明治憲法と元老

明治憲法は表面的に読んだだけでは、実際のことがよく分からないように書かれています。まず、間違いないと思いますが、伊藤博文が故意に、分かりにくく書いたのではないかと私は思っております。以下にその理由を述べたいと思います。

まず第一に、天皇は神聖にして犯すべからずとなっており、天皇が国政を総攬するとも書かれてあります。もしこの部分だけを切り取って読めば、天皇親政、天皇が個人の意思で独裁的な政治を行うかのように読むことができます。たとえばロシアのツアーリや中国の皇帝のようなイメージですね。しかし、同時に憲法には天皇は憲法の規定に従うとされており、更に内閣が天皇を輔弼するとも書かれています。つまり、天皇は内閣と一緒に政治をするとも読めますが、ここで意味しているところは、内閣が天皇の代わりに政治をするので、天皇は何もしないと書かれているわけです。国政を総攬するはずの天皇が何もせず、実は内閣が政治をするというわけなのですから、これは分かりにくいに違いありません。

もう一点、和戦の大権、つまり戦争を始めたりやめたりする権利、即ち軍隊に対して指揮命令をする権利は天皇に属しているとされています。軍隊に対する指揮命令権、即ち統帥権を内閣が持っていないことになるわけですが、戦争という手段は当時であれば外交の最終手段です。それを持たない内閣に内政も外交もさせるので、はっきり言えば内閣の権限がそれだけ曖昧になり、議会によって追求される一番いいネタにされてしまいました。講和も軍縮も、議会による政府糾弾のネタになりますし、新聞もおもしろがって騒ぎ立てます。和戦の権利は天皇の大権なのに、政治家が勝手に戦争を辞めようとしている、みたいなレトリックになっていくわけです。日露戦争が終わった後の日比谷焼き討ち事件なんかもそういう種類の話に入ります。

とはいえ、明治日本はなかなかに成功した国家であったということは否定できないと思います。19世紀は弱肉強食の帝国主義、植民地主義が世界の流れでしたが、その中で欧米に植民地化されることもなく、産業化、工業化にも成功し、戦争もまさか勝てるとは思えない相手と始めて勝っています。つまり、うまく機能していたわけですね。憲法は政治家には戦争に関して意思決定できないと書いてあるのに、政治家がきちんと判断して戦争を始めるタイミングを見計らい、終わりのタイミングも見計らって、ちょうどいいところを狙って無理のない講和を結んで行きます。なぜこのようなことができたのかというと、元老という憲法に記載されていない集団が存在し、彼らが実質上の日本の支配者、日本帝国のオーナーだったからです。

元老は伊藤博文や山形有朋、西郷従道のような明治維新の功労者に与えられる称号で、一番多い時には11人ぐらいいたはずです。最後の元老はお公家さんのご出身の西園寺公望でした。西園寺はお公家さんですが、基本的には薩長藩閥で構成されており、明治日本の支配者が薩長藩閥だということが実によく分かります。この元老たちが首相の指名も行い、いろいろなことを話し合いで合意して、日清戦争や日露戦争も進めて行きます。内閣総理大臣は軍隊に対する指揮命令権を持っていないわけですが、元老には指揮命令の権利があると暗黙裡に了解されており、全ては元老たちが決めていたわけですね。で、憲法の縛りもないので、良くも悪くも自由に動くことができ、良く言えば現実的で臨機応変に、悪く言えば寡頭政治で黒幕的な存在として日本を動かしていたということができます。結果として、彼らが元気だった間は彼ら自身がアメリカと戦争しても勝てないことを知っているので、そういう無理なことは最初から考えもしませんし、薩長ともに幕末には英米と戦って彼らの強さをよく知っていますから、英米協調路線でうまく世界と渡り合って行ったと言えると思いますす。

最後の元老の西園寺公望は、長くフランスで生活し、議会制民主主義の価値感を充分に学んで帰って来ます。西園寺が帰ってきたころ、日本はまだ建前上は議会政治でしたが、実質上は元老政治が続いていましたので、西園寺が最後の元老になった時、彼は独自の判断で、議会選挙で民意を得た政党の党首を首相に選ぶという「憲政の常道」を確立しようとします。しかし、当時は暗殺が横行していて、首相になったら即暗殺対象みたいな時代でしたので、西園寺本人が議会主義者であったにも関わらず、軍人出身者を首相に指名せざるを得なくなっていきます。このような世相の中、世間からもプリンスとしてもてはやされた近衛文麿を最後の民主主義のカードとして西園寺が切り出したのですが、近衛文麿は多分、社会主義的なことをやろうとしたんだと思いますけれど、大政翼賛会を作って「幕府復活かよ」みたいに揶揄され、日中戦争も深みにはまっていってしまったという悲しい流れになってしまったわけです。西園寺は太平洋戦争が始まる少し前に亡くなっていますが、最後の言葉は「近衛は日本をどこへ連れて行くつもりや」だったそうです。

