明治天皇の肖像写真

明治天皇の肖像写真には幾つかのバージョンがあって、印象が非常に違うのですが、それはなぜかというようなことを話しています。「天皇」というデリケートな話題を今回はやっていますので、いつもより、やや多めに緊張しています。




聖徳記念絵画館に行ってきた

明治天皇の人生を日本画40枚と西洋画40枚で表現した聖徳記念絵画館は、知る人ぞ知る近現代史探求のおすすめスポットだ。ここでは3つの観点から、日本近現代史を理解・考察するための材料を得ることができる。まず第一は建物だ。大正中期に建設が始まり、大正末期、昭和が始まる直前に完成している。従って、日本近代がいよいよ成熟しようとする時代の息吹がこの建物には宿っていると言っていいだろう。どういうことかというと、明治時代の和洋折衷建築は木造が中心で、昭和の近代建築は鉄筋コンクリートみたいになっていくのだが、大正期は石を多用しており、昭和に近づけば近づくほど、コンクリートの要素が大きくなるが、この建物のような場合だとそのあたりの流行の変化を取り入れつつ、石もコンクリートも用いているわけで、日本郵船の横浜支店よりはやや古いと思うのだが、やや古い分、石の分量が多いというあたりに着目すればより興味深く観察することができるだろう。アイキャッチ画像では建物の中心部分のみ撮影している。検索すればすぐ出てくるが、多くの場合、この建築物は正面から撮影されており、左右対称のシンメトリーに注目が集まる。実際に行ってみて、正面から印象を確認してみるのもいい経験になるはずだ。

日本郵船歴史博物館の天井
日本郵船歴史博物館の天井

さて、次の楽しみ方としては、当然、絵の内容である。明治天皇の前半生は日本画で描かれており、生誕、元服、即位などの様子が宗教画の聖母子像の如くに神々しくかつ具体的に描かれている。これらの絵が描かれたのは後の時代になるものの、記憶している人が多くいる時代に描かれたものであるため、その記録性は高い。中には徳川慶喜が二条城で大政奉還をしたときの絵、教科書に出てくるあの有名なやつとか、勝海舟西郷隆盛の江戸薩摩藩邸での会見の様子を描いたものとかもあってとても興味深い。

徳川慶喜と大政奉還
徳川慶喜が二条城で大政奉還の意思決定をしている時の様子を描いた絵

実際に二条城に行ってみると、その時の様子が人形で再現されていて、それはそれでおもしろいが、かえってリアリティを損ねており、実感が伴わない。一方で、この絵の場合、実際の記録や関係者の記憶を集めて再現しているため、当時の様子を想像しやすい。司馬遼太郎は『最後の将軍』で、将軍という高貴な人が陪審と顔を突き合わせることはないから、慶喜は別室にいたとしているが、この絵を見る限り、思いっきりみんなの前に登場しているし、相当に情報収取して描いているに違いないのだから、おそらくこのような感じであったと考えて差し支えないのではなかろうか。慶喜が大政奉還したその日に薩摩・長州・岩倉グループによって討幕の密書を得たが、幕府が消滅したのでそれが実行できなくなったと言われていて、慶喜の智謀の深さを示すエピソードになってはいるが、当日は薩摩の重役小松帯刀が二条城に来ていて、積極的に大政奉還賛成を唱えたという話もあるし、小松帯刀は病死さえしなければ新政府の重鎮、場合によっては総裁にすらなっていたであろう人物だということも考えると、どうも慶喜によるフェイントで薩長立ち尽くした説にはなんとなく信用できない面があるのではないかという気もしてくる。こういったことは記録的な面で信憑性の高いこの絵画をじっと立って見つめることで気づいてくることなので、その一事をとってみても、実際に足を運ぶことには大きな意味があると言えるだろう。

西郷隆盛と勝海舟の会見は三田の薩摩藩邸で行われたため、三田に近い田町駅には両者のレリーフを見ることができる。このレリーフは聖徳記念絵画館の絵を参照して作られたものに違いない。西郷隆盛の顔は写真の顔によく似ており、一部に流れる西郷隆盛の写真は別人説を吹き飛ばす威力を持っている。繰り返すがここの絵は記録性を重視しているため、描き手は登場人物の顔について、相当に情報収集しているに違いなく、顔を見て知っている人からも情報を得た上で描いているのだ。田町駅のレリーフはそのうち写真を撮ってくるのでしばしお待ち願いたい。

