台湾近現代史15 清仏戦争と台湾

1840年代、フランスはインドシナ半島に領土的野心を燃やすようになります。ベトナムの阮朝は南ベトナムの幾分かの行政区域をフランスに事実上の割譲をしますが、フランスは80年代に入ると北ベトナムを視野に入れて北上していきます。

通常の世界植民地化の当時の流れでいけば、このまま一機に併呑ということになっても別に不思議ではないのですが、北上するフランスに対して強大な妨害者が登場します。

劉永福という天地会に所属する人物が、天地会の信条である反清復明に則って中国南部で清朝と対峙していたのもの、ベトナムまで押し出されてしまい結果としてフランス軍とぶつかることになります。重火器においてはフランス側が有利なはずでしたし、当時すでにクリミア戦争の以降の時代ですので機関銃もぶっぱなしますが劉永福の黒旗軍はひるまず、双方泥沼の持久戦になります。

洋務運動を進めていた李鴻章は清朝が近代化を遂げるまでは列強との対立を善しとせずなんとか適当なところで話をまとめたいと思っていたようですが、劉永福が善戦していたために清朝内部の主戦派が活気づき、フランス軍もさほど強いわけでもなく、清仏戦争は一進一退を繰り返すようになります。

そのころ、フランス軍は台湾にもその足跡を残しています。1884年、フランス軍は台湾北部の淡水沖とそこからほど近い基隆沖に現れ、上陸を企図しますが、劉銘伝が率いる清国軍が意外に強いと言うか、兵隊の数が半端なく多いので、フランス側が圧倒され、戦線にも混乱が生じます。淡水では占領を諦めて引き下がった一方、フランス軍は基隆のごくわずかな地域を占領することに成功します。

基隆で包囲されたフランス軍はある意味では善戦し、占領地を死守しますが、ベトナム方面での戦いが停戦合意に至り、その後天津条約で清仏が合意したことを受けて撤収することになります。清軍を指揮した劉銘伝も善戦した名将と称えられ、彼の名をとった銘伝大学が今も台湾の桃園に存在しています。

興味深いのはフランス軍が占拠した一年弱の間に狭い占領地はフランス風に整備された家屋や道路が建設され、あたかもフランスの植民地であるかのような様相を呈していたということです。おそらくは占領した当初から恒久的なフランスのテリトリーであるという印象を形成するための都市計画を実施したということが推察されます。占領地に自国風の地名をつけ、自国風の建物を立ててそのテイストに染めてしまうということはどこでもやることで、日本も大いにそうしたわけですが、それが帝国主義の定石であるということがこの一事からも見て取ることができます。大連旅順、または奉天あたりでも今もロシア風建築が残っているといわれますが、ロシア帝国がそのエリアに影響力を発揮していたのはほんの数年のことですから、急いで都市建設をしたわけですが、そういったことも自然とそうなったのではなくて、意図的に懸命に計画していたと考える方が或いは自然な見方かも知れません。

現代の基隆でフランスの足跡を見つけることは簡単ではありませんが、当時の戦闘で戦死したフランス兵のための墓所が今も残されているそうです。

ローバー号事件牡丹社事件とひたひたと台湾に海外列強の陰が忍び寄り、清仏戦争では本格的な戦場にまでなった台湾ですが、その後、日本の植民地になるという運命を辿ります。なるべく中立的な視点を保つよう意識しながら、その後の展開を辿って行きたいと今は考えています。


日清戦争の「勝因」

李氏朝鮮王朝への影響力の拡大を目指す日本は、李王朝が長らく朝貢していた清との対決を覚悟していくようになります。ごく個人的な意見ですが、明治初期から日本では「征韓論」が湧いては消えていくので、よちよち歩きの新政府が外国に攻めて行くという発想事態がよく理解できませんし、朝鮮半島、遼東半島、南満州へと利権を拡大したことがやがては日本帝国の滅亡へとつながっていきますので、短期的には良かったかも知れませんが長期的には大陸進出は怪我の素と言えなくもない気がします。

