近代を構成する諸要素と日本

ここでは、近代とは何かについて考え、日本の近代について話を進めたいと思います。近代という言葉の概念はあまりに漠然としており、その範囲も広いものですから、今回はその入り口の入り口、いわゆる序の口という感じになります。

近代はヨーロッパにその出発点を求めることができますが、人文科学の観点から言えばビザンツ帝国が滅亡した後に始まったルネッサンスにその起源を求めることができます。しかし、それによって社会が大きく変動したかと言えば、そのように簡単に論じることができませんので、もう少し絞り込んでみたいと思います。

ある人が私に近代とは何かというお話しをしてくれた際、近代はイギリスの産業革命とフランスの市民革命が車の両輪のようにして前進し発展したものだということをおっしゃっていました。これは大変わかりやすく、且つ本質を突いた見事な議論だと私は思いました。

以上述べましたことを日本に当てはめてみて、日本の近代はいつから出発したのかということについて考えてみたいと思います。一般に明治維新の1868年を日本の近代化の出発点のように語られることがありますが、私はそれはあまり正確ではないように思います。というのも、明治維新が始まる前から日本では近代化が始まっていたということができるからです。

例えば、イギリスの産業革命が起きる前提として資本の蓄積ということがありますが、日本の場合、江戸時代という二百年以上の平和な時代が続いたことで、経済発展が達成され資本主義的な発展が都市部で起きたということについて、異論のある人はいないのではないかと思います。東海道などのいわゆる五街道が整備され、現代風に言えば交通インフラが整備されていたということもできるのですが、北海道や沖縄まで海上交通が整い、物流・交易が盛んに行われていました。特に江戸時代後半は江戸の市民生活が発展し、浮世絵でもヨーロッパから輸入した材料を使って絵が描かれたということもあったようで、当時の日本の貿易収支は輸入超過の赤字だったようですが、輸入が多いということは内需が活発であったことを示しており、江戸時代の後半に於いては豊かな市民生活による経済発展があったと考えるのが妥当ではないかと思います。大坂も商売の都市、商都として発展しましたが、大坂の船場あたりの商人の子弟などは丁稚奉公という形で十代から外のお店で住み込みで働き、やがて商売を覚え、独立していくというライフスタイルが確立されていたと言います。住み込みで働くことにより、勤勉さを覚えて真面目な商人へと育っていくわけですが、私はこのライフスタイルと勤勉であることを重視する倫理観について、マックスウェーバーが書いた【プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神】と同じ心理構造または行動パターンが生まれていたと考えてよいのではないかと思います。
さて、先ほども述べましたように江戸時代後半は江戸の市民文化が花開いたわけですが、経済的には一般の武士よりも成功した市民の方がより豊かな生活をしていました。興味深いのは、これは小林秀雄先生がお話しになっている音声を聞いて学んだことなのですが、当時のお金持ちはいろいろな遊びを経験して最後に辿り着くのが論語の勉強なのだそうです。つまり究極の道楽が勉強だというわけです。料亭のようなところでおいしいお料理とおいしいお酒を楽しんだ後で、論語の先生からお話しを聴いていたそうですが、このような文化的行動というのも、やがて維新後に起きる近代化に順応できる市民階層が江戸時代に形成されていたと言うことができるのではないかと思います。

さて、ここまでは経済のことをお話し申し上げましたが、次に政治についてお話ししたいと思います。江戸時代の武士は月に数日出仕する程度で仕事がほとんどなく、内職をするか勉強するか武術の稽古をするかというような日々を送っていたわけですが、結果として武士は知識教養階級として発展していくことになります。言い方を変えれば何も生産せずに、勉強だけしてほとんど役に立たないような人々になっていったということもできるのですが、彼らのような知識階級がしっかり形成されていたことにより、ヨーロッパから入って来る新しい知識を吸収して自分たちに合うように作り直すということができるようになっていたのではないかと私は思っております。

幕末に入りますと、吉田松陰がナポレオンのような人物が日本から登場することを切望していたそうです。中国の知識人である梁啓超もナポレオンのような人物が中国から登場しなければならないと書いているのを読んだことがありますが、ナポレオンは東洋の知識人にとってある種のお手本のように見えたのではないかと思えます。ナポレオンは人生の前半に於いては豊臣秀吉のような目覚ましい出世を果たし、ヨーロッパ各地へと勢力を広げて結果としてフランス革命の精神をヨーロッパ全域に輸出していくことになりました。ベートーベンがナポレオンに深い感銘を受け、【英雄】と題する交響曲を制作しましたが、後にナポレオンが皇帝に即位するという形で市民革命の精神を覆してしまうということがあり、大変に残念がったという話が伝わっています。

