウンターパートとして汪兆銘を引っ張り出し、新しい国民政府を建設し、蒋介石とは
対話すらできない状況まで持ち込んでいきます。情報・宣伝・調略の面では、蒋介石はソビエト連邦を含む欧米諸国を味方につけており、しかも欧米諸国はかなり熱心に蒋介石を援助していましたから、長期戦になればなるほど日本は疲弊し、国力を消耗させていくことになってしまいました。フランス領インドネシアへの進駐も援蒋ルートの一つを遮断することが目的の一つでしたが、それがきっかけでアメリカからの本格的な経済封鎖が始まってしまいます。アメリカから日本に突き付けた要求を簡単にまとめると、「蒋介石から手を引け」に尽きるわけで、蒋介石から手を引いたところで、日本に不利益はぶっちゃけ何もありませんから、蒋介石から手を引けばよかったのです。それで全て収まったのです。更に言えば、日本帝国は満州国と汪兆銘政権という衛星国を作りますが、味方を変えれば中国の国内の分裂に日本が乗っかったとも言え、蒋介石・張学良・汪兆銘・毛沢東の合従連衡に振り回されていた感がないわけでもな
く、汪兆銘と満州国に突っ込んだ国富は莫大なものにのぼった筈ですから、アメリカと戦争する前に疲弊していたにも関わらず、それでもただひたすら陸軍が「打倒蒋介石」に固執し続けた
ことが、アメリカに譲歩を示すことすらできずに、蒋介石との戦争を止めるくらいなら、そんな邪魔をするアメリカとも戦争するという合理性の欠いた決心をすることになってしまったと言っていいのではないかと思います。

2、ドイツを過度に信頼してしまった

日本が蒋介石との戦争で既に相当に疲弊していたことは述べましたが、それでもアメリカ・イギリスと戦争したのはなぜかと言えば、アドルフヒトラーのドイツと同盟を結んだことで、「自分たちは絶対に勝てる」と自己暗示をかけてしまったことにも原因があるように思います。日本だけでは勝てない、とてもアメリカやイギリスのような巨大な国と戦争することなんてできないということは分かっている。だが、自分たちにはドイツがついている。ドイツが勝つ可能性は100%なので、ドイツにさえついていけば大丈夫という他力本願になっていたことが資料を読み込むうちに分かってきました。確かにドイツは技術に優れ、装備に優れ、アドルフヒトラーという狂気故の常識破りの先方で緒戦に勝利し、圧倒的には見えたことでしょう。しかし、第一次世界大戦の敗戦国であり、植民地もほとんど持たなかったドイツには長期戦に耐えるだけの資本力がありませんでした。更にヨーロッパで二正面戦争に突入し、アメリカがソビエト連邦に大がかりな援助を約束してもいますから、英米はドイツはそろそろ敗けて来るということを予想していたとも言われます。日本帝国だけが、ドイツの脆弱性に気づかなかったというわけです。ドイツは絶対に勝つ神話を広めたのは松岡洋右と大島駐ベルリン大使の責任は重いのではないかと思えます。

3、国策を変更する勇気がなかった

昭和16年7月2日の御前会議で、南進しつつ北進するという玉虫色的な国策が正式に決定されます。フランス領インドシナへの進駐もその国策に則ったものですし、構想としてはアジア太平洋エリア丸ごと日本の経済圏に組み込むつもりでしたから、その後も南進を止めることはできなかったわけで、南進を続ければそのエリアに植民地を持つイギリス・アメリカとは必ず衝突します。アメリカとの戦争を近衛文麿が避けたかったのは多分、事実ですし、東条英機も昭和天皇からアメリカとは戦争するなという内意を受けていたのにも関わらず、国策に引っ張られ、国策を決めたじゃないかとの軍の内部からも突き上げられて戦争を続けてしまったわけです。

以上の3つが主たる原因と思いますが、どれもみな、日本人が日本人の意思としての選択であったと私には思えます。蒋介石との戦争に必然性はありませんから、いつでも辞めてよかったのです。ドイツを信用するのも当時の政治の中央にいた人物たちの目が誤っていたからです。国策だって自分たちで決めることですから、自分たちで変更すれば良かったのです。そう思うと、ほんとうにダメダメな選択をし続けた日本帝国にはため息をつくしかありません。私は日本人ですから、日本が戦争に敗けたことは残念なことだと思います。しかし、こりゃ、敗けるわなあとしみじみと思うのです。

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昭和史75‐「帝国遂に立てり」orz

手元の資料の昭和17年1月1日付の号では、表紙にでかでかと『帝国遂に立てり』と大きな字が書かれています。やっちまったのです。アメリカと戦争するという一番やってはいけない悪手をとうとう選んでしまった、悪い意味での記念号なのです。

