人狼ゲームをアマゾンプライムで観れる分は全部観た

人狼ゲームというシリーズについて、私はつい最近までその存在すら知らなかった。たまたまアマゾンプライムビデオで表示されたので、一応、さらっと見てみるだけ、見てみようか。おもしろくなかったら、視聴をやめればいい。そう思い、クリックした。ぐんぐん引き込まれ、観れる分は全部観てしまった。何がそんなに魅力的に思えたのだろうか…。

内容はかなり悪趣味なもののはずで、ゲーム理論的な人間対人間の誘導、扇動、嘘も方便で乗り切らなくてはならないが、乗り切れなかった即死亡という、結構、やりきれない内容だ。お話だから、フィクションだからと思って視聴するのはいいが、感情移入してしまいやすい人なら悪趣味過ぎて気分が悪くなって見ていられないだろう。何しろ登場人物の9割は死ぬことがお決まりの内容なのだ。このように一つの作品で大勢死ぬのがオーケーになったのは、バトルロワイヤルが映画化されて以降のことではないだろうか。バトルロワイヤルの原作小説が書かれた後、あまりの悪趣味ぶりに不愉快との意見がどこへ行っても大勢を占め、しばらく世に出なかったが、やがて向こう見ずな出版社の手に渡り、書籍になり伝説的な作品として記憶された。ナボコフの『ロリータ』みたいな感じだろうか。

バトルロワイヤルより前の時代、我々は『火垂るの墓』で節子が衰弱して死ぬまでを90分くらいかけて息を止めるような思いでみて、苦悶しつつ涙を流していたのである。そう思うと、バトルロワイヤルでは人の死がお手軽過ぎて、嫌悪感が先に立ってしまう。しかし、設定に慣れてしまうと描き方に関心がいくので嫌悪感は薄れてゆき、このように言っていいのかどうかはやや躊躇するが、作品の良い面にも意識が向くようになるのである。バトルロワイヤルの場合、一人ひとりの死にゆく中学生が、それぞれに青春を生きようとしているそのひたむきさに心をうたれずにはいられない。次々と中学生が死ぬので、視聴する側は次々とそれぞれの青春に付き合わなくてはならなくなり、きわめて濃密な映画視聴の体験になる。ある意味、名作である。バトルロワイヤルで中学生がたくさん死ぬのと、暴れん坊将軍で吉宗が悪いやつの部下を大量に成敗するのは全く性質が違うものだ。バトルロワイヤルの中学生には成敗される理由がない上に、一人ひとり、個性があり、想いがあることが表現されるのだから、観客は消耗する。暴れん坊将軍の場合は吉宗に斬られる下級武士たちに感情移入する機会は与えられないし、どうでもいいどこかの誰かが死ぬ場面なので、観ている側は特に疲れたりしない。暴れん坊将軍では個性のある登場人物は限られる。

いずれにせよ、バトルロワイヤルでそのような死の描き方に慣れてしまった私たちにとっては、人狼ゲームも受け入れやすい作品になった。人狼ゲームは初期のものとそれ以降のもので全くテイストが違う。私は初期のものの方が好きだ。熊坂出という人が監督をしていて、映像ももしかしたら結構きれいということもあるように思えるのだが、死にゆく高校生たちには個性がある。三作目以降には各人の性格はあっても個性がない。ここでいう性格とはそそっかしいとか泣きやすいとか怒りやすいとか優しいとかみたいなものだが、敢えて個性という場合、その人物が何を愛し、何を憎むのか、特定の状況下で如何なる行動を選択するのか、倫理と利益はどちらが優先されると考えているのかといったようなものが個性だと言えるように思う。要するに個性とはいかに生きるかという、生き方の選択の仕方にあらわれるものだ。

第一作と第二作では、作品の前半では各人が運命を逆転させようと努力し、忌まわしき運命から逃れようと、時には権謀実作も弄する。だが、いよいよ逃れられないと分かった時、死をいかにして受け入れるかということが主題になる。なんとかして生き延びようとあがくものもいれば、自ら死を受け入れることによって最期まで能動的であろうとする者もいる。常に合理的な行動をするわけではなく、時にはある種の文学的な心境に至ってしまい、不利益になることを承知で行動を選択することがあり、人は時として非合理的な選択をするという人間観が作品に漂っている。彼が或いは彼女がなぜそのような選択をしたのかということは、作品を観終わってからでも思い返し、反芻し、自分の人生と照らし合わせ、自分ならどうしていただろうかということまで想いを馳せることができるので、うまく作品を吸収すれば、人としての成長をすら期待できるかも知れない。

第一作がこれ

第二作がこれ

一方で、三作目以降にはそのような人生に対する哲学や個性の反映というようなものはない。登場人物たちはゲーム理論的な権謀実作を弄することだけを考えて行動する。従って、誰が最も合理的に賢い頭脳を用いて立ち回ったかどうかだけが問題になる。死に対して、運命に対して、自分がどのような姿勢を選ぶかという、もう少し掘り下げなければ見えて来ない面には目が向いていかない。最後の方は武田玲奈がかわいかったので、「わーっ、武田玲奈かわいー、結婚してー」と思いながら見ることで、退屈さとか陳腐さとかみたいなものを乗り越えて視聴することができた。武田玲奈が出ていなかったら、私はもっとひどい心境になっていたに違いない。

武田玲奈が出ているのがこれと

これ

まあ、そのようにぶつくさ言いながらも一生懸命全部観たのだから、それだけ訴求力のあるシリーズだということは言えるのではないだろうか。


さようなら、ファーストフード

ニューヨークの新感覚で生きる男性が、一か月の間、マクドナルドの商品だけを食べ続けるとどうなるかという実験的な生活を試みた『スーパーサイズ・ミー』は、多くの人に衝撃を与えた話題作であったに違いない。私も一度みてみたいと思っていた作品なのだが、最近、アマゾンプライムビデオで観たので、ここで簡単に内容をシェアしてみたい。

