織田信長の最終的な目的は何だったんでしょうか?争いのない平和な世の中の実現?天皇になり代わる?

信長は日本平定を実現した後は、中国大陸へ攻めていくことを考えていたらしいんですね。で、リアリストの信長が、本心で世界制覇的なことを構想したかと考えてみると、ちょっと怪しいと思えてしまってなりません。だとすれば、中国大陸に戦争に行く真の狙いは、日本国内は息子たちに統治させるとして、明智光秀羽柴秀吉徳川家康のような、やたらと優秀で織田の天下を狙いかねない、日本平定後は用済みの武将たちをていよく大陸に送り込んで全滅させようと目論んだのではないかという気がしなくもありません。秀吉が朝鮮出兵したときに家康が白けていたのも、そもそもの信長の大陸侵攻案の真の目的を見抜いていたからだつたとすれば、そのことから、なかなか香ばしい、人間関係の複雑さを感じ取れると言えるのではないかなと思います。




久秀君や光秀君に裏切られました。私には何が足りなかったのでしょうか?

Quoraにて『久秀君や光秀君に裏切られました。私には何が足りなかったのでしょうか?』との質問をいただきましたので、以下のようにご返答いたしました。

足りなかったのはコミュ力とさせていただきます。

私はある時、ふと気づいたのですが、信長は桶狭間の戦いのメンバーのことは非常に深く信用していた一方で、それ以外の人のことはほぼ誰も信用していなかったと思うのです。秀吉が桶狭間の戦いに参加していたかどうかの確証はありませんが、秀吉本人がその経験をアピールしていたのも、おそらくは信長の寵愛を得られるのは桶狭間メンバーだけだと気づいていたからではないかという気がします。

桶狭間の戦いという極めて希少な経験を共有した人のことしか信用できなかったということを現代風に言うと、元甲子園球児が大人になっても当時のメンバーだけと仲良くし続けているような状態が続いたということになるのではないかと思います。

さて、このような信長の偏愛的性格は当然、桶狭間の戦い後に信長の部下になった武将たちには気づかれていたに違いありません。偏愛の楽しみは、偏愛されない人間たちを、はっきりと分かるように違った扱いをすることにあるとすら言えるからで、信長もおそらくそうしたことでしょう。しかも表面的な地位や報酬はしっかりと十二分に与えた上で利用し、働かせ、決して愛を与えないという高等なサディスティック心理戦略が採られていたと考えるべきで、松永久秀も、明智光秀も、はじめのうちは、このように厚遇してくれる人のもとで働けることになって良かった、天下を獲る武将の下で働けて光栄だと思ったかも知れませんけれど、だんだん、愛だけは決して与えられないという事実に気づき、煩悶し、信長を見捨てる決心をしたのではないかと私には思えるのです。

松永久秀の場合、信長がほしがる茶器と一緒に爆死したわけですから、それをとってみてもどれほど粘着質な関係性が両者の間に存在したかが想像できます。信長は松永久秀よりも茶器をもっと愛していて、それをそうだと周囲の人にも分かるように振る舞っていたに違いありません。松永久秀は愛されなかったことの復讐をあのような形でしたのではないかという気がします。

信長はその最晩年になると、桶狭間メンバーも見捨て始めます。おそらくは武田も脅威ではなくなったので家康も殺していいし、他のメンバーがいなくてもやっていけると勘違いしたのかも知れません。となると、実は桶狭間メンバーを本気で信用していたかどうかも怪しいのですが、いずれにせよ、そういう本当に大切にしなければならないはずの長年の部下を追放したりし始めるわけですね。それを見た明智が、おっしやってやろうと思ったとして私にはなんら不思議ではないのです。明智光秀ほどの慧眼の持ち主であれば、信長の強さの本質が桶狭間メンバーとの結束の強さにあったことに気づいていたはずですし、且つ、信長がそのようなメンバーを見捨て始めたということは、信長が勘違いをして自ら最大のパワーの源を棄てている状態になっているとも気づいたでしょう。そういうわけですから、私は明智光秀単独犯で本能寺の変は説明できると考えています。

