現在高校生です。将来は映画監督になりたいのですが、どのような訓練をすればいいのでしょうか。また、今は文学作品を読み漁り、映画を沢山見ているのですが、これはあっているのでしょうか?

渋谷ドキュメンタリー映画の学校があります。その学校に行ったからと言って映画監督としてやっていけるというわけではないですが、そういう学校に行くことで情報も得られるし、その方面に詳しい友人も得られるかも知れません。ドキュメンタリー映画を舐めてはいけません。低予算で作れる一方で、監督がどれくらい問題を深堀しているかがバレるのがドキュメンタリーです。

おそらくエンタメ系の映画監督をなさりたいのだと思いますが、なんらかの形で世に出て行けば、エンタメ系への道も開けて来るのではないかと思います。

例えば原田眞人監督はクライマーズハイ関ケ原燃えよ剣などドラマ映画で著名な人ですが、最初の映画はおニャン子クラブのドキュメンタリー映画でした。私は最近、初めてそのおニャン子の映画を観たのですが、真剣な練習風景には引き込まれてしまい、この人は最初の作品からすでに天才だったのだと恐れ入りました。

そういうわけですので、えり好みせず、自分の才能を発揮できそうな好機があれば、乗って見るべきです。

文学作品を読み漁り映画を沢山みていらっしゃるとのことですが、これは映画監督をめざすかどうかにかかわらず、教養人として当然の努力ですので、がんばってください。



AIやロボットの「自我」を扱った映画でおすすめはありますか?

『ブレードランナー』を推します。知力体力で人間以上にデザインされたアンドロイド(レプリカントと呼びます)たちが開発され、過酷な環境での労働を強制されます。彼らには自我があり、自由を求めて脱走します。彼らの最大の弱点は非常に短い寿命に設定されていることで、脱走した彼らは寿命を延ばす方法を探ります。一方でデッカート刑事(ハリソンフォード)が脱走したレプリカントたちの逮捕する任務に当たるのですが、追撃する中で、1人1人のレプリカントが、それぞれに「生きたい、生きたい」と願い、生きるための徹底的な努力をし、虚しく死んでいく様が丁寧に描かれます。最後にラスボス最強レプリカントがデッカートに戦いを挑みます。これは仲間を失ったレプリカントからの復讐戦で、1対1だと絶対に人間が敗けるのですが、もはやこれまでのところでラスボスは寿命が尽きます。最初の劇場公開版ではラスボスは「電池切れ」で突然動きを止めます。後にリリースされたディレクターズカットでは、ラスボスは細胞のアポトーシスが起きて死ぬのですけれど、もはやこれまでと悟ったラスボスはデッカート殺害を諦め、ひざまづき、自らの死を受け入れ、自分のためのお葬式でもやるかのような厳かさで静かに息を引き取ります。デッカートはラスボスの死を見届ける役、証人になります。この映画は私の知る限り2つバージョンがありますが、他にもあったかも知れなくて、記憶が曖昧なのですけど、何度も撮影しなければならないのでハリソンフォードが切れまくったそうです。



ルパン三世の映画おすすめなのなんですか?

やっぱりマモーの出てくる複製人間のやつだと思います。まず第一に、永遠の生命は可能かという人類永遠普遍の課題をテーマにしています。生に執着するマモーの醜さと悲しさががっつり描かれ、永遠の生命は幸福なのか?との問題意識を見る側に問いかけています。マモーの粗悪コピーが「全ては不死のためだ」と言って死にゆく場面が大変に印象的です。

警視総監が直々に南米まで行きルパンを探し続ける銭形を見つけ出しますが、この時、警視総監は銭形に「辛かっただろうねえ、長く日本を離れて」と言ってねぎらうのですが、当時はまだ戦争に行っていた兵隊さんの記憶が日本社会に強く残っていたため、この「日本を離れて」の一言には非常に重みがあるわけですけど、そういう点で当時の日本人の心情をぐっと掴むことができているというか、銭形がそういう古典的な仕事に真面目な日本人というイメージを背負っているということが非常に良く分かります。銭形は日本軍将兵のメタファーなのですね。ゴジラと同じです。

で、米大統領首席補佐官も出てきますけど、当時の方が今よりも米大統領の重みがあったはずですから、米大統領首席補佐官もなかなか渋くていい味を出しているのですね。その部下のフリンチはアメリカの世界支配の闇の部分を背負っていると言えます。次元がフリンチに対して「それがお宅の民主主義か。長い間ハンフリーボガードとマリリンモンローのファンだったが、今日限りだ」と言い放ちますが、ハリウッド映画を利用したイメージ戦略を世界に展開しつつ、実は力による支配をするアメリカを端的に風刺していると思います。

というように、一本の映画に本当にたくさんのメッセージが込められていて、何度でも繰り返し見るべきルパン作品と思います。



昔名作と評判だった映画「戦場のメリークリスマス」をアマプラで見ました。わたしには作品の素晴らしさが全く理解できなかったのですが、勉強不足な点があればご教示くださいませんでしょうか?