さて、3つ目の楽しみ方だが、それはなぜ、このように明治天皇の人生を記録することを目的とした美術館が存在するのかについて推理することだ。実際に訪問して見てみれば分かるが、明治天皇の人生を辿るということにはなっているが、その辿り方はあたかも福音書のイエスの生涯を描く宗教画の如くにドラマチックで威厳に満ちており、記録性と同時に物語性も重視して描かれた絵が並んでいる。

伊藤博文や山形有朋のような元勲たちは、明治天皇を新しい日本という神聖な物語の主人公に置くことによって、新しい日本神話的帝国を建設しようとしたことと、それは無縁ではない。伊藤たちは新しい神話を必要としていた。それは古事記・日本書紀をベースにしていはいるが、西洋のキリスト教の如き原理原則・プリンシパルを堅持することのできるパワーを持つものでなくてはならず、それだけの説得力を持ち合わせるのは、彼らの持つカードの中では明治天皇しかなかった。従って、新しい都市である「東京」では、明治天皇の神話をもとに国民国家の首都になる必要があったため、皇居・明治神宮・靖国神社などの神聖スポットを建設することにより、近代東京が天皇の首都であるとする演出の舞台になっていったのだと理解することができるだろう。皇居に行った時、近代天皇制は徳川の遺産の上に近代的官僚制度が作り上げた幻影みたいなものだという印象を得たが、幻影を担保するために周辺諸施設が建設されたと考えても間違っているとは言えないだろう。一応、誤解のないように申し述べておくが、私は近代天皇制度は支持している。

いずれにせよ、以上のような理由で近代日本を理解するのに、非常にお勧めなのが聖徳記念絵画館なのである。



近代人の肖像写真‐明治天皇と徳川慶喜

多木浩二氏の『天皇の肖像』では、明治天皇の肖像写真の変遷を追いかけている。曰く、明治天皇の最初の一枚目の肖像写真は伝統的な京都宮廷風の衣装の写真だったものが明治初期には若き君主として椅子に腰かけている肖像写真が存在しているが、最終的に背筋の伸ばして身体の均整のとれた理想的な君像に変化し「御真影」として全国の官庁や学校に下賜された肖像写真はイタリア人のキョッソーネという画家に描かせた写真みたいに見える肖像画が使用されており、威風堂々の完成形に至っているというのである。

明治初期の普通な感じのする若き明治天皇
明治初期の普通な感じのする若き明治天皇
イタリア人のキョッソーネという画家に描かせた威風堂々たる雰囲気の明治天皇

このような写真の変遷には理由があり、多木氏はまず第一に近代資本主義社会の訓練を受けたことのない人間の立ち居振る舞いやたたずまいのようなものが近代芸術の先駆的存在である写真では映えないということを挙げている。即ち、ヨーロッパの君主や貴族の真似をして一応は写真を撮影してみたものの、どのような雰囲気で撮っていいのかよく分からずに撮影したのが、京都宮廷衣装の写真と若いころの椅子にだらっと腰かけた雰囲気の写真であり、特に二枚目の写真では普通の人という印象を与えてしまう。で、近代国家の専制君主のイメージに合うようにするためにはどうすればいいか、いろいろ考えて突き詰めた結果、キョッソーネに堂々とした雰囲気に描かせて御真影として使用したというわけである。猪瀬直樹氏の『ミカドの肖像』を読んで明治天皇の肖像写真の変遷についてはある程度理解していたが、随分前のことだったので細かいことは忘れていたし、多木氏が写真批評の分野でも活躍していた人なので、芸術批評的な観点から明治天皇の肖像写真が分析されているのが興味深かった。