で、最後についでになるんですけど、足利将軍についても少しだけ触れておきたいと思います。足利義昭は信長の協力で上洛し将軍になった後も信長をよく慕い、あなたはお兄さんか父親のような存在だと手紙に書いたりしています。そんなことを後世の資料としても残るであろう将軍名義の手紙にしたためるくらいですから、本当に信長には心理的な親密さがあったのだと思います。さて、信長はコミュ障ですから、そこはほれ、「俺、お前のことに人間的な愛情は感じてないから。将軍にもしてやったんだから、後は俺の命令通りにすればいいし、命令は手紙でするから、そもそも会う必要もなくね?」くらいの突き放しがあったのだと思います。ですから、足利義昭は駄々をこねる幼児のような心境で信長を殺せと武田信玄や上杉謙信に手紙を送ったのではないでしょうか。信長が不死身だとどこかで思いこんでしまっていて、本当に不死身なのかどうかを確かめようとしたのかも知れません。

長くなってきたので、そろそろ終わりますけど、考えてみると、信長って誰かに似てるなあと書きながら思ったんですが、昔の小沢一郎さんにそっくりです。昔の小沢一郎さんは眩しくてみんなに恐れられて、そしてとても愛されていました。過去30年の日本政治は小沢一郎とともにありました。そして見事に、与野党を含むほぼ全ての人が疲れ果ててしまい、彼から離れて行きました。私、ここまで書くのは小沢一郎さんが好きだったからですよ。

本当に長くなってしまいました。すみません。



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明智光秀の動機-信長、死す

明智光秀が本能寺の変を起こした動機を考えるということに、今回は集中してみたいと思います。織田信長は最多出場で、信長のことは今回が8回目なのですが、今回で信長は最後になります。

で、光秀の本心を考察してみようという試みなわけですが、私は明智光秀単独犯行説でかなりのことを説明できると思います。あえて黒幕を設定する必然性はそこまで高くないのではないかなと思います。とはいえ、光秀をけしかけた人々はいたと思いますから、後半ではそこまで踏み込んでみるつもりです。

これまでに何度か述べてきましたが、織田信長は桶狭間の戦いのときに部下だったメンバーをファミリーと思っているふしがありました。桶狭間の戦いのとき、信長はまだ弱小戦国大名ですから、このときに信長についてきたメンバーこそが心の友というわけです。もっとも、佐久間信盛や林道勝のように桶狭間メンバーでありながら信長の晩年期になって追放された武将もいたわけですが、それは信長が血迷った状態に陥ってきたという証左であって、人間が落ち目になるとおかしなことをやってしまうというような感じで説明するのが妥当なのではないかと思います。

何が言いたいかというと、明智光秀は信長ファミリーにとって外様ですから、利用できる間は十分な報酬を与えて利用するわけですけれど、それができなくなったらポイなわけです。明智光秀の側からいえば、信長にとことん忠義だてする義理もないので、場合によってはわりと簡単に裏切っていい相手ではあるということなんですね。明智光秀は家臣に対し、自分はまるでゴミみたいな存在なのに信長様に拾っていただいて一城の主にまでなれたのだから、忠義を尽くさなくてはいけないという趣旨のことを話したことがあるそうですが、これって要するにギブアンドテイクが成立しているということなわけです。ギブアンドテイクが成立しなくなれば、光秀はさっと信長から手を引いてもおかしくないわけです。で、本能寺の変が起きた時に、光秀はギブアンドテイクが成立していない状態になっていた可能性があります。たとえば、信ぴょう性はそこまで高くないみたいなんですが、信長は光秀に毛利攻撃を命じた際、国替えも命じていて、今光秀に与えいている知行は信長が接収する。光秀は毛利の領地を攻撃して占領した土地は全部自分の領地にしてもいいと約束したという話があります。要するに光秀にまだ陥落していない土地を与えると空の証文を与えて、今実際に手にしている土地は取り上げるということになりますから、光秀は一城の主にまで出世できたから信長に忠義だてするけど、そこの前提が崩れることになるので、だったら寝首をかいてやろうと思ったとしても不思議ではないんですよね。

さらに、光秀はただ単に自由に毛利を攻撃すればよかったかと言えば、そういうわけでもなかったんです。秀吉が毛利攻めで苦労しているから、光秀の本来の仕事は秀吉のサポート、ヘルプなんですね。自分の新しい領地を毛利から奪わなければならないという切迫した状態にありながら秀吉のサポートをさせられるわけですから、これでは誰でも頭に来ます。メンツも実利もめちゃめちゃになったわけですから。

