1840年代、フランスはインドシナ半島に領土的野心を燃やすようになります。ベトナムの阮朝は南ベトナムの幾分かの行政区域をフランスに事実上の割譲をしますが、フランスは80年代に入ると北ベトナムを視野に入れて北上していきます。
通常の世界植民地化の当時の流れでいけば、このまま一機に併呑ということになっても別に不思議ではないのですが、北上するフランスに対して強大な妨害者が登場します。
劉永福という天地会に所属する人物が、天地会の信条である反清復明に則って中国南部で清朝と対峙していたのもの、ベトナムまで押し出されてしまい結果としてフランス軍とぶつかることになります。重火器においてはフランス側が有利なはずでしたし、当時すでにクリミア戦争の以降の時代ですので機関銃もぶっぱなしますが劉永福の黒旗軍はひるまず、双方泥沼の持久戦になります。
洋務運動を進めていた李鴻章は清朝が近代化を遂げるまでは列強との対立を善しとせずなんとか適当なところで話をまとめたいと思っていたようですが、劉永福が善戦していたために清朝内部の主戦派が活気づき、フランス軍もさほど強いわけでもなく、清仏戦争は一進一退を繰り返すようになります。
そのころ、フランス軍は台湾にもその足跡を残しています。1884年、フランス軍は台湾北部の淡水沖とそこからほど近い基隆沖に現れ、上陸を企図しますが、劉銘伝が率いる清国軍が意外に強いと言うか、兵隊の数が半端なく多いので、フランス側が圧倒され、戦線にも混乱が生じます。淡水では占領を諦めて引き下がった一方、フランス軍は基隆のごくわずかな地域を占領することに成功します。
基隆で包囲されたフランス軍はある意味では善戦し、占領地を死守しますが、ベトナム方面での戦いが停戦合意に至り、その後天津条約で清仏が合意したことを受けて撤収することになります。清軍を指揮した劉銘伝も善戦した名将と称えられ、彼の名をとった銘伝大学が今も台湾の桃園に存在しています。
興味深いのはフランス軍が占拠した一年弱の間に狭い占領地はフランス風に整備された家屋や道路が建設され、あたかもフランスの植民地であるかのような様相を呈していたということです。おそらくは占領した当初から恒久的なフランスのテリトリーであるという印象を形成するための都市計画を実施したということが推察されます。占領地に自国風の地名をつけ、自国風の建物を立ててそのテイストに染めてしまうということはどこでもやることで、日本も大いにそうしたわけですが、それが帝国主義の定石であるということがこの一事からも見て取ることができます。大連旅順、または奉天あたりでも今もロシア風建築が残っているといわれますが、ロシア帝国がそのエリアに影響力を発揮していたのはほんの数年のことですから、急いで都市建設をしたわけですが、そういったことも自然とそうなったのではなくて、意図的に懸命に計画していたと考える方が或いは自然な見方かも知れません。
現代の基隆でフランスの足跡を見つけることは簡単ではありませんが、当時の戦闘で戦死したフランス兵のための墓所が今も残されているそうです。
ローバー号事件、牡丹社事件とひたひたと台湾に海外列強の陰が忍び寄り、清仏戦争では本格的な戦場にまでなった台湾ですが、その後、日本の植民地になるという運命を辿ります。なるべく中立的な視点を保つよう意識しながら、その後の展開を辿って行きたいと今は考えています。