2023/10/05 20:15 ノーベル文学賞に村上春樹氏が受賞されませんでした。個人的には残念です。 今回が最後のチャンスかと思いました。いかがですか?ご意見願います。

ノーベル文学賞はなるべくG7以外の国の人に与える方向性のもので、南米・東アジア・アフリカなどの地域的なバランスも考慮して、ある程度順繰りに、でも完全にそれをやっていると批判されるので適度にバランスを崩しつつ、たまにG7の国出身者が獲る場合にはボブディランのようなミュージシャンであったり、イシグロカズオさんのようなイギリス育ちの日本人という異色のバックグラウンドを持つ人であったりします。

そういうわけですので、

①G7の1つである日本で、国民的に売れまくり、世界的にも売れまくっている日本人の村上春樹さんは正統派すぎて選ばれにくいと言えます。

また

②イシグロカズオさんが受賞してまだ10年とかですから、日本人には順番が回ってきにくいということもあるかなと思います。

日本語で小説を書く人で言えば、台湾人で日本語で小説を書いている李琴美さんのような方が可能性あるんじゃないかなと私は勘ぐっています。



村上春樹作品の読み方‐不誠実な語り手

村上春樹作品は評価が大きく分かれる。好きな人は徹底的に好きだし、嫌いな人はまた徹底的に嫌っている。私個人は村上春樹作品は嫌いじゃないけど、腑に落ちないところもあって、ちょっと考えるのに疲れてしまって最近は読まなくなった。

村上作品が好きな人はアダルティでアーバンでモダンな雰囲気、洋楽と洋酒と気の利いた言い回し、ちょっとファンタジーが入っているところや文体あたりが好きなのだと思う。私も文体が好きだ。

村上作品が嫌いな人は、主人公の男性がやたらと簡単に異性と関係を持ってしまうことに嫌悪感を持ってしまったり、リアリティのなさを感じてしまったりするのではないかと思う。自然主義小説なら、男と女のすれ違いで泣く話になるし、ロマン主義小説なら大切なただ一人の人と添い遂げるという話になる。どちらにしても男女のことは難しい…というのが近代小説のテーマになるはずなのだが、村上小説はどちらでもない。自然主義小説にしてはイージー過ぎてリアリティを感じることができないし、ロマン主義小説にしてはロマンチックではない。村上小説の主人公は「やれやれ」と疲れ切った様子、飽き飽きした様子でそういうことをするのである。そして村上ファンはその部分について議論することを避ける。だが、あんなに簡単に次々とそうなるのだから、それについて議論しない限り、ファンとアンチが理解し合えることはないかも知れない。

村上小説に於ける男女関係のイージーさについてどう考えればいいのか。ということは私にとって長年の疑問であり、なぜ村上春樹は熱心にイージーな男女関係を書き続けるのか理解に苦しむところではあった。

しかし、よーく考えてみると、おそらく村上春樹氏は潔癖症で本当はそういうことが嫌いなのである。そして、潔癖の真逆でイージーに相手をつかまえる最低な男を書き続けているのではないかということにようやく考えた辿り着いた。

たとえば『ノルウェイの森』の主人公を考えてみた場合、主人公の語りでは直子をどれほど愛しているかということが強調されているが、実際には直子を救うことはできていないし、直子が病気で療養している間も語り手の主人公は次々と相手を見つけている。そして直子が死んでしまった後、さんざん自己憐憫をした後で、性的なことに関するトラウマを抱えていると思しき女性と関係を持って、最後はショートヘアーの女の子から「で、あなたはどこにいるの?」と突き放したように言われてしまい、世界の中心で自分はどこにいるのか分からないという締めくくりになっている。要するに女性を愛しているように見えて実は浅はかで自己憐憫する最低な男、最低な男性モデルを自覚的に、こいつは最低なんだよと作者は言っているのではないだろうか。

男女が恋愛関係に発展するには、通常、それなりの手続きが必要になる。話し合い、語り合い、心境を確認し合い、互いに大切に思っているかどうか、今後も思い続けることができるかどうかを確認し合って、そういう関係になる。普通そうだと思う。真面目な恋愛とはそういうもののはずだ。

村上作品には、普通なら小説の重要なモチーフになり得る男女関係が成立するまでの手続きが省かれている。しかし、作者も現代に生きる自然人である以上、男女関係の手続きを知らないはずがない。他の作品でも主人公の男性は次々と相手を見つけて行くが、その手続きは全て省かれている。手続きがなくそういう関係になったのではなく、手続きを省いて書いていないのである。次々と相手を見つけて行く以上、そのような男は欲望の虜になっているに相違ない。その心の中を察すれば、醜いものがたち現れて来るように思える。醜い部分が存在しないのではない。書いていないのだ。村上作品の主人公の「僕」は、そういう醜い部分を読み手に知らせない不誠実な語り手であり、作者は自覚的にそうしているのである。そして読者に対し、こいつ最低なんだよ。気づいてくれるかな?こいつ、惨めだろ?