もう一丁つけくわえるならば、四国の長宗我部という戦国大名が信長に接近しようとしたとき、明智光秀に間を取り持ってもらっています。明智と長宗我部は関係が近いんですね。で、信長は長宗我部の四国における優位を認めると約束したわけです。長宗我部は信長の同盟者になって、家康みたいな立場になる予定だったと考えていいと思います。ところが信長軍行くところ必ず勝利する状態が続きましたから、もう、長宗我部のご機嫌をとる必要はないと信長は思ったらしく、以前の約束は撤回で、四国に遠征軍を送り込む準備を始めます。本能寺の変が起きた時はすでに準備万端整っていて、出発を待つのみだったか、あるいはすでに先遣隊出発していたくらいの時間的接着性があるんです。長宗我部との間を取り持った明智光秀からすれば、メンツ丸つぶれなんですよね。しかも、領地召し上げ秀吉サポートという要件も重なってあるわけですから、やっぱり、光秀がぶちぎれしてもおかしくなわけですね。

しかも、偶然にも、信長がうっかりしていたのか、京都に大軍を率いているのは光秀一人。信長は少数でお茶会とかのんきにやってるわけですね。これは襲うしかない、千載一遇のチャンスというわけです。

もともと信長に義理のない光秀が、メンツ丸つぶれで利益も奪われて、不本意な業務に強制的に従事させられていて、信長は無防備。これはねえ、繰り返しになりますけど、そりゃ、やってやろうと思いますよね。というわけで、明智光秀単独犯行説は十分に成立すると私は思うんですね。長宗我部の話は四国説という風に言われたりしますけど、四国説は光秀の動機を説明するものであって、黒幕が別にいるというのとは全然違うものです。ですから、単独犯行説の一部を構成するものですね。

じゃ、他の黒幕説をちょっと考えてみたいと思います。

私は、信長に近い人間で、最も信長を殺したいと思っていたのは家康だと思います。徹底的にバカにされ、なめられ、戦場では見棄てられ、妻と息子は信長への義理だてのために殺さなくてはならなくなったわけですから、家康の心境を考えれば、信長を激しく憎悪して当然です。しかし、信長にとことん馬鹿にされていた男が、光秀のような織田家の首脳レベルの男に影響力を与えることは可能かと考えれば、かなり怪しいように思いまうす。家康に光秀をコントロールすることできたとはちょっと思えません。本能寺の変が起きたとき、家康は堺を観光旅行していて、こんなところでのんきに滞在していては光秀の部下につかまって殺されるとびびった家康は、大和の山中や伊賀地方を越えて三河に少数の従者だけを連れて命からがらたどり着いています。もし、家康が黒幕だった場合、家康の脱出劇はやらせとかポーズみたいなものだったと言えますし、ある種のアリバイ作りみたいな話になりますが、この場合、当初はやらせのつもりが、家康が少数の供回りしかいないことは事実なわけですから、誰かに襲われて殺されてもおかしくはありません。で、真相は闇の中、死人に口なしというわけです。実際、家康と一緒に堺にいて、別ルートで脱出をはかった穴山梅雪はこのときに殺されています。そんなリスクを、あの慎重な家康がおかすでしょうか?できるだけ運任せの要素を排除しようとして生きた家康が、そんなことをするとは私にはとても信じられません。ですから、家康黒幕説は全くないと思います。

では次に、イエズス会黒幕説はどうでしょうか?イエズス会がキリシタン大名を通じて光秀を動かし、信長を殺させたというものですが、イエズス会は信長の理解を得て信徒を獲得していたわけですから、信長を殺す必要は全くありません。豊臣も徳川もカトリックを禁止しましたが、それくらい危険視されかねないことは多分イエズス会もわかっていて、信長のような理解者は実に得難いとも思っていたはずです。したがって、イエズス会黒幕説もないと思います。

次に秀吉黒幕説ですが、これはありそうに見えてやっぱりないと思いますねえ。というのも、秀吉が天下を獲るというビジョンを信長が生きているときに持っていたようにはちょっと思えないんですね。これは、私の推量でしかないんですけど、秀吉は天下を獲ったあと、それからどうしていいかわからなくなって甥の秀次を殺したり、朝鮮と戦争を始めたりと、常軌を逸したと思えるようなことをやっています。ですから、やっぱり、天下はなんだか降ってわいたように手に入ったけど、十分に準備できていたわけでもないというのが、透けて見えるような気がしてなりません。だから、この説は個人的にはなしですね。