この作品では、フィルム制作者の男性が自ら出演し、一か月の間、マクドナルドの食事だけで過ごすと誓いを立て、マクドナルドの体への影響がいかなるものかを検証するために、無用な運動を避け、徒歩もなるべく避けて、タクシーを使うように心がけ、もし、マックの店員さんから「スーパーサイズにしますか?」と質問された場合は、かならずスーパーサイズで出してもらうというルールを決めて実行している。アメリカのマックのスーパーサイズである。日本ではとてもお目にかかれない超巨大な食べ物なのだが、それを男性がばかばかと食いまくる映像が続く。当初は気持ち悪くて嘔吐することすらあったが、だんだん慣れてきて、マックの食品に快感を感じるようになり、ついにはマックなしではいられない体になり、結構やせ型だったのにしっかり中年太りになって一か月が終了する。マックの超特大を食べ続けたら、自分のお腹も超特大になっちゃったというわけである。マックがいかに健康に悪いかを証明したフィルムとして名高い作品なのだが、私はマックが嫌いとかそういうわけでもないし、マックを憎んでいるわけでもないので、一応軽くマックを弁護しておいてあげたい。

当該男性の主張するように、マックが太りやすいことには異論はない。また執拗に行われる刷り込み的広告宣伝によって巨大マクドナルド資本が人々から健康とお金を吸い上げていることも事実であろう。しかし、男性は運動しない、歩かない、なるべく超特大にするという、マックサイドが想定していない要素を入れ込んで実験が行われている。運動しなかったことの結果までマックが引き受けなければならないとすれば、それはマックがかわいそうというものである。また、男性の彼女も作品に登場するのだが、若くてびっくりするほど美しい女性で且つビーガンなのだが、作品の中で肉よりドラッグと言い切っている。肉を食べると幸福感を得られるが、肉は体に悪いので、ドラッグで幸福感を得た方がいいというわけだ。あれ?なんか話が違う方向に…と思わなくもない。私は今、ビーガン的生活に憧れて努力中なのだが、ビーガン的生活を追求する際に支障となるのは、いかにして幸福感を得るかという問題であり、タバコもお酒もやめた今、わりとこれは深刻な問題になりつつあって、時間をかければ克服できるとは信じているが、先輩ビーガンは実はドラッグで補っていたとすれば結構ショックである。これについては私なりにまた考えて、自分流の克服法を確立したいとは思っているが、いずれにせよドラッグに頼らない解決を模索しなくてはならない。ドラッグ大国のアメリカ人がどう思うかは知ったことではないが、普通の感覚を持つ日本人なら、ドラッグ依存症とマック依存症のどちらかを選ぶとすればマック依存症を選ぶに違いない。だって、ドラッグは違法なんだから。

マクドナルドがアメリカのクリエイターとか、アーティストとかといった人たちからいかに憎まれているかを知るために、もう一つ映画作品を挙げておきたい『ファウンダー』という作品で、やはりアマゾンプライムビデオで観た。アメリカの地方都市でがんばるマクドナルド兄弟が確立したファーストフード店の権利を乗っ取った男がマクドナルドのファウンダー(創設者)を名乗ってバリバリ仕事をして大金を稼ぎ、糟糠の妻を捨てて他人の奥さんを奪って再婚し、人生勝ち組わっはっはで終わる作品で、観ている側としてはなぜこんな中年おじさんのサクセスストーリーを見なくてはならなかったのかと釈然としない気持ちが湧いてきて、消化不良のまま映画が終わるのだが、このような作品がまかり通るのも、要するにマックのような巨大資本は、この映画の主人公のようないけすかない嫌味なおじさんがみんなからお金を吸い取るためにやっているんですよというメッセージが込められているというわけだ。ハリウッドらしいわかりやすい作品であると言える。

私はハリウッドのお先棒を担ぐつもりはないし、ハリウッドも巨大資本なのでは?という疑問も湧くし、巨大資本=悪とも言えないと思うし…といろいろと気持ちがぐちゃっとなってしまうのだが、そういったこととは関係なく、私はそろそろファーストフードを卒業したいと真剣に考えている。それはマックが悪いのではなくて、私が新しい自分になるための方向性としてビーガンを選ぼうと考え始めているということだ。もちろん、完全なビーガンは私には無理だ。魚、卵、牛乳、チーズ、ヨーグルトをやめる自信はない。魚をやめないのだからベジタリアンとしても失格であり、肉をなんとか近い将来やめられるかどうか…という意思薄弱な頼りないビーガン志望者である。

マクドナルドのバーガーがどんなものでできているかを考えてみよう。まずパンである。パンは普遍的な食品で、特に問題はない。そしてハンバーグなのだが、肉はビーガン志望とかでない限り悪い食材ではなく、場合によっては美容と健康のために必須であると語られることもある食材だ。そしてレタス。レタスがだめだという人はいないだろう。ピクルスも同様である。チーズも挟まっているが、チーズが体に悪いとか聞いたことがない。ということは、マックの看板商品であるハンバーガーはむしろいい食事だと言うことすらできるかも知れない。でも私は卒業しようと思っている。

以上までに諸事情をつらつらと書いてはみたのだが、どうしてそこまでファーストフードから脱しようと思っているのかについて述べたい。肉には依存性がある。パンにも依存性がある。私はそういった依存を減らしていきたいと思っている。お酒とかたばこからの依存からは脱することができた。そういった依存から脱することができるのは実にいい気持ちだ。引き続き肉や糖質への依存からも脱却してみたいと思うようになっていて、その先にある新しい地平を今は見てみたいという好奇心がうずくのである。繰り返すがマックは悪くない。私がマックを卒業するのである。あ、最後に湘南台のバーガーキングへ行っておいた方が思い残しがなくていいかも知れない。私は何を言っているのか…タバコもお酒もやめていくと甘いものがほしくなるので脱糖質がうまくいかなくなり矛盾が生じ、葛藤が生まれる。なかなか難しい問題で、今もいろいろ手探りなのだが、ある程度時間が経てば再びタバコを吸いたいとか思わなくなるので、一機に全部やめてしまうのではなく一つずつやめていくのが心身への負担も少なくていいかも知れない。最終的には魚と卵と牛乳をどうするかという問題に直面することになるとは思うが、それは数年後のことになるだろう。