それより少し前の資料では近衛文麿首相の退陣と東条英機首相への大命降下について書かれており、そこでは近衛内閣は閣内不一致で総辞職になったが、国策そのものに関する不一致ではなく、国策遂行手段に関する不一致で総辞職になったと説明されていました。現代を生きる我々は知っています。近衛は大幅に譲歩することでアメリカとの戦争を避けたかった、一方で東条は昭和16年7月2日の御前会議で行われた国策決定をひっくり返すことを拒絶し、アメリカとの戦争も辞さないという彼の態度が内閣不一致に至ったことを。

東条英機は首相就任後に木戸内大臣を通じて昭和天皇から「戦争より外交を優先するように」との内意を受けていましたが、それでもやっぱり戦争することに決定し、その日の夜は自宅で号泣したと言われています。号泣したいのはこちらの方です。政治家たちが何とか戦争を避けたいと思っていたのに対し、陸軍は蒋介石との戦争を止めるくらいならアメリカとも戦争するという主戦派で、アメリカと戦争するとなれば実際に動くのは海軍なわけですが、連合艦隊は準備万端整えており、更に予算がつくのなら半年一年はやってみせると言うものですから、政治家たちも迷い出し、おそらくは戦争になったら儲かる考える財界人も居て、なんのこっちゃらわからんうちに「アメリカと戦争する以外に道はない」という結論に至ってしまいます。船頭多くして船山に上るとはこのことを言うのかも知れません。

私の推測も交えて言えば、当時日本帝国は既に火の車です。蒋介石と戦争するための戦費、満州国の維持費、汪兆銘政権の維持費、更に海軍力の増強に航空戦力の強化と金がザルに水を灌ぐようになくなっていったはずです。それでも世界で一番資本力のある国と戦争しようと言うのですから、正気の沙汰とは残念ながら思えません。

当該の号では「アメリカが癌なのだ」と主張し、癌は切開して切り取らなくてはならないとしていますし、日本軍の強力さも主張しています。短期戦でなら勝てるという見込みは確かに正しかったし、実際に短期的には大勝利なわけですが、後はじりじりと押されてやがて圧倒され、滅亡に至ります。そしてその禍根は種々の面で今に至るまで続いています。あー、やってらんねえと資料を自分で読みながらも、読む気がしなくなってきます。まあ、もう少し、頑張って読み続けたいと思います。

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真珠湾攻撃がいろいろな意味で残念な件

真珠湾攻撃を「政治」「戦略」「戦術」の三つのフェーズに分けて考えてみたいと思います。

まず、政治的な意味で言えば、かくも大失敗な攻撃はありません。連合艦隊の山本五十六はアメリカに痛打を与えてその戦意を挫くとという方針を持っていたと言われていますが、あまりにも唐突な攻撃を受けたためにアメリカではむしろ戦意が高揚し、逆の結果を招いています。フィリピンあたりで小競り合いをしてアメリカの太平洋艦隊をおびき出し、当時であれば圧倒的に連合艦隊の方が強かったですから、そこで艦隊決戦で全滅させていればアメリカも戦意を喪失するというシナリオがあり得ましたが、そういう順序をいくつか飛ばしてしまっているので、政治的には全くの大失敗。狙いを外しまくりというしかありません。

次に、戦略という点から見ればどうでしょうか。戦略的には真珠湾攻撃はアメリカが当面、太平洋で動きが取れなくなることを目指すものです。そういう意味では何といってもハルゼーの空母艦隊を討ち漏らしており、ぶっちゃけ戦略的にはもはやどうでもいい戦艦とか巡洋艦とか沈めまくったわけですが、その無用の長物と化していた戦艦も真珠湾は太平洋の海に比べれば全然浅いのでその多くが引き揚げられて修繕されていますので、真珠湾攻撃の戦果事態が無意味であったと言っても言い過ぎではないかも知れません。当時はシンガポールですら占領できるだけの力があったわけですので、ハワイのそのものの占領も充分に可能だったと言え、やはり、どうせやるのであればハワイ占領を企図しておくべきでした。半年後に「やっぱりハワイをとっておけばよかった」という後悔の念からミッドウェー海戦という更に残念な結果を招くことになってしまいますが、そういう意味では思い切りが悪かった一発殴って逃げ帰るという戦略そのものに欠陥があったと思わざるを得ません。全く残念というか、orzとしか言いようがありません。

では、戦術的にはどうでしょうか。こっそりと太平洋の北側からハワイに迫り、攻めること火の如し、走ること風の如しですので、見事と言わざるを得ず、そのために費やした訓練の成果であり、現場のパイロットの人たちへは敬意の念を抱かないわけにはいきません。ミッドウェー海戦では司令官の判断ミスが大きく影響しますが、それでもそこから反撃してアメリカの空母を二隻沈めていますので、やはり現場が如何に優秀であったかについて思いを致さざるを得ないと思います。