そして、これはある程度ありうると思うのが、足利義昭黒幕説です。私は足利将軍であり、信長に徹底的に抵抗した義昭が信長を討てと光秀に命令した場合、光秀の心が多いに動いたとしても全く不思議ではないと思うのです。光秀はそもそも信長に義理立てする理由はそこまでないわけですし、足利義昭は名目上の将軍としての権威を保っていて、光秀にとってはもともとは足利義昭こそご主人様なわけです。ぽっと出の信長より、義昭の将軍としての権威の方が、はるかに光秀に対して説得力を持ったのではないでしょうか。それがすべてではないですし、義昭に遠大な構想があったとも思えませんが、光秀が本能寺の変を起こすための背中を押したということは十分にありうると思います。

それから、やはり外せないのが朝廷黒幕説ですね。十分にありうると思います。光秀にこっそり「やっちまえ。信長、やっちまえ」と吹き込むお公家さんたちがいて、光秀の心が動いたというものですね。光秀は教養のある人だったわけですから、お公家さんたちのありがたみをよく知っていて、歴史の知識が深ければ、信長がぽっと出だということもよくわかっているわけですから、朝廷の権威にひれ伏し、信長を殺す
決心をした、少なくとも背中を押されたということはあり得るというか、多分、そうだったんじゃないかなくらいに思えます。朝廷としては、前回も述べましたが、信長という不気味な男は殺してしまって知らぬ顔をしたいと思っていた可能性はありますし。ですから、光秀が信長を殺した後は、お公家さんらしく責任をとりたくないので、光秀を見棄てたとしても、あり得ると思います。

そのように思うと、朝廷と将軍という信長以前から存在した2つの権威の意向を受けて、まあ、光秀が忖度して本能寺の変を起こしたものの、その後のことについては朝廷も将軍もしれっと知らぬ顔を通したために、光秀は見捨てられて孤立したまま秀吉に敗れてしまったというのが真相だったのではないでしょうか。

以上は、私がそう思うというだけですから、今回も、歴史の謎について想像して楽しむという感じで受け取ってもらえればいいなと思います。今回は信長の死を扱いましたが、推理を楽しむことに力が入ってしまい、レクイエムという感じにはなりませんでした。しかし、これは信長がそれだけ凄い男であったということの裏返しですから、信長への賛辞であると、信長ファンの方には受け取っていただければ幸いです。




明智光秀の自分探し

明智光秀はルーツや経歴が分かったような分からないような不思議な人物で、人物評価も一定しない。本能寺の変の実行犯であることは確かだが、『信長の棺』などで描かれているように、最近は光秀の他に黒幕がいたのではないかという話が流行しており、そっちの方がおもしろいので支持が集まるという構図ができあがっていると言える。

これは、戦前に秀吉が忠臣として高く評価されていたことと関係がある。明治新政府は徳川政権の否定を徹底する必要があったため、明治維新と一切関係のない豊臣秀吉を持ち上げた物語を流布させる必要があった。私が子どものころは戦前の教育を受けた人がまだまだ世の中を仕切っていたので秀吉は立派な人説が流布しており、私も『太閤記』の子供向け版みたいなのを読んで、頭が良くて心がきれいな豊臣秀吉は立派な人だと刷り込まれていた。秀吉は織田信長と良好な人間関係を築き、家臣としても誠実に仕えていて、その誠実さはどれくらいかというと信長が死んだあとに光秀と取引せずに打ち取ったのだからこの上もなく立派な人でそりゃ天下もとるでしょう。というような感じの理解になっていたので必然的に光秀は主君を殺した挙句に自分もやられるダメなやつ説を採用することになる。

やがて時代が下り、21世紀に入ってから秀吉善人説はほぼ姿を消したように思える。光秀を倒した後の秀吉の行動は人間性を疑わざるを得ないほど冷淡で打算的であり、知れば知るほど織田政権の簒奪者だというイメージが強くなってくる。そこから光秀が悪いのではなく裏で糸を引いていたのは秀吉なのではないか、いやいや、家康でしょう、いやいや義昭でしょう、いやいや五摂家でしょうと話がいくらでも散らばって行くのである。