私は戦場のメリークリスマスが好きなんですけど、考えてみるとなぜ好きなのか説明できないなあと思いました。で、ちょっと考えてみたんですね。主題は確かにどうということはなさそうな気もします。じゃ、何がいいのかなと。

1つには、坂本龍一さんの音楽が良すぎるので、実際以上にドラマチックに感動的に感じられるという仕掛けになっているということはあると思います。ですが、音楽も映画の一部ですから、それはそれで演出の勝利ではないかなとも思います。

次にカメラワークもあるかなと。たとえば最初の方でたけしさんがローレンスを呼び出してジャングルの中を歩く場面がありますけど、ロングショットの長回しで彼らの歩いている姿を撮影しているんですが、背景はジャングルですから、ずいぶんと遠いところなんだなとも思うのですが、同時に、こんな遠いところでも人間の考えることや感じることは同じなんだなというような不思議な心境にさせられるんですね。で、それだけだと大したことは表現してないんですけど、坂本龍一さんの音楽が流れてますから、凄い場面みたいに思えてしまうんじゃないかなと。

それから、たけしさん(原軍曹)の演技ですよね。実直そうな表情で、この人はきっと心がきれいなのに違いないという印象を与えます。ローレンスに対して時々見せる人間愛。ローレンスは敵の将校で捕虜なのに、原軍曹は昔から親しい友人であったかのように時に本音を語るんですね。

次に簡単に触れますけど、デビッドボウイのかっこよさもあるでしょう。

それから、物語の良さとして登場人物たちの成長というのがあるんじゃないかなと思います。一番わかりやすいのは原軍曹です。彼は死刑の執行を待つ身でありながら英語を学ぶんですね。それだけでも心境の変化を想像すると感動できるというか、原軍曹は死ぬ前に敵のことをよく理解しようと思ったんだなと思うと、ちょっと泣けてくる気がするんです。で、ローレンスが会いに来るわけですが、原軍曹は非常に礼儀正しいわけです。あの捕虜を殴りまくっていた下士官と同じとはとても思えないような穏やかな表情と洗練された身のこなしを観客は見せられることになるわけですけど、当然、果たしてこの人は本当に死刑にされなければならないのだろうか?との疑問も抱かせる演出になっていると思います。ローレンスは「もし私に決められるのなら、あなた方を今すぐ解放し、家族のもとへ帰す」と言うのですが、これもまた、捕虜収容所で殺されたかけて経験を持つローレンスが、敵に赦しを与えるいい場面ではないかなと思います。赦しは人間的成長の一つの証であると私は思います。で、坂本龍一さんのヨノイ大尉ですけど、彼は地中に顔だけ出して埋められて死を待つジャック・セリアズに敬礼し彼の髪を切り取ることで、愛を表現します。それまで捕虜収容所長としての威厳を用いて恫喝する形でしか愛を表現できなかった人が、ようやく穏やかに自分らしいやり方で愛を表現できるようになったという場面なわけですね。

最後に、日本人と白人が対等に渡り合うという点で、世界史・国際社会という観点から重要な作品ではないかなとも思います。この作品は間違いなく『戦場にかける橋』に影響されていますが、あの映画では男同士がぶつかり合い、意地を張り合い、認め合うということを日本人と白人がやり合うわけですね。これは人種差別の克服という観点から言っても我々が気に留めておくべき主題ではあると思うんですね。大島渚さんは更に同性愛という要素を入れて『戦場のメリークリスマス』を作ったとことで、もうちょっとウエットな作品になったと言えると思います。

ウエットが良いのか悪いのかという論点はあり得ますが、より深く観客に刻印される映画になったのではないかと思います。私は同性愛者ではないですが、恋愛感情を抱いてしまった時にどう振る舞うかというのは人類共通のテーマなんだなというようなことも思います。

というわけで長くなりましたが、気づくとあの映画がどんなにいい映画なのかを語るご回答になってしまいましたが、多少なりともご納得いただければご回答したかいがあったかなと思います。



ハリウッド映画では問題の最終解決手段として核兵器が使われることがありますが、アメリカ人は核兵器のリスク(放射能など)をどれくらい理解しているのでしょうか?