日本に話を戻しますが、幕末では日本の知識階級はナポレオンという人物のことも知っていたし、フランス革命や民主主義の概念のようなものもその存在が知られていたわけです。横井小楠や西周のような人が日本にもデモクラシーや立憲主義、三権分立のような制度を採り入れればいいのではないか、ヨーロッパの近代文明が成功している理由は封建制度から抜け出した市民社会の形成にあるのではないかというようなことを考えるようになったわけです。ですので、横井小楠が江戸幕府の政治総裁職を務めた松平春嶽のブレインであり、西周が最後の将軍の徳川慶喜のブレインであったことを考えますと、明治維新を達成した側よりも、明治維新で敗れた側の江戸幕府の方に政治的な近代化を志向する萌芽のようなものが生まれていたのではないかという気がします。徳川慶喜という人物の性格がやや特殊であったために、徳川を中心とした近代化は頓挫してしまいますが、あまり急激な変化を好まない徳川幕府を中心とした近代化が行われた場合、或いは帝国主義を伴わない穏やかな近代化もあり得たのではないかと私は思います。もっとも仮定の話ですので、ここは想像や推測のようなものでしかありません。

いずれにせよ、幕末期に政治権力を持つ人たちの中で、徳川慶喜、松平春嶽のような人は近代的な陸海軍の形成にも力を入れていましたし、立憲主義の可能性も模索した形跡がありますので、日本の近代化は明治維新よりも前に始まっていたと見るのがより実態に近いのではないかと言えると思います。








これは何度も練習した後で録画したファイナルカットです

こっちは何度もかみまくったので、「ボツ」なのですが、
思い出のために残しておきたいと思います。

徳川慶喜と勝海舟

勝海舟はもともと家柄的にはそんなによかったわけではありませんが、オランダ語と航海技術の習得によって見出されるようになり、幕政にも参加していくようになります。

勝海舟は幕府を中心とした日本連合のような大艦隊を造り、列強に対抗するというような構想を描いていたようですが、国政は幕府が独占するものと考えていた幕閣たちから敵視され、どちらかと言えば浮いた存在になっていきます。

神戸に操練所を設けて坂本龍馬などの浪人を集めて食客三千人みたいな感じになっていき、そのことも幕府関係者から背を向けられるという展開を見ますが、結果としてはこのことが勝海舟の財産になっていきます。

勝海舟の回想録を読めばよく分かりますが、とにかくよくしゃべる。言いたい放題。甚だしいとすら言える我田引水の議論が多く、そういうことで嫌われていたのではないかと思います。アメリカに行く咸臨丸には艦長として乗り込みましたが、正使の木村摂津守とは折り合いが悪く、一水夫として乗り込んだ福沢諭吉も後年、これでもかと勝海舟を非難しています。

徳川慶喜も勝海舟を寄せ付けようとはしませんでした。多分、嫌いだったのだと思います。

嫌われまくって一旦は幕政を身を引くことになった勝海舟ですが、第二次長州征伐で失敗し、その講和のための使者として長州との交渉に臨むため広島へ行くように命じられることで、政治に復帰しています。勝海舟が広島に行っている間に慶喜は将軍に就任しており、海舟の言によると「いつのまにか君臣の関係になってしまった。私は徳川の家臣ですが、あなたの家臣ではありませんよと言った」とのことで、慶喜と海舟という頭の切れる者同士、おそらくは近くにいてもお互いに傷つけあうだけだったでしょうから、慶喜的にも「こいつ、面倒くせぇ」と思ったのではないかという気がします。

その後は江戸に居たわけですが、鳥羽伏見の戦いで徳川軍が惨敗し、あろうことか徳川慶喜が大阪から脱出して江戸に帰還。慶喜は政治からは降りるという決心を固めたことで、後は官軍との話し合いで慶喜の生命と江戸の街を守らなくてはいけないということになり、西郷隆盛とも面識があり、いろいろ顔が広い勝海舟が交渉役になります。神戸の操練所でやっていたことがここで役に立ったと言うこともできると思います。

明治維新後、勝海舟は徳川家中の世話人のような立場になり、あれこれと面倒を見て徳川慶喜に関しては朝敵指定の解除に漕ぎつけ、その後随分経ってからですが明治天皇と徳川慶喜の会見の実現にも尽力しています。その時のことを『氷川清話』では「慶喜は涙を流して自分に頭を下げた」と得意げに語っており、こんなことを他所でしゃべる部下にいたらいやだろうなあと私は一人ごちました。

どうであれ、慶喜にとって勝海舟は命の恩人であり、江戸を戦場にしなかった功労者だという点では変わりありません。能力のあるものは嫌われてなんぼなのかも知れません。



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