そのように思うと、もしあの時にハワイを占領しておけば、太平洋は西海岸に至るまで日本が制海権をとることができ、相当有利に戦局が推移した可能性を考えると悔やまれてなりません。とはいえ、戦争が長引けば必ずアメリカ有利の展開になることは間違いなかったでしょうから、東条英機が早期講和を全然考えていなかった以上、最終的な結果にはあまり違いはなかったかも知れません。当時のことは知れば知るほどorzです…。

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東条英機内閣‐責任とらされ内閣

第三次近衛文麿内閣がアメリカから受けた経済制裁に対する事態の打開を諦めて総辞職し、その後継首相として指名されたのが東条英機でした。アメリカとはどのみち戦争になるだろうから、対米強硬派の東条英機を首相にして敗戦の責任をとらせるのがいいだろうという見方も存在していたらしく、同時に東条英機が首相になれば陸軍もおさまるだろうという国内政局的な見方も存在していたようです。

登場の前の近衛が貴族院出身、その前の米内が海軍、その前の阿部が陸軍でしたから、衆議院がほとんど積極的な存在意義を発揮することができなかった当時、国内政局的には「次は陸軍」という鼻息の荒い人たちを納得させるという意味合いもあったかも知れません。アメリカと戦争すれば即滅亡くらいの認識はあったでしょうから、そういう時に国内事情で人事を決めていかなくてはいけなかったというあたり、日本帝国が変化できない恐竜になっていたことの証左の一つのように思えてなりません。

個人的にはもし松岡洋右が組閣を命じられたとすれば、ちょっと違ったのではないかという気もします。というのも、松岡は対米強硬派と知られてはいたものの、おそらくアメリカとの交渉での引き際も考えることができた当時としては数少ない知米派ではなかったかという気もするからです。国際連盟脱退の際、それを実際に行ったのは松岡ですが、彼本人はイギリスが示した妥協案に乗るべきだと考えており、にもかかわらず東京では「国際連盟から脱退すれば、その決議に拘束されない」という小手先のレトリックがまかり通り、脱退案が浮上し、訓令として松岡のもとに届けられます。松岡は訓令に従って国際連盟を脱退し、その後はひたすらアメリカに対抗できる勢力を確立するためにドイツやソ連と連携を図るという無理ゲーを無理と承知で進めていくことになったわけですが、日米開戦に至るまでの半年ほどの間、リアリティのある対米外交ができた人間がいなかったという現実を踏まえると、やっぱり実は松岡洋右の方がまだましな結果に導くことができたのではないかとふと思わなくもありません。

いずれにせよ、国内では陸軍をなだめなくてはならず、一方でアメリカもそれなりにふてぶてしいですから、その板挟みでどの政治家が首相になってもうまくいくとはちょっと考えにくく、どうせやるなら東条英機に責任を取らせようと考える人がいたとしても、国内政局という観点に於けるリアリティは充分にありますので、まあ、それまでの経緯をいろいろ考えれば、行くところまで行くべくして行ってしまったということかも知れません。

太平洋戦争では緒戦の勝利で国内は狂喜乱舞し、有利な条件で講和に持ち込むという大事なことを誰もが忘れてしまいます。真珠湾攻撃が鮮やかすぎたためにアメリカは闘志満々で、長期戦になればアメリカの勝利は確実でしたから、講和しようとしてもできなかったかも知れません。太平洋戦争ではじりじり敗け始め、サイパン島の陥落で東条は引責辞任ということになります。

東条内閣の次は小磯国昭が組閣を命じられますが、もはやなすすべはなく、この時に首相に就任したことで戦後にA級戦犯に指名され、終身刑を言い渡されますので、気の毒以外の何物でもないのですが、この時代ことはがっくりする以外の言葉が出てきません。


第二次・第三次近衛文麿内閣‐破綻と手詰まり

米内光政内閣が陸軍の倒閣運動によって崩壊すると、近衛文麿が再び首相に指名されます。大政翼賛会が作られ、近衛文麿の国家社会主義的な色彩が濃くなっていきます。その一方、第二次近衛内閣で特にその動きが目立ったのが松岡洋右です。松岡の基本的な外交に対する思想は、如何にしてアメリカに対抗するかであり、アメリカに対抗する力を持てば、自ずと両国間に平和がもたらされるというものだったようです。ある種のパワーバランス思想ですが、松岡の外交姿勢は後半から空回りをし始めます。