「ハリウッド映画では問題の最終解決手段として核兵器が使われることがありますが、アメリカ人は核兵器のリスク(放射能など)をどれくらい理解しているのでしょうか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

『博士の異常な愛情』とか、『渚にて』とか、『チャイナシンドローム』とか、放射線の恐ろしさを伝える作品は英語圏ではいろいろあります。日本人は広島と長崎の惨劇についてよく学んでいますから、確かに日本人に比べれば理解は低いでしょうけれども、「とてつもなく怖いらしい」ということについては、かえって情報が少ないだけに伝説的なものに発展しているのではないかと思います。アメリカ映画で核兵器を使用するのって『エヴォルーション』とか『インディペンデンスデイ』みたいなエイリアンが攻めて来たときとか、隕石が突っ込んでくるときくらいしかないので、もしかするとハリウッドのコンプライアンス的に、核兵器は宇宙から脅威が来た時しか使ってはいけないなどのようなコードでもあるんじゃないですかね。



海外の映画などで見られる間違った日本の文化の解釈にはどんなものがありますか?

「海外の映画などで見られる間違った日本の文化の解釈にはどんなものがありますか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

ドイツ人のアーノルド・ファンクという映画監督が撮影した『新しき土』という映画があるのですが、これは日本人の伊丹万作との二人監督ということで話題になりました。ドイツ語タイトルは『侍の娘』というもので、ファンクは最初からステレオタイプの日本イメージの映像を作る気まんまんだったようです。で、この映画では恋愛に敗れた原節子が自ら命を絶つために火山へ向かうという場面があります。侍=切腹であり、侍の娘というタイトルからも分かるように、侍の娘も恥辱を受ければ命を絶つとの前提があり、日本の温泉のイメージと結びついて火山で自殺という発想になったんだと思います。伊丹万作はこの設定にきれまくり、二人の監督は全く別々に映画を撮影しました。今、ネットで探せば、ファンク版は見つかるのではないかと思います。



皇民化映画『サヨンの鐘』を解説します

1943年公開の映画で『サヨンの鐘』というのがあるんですね。李香蘭主演の映画で、満州映画協会が制作したものなんです。監督が清水宏さんという方で、松竹の監督なんですね。よく調べてみると、満州映画協会と松竹と台湾総督府が共同で制作したことになってるみたいなんです。で、この映画は日本による台湾での皇民化を宣伝する映画で、サヨンという実在していた少女を李香蘭が演じているという映画なんです。

 そのサヨンという人がどういう人だったのかというと、台湾原住民の少女なんですが、自分が住んでいる地域の日本人の男性のところに召集令状が来て、その男性は、その地域の警察官兼学校の先生という職業の人だったらしいんですが、応召するために山を下りると言うので、荷物を地元の人が協力して運んだんですけど、サヨンさんが荷物を運んでいる時に足を滑らせて川に落ちてしまうという事故が起きてしまいます。で、そのまま彼女は帰らぬ人になってしまったということなんですが、彼女を愛国少女として大いに称賛する動きが出て来たんです。

最初に出てきたのが『サヨンの鐘』という歌なんですね。西条八十作詞、古賀政男作曲で、渡辺はま子という人が歌ったんですけど、これが結構、ヒットしたらしいんです。サヨンの鐘の鐘ってなんなんだってことになりますけど、事故が起きた地元にサヨンを讃える鐘が設置されてですね、その鐘の音を聴いてサヨンを思い出すみたいな感じになっていたんだろうなと思います。

 これが映画になったのが、最初に述べた1943年公開になった作品なんですけど、一般にはまず歌があって、次に映画ができたということ説明されることが多いんですが、実は歌が作られた後に、短編小説も書かれています。台湾在住の日本人作家がサヨンの鐘という短編小説を書いて、これを雑誌に載せてるんですね。これは私が最近発見したことなんで、論文に書いてもいいんですけど、気がはやいものですから、youtubeでしゃべっちゃおうと思ってしゃべってます。