このように見て行くと、立憲主義は大切ですし、私も立憲主義を支持していますが、条文そのものだけでなく、いかにして運用されるかがより重要なのなのではないかと思えてきます。明治憲法であっても、元老という非法規的集団が政治家と軍人を操って国策を進めていたことで物事を仕切っていました。逆に、教条主義的に憲法を捉えると、統帥権干犯などと言われて現実的な政治ができなくなり、おかしな深みへとはまりこんでしまったと言うことができそうな気がします。これは現代にも通じる教訓になるのではないでしょうか。




ファッションリーダーとしての明治天皇



明治維新を経て日本は西欧化の道をまっしぐらにひた走りますが、そのことについて明治天皇の存在を抜きにしては語れないのではないかと思います。明治天皇はまず髷を切り、次いで洋服を着て写真を撮り、すき焼き(というか牛鍋かな)を食べて「美味である」と言い、あんぱんも食べています。要するに今後の日本人のライフスタイルはかくあるべしということを示したわけで、ファッションリーダーを担っていたということも言えるのではないかと思います。

私は個人的には明治維新は薩長藩閥が政治をワタクシするために岩倉具視と一緒に天皇を担いだのだと理解しているのですが、イメージ戦略と実際政治の間にかなりのギャップがあり、創業者世代はギャップがあるということを分かったうえで上手に協力しあってギャップをうまく埋めていたのですが、その次の世代以降、そういう裏側を知らない世代が「統帥権がー」とか言い出していろいろ狂いが生じて来たのではないかと考えています。明治憲法下では権力が誰にも集中しないように、要するに独裁者が生まれないように工夫されていて、あれはあれでなかなか良く考えられたものであり、問題は運用にあったわけですが、やはり創業者世代は分かって上手に運用していたのが、後の世代で崩れてきたという印象です。

明治憲法では演出上、天皇は「神聖にして万世一系で陸海軍の統帥権を持つ日本の統治者」というロシアのツアーリかと見まごう如き堂々たる大皇帝ですが、実際の権能はほとんどないに等しく、重要なことは明治維新の功労者が決めていく、明治天皇が嫌がっても日露戦争とかやってしまうわけです。国民はそんな内情については知りませんので、伊藤博文が料亭で決めたことを「大御心」だと信じているという構図が生まれたとも言えますが、それぐらいの演出をしておかないと伊藤博文や山県有朋が元老政治をしていることの正統性を示すことが難しかったのだろうと思えるのです。

しかしながら近衛文麿、東条英機の世代になると創業者の上手な知恵が失われていますので、政治家が軍事に口を出すのは統帥権の干犯だという暴論がまかり通るようになります。戦争は政治の延長線上にあるというか、政治そのものと言ってもいいくらいのことですから、政治家が軍をコントロールできないというのはばかげた発想としか言えないのですが、「天皇という絶対的な存在だけが軍に命令できる。政治家ごときが軍に口を出してはいけない」というレトリックにみんなが縛られていくようになったように見受けられます。憲法はその条文を常識というかコモンセンスで判断しなくてはいけませんので、政治家が口を出せないというのはコモンセンスに反しており、非常識としか言いようがないのですが、創業者がその辺りを曖昧にしておいたことのツケが次の世代に回って来たとも言えるのではないかと思います。

最後にブログですので、タブーに触れるつもりで明治天皇すり替え説について、ちょっと意見を述べたいと思います。私は明治天皇のすり替えは無理だと思います。そんなことをしたら絶対にばれると思います。明治天皇を毛利氏が匿っていた南朝系の人物とすり替えたというのがまことしやかに語られることがあり、天皇家は幼少期に別の家に里子に出すので、朝廷の人は明治天皇の顔を知らなかったから可能だったということにされていますが、里子に出すのは幼少期のほんの数年だけで、里子に出す先も同じ公家社会の隣の隣みたいなところに出すわけですから顔は当然公家社会では知られています。西園寺公望が明治天皇の遊び相手をしていたこともあります。平安時代の源氏物語の延長みたいな社会ですぐに噂が広がるわけですから、親王のすり替えみたいなことがまかり通る余地はないと思いますので、すり替え説を私は信用していません。

関連記事
徳川慶喜と孝明天皇
古川隆久『昭和天皇「理性の君主の孤独」』の昭和天皇の晩年
原田眞人監督『日本で一番長い日』の阿南惟幾と昭和天皇