それはともかく、日本はまず李王朝が清朝に朝貢するという伝統的なスタイルを保とうとすることを嫌がり、なんだかんだと楔を打ち込んでいこうとしますが、福沢諭吉の金玉均の明治維新をモデルとした改革を目指したクーデターに絡んだ第一回目の軍事衝突は日本側の敗退で終わります。これで落胆としたいうか、憤慨したというか、すっかり嫌になってしまった福沢諭吉が『脱亜論』を時事新報に掲載するという流れになります。

この結果、天津条約が結ばれますが、日本敗者として交渉に臨まざるを得なかったものの、今後は朝鮮半島に出兵する際には日清が同時に出兵するという何故か不思議と日本に有利な取り決めがなされ、後日に発生した東学党の乱では李王朝が鎮圧のために清に軍の派遣を要請すると、天津条約を盾に日本軍も出兵します。両軍本気の出兵ですので、一触即発、開戦必至の状況に至ります。

日本軍は宣戦布告前に朝鮮王宮を占拠するという、はっきり言えば暴挙に出たと私は思いますが、その後に清に宣戦を布告し、正式に戦争状態に入ります。宣戦布告の前に朝鮮王宮を占拠した動機としては、清に宣戦布告すると李王朝も一緒に日本に宣戦布告する可能性もあり、アクターが2対1になることを恐れ、それを阻止するのが狙いだったのではないかと思えます。

清は兵隊の数では文句なしですし、大砲はドイツのクルップ社から買った鉄製の大砲が標準装備。それに対して日本軍は国産の青銅の大砲です。鉄の大砲の方が丈夫ですので、射程距離も伸びやすく、ぶっちゃけ清の圧倒的有利です。よくこの状態で伊藤博文は戦争をやる気になったものだと首を傾げてたくならなくもありません。しかも国内では衆議院選挙の真っ最中、対外戦争が起きれば国内がまとまった政局的にも有利という判断はあり得ますが、ちょっと方向性を間違えれば全部瓦解しますので、博打も博打。大博打です。

ところがいざ戦端が開かれると各地で日本軍が圧勝します。どこへ行っても激戦があった翌日には清軍が撤退しているというのが続きます。袁世凱が決戦を避けたからだという説明もありますが、私個人としてはこれは袁世凱の深刻なサボタージュだと思えます。温存した兵力を結局は辛亥革命に使いますので、この人一体何なんだというか、内部にこんなのがいれば、そりゃあ勝てません。大事な時に裏切る兵隊100万人よりどこまでもついてきてくれる200人です。

海戦では結論としてはなかなか勝負がつきません。当時の北洋艦隊は定遠と鎮遠というこれもドイツ製の世界最大最新の戦艦を二隻持っていましたが、日本の連合艦隊はそもそも戦艦がありません。速力と操艦技術で北洋艦隊は撤退しますが、よくもまあこんな海戦をやるつもりになったなあと驚愕します。

その後北洋艦隊が閉じこもってしまい、じっと我慢の包囲作戦になるわけですが、陸戦で日本軍が旅順、威海衛を陥落させたことでいよいよ講和という話になっていきます。陸軍部内には北京まで行って直隷決戦を主張する人もいたようですが、そんなことをすれば光緒帝は熱河、更にどっか遠くへと避難して、そのうち日本軍の兵站が疲弊してしまうという日中戦争と同じ展開になってしまいますので、直隷決戦をやらなくて本当に良かったです。

このように見ていくと清の陸海軍ともに戦意に乏しかったことが日本の勝因であり、そこには李鴻章が戦力を温存した状態で列強の介入による講和という筋書きがあったとも言われますが、頼みにする予定の列強の介入がなされる前に決着がついたわけで、李鴻章の読みが外れたとも言え、敵失という天祐で戦争に勝てたのだということが分かります。

