李香蘭と戦争(日中戦争10)

李香蘭は本名は山口淑子さんといい、戦争中は日本語が上手な中国人女優として知られていましたが、戦後になって日本人だということをカミングアウトし、その後は日本で、本名で活躍し、参議院議員にまでなるという、かなり数奇な人生を歩んだ人だと言えると思います。

で、どうして戦後になって日本人だとカミングアウトすることになったのかというと、これは日本の敗戦とばっちりつながっている話なんですよね。戦争中、李香蘭は満州映画協会というプロパガンダ映画会社の専属女優だったわけですが、日本の戦争協力をするための映画作品に出まくってます。たとえば日本人男性に殴られることによって、恋心に目覚める中国人女性とか、現代では考えられないようなプロットですが、当時はそれが日本国内では大いに受けたわけです。一方で、中国で上映された際には、不評だったとも言われていますが、現代に比べればまだまだ娯楽の少ない時代ですし、見目麗しい李香蘭に心を奪われた中国人男性もいたかも知れません。他にも皇民化をしっかり受け入れている台湾先住民の役とかもあって、李香蘭は日本大好きイエーイな中国人の役で映画に出まくっていたたわけですから、戦争が終わった後、中国で戦争犯罪人に指名されます。上海から日本へ逃れる船に乗る直前、「あ、お前李香蘭じゃないか」と職員が気づいて、中国人を裏切った中国人(漢奸)という扱いになって、裁判にかけられてしまったんですね。

で、どうやってこの危機を乗り越えたのかというと、日本の戸籍抄本を取り寄せて、はい、私は本当は日本人なんです。戸籍がありますから、ということになったんです。中国人を裏切った中国人ではないということが証明されて日本に帰ることができたというわけです。
終戦直後、中国大陸で命を落とした日本人はたくさんいるはずですから、李香蘭は運が良かったと言えるかも知れません。李香蘭と同時代人に川島芳子という人物がいますが、彼女は清朝皇族の娘さんとして生まれ、日本に養子に出され、戸籍上は日本人のはずなのですが、処刑されています。酷い話のようにも思いますが、川島芳子生存説もありますから、いずれまた詳しくそれについても考えてみたいと思います。李香蘭と川島芳子の運命を分けたものは何かというようなことを思うと、本当に紙一重だったようにも思えますから、当時の関係者は薄氷を踏む思いだったに相違ありません。溥儀の弟の溥傑さんと結婚した嵯峨侯爵家の浩さんも、戦争が終わってから日本に帰るまでの二年ほどの間、辛酸をなめつくしたことを自伝に書いています。

この手の本を読めば読むほど、日本人ですから、ついついびびりあがってしまいます。もう70年も前のことですしが、やっぱり自分その立場だったらどうしようというようなことを考えて、ぶるってしまいます。
田村志津江先生という高名な研究者の方が『李香蘭の恋人』という著作で、李香蘭の恋人だった説のある台湾人の男性のことを取り上げ、この男性は気の毒にも上海で映画の仕事をしているときに対日協力者という理由で銃で撃たれて殺されてしまうのですが、山口淑子さんが、「あの日、私は殺されたあの人と待ち合わせていたんですけど、現れなかったんです」という趣旨の発言をしたことや、墓参もしているので、李香蘭と劉さんというこの台湾人の男性とが交際していたのではないかという説がけっこう真面目にささやかれた時期もあったようなのですが、田村先生はこの著作で李香蘭は忙しすぎて、満州と東京を行ったり来たりしていて、新しい作品のクランクインが目前で、上海へ行っている場合ではなかったのではないかと疑問を呈しています。この著作では他にもいろいろ李香蘭批判が鋭く行われていて、何もそこまで…と思わなくもなかったのですが、戦争中は優遇されて、戦争協力も熱心にやっていて、戦後は戦後で反省もなく国会議員になって、あんた、映画芸術の関係者なのに、ちょっと権力に近すぎるんじゃないんですかと田村さんは言いたいのだと思います。

権力から近いことが=悪いかといえば、別にそこまで思いませんが、権力に抱き込まれてしまうのは確かに問題ですから、難しいところだなあとも思います。



台湾近現代史36‐台湾映画協会

昭和17年12月付の『台湾公論』という雑誌の「映画」という欄で、丸山一郎という人が原稿を書いています。この人物について検索をかけてみましたが、有効な情報を得ることはできませんでした。ただ、中味には興味深いことが書かれてあったので、紹介したいと思います。

同欄では「台湾映画協会」の台湾映画界に対する尽力が大きいと評価しています。篠島さんという主事の人がいて、その人のおかげで『海の豪族』という映画を作ることができるようになったというのです。別の月に発行された「映画」欄では、総督府の情報課が日活協力して『海の豪族』という映画を作るということが書かれていましたから、台湾映画協会と総督府情報課が密接な関係にあったことは間違いがないように思いますし、満州映画協会のような国策機関であったことは想像に難くありません。問題は台湾映画協会なる機関がどのようなものであったのかさっぱり分からないということです。国会図書館のデータベースで台湾映画協会で検索をかけてみても何も出てきません。台湾を舞台にした国策宣伝映画『サヨンの鐘』は松竹と満州映画協会で作っていますから、私はてっきり台湾では映画製作産業が育たなかったものと考えていましたが、以前、台湾映画製作所があったことを知ったものの、やはり映画を2本くらいつくったくらいのことしかわからず、本格的な収益の上がる産業体には発展しなかったものと推測しています。その一方で、台湾映画協会という新しいワードを発見したわけですから、詳しいことを知りたいとも思いますが、これはまたコツコツと資料を読むうちに、想像もしないところからネタが出てくるかも知れません。こればっかりは資料を読んでみないことにはわかりませんので、当面はコツコツやりたいと思います。

台湾映画協会とは別に、『サヨンの鐘』について、ちょっとおもしろいことが書かれていました。松竹サイドとしては、笠智衆さんを使いたかったらしいのですが、笠智衆さんは『ビルマ血戦記』の撮影につかまってしまっていて起用することができない、上原謙さんを起用する案も出ているが、なんか違うということで制作サイドが悩んでいるというのです。実際の『サヨンの鐘』は主演の少女が李香蘭、男性俳優の名前に近衛敏明、大山健二という名前が出てくるものの、笠智衆さんや上原謙さんのような戦後も活躍した超有名俳優の名前は出てきません。松竹サイドは悩みぬいた末に印象に残らない人を使ってどうにか仕上げたというのが真相なのかも知れません。もし、この映画が李香蘭と笠智衆の共演ということになっていたりすれば、戦後もいろいろなところで話題になったことでしょうから、松竹としてもちょっと惜しいところだったのかも知れません。

太平洋戦争の真っ最中ですから、台湾映画協会といい、満州映画協会といい、宣伝に大変に熱心なことがわかります。更に同欄によれば、「台湾興行統制会社」なる穏やかではない名称の会社まで登場しており、果たしてどんな仕事をしていたのかこれも気になるところです。統制会社令というものが国家総動員法に基づいて出されていますから、その関係の会社かも知れません。その場合、情報統制というよりは、統制経済、産業統制の一環という意味合いの方が強いものであったかも知れません。そのあたりもいろいろ資料を読むうちにいずれは見えてくることもあるかも知れません。

追記 今回使用した資料は昭和17年としてありますが、統制会社令が出されたのは昭和18年であるため、実際にこの記事が発表されたのは、昭和18年の12月かも知れません。資料が断片的で完全には確認できないこと、データベース作成サイドの凡ミス可能性があること、私の凡ミスの可能性も否定できないことを書き加えておきたいと思います。

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