 サヨンが先生に恋心を抱いていてどうこう、というような説明をされることもあるんですが、実際には先生に恋心を抱いていたというよりも、日本帝国への忠誠心が非常に強いというような印象を与える描写が多いですね。そっちの方が、まあ、当時の政治的にも重視されたのは間違いないと思いますし。それに、大正時代には自由恋愛とか流行しましたけど、昭和に入って全体主義が世の中を仕切るようになってきたので、日本男性が植民地の女性にモテるかどうかというのは、あまり気にしていなかったみたいですね。女にデレデレしているようなやつが戦争に勝てるかみたいなところがあって、日本男児は女性のことは忘れて戦場で死ねばいいのだ、みたいな空気はちょっと、いろいろ読んでると感じますね。まあ、それで慰安婦の人たちがいたわけですから、日本軍兵士がご清潔だったとは言いかねますけども、そうは言っても植民地の女性にデレデレされて喜ぶような馬鹿な感じは発揮されなかったわけですから、それはそれで良かったとも思います。

で、ですね、映画版の『サヨンの鐘』なんですが、映画の冒頭で李香蘭が同じ集落の小さい子供たちに、今日は何曜日だ?とか質問するんですね。要するに、日付とか曜日の概念を知っているのが近代文明人の重要なポイントで、それをもたらしたのは日本帝国だ、というようなことを暗に示そうとしているわけです。サヨンは決して単に、兵隊さんになる先生に憧れているとか、そういうキャラ設定じゃなくて、集落の若者同士で人間関係で悩んだりとかしていて、先生は指導者として若者に少しでも生きる希望を与えよう、悩みを解決してあげようという姿勢を示します。

サヨンの先生の恋心みたいな説明をしている人って本当に映画みたのかな…と疑問に思います。先生とサヨンのロマンスみたいなのは一切ないです。

で、サヨン役の李香蘭さんがですね、先生を見送るのに万歳とか叫んじゃうんですね。恋愛感情のような私的ものじゃなくて、先生が日本のために戦いに行くからかっこいいと思うわけです。日本帝国っていう大きな物語があって、彼女はそっちに心酔しているという設定になっているわけですね。先生は帝国のために戦いに行くし、それを見送っている自分も帝国の一部になったような気がして、そのことで心境が昂揚して万歳!と叫ぶんです。で、足を滑らせて川に落ちてしまうということなんですね。

実在したサヨンさんが、本心ではどんなことを考えていたかとかそういうのはわからないですから、飽くまでもサヨンさんを素材にしてですね、ある種のサヨン伝説みたいなものが築き上げられたというようなところに注目するとですね、ベネディクト・アンダーソンの想像の共同体っていう本ありますけど、あの本みたいにですね、人々が自分が国家の一部だと感じるためにどんな装置が作られたのかということの議論につなげることができると思うんですね。で、最近だったら、国家がどうこうというのはちょっと時代に合わないというか、今さら近代国家論じるのもださいぜとか思っちゃうんですけど、何らかの共同体とか、コミュニティで独自の伝説があって、人々がその伝説を大事に守っているみたいな現象はいろいろあると思いますから、そういうのを理解する理解する一環として、サヨンの伝説化がどんなものだったかというのを考えるのは価値があると思います。




人狼ゲームをアマゾンプライムで観れる分は全部観た

人狼ゲームというシリーズについて、私はつい最近までその存在すら知らなかった。たまたまアマゾンプライムビデオで表示されたので、一応、さらっと見てみるだけ、見てみようか。おもしろくなかったら、視聴をやめればいい。そう思い、クリックした。ぐんぐん引き込まれ、観れる分は全部観てしまった。何がそんなに魅力的に思えたのだろうか…。

内容はかなり悪趣味なもののはずで、ゲーム理論的な人間対人間の誘導、扇動、嘘も方便で乗り切らなくてはならないが、乗り切れなかった即死亡という、結構、やりきれない内容だ。お話だから、フィクションだからと思って視聴するのはいいが、感情移入してしまいやすい人なら悪趣味過ぎて気分が悪くなって見ていられないだろう。何しろ登場人物の9割は死ぬことがお決まりの内容なのだ。このように一つの作品で大勢死ぬのがオーケーになったのは、バトルロワイヤルが映画化されて以降のことではないだろうか。バトルロワイヤルの原作小説が書かれた後、あまりの悪趣味ぶりに不愉快との意見がどこへ行っても大勢を占め、しばらく世に出なかったが、やがて向こう見ずな出版社の手に渡り、書籍になり伝説的な作品として記憶された。ナボコフの『ロリータ』みたいな感じだろうか。

