李香蘭は本名は山口淑子さんといい、戦争中は日本語が上手な中国人女優として知られていましたが、戦後になって日本人だということをカミングアウトし、その後は日本で、本名で活躍し、参議院議員にまでなるという、かなり数奇な人生を歩んだ人だと言えると思います。
で、どうして戦後になって日本人だとカミングアウトすることになったのかというと、これは日本の敗戦とばっちりつながっている話なんですよね。戦争中、李香蘭は満州映画協会というプロパガンダ映画会社の専属女優だったわけですが、日本の戦争協力をするための映画作品に出まくってます。たとえば日本人男性に殴られることによって、恋心に目覚める中国人女性とか、現代では考えられないようなプロットですが、当時はそれが日本国内では大いに受けたわけです。一方で、中国で上映された際には、不評だったとも言われていますが、現代に比べればまだまだ娯楽の少ない時代ですし、見目麗しい李香蘭に心を奪われた中国人男性もいたかも知れません。他にも皇民化をしっかり受け入れている台湾先住民の役とかもあって、李香蘭は日本大好きイエーイな中国人の役で映画に出まくっていたたわけですから、戦争が終わった後、中国で戦争犯罪人に指名されます。上海から日本へ逃れる船に乗る直前、「あ、お前李香蘭じゃないか」と職員が気づいて、中国人を裏切った中国人(漢奸)という扱いになって、裁判にかけられてしまったんですね。
で、どうやってこの危機を乗り越えたのかというと、日本の戸籍抄本を取り寄せて、はい、私は本当は日本人なんです。戸籍がありますから、ということになったんです。中国人を裏切った中国人ではないということが証明されて日本に帰ることができたというわけです。
終戦直後、中国大陸で命を落とした日本人はたくさんいるはずですから、李香蘭は運が良かったと言えるかも知れません。李香蘭と同時代人に川島芳子という人物がいますが、彼女は清朝皇族の娘さんとして生まれ、日本に養子に出され、戸籍上は日本人のはずなのですが、処刑されています。酷い話のようにも思いますが、川島芳子生存説もありますから、いずれまた詳しくそれについても考えてみたいと思います。李香蘭と川島芳子の運命を分けたものは何かというようなことを思うと、本当に紙一重だったようにも思えますから、当時の関係者は薄氷を踏む思いだったに相違ありません。溥儀の弟の溥傑さんと結婚した嵯峨侯爵家の浩さんも、戦争が終わってから日本に帰るまでの二年ほどの間、辛酸をなめつくしたことを自伝に書いています。
この手の本を読めば読むほど、日本人ですから、ついついびびりあがってしまいます。もう70年も前のことですしが、やっぱり自分その立場だったらどうしようというようなことを考えて、ぶるってしまいます。
田村志津江先生という高名な研究者の方が『李香蘭の恋人』という著作で、李香蘭の恋人だった説のある台湾人の男性のことを取り上げ、この男性は気の毒にも上海で映画の仕事をしているときに対日協力者という理由で銃で撃たれて殺されてしまうのですが、山口淑子さんが、「あの日、私は殺されたあの人と待ち合わせていたんですけど、現れなかったんです」という趣旨の発言をしたことや、墓参もしているので、李香蘭と劉さんというこの台湾人の男性とが交際していたのではないかという説がけっこう真面目にささやかれた時期もあったようなのですが、田村先生はこの著作で李香蘭は忙しすぎて、満州と東京を行ったり来たりしていて、新しい作品のクランクインが目前で、上海へ行っている場合ではなかったのではないかと疑問を呈しています。この著作では他にもいろいろ李香蘭批判が鋭く行われていて、何もそこまで…と思わなくもなかったのですが、戦争中は優遇されて、戦争協力も熱心にやっていて、戦後は戦後で反省もなく国会議員になって、あんた、映画芸術の関係者なのに、ちょっと権力に近すぎるんじゃないんですかと田村さんは言いたいのだと思います。
権力から近いことが=悪いかといえば、別にそこまで思いませんが、権力に抱き込まれてしまうのは確かに問題ですから、難しいところだなあとも思います。