そのためにはソビエト連邦の抱き込みが肝心で、松岡はかなり早い段階から日ソ不可侵条約の構想を胸に抱いていたのではないかとも思えます。石原莞爾が世界最終戦争は日本とアメリカの間で行われると考え、その戦争に備えるために対ソ防衛の観点から満州という広大な緩衝地帯を得なくてはならないという考えを持ったことと、通底部分もあったようにも思えます。その他、陸軍を中心に日独伊三国同盟への強い推進力が働き、松岡は日独伊ソの巨大な対アメリカ陣営を築こうとしていたと言われています。

過去、日独防共協定を結んだ後に独ソ不可侵条約が結ばれ、平沼騏一郎が「欧米の天地は複雑怪奇」と言う言葉をのこして総辞職したことを考えれば、或いは松岡はその複雑怪奇な欧州事情に深入りし過ぎ、策士策に溺れるの状況に陥ったと見ることもそう的外れなことではないかも知れません。

松岡がヨーロッパとの外交に熱心だった時期、アメリカのハル国務長官と駐米大使との間で中国・満州問題で話が進み、松岡抜きで日米関係に進展があったことに腹を立て、閣議を休んだりするようになり、その辺りから松岡の孤立気味な面が目立ってきます。

ドイツが独ソ不可侵条約を破ってソビエト連邦に侵攻した際、松岡は北進論を唱えて日ソ不可侵条約を破棄してソビエト連邦に侵攻するべきだと主張します。近衛文麿が嫌がり、昭和天皇もそのことについて不信感を持ったと言われています。日ソ不可侵条約を成立させたのが松岡本人だということを思えば、その毀誉褒貶にはついていけないところも確かにあり、日独伊ソ連合が水泡に帰した時点で松岡の構想は破綻していたと見るべきかも知れません。一方で、ドイツとソビエト連邦が戦争している以上、ソ連の脅威は心配しなくていいという南進論が持ち上がり、閣内の意見もそちらへ傾いていきます。

一連の動きには「信義」というものが著しく欠けており、やはり、知れば知るほどがっくり来ます。

結果としては行き過ぎた南進によってアメリカの対日経済制裁とその先の戦争へとつながっていきますので、人間としてどう考えるかはともかく、大局的には北進してソビエトの脅威から自由になることを目指すべきだとした松岡の意見は必ずしも的外れではないとも言えます。もっとも行けども行けども果てしない広いシベリアで日本軍が立ち枯れする可能性の方が高かったでしょうから、何といっても早期に蒋介石との講和を確立することが最も大切だったのですが、それだけは絶対にしようとしない頑なさが日本を滅びる要因だったのかも知れません。

近衛文麿は南進論に絶対反対を唱える松岡洋右を外すため、昭和天皇とも諮って総辞職し、松岡抜きの第三次近衛内閣の組閣をその日に命じられます。

第三次近衛内閣では南部仏印に進駐してアメリカの経済制裁を受けるという顛末を迎えますが、そもそもルーズベルトは南部仏印まで来たら経済制裁をすると先に警告しており、その警告を甘く見た近衛内閣の失策と個人的には言わざるを得ません。また、アメリカはその前に日米通商航海条約も破棄しており「有言実行、約束は守る」というアメリカ人の価値観がよく見えて来るとも言えますが、ここまで明白に警告してくれちるのに、そこを華麗にスルーするのが私には謎に思えてなりません。

近衛文麿はハワイでルーズベルトと会談することで、率直な話し合いによって自体の打開を目指します。近衛はルーズベルトと面識があったため、実際に会って話せば何とかなると思ったのだと思いますが、仏印進駐、日中戦争、満州国と難題山積で、一体何を話し合うつもりだったのかと私には訝し気に思えます。果たして近衛にはそれらの大問題でルーズベルトを納得させるだけの大幅譲歩ができたのかと言えば、あまり期待できなさそうな気がしてしまいます。

いずれにせよ、日本に石油が入ってこなくなりましたので、遠からず連合艦隊は張り子の虎と化し、陸軍の戦車は動かず、飛行機も飛ばず、馬に乗るしかなくなる日が近づきます。対米会戦が検討されるものの、荻外荘での話し合いでは近衛が「戦争は無理なので外交で解決を…(どうするかは見通しは全然立たない…)」と言ったのに対し東条英機が御前会議で外交で目途が立たない場合は戦争すると決めたじゃないかと詰め寄り、このことで近衛文麿は難局丸投げ総辞職を選びます。

東条英機が次の後継首相に選ばれますが、事態がとことん悪化した後での責任とらされ内閣の要素が強いです。とはいえ、そこまで悪化させた責任は東条英機にもあるわけで、やっぱり繰り返しになりますが、知れば知るほどがっくりするほかありません。


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