アメリカ映画『アメリカン・ビューティー』に見る愛し方。愛され方。

中年夫婦がなんとか切り盛りする中流家庭は崩壊寸前であり、当事者、すなわち父・母・娘がもういいよねと合意した瞬間に家庭は崩壊し、麒麟・田村の『ホームレス中学生のような』な状態に一瞬にしてなりかねないところからスタートしている。その過程に於いて、旦那は一年間のサラリーだけは獲得したので、破綻はちょっと先のばしに成功した。そして娘の同級生をものにするというアホな妄想を現実にすべく努力を開始した。奥さんは沈む船から逃げ出すために、新しいボーイフレンドとしてやりて不動産営業男をベッドイン。娘はやり手のドラッグの売人とニューヨークへ脱出するというなかなか思い切った手段を模索するようになった。で、なんでこんなことになっちゃったの?と言いたくなるが、よく見ていれば、そうなる気持ちも分かるわなあとも思えてくる。

いくつくあのカップルが付き合いかけてハッピーになり、そうでないのもいるというので、そのあたり、ちょっと詳しく、「愛とは」の入り口まで語れるかどうかやってみたい。

まず一番情けないおやじなのだが、家族に見捨てられていることを承知しているうえに、会社からも見捨てられ、誰にも愛されない私になってしまっている。しかも彼は娘の友達が遊びに来ているのをこっそり盗聴するのだが、なんと当該の友達は「あなたの父親って素敵ね。あれでもう少し筋肉があったらやっちゃうかも」を真に受けて筋トレに励むのである。娘の友達のジョークを真に受けて筋トレする悲しき中年男の姿がそこにある。

奥さんの方は、なんとしても不動産を売って見せる、不動産を売って、成功者と呼ばれる人たちの一部になってみせると努力に努力を重ねるが、なかなかそうもいかなくてすっかり落ち込み気味だ。そして不動産王と周囲から尊敬される凄腕不動産バイヤーの男に近づき、ついにそういう関係になるのである。ここで二人の様子からなぜ彼と彼女はそういう関係にあんったかを少し考えてみたい。行為の最中男は「俺こそは不動産キングだ」と何度も叫ぶ。彼は相手を愛してはいない。彼は性行為中に叫ぶことによって自分とは何かを再確認しようとしており、最高位の相手をそのために利用している。一方の女性はどうだろうか。夫との性交渉はすっかり失われており、欲求不満で満ち満ちている。言い方は悪いが誰でもいいからやっちゃって状態になっており、終わった後もあーこれで私欲求不満が解消できて最高~~という風にご満悦という流れになる。もちろん、この女も男を愛してはいない。

一方で、これは愛によって結ばれているのではないかと考えさせられる二人がいる。この夫婦の娘と、隣に引っ越してきた退役軍人の息子さんだ。父親の暴力は激しく、お母さんは頭がダメになってしまった感じなのだが、こわーい海軍の人なので、ご機嫌斜めにならないように周囲はいつも緊張しなくてはいけないが、それでも、抜け穴はある。そこの息子さんはプロの薬の売人なので、隣の堕落した父親を客にして、ドラッグを売るのである。海軍の父親はその様子を二階の窓から見ている。そして、窓からチラチラ見える様子から「あの二人は同性愛を楽しんでいるに違いない」という全くの桁外れな結論に達し、隣の家に忍び込み、隣の堕落した中年パパとキスするのだが、堕落した中年パパ「あ、あの、間違ってます。私は、そういうわけではないんです・・・・」というので、海軍さんは諦めて帰っていく。ここまでくると海軍さんの妻で、売人の息子の母のあの女性が頭がちょっとダメになってしまっている理由も分からなくもない。海軍さんの妻だけど、全然そういう行為がなくて、おかしくなってしまったのだ。そして社会的地位はあるから体面はと待たなくてはいけない。繰り返しになるが、それでおかしくなってしまったのだと思う。
で、このドラッグを売っている息子さんが、隣の娘さん、ようるすに堕落してしまった中年男に恋をして、二人は少しづつ心を近づけあい、やがて、ピュアな恋を互いに確認する。この映画の中で唯一美しい場面のようなものなのだ。二人は取り巻く環境がなにもかも嫌になってニューヨークへと向かう。売人だけに金はあるし、頼れる人もいるらしい。

さて、幾つかの人間の了解されなければならないところが出尽くしたある日、物語は瞬間に終わる。その日の午後、堕落した中年男はバーガー屋さんで働いていて、そこへ彼の妻と、彼女の不倫相手の男性がスポーツカーみたいなのでドライブスルーにやってくる。不倫発覚というわけである。全財産は奪われ、子どもには会えない….下手すれば人生これでおしまいである。信用大事の不動産を売り続けることができるかどうか…

その日の夜は忙しい。毎日筋トレをして自分を鍛えていた堕落した中年男はなかなか引き締まった肉体を手にしており、自分の娘のところに泊まりに来た、お目当てのスクールガールといい雰囲気になる。互いに欲望とメンツを満たすためだけの行為が行われようとしていたのだが、女性の方が「私、初めてなの。下手だと思われたくないから、先に伝えようと思って..」で、男は素に戻り、僕はとってもラッキーな男だと言い残して自室に入り込み、家族の写真とかを見て過ごす。あるいはこの男の更生の可能性を暗示する場面かも知れないのだが、銃を隠し持った妻によって頭を撃ち抜かれ人生を終える。妻は不倫を知られた以上、自分が文無しになって路上に放り出されても誰も助けてはくれないとの分かっているため、だったら夫を殺してしまえば、離婚の裁判が開かれたないと考え、刑事事件の裁判になることの恐ろしさまで気が回らなかったのだろうとしか考えることができない。といいつつ、もう少し突き詰めてみると、実は妻は主人公の夫を愛していたのかもしれない。夫とセックスレスになったことが諸悪の根源であり、夫ときちんと行為が行われていれば不倫することもなく、大抵の問題が解決していた可能性は残されるようにも思える。そうでなければ、夫を殺害した後で、クローゼットの夫の大量のスーツに抱き着いて泣く場面が入り込む理由がない。