と言い続けて来たのではなかろうか。ではなぜ最低な男を書き続けたいのだろうかという疑問が湧いてくるが、村上春樹氏は父親との関係が良くなかったらしい。もしかすると最低な男のモデルは氏の父親であるかも知れない。或いは自分自身のことかも知れない。多分、両方なのではないだろうか。

一応、ファンの人に申し訳ないので、村上春樹氏が最低だと言っているわけではないことは念を押しておきたい。村上春樹氏がなぜか分からないが最低な男を書き続けていて、その理由には自己嫌悪があるのかも知れないという一応、ある程度論理的に考えた上での推論でしかない。

そのように考えると過去に読んだ村上作品のことが少し深く理解できるというか、謎が解けるのではないかという気がする。源氏物語に於ける紫式部の男に対する深い失望と、村上作品に於ける男性的なものに対する深い失望は通底するものがあるのかも知れない。



或いは、この世界は脆弱なのかも知れない

死生学の権威として知られるキューブラーロスは、医療関係者、特にターミナルケアに関係する人は必ず学ぶと言われるほど高名な人物です。彼女は晩年はスピリチュアルな方向へと関心を広げていき、神や死後の存在を確信するようになったとされています。ただし、ここは想像になりますが、宇宙人と話したとかそういうことを言い出していたようなので、おそらくは退行催眠またはそれに類する手法によってスピリチュアルな知見を得ることになったのではないかと思います。退行催眠のような技術が心理的な治療法として用いられ、それを受けた人の人生がよりよくなるのであれば、私はもちろん全く反対する必要は感じないのですが、そのようにして得られる知見は飽くまでも個人的、主観的、そしておそらくは恣意的な面もあるに違いなく、それによって永遠の命を知覚したり、神の存在を知覚したりするのは、どこまで行ってもその個人の主観的な帰結としか言えないようにも思えてしまいます。

死とは何か、死後の世界はあるのかについて、科学的、客観的な根拠を求めた人として有名な日本人は立花隆さんですが、立花さんの著作を読む限り、氏は臨死体験を脳内現象でだいたい説明がつくとして、唯物論的に説明可能という立場をとっています。私も立花さんの著作は何冊か拝読しましたが、著作の内容に矛盾を感じることはなく、たとえば死んだ家族が迎えに来てくれたり、神様がお迎えに来てくれるという現象も脳内現象として説明できるということには頷かざるを得ないと思えました。

キリスト教は永遠の命を約束しています。仏教では少し違って輪廻転生という言葉で説明されます。エネルギー不滅の法則を人の心のエネルギーも含むとすれば、人が死んだらその精神力が失われることが説明できず、かといって現実に人は死に、その人はいなくなるわけですから、輪廻転生という言葉を使わないと説明できないという気もしなくもありません。ニーチェは神を否定しつつも精神の不滅は信じ、東洋思想を援用して永遠回帰という仮説を立てました

村上春樹さんの『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』は、私が多分、唯一、村上春樹さんの作品の中で好きな小説なのですが、その作品は死と永遠の命について興味深い仮説が述べられています。即ち、客観的・物理的な死が個人を訪れたとしても、その人の主観的な内面世界では死が訪れる直前の瞬間から時間が無限に細分化され、結果として永遠の命をやはり主観的に得るというものです。死は全ての人に必ず訪れる客観的な現象ですが、その死がどのように進行するかは主観に委ねられるという大変におもしろい仮説のように思えます。もちろん、実際に死んでみないと分からないので、真実はいずれ確かめることができますから、それまで待つのがいいのかも知れません。

さて、問題に思えるのは、キリスト教が永遠の命を約束し、仏教が輪廻転生は誰もが逃れられない絶対法則だから諦めろと諭し、キューブラーロスは死に希望を見出そうとし、立花隆さんは唯物論的にそれでも最期を幸福な臨死体験にしようと決意し、村上春樹さんが自分の主観に委ねようとする死がなぜ存在するのかということです。なぜ人は死ぬのでしょうか。キリスト教が永遠の命を約束するのであれば、わざわざ肉体を一旦与えて取り上げるという面倒くさいことをする必要性がどこにあるのか理解に苦しみます。輪廻転生もまた、なんでそんなトリッキーな世界になっているのか、やはり理解に苦しみます。立花隆さんのように、或いは村上春樹さんのように唯物論的かつ主観的に死を迎えるという風に考えたくなるのも、なんでわざわざ死ななくてはいけないのかという素朴な疑問が出発点としてあるようにも思えます。

思うに、仮に永遠の命なり輪廻転生なりがあるとして、それでも人の肉体が滅びなくてはいけないのは、世界はそもそも適度にリセットされなくては維持できないほど脆弱なものなのではないのだろうかという気がします。地球は回転しないとその形を維持できません。しかも太陽の周りを公転しながら自転しているわけですから、一体どこまでこの世は回転が好きなのかと勘ぐってしまいます。太陽系は回転しており、銀河系も回転しており、月の場合は地球の周りを回っているのに裏側を人類に見せることはないという実にトリッキーな動きをしています。それくらいこの世は回転・循環・リセットを繰り返さなくては維持できないほどに脆弱なものなのだと言えるのかも知れないという気がします。量子論も突き詰めればどのみち小さなものがくるくる回っているということなのではないかとすら勝手に結論したくなってきます。地球が回転して季節が変わるのと同様に、生命も生まれて死ぬという循環しなければ維持し得ないのがこの世界なのかも知れません。

果たして永遠の命が本当にあるのか、永遠回帰するしかないのか、輪廻転生でバリエーションに富んだ様々な生を経験するのか、それとも単なる脳内現象で説明されるのか、或いは主観に委ねられるものなのかは、やっぱり経験してみないと分かりませんし、焦って経験する必要もありませんから、ゆっくり待つのが一番ですかねえ。

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