そして私はふと、徳川慶喜の肖像写真について思い出した。徳川慶喜はそういった方面にずば抜けてセンスのあった人だったため、数枚の肖像写真はどれもなかなかにいい雰囲気で撮影されている。特にナポレオン三世から贈られた皇帝服を着た写真など、文句なしに威風堂々という言葉が相応しく、彼は明治が始まる前の段階から近代人の肖像写真のあり方を正しく理解していたということを示しているように思える。

皇帝服を着た徳川慶喜

ついでに言うと徳川慶喜の40歳ごろの写真はカメラに対して正面を向いており、肖像写真の一般的なポーズだったあさって方向を向いたものではなく写真を見る側と目が合うように撮影されている。

40歳ごろのもの。カメラに視線を合わせている。

たとえば映画女優のポスターでは、第二次世界大戦ぐらいまではどちらかと言うとあさっての方向を向いて撮影されているものが多く、それらは彫像的な美しさを追求する効果を狙っていたが、戦後になってたとえばオードリー・ヘップバーンのようにカメラと視線を合わせて人間的な個性を表現する効果を狙うものへ変化したという内容のものを以前読んだことがある。徳川慶喜の場合、明治の中頃までにカメラと目を合わせるという次世代の肖像写真にまでリーチしていたと言うことができるので、なるほどこの人物は只者ではないと私の思考あらぬ方向へ漂っていったのだった。







(使用した写真は最後の一枚を除き、wikipediaに掲載されているものです。権利関係に問題が生じた場合は削除します。最後の一枚は静岡美術館のサイトhttp://shizubi.jp/exhibition/131102_03.phpに使用されているものを拝借しました。権利関係の問題が生じた場合は削除します)

明治天皇と徳川慶喜

明治天皇と徳川慶喜が会見したのは明治31年ですが、司馬遼太郎さんの『最後の将軍』では徳川慶喜は明治天皇との会見にはあまり乗り気ではなく、いろいろ理由をつけて拒もうとしましたが、当時確立されつつあった新政府のいろいろな慣習を無視して、慶喜は紋付き袴で会見するということで実現したとしています。

一方の明治天皇の方は周囲に「慶喜から天下を奪ったのだからな」と話したことがあるらしく、明治天皇も年上の徳川慶喜と会うということについては心理的なプレッシャーを感じていたことを伺わせます。江藤淳先生は「日清戦争の勝利の後で慶喜に会ったということは、それまで明治天皇が新国家の君主として自信を持つのに時間がかかったことを示している」というようなことを書いていて、なかなか穿った見方だと思いますが、やはり明治天皇がプレッシャーを感じていたということを述べていると言えます。

この会見が成立した背景には勝海舟の奔走があったと言われており、勝海舟は「(慶喜は)天皇に会ったことで得意になっている」と語っており、その言いたい放題ぶりと我田引水ぶりを遺憾なく発揮していると評することができるのではないかと思います。

徳川慶喜は明治維新後にわりと早い段階で朝敵指定を解かれていたものの、静岡県でひたすら趣味に生きる日々を送っていましたが、この会見によって徳川慶喜家の創設が許され、爵位も与えられ、慶喜も東京に居宅を移すことになります。名誉が完全に回復されたということもでき、晴れて天下の公道を歩けるようになったと言ったところでしょうか。公式な会見の後は明治天皇夫妻と炬燵に入り、皇后からお酌をされたということですから、通常では考えられないほどの特別な扱いを受けたことが分かります。

勝海舟は他の大名と交際すると格が落ちるので、そういうことはしないようにと助言されていて、慶喜はよく守り、旧幕閣とも交流は盛んではなかったようです。老中だった板倉勝清が静岡県で面会を申し込んだ時はそれを拒否しています。松平春嶽との親交だけは確かに続いたようで、慶喜が書いた西洋画が松平春嶽に贈られたこともあったようです。松平春嶽は一緒に幕政改革に取り組んだ仲で、京都で新政府が誕生した後も、慶喜切腹論が持ち上がった際には明確にそれについては反対していましたから、互いに深い友情を感じていたのかも知れません。

維新後、慶喜は政治に一切かかわろうとしませんでしたが、現役時代の八面六臂ぶりからは政治に対する情熱を充分に持っていたとも思えますので、旧幕閣とも会わず、趣味に生きていたその生活の様子に心中をいろいろと想像してしまいます。