以前はアメリカの中産階級の崩壊というところに注意を向けて見ていましたが、今回はもう少し、いろいろな人の愛の表現方法みたいなことを考える材料になると思い、書いてみました。



『この世界の片隅に』の聖地巡礼をしてきた

この世界の片隅に』で泣いた日本人は数知れずで私もその一人だ。原子爆弾という非常に重い問題と、戦争というもう少し一般化可能な、しかし人間同士が命のやり取りをするという普遍的に難しい問題と、すずさんという稀有なキャラクター、顔も美しいが声も美しいのんとすずさんのシンクロ率の高さによって人々は心をわしづかみにされてしまった。

いつか呉に行きたい。すずさんの景色が見たいと思った人は多いはずであり、聖地巡礼で呉を訪れた人、或いは何度も呉に通った人は大勢いるに違いない。私も呉に行きたい、一度でいいから行ってみたいと思っていた。祖父が海軍の人でレイテ沖海戦から生きて帰って呉で終戦を迎えている。情報収集准尉で、原子爆弾関連のこともかなりの程度で知っていたという話だったので、全く縁もゆかりもない土地でもないのである。

先日、広島に一泊二日の出張があって、二日目の午前中だけ自由な時間があったので、朝6時に起きて呉に行き、午後の仕事の前に原爆ドーム、平和記念資料館を見学するという慌ただしい日程を組んだ。広島に行けばお好み焼きもあるし、野球が好きな人にとっては広島カープも魅力なのかも知れないし、私としては浅野40万石の広島城も訪れたいとも思ったが、限られた時間で広島という土地に敬意を払いつつ、聖地巡礼という本意を果たすには、こうするしかなかった。

まず呉まで行ったが意外と遠い。広島駅から一時間くらいかかってしまった。呉駅で降りたものの、土地勘もないし迷って歩いている時間もないので、駅の様子だけ急いで撮影して広島へ帰還することにした。

呉駅の外観
呉駅の外観

とんぼ返りではあったものの、やはり現地に行くというのは有形無形に学べることがある。実際に呉へいく電車の窓から瀬戸内海を見ていて気付いたのだが、延々と対岸が見える。いくら瀬戸内海が狭いとはいえ、対岸が近すぎないか?あそこはもう四国なのか?という疑問が湧き、そんなわけがないのでiphone11で地図と格闘して分かったことは呉の対岸にはけっこう大きな江田島があるということだった。江田島といえば海軍兵学校のあった場所で、江田島関連の本も出ている。映画とかも探せばあるかも知れない。私は江田島の名前は知っていて、海軍の学校があったことも知っていたが、みたことがないので江田島は江ノ島みたいな感じのところなのだろうと勝手な想像をしていたが、違う。江田島は呉港を包み込むように浮かんでいて、たとえば敵が海から来ても直接呉に攻め込むことを困難にしている。天然の要害なのである。制空権をとられてしまえば、あんまり関係はないけれど。とはいえ、このようなことは行ってみてやっと気づくことの一つではないだろうか。

江田島と思しき対岸

『この世界の片隅に』の終盤で呉の街に明かりがつく場面があって、その時の呉の街は対岸にいる若い海軍の兵らしき男たち越しに見えるような構図になっているのだが、あの場面は江田島兵学校から見える終戦後の呉ということだったのだ。聖地巡礼によって得られることは大きい。呉駅には『この世界の片隅に』のポスターも貼られていて、これは呉駅の面目躍如であって、素晴らしきファンサービスである。ブログに掲載したくて撮影したが、著作権とかいろいろあるので、ポスター以外のものも入るようにして、私のオリジナル作品には見えない、一目で駅に貼られたポスターだと分かるように撮影した。知的財産権の侵害との指摘を受ければ削除しなければいけないが、今回の記事は作品への敬意を込めているので、理解を得られれば幸いだ。

呉駅のこの世界の片隅にのポスター
呉駅に貼られた『この世界の片隅に』のポスター

急いで広島駅までもどり、路面電車で原爆ドームへ向かったが、電車が故障で止まってしまい、徒歩で到着することを目指したものの、ちょっと距離を感じたのでやむを得ずタクシーに乗車した。原爆ドームを見て戦慄し、平和記念資料館では涙なしには展示内容を見続けることができなかった。展示がリニューアルしたとは聞いていたが、犠牲者の個々人の方々の生活やお顔の写真、プロフィールなどがたくさん分かるようになっており、現実に生きていた市井の人が原子爆弾によって焼かれたのだということをより理解しやすくなっているように思えた。うんと以前に訪れた時、壊れた時計や熱で溶けた瓶などは確かにショッキングではあったけれど、どこの誰がどんな風に亡くなったのかというような情報が少なく、ただ、ショッキングなだけで、考えたり感じたりすることがあまりうまくできる内容ではなかったような気がした。ワシントンDCのホロコースト記念館を訪問した際、数多の個々人がどこでどんな風に亡くなったのかを戦後の調査で明らかにし、記念館訪問者にも分かるようにしていた展示は現実感があって、自分にそれが起きないとう保障はないという心境になり、真剣に考える契機になった。そして広島や長崎の平和祈念館もこのように個々人のことが分かるようにした方がいいのではないだろうかと思っていたのだが、展示内容はそのようにリニューアルされていたので、私は納得もした一方で、その問題の深刻さを突き付けられたような気がしてショックは大きかった。とはいえ、平和祈念館を訪問してショックを受けない方が問題があるので、私がショックを受けたのは正常なことだ。
原爆ドーム
原爆ドームを北側から見た光景。限られた時間内で急いで撮影した。『この世界の片隅に』のすずさんは反対の方角からスケッチしていたはず。