バトルロワイヤルより前の時代、我々は『火垂るの墓』で節子が衰弱して死ぬまでを90分くらいかけて息を止めるような思いでみて、苦悶しつつ涙を流していたのである。そう思うと、バトルロワイヤルでは人の死がお手軽過ぎて、嫌悪感が先に立ってしまう。しかし、設定に慣れてしまうと描き方に関心がいくので嫌悪感は薄れてゆき、このように言っていいのかどうかはやや躊躇するが、作品の良い面にも意識が向くようになるのである。バトルロワイヤルの場合、一人ひとりの死にゆく中学生が、それぞれに青春を生きようとしているそのひたむきさに心をうたれずにはいられない。次々と中学生が死ぬので、視聴する側は次々とそれぞれの青春に付き合わなくてはならなくなり、きわめて濃密な映画視聴の体験になる。ある意味、名作である。バトルロワイヤルで中学生がたくさん死ぬのと、暴れん坊将軍で吉宗が悪いやつの部下を大量に成敗するのは全く性質が違うものだ。バトルロワイヤルの中学生には成敗される理由がない上に、一人ひとり、個性があり、想いがあることが表現されるのだから、観客は消耗する。暴れん坊将軍の場合は吉宗に斬られる下級武士たちに感情移入する機会は与えられないし、どうでもいいどこかの誰かが死ぬ場面なので、観ている側は特に疲れたりしない。暴れん坊将軍では個性のある登場人物は限られる。

いずれにせよ、バトルロワイヤルでそのような死の描き方に慣れてしまった私たちにとっては、人狼ゲームも受け入れやすい作品になった。人狼ゲームは初期のものとそれ以降のもので全くテイストが違う。私は初期のものの方が好きだ。熊坂出という人が監督をしていて、映像ももしかしたら結構きれいということもあるように思えるのだが、死にゆく高校生たちには個性がある。三作目以降には各人の性格はあっても個性がない。ここでいう性格とはそそっかしいとか泣きやすいとか怒りやすいとか優しいとかみたいなものだが、敢えて個性という場合、その人物が何を愛し、何を憎むのか、特定の状況下で如何なる行動を選択するのか、倫理と利益はどちらが優先されると考えているのかといったようなものが個性だと言えるように思う。要するに個性とはいかに生きるかという、生き方の選択の仕方にあらわれるものだ。

第一作と第二作では、作品の前半では各人が運命を逆転させようと努力し、忌まわしき運命から逃れようと、時には権謀実作も弄する。だが、いよいよ逃れられないと分かった時、死をいかにして受け入れるかということが主題になる。なんとかして生き延びようとあがくものもいれば、自ら死を受け入れることによって最期まで能動的であろうとする者もいる。常に合理的な行動をするわけではなく、時にはある種の文学的な心境に至ってしまい、不利益になることを承知で行動を選択することがあり、人は時として非合理的な選択をするという人間観が作品に漂っている。彼が或いは彼女がなぜそのような選択をしたのかということは、作品を観終わってからでも思い返し、反芻し、自分の人生と照らし合わせ、自分ならどうしていただろうかということまで想いを馳せることができるので、うまく作品を吸収すれば、人としての成長をすら期待できるかも知れない。

第一作がこれ

第二作がこれ

一方で、三作目以降にはそのような人生に対する哲学や個性の反映というようなものはない。登場人物たちはゲーム理論的な権謀実作を弄することだけを考えて行動する。従って、誰が最も合理的に賢い頭脳を用いて立ち回ったかどうかだけが問題になる。死に対して、運命に対して、自分がどのような姿勢を選ぶかという、もう少し掘り下げなければ見えて来ない面には目が向いていかない。最後の方は武田玲奈がかわいかったので、「わーっ、武田玲奈かわいー、結婚してー」と思いながら見ることで、退屈さとか陳腐さとかみたいなものを乗り越えて視聴することができた。武田玲奈が出ていなかったら、私はもっとひどい心境になっていたに違いない。