関連記事
鳥羽伏見の戦いと徳川軍の敗因
長州征討戦の幕府の敗因
徳川慶喜と近藤勇
司馬遼太郎『最後の将軍‐徳川慶喜』の頭がいいだけの男の姿

ファッションリーダーとしての明治天皇



明治維新を経て日本は西欧化の道をまっしぐらにひた走りますが、そのことについて明治天皇の存在を抜きにしては語れないのではないかと思います。明治天皇はまず髷を切り、次いで洋服を着て写真を撮り、すき焼き(というか牛鍋かな)を食べて「美味である」と言い、あんぱんも食べています。要するに今後の日本人のライフスタイルはかくあるべしということを示したわけで、ファッションリーダーを担っていたということも言えるのではないかと思います。

私は個人的には明治維新は薩長藩閥が政治をワタクシするために岩倉具視と一緒に天皇を担いだのだと理解しているのですが、イメージ戦略と実際政治の間にかなりのギャップがあり、創業者世代はギャップがあるということを分かったうえで上手に協力しあってギャップをうまく埋めていたのですが、その次の世代以降、そういう裏側を知らない世代が「統帥権がー」とか言い出していろいろ狂いが生じて来たのではないかと考えています。明治憲法下では権力が誰にも集中しないように、要するに独裁者が生まれないように工夫されていて、あれはあれでなかなか良く考えられたものであり、問題は運用にあったわけですが、やはり創業者世代は分かって上手に運用していたのが、後の世代で崩れてきたという印象です。

明治憲法では演出上、天皇は「神聖にして万世一系で陸海軍の統帥権を持つ日本の統治者」というロシアのツアーリかと見まごう如き堂々たる大皇帝ですが、実際の権能はほとんどないに等しく、重要なことは明治維新の功労者が決めていく、明治天皇が嫌がっても日露戦争とかやってしまうわけです。国民はそんな内情については知りませんので、伊藤博文が料亭で決めたことを「大御心」だと信じているという構図が生まれたとも言えますが、それぐらいの演出をしておかないと伊藤博文や山県有朋が元老政治をしていることの正統性を示すことが難しかったのだろうと思えるのです。

しかしながら近衛文麿、東条英機の世代になると創業者の上手な知恵が失われていますので、政治家が軍事に口を出すのは統帥権の干犯だという暴論がまかり通るようになります。戦争は政治の延長線上にあるというか、政治そのものと言ってもいいくらいのことですから、政治家が軍をコントロールできないというのはばかげた発想としか言えないのですが、「天皇という絶対的な存在だけが軍に命令できる。政治家ごときが軍に口を出してはいけない」というレトリックにみんなが縛られていくようになったように見受けられます。憲法はその条文を常識というかコモンセンスで判断しなくてはいけませんので、政治家が口を出せないというのはコモンセンスに反しており、非常識としか言いようがないのですが、創業者がその辺りを曖昧にしておいたことのツケが次の世代に回って来たとも言えるのではないかと思います。

最後にブログですので、タブーに触れるつもりで明治天皇すり替え説について、ちょっと意見を述べたいと思います。私は明治天皇のすり替えは無理だと思います。そんなことをしたら絶対にばれると思います。明治天皇を毛利氏が匿っていた南朝系の人物とすり替えたというのがまことしやかに語られることがあり、天皇家は幼少期に別の家に里子に出すので、朝廷の人は明治天皇の顔を知らなかったから可能だったということにされていますが、里子に出すのは幼少期のほんの数年だけで、里子に出す先も同じ公家社会の隣の隣みたいなところに出すわけですから顔は当然公家社会では知られています。西園寺公望が明治天皇の遊び相手をしていたこともあります。平安時代の源氏物語の延長みたいな社会ですぐに噂が広がるわけですから、親王のすり替えみたいなことがまかり通る余地はないと思いますので、すり替え説を私は信用していません。

関連記事
徳川慶喜と孝明天皇
古川隆久『昭和天皇「理性の君主の孤独」』の昭和天皇の晩年
原田眞人監督『日本で一番長い日』の阿南惟幾と昭和天皇