犠牲者の生前の写真や遺品などとともに、訪問者にショックを与えるのは経験者によって描かれた数多の絵である。原子爆弾の使用直後の写真は少ない。写真を撮っている場合ではなかっただろうし、撮影に必要な機材も吹っ飛んでしまっていて写真が残されているなどということはあまり期待できない。少ない写真によって当時の状況を知ろうとするドキュメンタリーなら見たことがあるが、限界があった。デジタル的な観点からの写真論になっており、肝心の悲しみや悲惨さからは結果的に溝のできる内容になってしまっているように思えてしまったのだ。原民喜の『夏の花』はショッキングだが、読者の想像力に大きく委ねられなければならないものだった。絵はそれらの諸問題を克服する表現手法だ。個別の絵に関することをここで書くのは避ける。とても私が分かったような気持ちで評論できるようなことではない。そうするには重すぎる。

このような絵がたくさん集まったのはNHKが広島の人々に呼び掛けたからなのだそうだ。経験者が生きているうちに、絵という手法で記憶を後世に残そうと考えた人がNHKにいたのだ。NHKには批判も多いが、このようなことはNHKでなければできないだろう。この点は大きく評価されなければならないと私には思える。

【うる星やつらオンリーユー】と【カリオストロの城】の相似関係

ふと気づいたので、備忘のためにここに書いて残しておきたいと思います。

『うる星やつら』の第一回劇場公開映画【オンリーユー】は、作品全体がルパン三世の【カリオストロの城】へのオマージュになっているのではないか、オンリーユーとカリオストロはアダプテーションの関係にあるのではないかということに最近気づいたのです。

『うる星やつらオンリーユー』の冒頭の方で、面堂終太郎の屋敷にあたるとエルなる女性の結婚式の招待状が届く場面がありますが、この際、招待状を持ってきた人物に対し、終太郎が「読め」と命じ、「しかし…」とたじろいだところで終太郎が「構わん」と続けます。

何回もみたことがある人ならすぐに気づくと思いますが、これはカリオストロの城でルパン襲撃に失敗した後のジョドーの背中に貼られていたメッセージカードを読む場面の台詞と全く同じです。伯爵が「読め」と言い、ジョドー「しかし…」とたじろいで、伯爵が「構わん」と続くわけで、作り手は完全に意識して、分かる人はばっちり分かるように、この作品はカリオストロのオマージュだと最初の方で宣言しているのだと言うことができます。

全体の構図としても、男と女の立場が入れ替わっただけで、一人の男性または女性を奪い合う女たちまたは男たちが存在する構造になっています。

以下に簡単に表みたいにしてみます。

あたる⇔クラリス
ラム⇔ルパン三世
エル⇔カリオストロ伯爵

オンリーユーでは誠実で情熱的なラムが、権力で欲望を達成しようとするエルという女性とあたるという一人の男を取り合います。一方で、カリオストロでは、誠実で優しいルパンが、権力で欲望を達成しようとするカリオストロ伯爵とクラリスという一人の女性を取り合うわけで、冒頭の「読め」「構わん」のやり取りも含めると、意識して作り手が相似関係に持ち込んでいるとしか考えられないわけです。シェイクスピアのリア王と黒澤明の乱の関係みたいなものです。

結婚式の場面でも、元ネタであるカリオストロではクラリスが薬物でしゃべれない状態になっており、沈黙をもって結婚に同意するというスタイルに伯爵が持ち込もうとしますが、オンリーユーでは聖職者があたるに対し「以下略」という台詞によってあたるを沈黙させ、結婚の成立に持ち込もうとしています。いよいよ婚姻関係が成立するという直前に、カリオストロではルパンが、オンリーユーではラムが登場するわけです。やや違うのは、オンリーユーではダスティンホフマンの『卒業』をパクっているというところだと言えるでしょう。

このように考えると、伯爵に仕えるジョドーに対してエルにつかえるおばば様がいるし、ルパンの親友の次元に対応しているのは弁天ということになります。峰不二子と対応する人物は存在しませんが、カリオストロでも峰不二子は物語の構造上、存在する必然性は低く、うる星やつらでは尚のこと、対応する人物みたいなものは不要です。敢えて言えば牛丼の大将ですが、牛丼の大将も存在の必然性は低いです。

以上、気づいたことをまとめておきました。



『純粋芸術としての映画』の近代

いろいろな巡り合わせが重なり、珍しい本を手にすることになった。正確にはある人からある人へと私が本を届けに行く役目を負うことになり、役得としてその本を読むことができたのだ。本のタイトルは『純粋芸術としての映画』で、著者はフィヨドル・スチェパン。翻訳者は佐々木能理男となっている。この佐々木さんという人についてぐぐってみたところ、敗戦の前まではナチスに関連する文章を数多く翻訳した人ということらしいので、ドイツ語に堪能な人だったのだろう。また、戦後は不遇をかこつ日々を送ったようなのだが、それもやはりナチスに肩入れしてしまったのが仇になったのだろう。で、本の奥付を見ると昭和10年発行とあり、ナンバリングもされていた。私にこの本を渡した人によると、三百冊限定で印刷されたものだということだったので、ナンバーは三百のうち何番目に印刷したのかを示すのだろうと思う。シルクスクリーンにナンバリングしてあるのと同じような感じと言っていいかも知れない。

で、この本の内容なのだが、忘れないうちにここに書いてしまっておきたい。要点としては映画と演劇は似て非なるものであり、映画と現実も似て非なるものだ(要するに写実的とかそんなものはない)ということらしい。特に映画と演劇の違いについては念入りに議論されていて、演劇の場合は生きている人間が舞台で演じるため、そこには観客と演者が共有する空間が生まれる。そして観客は演者の動きや台詞によって喜怒哀楽を疑似体験するのだが、映画はそういうものではない。映画を演劇の延長線上のように考え、演劇が物語を見せるように、映画で演劇のような物語を見せると思って映画を理解することはできない。と主張されていた。なぜなら、映画の本質はモンタージュだからだ。

一応、モンタージュとは何かを簡単に定義しておきたいが、分かりやすく簡潔に言うとすれば切ったり貼ったりする編集のことだ。編集と言えば話しは早いがカタカナにしなくては気が済まない人はいるものだ。