武田玲奈が出ているのがこれと

これ

まあ、そのようにぶつくさ言いながらも一生懸命全部観たのだから、それだけ訴求力のあるシリーズだということは言えるのではないだろうか。


さようなら、ファーストフード

ニューヨークの新感覚で生きる男性が、一か月の間、マクドナルドの商品だけを食べ続けるとどうなるかという実験的な生活を試みた『スーパーサイズ・ミー』は、多くの人に衝撃を与えた話題作であったに違いない。私も一度みてみたいと思っていた作品なのだが、最近、アマゾンプライムビデオで観たので、ここで簡単に内容をシェアしてみたい。

この作品では、フィルム制作者の男性が自ら出演し、一か月の間、マクドナルドの食事だけで過ごすと誓いを立て、マクドナルドの体への影響がいかなるものかを検証するために、無用な運動を避け、徒歩もなるべく避けて、タクシーを使うように心がけ、もし、マックの店員さんから「スーパーサイズにしますか?」と質問された場合は、かならずスーパーサイズで出してもらうというルールを決めて実行している。アメリカのマックのスーパーサイズである。日本ではとてもお目にかかれない超巨大な食べ物なのだが、それを男性がばかばかと食いまくる映像が続く。当初は気持ち悪くて嘔吐することすらあったが、だんだん慣れてきて、マックの食品に快感を感じるようになり、ついにはマックなしではいられない体になり、結構やせ型だったのにしっかり中年太りになって一か月が終了する。マックの超特大を食べ続けたら、自分のお腹も超特大になっちゃったというわけである。マックがいかに健康に悪いかを証明したフィルムとして名高い作品なのだが、私はマックが嫌いとかそういうわけでもないし、マックを憎んでいるわけでもないので、一応軽くマックを弁護しておいてあげたい。

当該男性の主張するように、マックが太りやすいことには異論はない。また執拗に行われる刷り込み的広告宣伝によって巨大マクドナルド資本が人々から健康とお金を吸い上げていることも事実であろう。しかし、男性は運動しない、歩かない、なるべく超特大にするという、マックサイドが想定していない要素を入れ込んで実験が行われている。運動しなかったことの結果までマックが引き受けなければならないとすれば、それはマックがかわいそうというものである。また、男性の彼女も作品に登場するのだが、若くてびっくりするほど美しい女性で且つビーガンなのだが、作品の中で肉よりドラッグと言い切っている。肉を食べると幸福感を得られるが、肉は体に悪いので、ドラッグで幸福感を得た方がいいというわけだ。あれ?なんか話が違う方向に…と思わなくもない。私は今、ビーガン的生活に憧れて努力中なのだが、ビーガン的生活を追求する際に支障となるのは、いかにして幸福感を得るかという問題であり、タバコもお酒もやめた今、わりとこれは深刻な問題になりつつあって、時間をかければ克服できるとは信じているが、先輩ビーガンは実はドラッグで補っていたとすれば結構ショックである。これについては私なりにまた考えて、自分流の克服法を確立したいとは思っているが、いずれにせよドラッグに頼らない解決を模索しなくてはならない。ドラッグ大国のアメリカ人がどう思うかは知ったことではないが、普通の感覚を持つ日本人なら、ドラッグ依存症とマック依存症のどちらかを選ぶとすればマック依存症を選ぶに違いない。だって、ドラッグは違法なんだから。

マクドナルドがアメリカのクリエイターとか、アーティストとかといった人たちからいかに憎まれているかを知るために、もう一つ映画作品を挙げておきたい『ファウンダー』という作品で、やはりアマゾンプライムビデオで観た。アメリカの地方都市でがんばるマクドナルド兄弟が確立したファーストフード店の権利を乗っ取った男がマクドナルドのファウンダー(創設者)を名乗ってバリバリ仕事をして大金を稼ぎ、糟糠の妻を捨てて他人の奥さんを奪って再婚し、人生勝ち組わっはっはで終わる作品で、観ている側としてはなぜこんな中年おじさんのサクセスストーリーを見なくてはならなかったのかと釈然としない気持ちが湧いてきて、消化不良のまま映画が終わるのだが、このような作品がまかり通るのも、要するにマックのような巨大資本は、この映画の主人公のようないけすかない嫌味なおじさんがみんなからお金を吸い取るためにやっているんですよというメッセージが込められているというわけだ。ハリウッドらしいわかりやすい作品であると言える。