大学で光秀についてしゃべらなくてはいけない時、私は上に述べたような事情をふわふわと考えて、毎年視点を変えてみたり、学生へのサービスのつもりで様々な陰謀説があるという話をしたりする。で、なんとなく光秀の肖像画を見ていて、新しい視点を得た気がしたのでここに備忘のために書いておきたい。憂鬱そうな光秀の表情は自分探しをする学生にそっくりでだ。

明智光秀の憂鬱そうな表情。肖像画はその人の内面を語ることがしばしある。

私は自分探しをする学生を否定しない。大学の教師になるようなタイプは大抵自分探しに時間を浪費するからだ。大学院に行く時点で他の同年代とは違う人生を歩むことになるし、更に留学とかさせてもらったりとかするので他の同世代とは人生に対する姿勢や考え方が広がる一方だ。なので、そういう学生の気持ちは私はよく分かるつもりでいる。

それはそうとして、明智光秀の肖像画を見ていると、ああ、この表情がこの人物の人生を語っているのだなあという心境になった。写真のない時代、絵師は人物の特徴を懸命に肖像画に書き込もうとする。信長、秀吉、家康の肖像画はそれぞれの絵師がその人物の特徴を懸命にとらえて描いたものだと説明すれば分かってもらえると思う。家康と慶喜は目がなんとなく似ていると私は思うのだが、家康の絵師がその特徴をしっかりと捉えていたからだと言えるだろう。

光秀はいつ生まれたのかもあまりはっきりしないし、土岐源氏ということになっているがどんな風に育ったかもよく分からない。ある時から朝倉義景の家臣になり、ある時から足利義昭の家臣になり、ある時から信長の家臣になるという渡り歩き方をしている。深い教養で京の公家たちとも親交があったとされるが、その割に雑な人生を送っているとも言える。想像だが戦国武将は仁義がなければまかり通らない。仁義のないものは後ろから刺されて終わるはずである。光秀の渡り歩き方には仁義がない。義昭の家臣と言っても足利幕府に累代で仕えてきたとかそういうのではない。現代風に言うと大学院から東京大学なのだが、東大ブランドを使うみたいな目で見られていたに相違ないのである。そして彼の憂鬱そうな表情からは、そうでもしなければ人生を這い上がることができなかったのだという彼だけの心の中の真実も見えて来るような気がしてならない。

そう思うと、信長を殺そうという大胆な発想を持つ人間が当時いたとすれば、光秀くらいなのではないか、従って黒幕などというものは存在せず、光秀単独犯行説が実は最も正しいのではないかと最近思うようになった。このブログは私が思ったことを書くのが趣旨なので了解してもらいたい。

秀吉は臨機応変に動くことができるが、自分から大きく物事を構想して操るタイプとは言えない。深い企てを考えるタイプであるとすれば朝鮮出兵のような誇大妄想的行動は採らない。信長が死んだからいけるんじゃねと踏んだのであり、信長を殺すというようなリスクをとるタイプではない。

家康も信長を殺したかったかも知れないが、リスクをとるタイプではない。朝廷も言うまでもないがリスクはとらないし、信長が朝廷を廃止しようとしていたから背後には朝廷が動いたというのは証明できない前提を幾つも積み重ねた結果生まれてくるものなので遊びで考えるのはいいが本気で受け止めることはできない。義昭黒幕説もあるが、義昭には影響力はなかった。

光秀を現代風に表現すれば新卒であまりぱっとしない企業の総合職に滑り込み、転職を重ねて、途中は公務員をやった時期もあって、気づくとグーグルとかアップルとかアマゾンとかソフトバンクみたいな新時代の企業の役員にまで出世したような感じになるはずで、わざわざボスを倒してまで実現しなければならないことなどあるはずがない。だが、自分探しを続けていた(たとえば私もその一人であって、ここではある程度の自嘲を込めているので了解してほしい)タイプは、大胆なことをやってみたくなるのである。光秀が大胆なことをすれば自分が抱えている小さな悩みを解決できるかも知れないというリスキーな思考方法を選ぶタイプだったとすれば、それで充分に、いろいろなことの説明がつくのではないだろうか。