で、本に戻るが映画はモンタージュするのが醍醐味なので何かを物語るということとは本質的に合致しないということらしい。これは映画と演劇の闘争であるとすら述べられていて、そこまで違った性質を持つ芸術行為なのなら闘争する必要はないとも思えるが、とにかく闘争らしい。トーキー映画が生まれる前、映画は動く写真で全てを表現していた。いい作品はモンタージュの勝利なのであり、代表的な勝利者がチャップリンということにされている。一応、私は反論したくなってしまったので、ここでちょっと反論するが、チャップリンも『独裁者』からトーキーを始めていて、その後の作品もトーキーだ。トーキーじゃない有名な作品としてふと頭に思い浮かぶのはドイツ表現主義の『カリガリ博士』だが、ところどころに台詞を書いたカットが入っているのでやっぱりトーキーの方が便利なのではないかと思えてしまった。ついでに言うともう少し後のドイツ表現主義映画で『M』という有名な作品があるが、これはトーキーのはしりみたいな作品なので、やっぱりみんな動く写真というより喋る映画の方が好きなのではないかともふと思えてしまったのである。とはいえ、この本では動く写真なので、リズムだけが問題なのであり、なぜここまでリズムを問題にするのかと言うと、近代人の生活は仕事も余暇も機会とともにリズミカルにこなせるように仕組みができあがっているので、映画という新しい芸術が物語という文脈を無視してリズムのみに注力するのも言うなれば必然、くらいの勢いで書かれてあった。

で、人間の現実とも映画は全く関係ないのだと同書は主張する。人間が人間らしく動くのを写すのはちっとも映画という芸術の主旨にあっておらず、その先を行く何かをモンタージュするのが映画だということになるらしい。

私は映画理論については単位はとったが専門ではないし、そういうことに関する論文も書いたことはない。ただ、この本の内容を以前にどこかで触れたことがあるような気がして、よくよく考えてみると、その単位をとった授業でドゥルーズの映画論を読まされて似たようなことが書かれてあったのを思い出した。めちゃめちゃ省略すると、彼もまた映画の本質をモンタージュとリズムに見出していたからこそ、映画について運動と時間の観点から延々と議論していたのだ。ついでに言うと最近見た上演芸術でも物語・文脈を無視し、脱人文主義みたいなものを目指していた内容だったので、こういう流れは100年前からあったのだとこの本を読んで改めて納得したところがあった。私はまだまだ浅学で分かっていないところも多いが、この本がドゥルーズのネタ本なのだなくらいに思えば、勉強になるわけです。



映画『非常時日本』の荒木貞夫

大阪毎日新聞社1933年に作った『非常時日本』という映画がある。youtubeで断片的なものを見ることができたので、ここにそれについての備忘を残しておきたい。この映画については『日本映画とナショナリズム』という研究論文集で詳しく触れられているので、それも参照しつつ述べたい。

で、この映画の内容なのだが、荒木貞夫が今の日本人は西洋的資本主義の享楽に溺れて堕落していてなっとらんと叱咤しており、続いて日本精神や皇国精神、皇軍がどうのこうのと延々と演説するもので、画面には荒木の演説の声とともに都市生活を楽しむ当時の日本の人々の姿が映し出されている。要するに荒木の批判する人々の姿とともに荒木のやや高めの声が流れ続けるという代物なのである。おもしろいかと問われれば、ちっともおもしろくない。全くおもしろくないと言ってもいいほどおもしろくない。荒木の演説そのものが空疎で何を言っているのかよく分からないからだ。

『日本映画とナショナリズム』という論文集では、日本のことを「皇国」と呼び、日本軍のことを「皇軍」と呼ぶのを定着させたのが荒木貞夫その人であり、その定着手段が今回取り上げているこの『非常時日本』という映画を通じてだということらしかった。当時の日本は既に大正デモクラシーも経験しているため、リベラリズムを受け入れて生きている人は多かった。この映画に映し出されている声なき都市生活者だ。そして既に世界恐慌・昭和恐慌も経験しているため、やや資本主義への疑念がもたれている時代でもあったが、実は30年代に入ると関東大震災からの傷も癒えはじめ、高橋是清の財政もばっちり決まって日本は世界恐慌からいち早く立ち直り、また大正デモクラシーの時代よろしく明るく楽しい資本主義の世界は始まりかけていた時代であったとも言える。

だが、満州事変後の日本は、結局は自ら新しい繁栄を放棄するかのようにしてひたすらに滅亡へと走って行ってしまい、残念ではあるが戦争にも負けてしまった。もし日本が満州事変とかやらずに明るく楽しい消費社会に突入していたら、世界の歴史は全く違ったものになっていたかも知れない。で、荒木貞夫は明るく楽しい消費社会を批判する演説をしていたわけだが、当然のごとくこの映画はヒットしなかったらしい。そりゃそうだ。当時の日本人は今の私たち日本人よりも遥かに娯楽を求めていた。私たちはある意味では娯楽に飽き飽きしている。ミニマリストを目指したり、プチ断食をしてみたりというのが流行るのは、娯楽と消費が限界に達して、ちょっと違ったことをやってみたいという風に世の中が変わってきたからだ。

一方で当時の日本人は洋服や洋楽を今よりももっと強く求めていたし、荒木貞夫の演説が心に届いたとも思えない。私は当時の帝国当局者の東南アジア向けのプロパガンダ放送に関する資料を読み込んだ時期があるが、東南アジア在住の邦人には時局に関するニュースや国威発揚の演説よりも西洋音楽の放送の方が需要があって、プロパガンダを流しても効果がないと担当者がこぼしていたのを読んだことがある。かように30年代の人々は戦争よりも消費と西洋を求めていた。

以上述べたことをざっくりと要約して結論するとすれば、1930年代、一般の日本人は西洋化、資本主義的消費社会、明るく楽しい資本主義みたいな方向に進みたがっていたが、満州事変以降、しっかり戦争をやって勝ちたい当局としては、たとえば荒木貞夫のようなおしゃべり好きをメディアに登場させて宣伝し、人々の戦意高揚をはからねばならなかった。従っていわゆる戦前的全体主義は1930年代以降に急速に盛り上がったもので、それ以前、そんなものは存在しなかった。ということができるだろう。無駄な戦争をやって敗けて滅亡したのだから、残念なことは残念だが、荒木貞夫みたいな人たちが権力の中枢にいることを許容する権力構造が存在した以上、いずれは破綻するしかなかったのかも知れない。