私はハリウッドのお先棒を担ぐつもりはないし、ハリウッドも巨大資本なのでは?という疑問も湧くし、巨大資本=悪とも言えないと思うし…といろいろと気持ちがぐちゃっとなってしまうのだが、そういったこととは関係なく、私はそろそろファーストフードを卒業したいと真剣に考えている。それはマックが悪いのではなくて、私が新しい自分になるための方向性としてビーガンを選ぼうと考え始めているということだ。もちろん、完全なビーガンは私には無理だ。魚、卵、牛乳、チーズ、ヨーグルトをやめる自信はない。魚をやめないのだからベジタリアンとしても失格であり、肉をなんとか近い将来やめられるかどうか…という意思薄弱な頼りないビーガン志望者である。

マクドナルドのバーガーがどんなものでできているかを考えてみよう。まずパンである。パンは普遍的な食品で、特に問題はない。そしてハンバーグなのだが、肉はビーガン志望とかでない限り悪い食材ではなく、場合によっては美容と健康のために必須であると語られることもある食材だ。そしてレタス。レタスがだめだという人はいないだろう。ピクルスも同様である。チーズも挟まっているが、チーズが体に悪いとか聞いたことがない。ということは、マックの看板商品であるハンバーガーはむしろいい食事だと言うことすらできるかも知れない。でも私は卒業しようと思っている。

以上までに諸事情をつらつらと書いてはみたのだが、どうしてそこまでファーストフードから脱しようと思っているのかについて述べたい。肉には依存性がある。パンにも依存性がある。私はそういった依存を減らしていきたいと思っている。お酒とかたばこからの依存からは脱することができた。そういった依存から脱することができるのは実にいい気持ちだ。引き続き肉や糖質への依存からも脱却してみたいと思うようになっていて、その先にある新しい地平を今は見てみたいという好奇心がうずくのである。繰り返すがマックは悪くない。私がマックを卒業するのである。あ、最後に湘南台のバーガーキングへ行っておいた方が思い残しがなくていいかも知れない。私は何を言っているのか…タバコもお酒もやめていくと甘いものがほしくなるので脱糖質がうまくいかなくなり矛盾が生じ、葛藤が生まれる。なかなか難しい問題で、今もいろいろ手探りなのだが、ある程度時間が経てば再びタバコを吸いたいとか思わなくなるので、一機に全部やめてしまうのではなく一つずつやめていくのが心身への負担も少なくていいかも知れない。最終的には魚と卵と牛乳をどうするかという問題に直面することになるとは思うが、それは数年後のことになるだろう。



アメリカ映画『アメリカン・ビューティー』に見る愛し方。愛され方。

中年夫婦がなんとか切り盛りする中流家庭は崩壊寸前であり、当事者、すなわち父・母・娘がもういいよねと合意した瞬間に家庭は崩壊し、麒麟・田村の『ホームレス中学生のような』な状態に一瞬にしてなりかねないところからスタートしている。その過程に於いて、旦那は一年間のサラリーだけは獲得したので、破綻はちょっと先のばしに成功した。そして娘の同級生をものにするというアホな妄想を現実にすべく努力を開始した。奥さんは沈む船から逃げ出すために、新しいボーイフレンドとしてやりて不動産営業男をベッドイン。娘はやり手のドラッグの売人とニューヨークへ脱出するというなかなか思い切った手段を模索するようになった。で、なんでこんなことになっちゃったの?と言いたくなるが、よく見ていれば、そうなる気持ちも分かるわなあとも思えてくる。

いくつくあのカップルが付き合いかけてハッピーになり、そうでないのもいるというので、そのあたり、ちょっと詳しく、「愛とは」の入り口まで語れるかどうかやってみたい。

まず一番情けないおやじなのだが、家族に見捨てられていることを承知しているうえに、会社からも見捨てられ、誰にも愛されない私になってしまっている。しかも彼は娘の友達が遊びに来ているのをこっそり盗聴するのだが、なんと当該の友達は「あなたの父親って素敵ね。あれでもう少し筋肉があったらやっちゃうかも」を真に受けて筋トレに励むのである。娘の友達のジョークを真に受けて筋トレする悲しき中年男の姿がそこにある。