日露戦争も天祐だらけで第一世界大戦も日本だけにとっては天祐みたいな棚ぼた的な展開を見せますが、日本は天祐で勝利を重ねることができたということをだんだん理解できなくなっていった人たちが運命の太平洋戦争に突入したとも言えますので、確かに勝ったことは勝ったわけですが、素直に喜ぶわけにもいかない複雑な心境で見ざるを得ない日本帝国のデビュー戦です。




第二次伊藤博文内閣



松方正義が立ち往生する形で辞任した後を受け、伊藤博文は陸奥宗光、大山巌、黒田清隆山県有朋ら重鎮を閣僚として集めたいわばドリームチーム内閣を目指します。

しかし、当時は議院内閣制ではないため、議会の方は反政府で勢いづいており、政権運営はそう簡単なものではなかったようです。陸奥宗光が列強との不平等条約の改正に尽力していましたが、議会の反政府政党からは全面的な平等条約以外は認められないとの突き上げがあり、じょじょに妥協していくならともかく、安政の五か国条約を一挙に完全平等にするというのはハードルが高すぎて不可能とも言えますので、議会で官側の政党が少数派であったこともあり、早々に行き詰まりを見せて伊藤博文は衆議院の解散に打って出ます。

反政府と見られた各会派は政府の圧力によって議席を伸ばすことができなかった一方で、伊藤との連携の可能性を含んでいた自由党は議席を120まで伸ばします。一方で政府系政党は議席を激減させますが、自由党と合わせれば過半数を抑えられるというところまで持っていきます。政府の圧力で議席が伸びたり伸びなかったりするあたり、相当に裏とか闇とかそういった深かったに違いなく、現代の我々の価値観から言えばおよそ公正とはほど遠い選挙が行われていたに違いないことを伺わせるものです。

野党各派は自由党の星亨攻撃に狙いを定め、旧中村藩主の相馬家のお家騒動で星亨が贈収賄に絡んだという疑いで責めあげられ、衆議院議長不信任案が可決し、伊藤博文は更にもう一度衆議院の解散の挙に出ます。与党が少数だと何も決まらないという見本みたいなことが繰り返されている感が強いです。

ところがこの選挙期間中に日清戦争が勃発し(選挙期間中を狙って伊藤が始めた)、広島で臨時に行われた帝国議会では各会派一致して日清戦争を支持します。

第二次伊藤内閣を語る上で日清戦争は欠かせませんが、陸戦では連戦連勝、開戦の方では軍艦の大きさの違いが日清双方では歴然としており清の北洋艦隊の圧倒的優位のはずでしたが、関門海峡で幕府軍と接近戦をした経験がものを言ったのか、黄海海戦でも接近戦と小回りの利く動きで北洋艦隊は威海衛に撤退します。日本海軍が威海衛を包囲していたところで陸軍が陸伝いに威海衛を制圧し、北洋艦隊は降伏。提督の汝昌が自決するという展開を見せます。

陸奥宗光と共に李鴻章と交渉した下関条約で日本の勝利が確定し、台湾の領有、遼東半島の租借、賠償金二億テールという交渉面でも完全勝利を収め、第二次伊藤博文内閣はそれまでバタバタと倒れていた黒田、山県、松方の政権と比べて長期の政権運営に成功します。

議会の協力がなければ政権運営はできないと悟った伊藤博文は黒田清隆以来の議会と政府は別であるとする超然主義を捨て、自由党の板垣退助と進歩党の大隈重信を閣内に取り込んで挙国一致状態を戦後も続けようとしますが、板垣退助と大隈重信が宿敵化して激しく対立し、伊藤はこりゃ無理だと判断して辞任へと至ります。

いろいろ裏が真っ黒であるにせよ、議会の存在感を政府が理解するようになったという点では日本の民主主義がそれだけ前進したと考えることもでき、そういう意味では憲政の常道への一歩を踏み出したという意義をこの内閣から見出すことも可能なように思います。

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