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アニメ『生きのびるために』でイスラム世界を一歩深く理解できるか

ヨーロッパ資本で制作された現代のアフガニスタンを舞台にしたアニメ『生きのびるために』は、ある程度イスラム世界がどうなっているのかを理解することに資するように思える。だが一方で、この映画と現実がどれくらい近いのか、或いは遠いのかを判断する材料が私にはない。

私がこの映画を観て最も関心したのは人の動き方が近代人のそれではないということだ。歩き方、走り方、座り方が近代人としての訓練や躾のようなものを受けた人ではないということに注意深く見ることで気づくことができる。近代人の動きというのは感嘆に言うとマラソンできる走り方やそれに準じた動き方みたいなものを私は指していて、いわゆる体育の授業とかきっちりやらされているとそういう動きになるという類のものだ。作り手が意識して近代人ではない動きをキャラクターに与えたことには当然に意味がある。

この映画では女性が一人で外に出歩いただけで人間扱いされないという、西洋近代の洗礼を受けている我々には理解できない受け入れ難い現象が描かれている。しかも主人公の少女の父親が全く理由もないのに監獄に放り込まれるという文化大革命みたいなことが起きてしまう。これが果たして本当にアフガニスタンの日常なのか私には判断できないが、もし本当にそういう日常が繰り返されているのであれば、現代人として容認できない。状況は改善されなければならないし、そのためにできることがあればやるべきだ。

この映画で気づかなくてはいけないことは、主人公の少女が男装をして女性蔑視の社会で生き延び、無意味に監獄に入れられている父親を助けるという物語の展開が、我々近代人の価値観に基づいている一方で、同時に主人公は西洋化された生活を望んでいるわけではないということではないだろうか。繰り返しになるが少女の身のこなしは学校の体育の授業を受けたそれではなく、またそのような立ち居振る舞いを自然なこととして彼女は考えている。ムスリム世界にはムスリム世界のお行儀があり、彼女のその意味ではおそらくきちんと躾されているのだが、我々のそれとは違うということ、そしてそれはそれで正しいということを映画は伝えようとしている。

そのようなことを総合すると、1女性蔑視は容認できない。2しかしムスリムの生活を否定するわけではない。3普遍的な家族愛の3つの要件によってこの作品が成立しているということに気づくことができる。

さて、私はもう一つ、日本アニメをヨーロッパが追い抜いたという感想も得た。日本アニメと言えばジブリである。ジブリと言えば駿である。駿は確かに世界を驚愕させる高い品質のアニメーションを連発した。特にナウシカ、トトロ、もののけ、千と千尋が世界に与えた影響は大きい。ファンタジーであり、登場人物に感情移入しやすく、描きれいで、壮大だ。日本のアニメは世界一だと誰もが認めたに相違ない。しかし駿が『風立ちぬ』のような作品を作ったということは、もはや世界にアピールしたいという考えを捨てており、好きなことを好きなように描きたいということしか考えていないことがわかる。そして駿の次に駿に匹敵する人物は現れないだろう。100年に一人の天才が駿だからだ。とすれば、日本アニメ映画はそのピークを既に過ぎてしまっていることになる。

一方で、駿的壮大なファンタジーに対抗すべく欧米で作られた素朴なアニメはかえって観客の心を打ちやすいのではないかと思える。たとえばこの『生きのびるために』のような作品がそうだ。アニメは派手ならいいというものではないし、画面が凄ければいいというものでもない。凄い画面はCG技術でいくらでも作ることができる。むしろ、一つ一つの絵が素朴かつ真摯に作られることが大切なのではないかと私には思えた。



ソフィア・コッポラ監督『ロスト・イン・トランスレーション』の、わりと共感してしまう恋

ビル・マーレイがアメリカ人俳優として日本のテレビcmに出演するために招待され、新宿あたりの超高級ホテルで中期的に滞在した時、同じホテルに若いアメリカ人の夫婦も滞在しており、ビル・マーレイと若い夫婦の奥さんとが微妙な関係になっていくという、一瞬、なにそれ…と思いそうだが実はわりと共感できる爽やかな内容になっている映画だと私には思えた。

若い夫婦の旦那は優秀なカメラマンで仕事のために日本の来たのだが、忙しくて奥さんはわりと放っておかれている。しかも旦那の知り合いのモデルみたいな女の人も同じホテルに宿泊していて、仲良くバーで飲んだりするけれど、奥さんとしてはちょっとおもしろくない。

一方、ビル・マーレイは大スターで、年齢的にもいい中年のおっさんなのだが、日本滞在がそんなに忙しいというわけでもなく、結果、若奥さんとビル・マーレイが一緒にあちこちででかけたりして、だんだん怪しい関係を予想させる展開になるのだが、両者は怪しい関係になることを選ばないというところが、好印象なのである。酔っぱらった若奥さんをベッドで寝かせた時、よっぽどいろいろ考えたけど、やっぱりやめておこうというビル・マーレイの態度に好感を持たない人はいないだろう。

で、ビル・マーレイがいよいよ日本を離れるという時になって、二人はホテルのロビーで握手をして別れる。空港までのハイヤーに乗っている途中、彼は若奥さんが都内を一人でぶらぶら歩いているのを見かけてしまい、車を一旦止めさせて、後ろから声をかける。二人は強く抱きしめ合い、キスをする。キス以上の関係にはならないのだが、両者はキス以上の愛情関係があることを確認し合い、満たされた心境で本当に別れるという流れになる。既婚者が配偶者以外とキスするのは本当だったらダメなのだが、それまでのギリギリ、もう一歩踏み出しそうで踏み出さないのをジリジリと見せられている観客としては、おー、そうか。そういう形で成就したのかと祝福したい心境になってしまい、ついつい共感してしまったのである。そういう恋は、ある。