奥さんの方は、なんとしても不動産を売って見せる、不動産を売って、成功者と呼ばれる人たちの一部になってみせると努力に努力を重ねるが、なかなかそうもいかなくてすっかり落ち込み気味だ。そして不動産王と周囲から尊敬される凄腕不動産バイヤーの男に近づき、ついにそういう関係になるのである。ここで二人の様子からなぜ彼と彼女はそういう関係にあんったかを少し考えてみたい。行為の最中男は「俺こそは不動産キングだ」と何度も叫ぶ。彼は相手を愛してはいない。彼は性行為中に叫ぶことによって自分とは何かを再確認しようとしており、最高位の相手をそのために利用している。一方の女性はどうだろうか。夫との性交渉はすっかり失われており、欲求不満で満ち満ちている。言い方は悪いが誰でもいいからやっちゃって状態になっており、終わった後もあーこれで私欲求不満が解消できて最高~~という風にご満悦という流れになる。もちろん、この女も男を愛してはいない。

一方で、これは愛によって結ばれているのではないかと考えさせられる二人がいる。この夫婦の娘と、隣に引っ越してきた退役軍人の息子さんだ。父親の暴力は激しく、お母さんは頭がダメになってしまった感じなのだが、こわーい海軍の人なので、ご機嫌斜めにならないように周囲はいつも緊張しなくてはいけないが、それでも、抜け穴はある。そこの息子さんはプロの薬の売人なので、隣の堕落した父親を客にして、ドラッグを売るのである。海軍の父親はその様子を二階の窓から見ている。そして、窓からチラチラ見える様子から「あの二人は同性愛を楽しんでいるに違いない」という全くの桁外れな結論に達し、隣の家に忍び込み、隣の堕落した中年パパとキスするのだが、堕落した中年パパ「あ、あの、間違ってます。私は、そういうわけではないんです・・・・」というので、海軍さんは諦めて帰っていく。ここまでくると海軍さんの妻で、売人の息子の母のあの女性が頭がちょっとダメになってしまっている理由も分からなくもない。海軍さんの妻だけど、全然そういう行為がなくて、おかしくなってしまったのだ。そして社会的地位はあるから体面はと待たなくてはいけない。繰り返しになるが、それでおかしくなってしまったのだと思う。
で、このドラッグを売っている息子さんが、隣の娘さん、ようるすに堕落してしまった中年男に恋をして、二人は少しづつ心を近づけあい、やがて、ピュアな恋を互いに確認する。この映画の中で唯一美しい場面のようなものなのだ。二人は取り巻く環境がなにもかも嫌になってニューヨークへと向かう。売人だけに金はあるし、頼れる人もいるらしい。

さて、幾つかの人間の了解されなければならないところが出尽くしたある日、物語は瞬間に終わる。その日の午後、堕落した中年男はバーガー屋さんで働いていて、そこへ彼の妻と、彼女の不倫相手の男性がスポーツカーみたいなのでドライブスルーにやってくる。不倫発覚というわけである。全財産は奪われ、子どもには会えない….下手すれば人生これでおしまいである。信用大事の不動産を売り続けることができるかどうか…

その日の夜は忙しい。毎日筋トレをして自分を鍛えていた堕落した中年男はなかなか引き締まった肉体を手にしており、自分の娘のところに泊まりに来た、お目当てのスクールガールといい雰囲気になる。互いに欲望とメンツを満たすためだけの行為が行われようとしていたのだが、女性の方が「私、初めてなの。下手だと思われたくないから、先に伝えようと思って..」で、男は素に戻り、僕はとってもラッキーな男だと言い残して自室に入り込み、家族の写真とかを見て過ごす。あるいはこの男の更生の可能性を暗示する場面かも知れないのだが、銃を隠し持った妻によって頭を撃ち抜かれ人生を終える。妻は不倫を知られた以上、自分が文無しになって路上に放り出されても誰も助けてはくれないとの分かっているため、だったら夫を殺してしまえば、離婚の裁判が開かれたないと考え、刑事事件の裁判になることの恐ろしさまで気が回らなかったのだろうとしか考えることができない。といいつつ、もう少し突き詰めてみると、実は妻は主人公の夫を愛していたのかもしれない。夫とセックスレスになったことが諸悪の根源であり、夫ときちんと行為が行われていれば不倫することもなく、大抵の問題が解決していた可能性は残されるようにも思える。そうでなければ、夫を殺害した後で、クローゼットの夫の大量のスーツに抱き着いて泣く場面が入り込む理由がない。

以前はアメリカの中産階級の崩壊というところに注意を向けて見ていましたが、今回はもう少し、いろいろな人の愛の表現方法みたいなことを考える材料になると思い、書いてみました。