東京が舞台で、日本人もいっぱい出てくるが、全てはこの二人のすれすれの恋のだしみたいな感じに使われており、別に日本を舞台にしなくてもいい内容なのだが、おそらくソフィア・コッポラが日本で遊んだ時によほど楽しかったのだろう。「東京ライフをパリピでリア充イエーイ」感があふれている。多分、ソフィア・コッポラが同じような感じで遊んだのがいい思い出になったに違いない。

私は東京が大好きだし、東京は楽しい場所だともちろん思うが、一点のみ、ソフィア・コッポラと私の間に東京の楽しみ方に関する認識の相違がある。私と彼女の間で認識の相違があるからと言って、誰にも問題はないのだが、一応、私が個人的に所有しているブログなので、認識の違いについて述べておきたい。ソフィア・コッポラの描いたパリピでリア充でセレブな東京生活は確かに楽しいに違いない。だが、私は言いたい。東京のいいところは、金がなくても楽しいという点だ。かつて世界一物価の高かった東京は、今や先進国では最も物価の安い都市であり、にもかかわらず、最も品質の良いものが手に入る都市であり、手に入らないものはない。つまり、東京は世界一コスパの良い国なのであって、安くておいしいもの、安くていいものが溢れている。そして日本人の所得水準は世界最高ではないが、今でも世界最高級だ。こんなに素晴らしいことはない。繰り返すが、東京は金がなくても楽しいところが魅力なのである。

さて、最後にもう一つ、ビル・マーレイについて少しだけ考えたい。中年男の鑑である。ゴーストバスターズで女子大生を誘惑しようと目論む科学者の役をしていたが、以前、テレビ局スタッフを口説き落とそうとやっきになるお天気レポーターの役をしている映画を観たことがある。そして、今回は若奥様とギリギリな恋をする。要するに恋愛が似合う中年男なのだ。恋が似合う中年男はこの世で最も魅力的な存在のように私には思える。見習いたい。



スピルバーグ監督『キャッチミーイフユーキャン』で思う、払うべきものはちゃんと払おう

スピルバーグ監督の映画は大体外さない。大体面白い。エンタテインメントと人間性へのメッセージが両方入っているので評価が極端に分かれることもないし、観れば必ず楽しめたと感じることができる。

で、『キャッチミーイフユーキャン』も面白かったのだが、私が考えたのは、デカプリオが演じている天才的な詐欺師とその父親の関係のことだった。映画の始まりの場面では、父親はロータリーのメンバーに選ばれて誇らしげにスピーチをする。「私はミルクをバターに変えた」と譬え、彼はミルクの中におぼれそうなほど絶望的な状態でもがき続け、その結果、よくかき混ぜられたミルクは固形のバターへと変化し、自分はおぼれずに立つことができたというわけだ。相当な苦労と努力をし、困難を克服した結果、彼はロータリーのメンバーという名誉を手に入れた。

しかし、妻は他の男のところへ行ってしまい、デカプリオの父親は失意に打ちのめされているにも関わらず税金を払わなくてはいけないことに頭に来て、税金を払うくらいなら逃げてやると決心し、逃げ続ける。デカプリオの父親は税務署から逃れるために職も居場所も転々とするが、実は税金さえ払ってしまえば人生をやり直すことができるかも知れないのに、彼は「税金だけは払ってやるものか」という執着心があるために人生をやり直す機会を自ら遠ざけているのだと私には感じられた。しかも税金は法律に従って払うべき市民としての義務であり、義務を果たすことが人生をやり直すための絶対的な条件なのだとこの映画では示唆されているように思える。

さて、デカプリオも喪失感は大きい。母親が別の男のもとへ去ったのである。そりゃ、喪失感は大きいだろう。しかも父親は税金逃れで逃走しているのだ。世の中に恨みや反発を感じる心情は理解できなくもない。で、たまたま彼はめちゃめちゃ頭が良かったので少しずつ詐欺の手法を覚え、偽の小切手を本物同様にゴート札みたいに量産し、口もうまけりゃ顔もいいので金も女も好きなだけ手に入れることに成功する。しかし彼の人生が真実に満たされるということはない。なぜなら彼が真実に求めていることは家庭的な愛情であり、そこが母親の出奔によって破壊されているので、どれだけ金を集めて女を集めても決定的な部分が癒えていかないし、それでもその虚しさから逃げるために彼はもっともっと派手に詐欺を続けていく。詐欺で得たお金はどれだけやってもあぶく銭であり、充実には近づかない。彼もまた、払うべきものを払わずに生きてやろうと決心した点では父親と共通していると言える。

ぐっと来るのは彼が捕まった後、偽造に精通した彼がFBIに協力することで市民生活を送ることを赦され、後には偽造防止の手法の知的財産を得てかなり高額な収入と自分の家庭を持つことができるようになったという結末である。彼はFBIに協力することを条件に懲役刑から逃れることができたが、少なくともFBIに協力するという代償を支払うことで詐欺を続ける必要がなくなり、逃げ回って虚しい贅沢をする代わりに家庭という彼が真実に求めていた愛情生活を得ることができたのだと言うことができるだろう。

これは私たちの人生にとっても教訓になる。税金に限らず、払うべきものを払ってこそ信用が得られる。そしてほしい物が手に入るように世界はできている。単に等価交換ということを言いたいのではなく、正当な努力と代償によって、自分の人生を得ることができるということをスピルバーグは言っているのではないかと私には思えた。

彼の父親がその後どうなったかについては映画では描かれていないので分からないが、多分、息子がいろいろなんとかしたのではないかと想像することはできる。父親も税金さえ払えば人生をきちんとやり直すことができるだろう。なぜそう言えるかというと、私自身が転職や病気などで人生を何度かやり直し、それでもこのような半端者が今、大学の非常勤でとにかく飯が食えるという程度にまではやってこれたので、人生は何度かはやり直しがきくものだし、実際に本気で取り組んでみれば実現可能なことはたくさんあるとしみじみと思うからだ(一度社会人になった者が大学院に戻って勉強し直して非常勤でもそういう方面の職に就けるのは奇跡的だし、非常勤だけでどうにか飯が食えるのはかなりの奇跡なのだ)。