熊井啓監督『千利休 本覚坊遺文』の静かだが激しい男の意地

熊井啓監督の『千利休 本覚坊遺文』では、千利休の弟子の本覚坊と織田有楽斎が、利休の死の真相について語り合います。二人にとってそれは必ず解き明かさなければならない謎であるにもかかわらず、どうしても真相に辿り着くことができません。何故なら、千利休が死んだのは、秀吉との間で起きた意地の張り合いの結果みたいなもので、そういうことになると利休と秀吉の間のことを想像で埋めていくしかないからです。

本覚坊と織田有楽斎は、古田織部や山上宗二の思い出を語りながら、見聞きしたことを想いだし、そこから利休の心境に迫ろうとしていきます。利休が秀吉に切腹を命じられたことは今も様々な想像や推量があるものの、はっきりとしたことが分かっているわけではありません。諸事情から想像するしかありません。それは或いは利休が茶聖の立場を利用して暴利を得たということかも知れません。それとも、寺の門に自分の木造を置いたことかも知れません。しかし、それはわざわざ切腹するような騒ぎに発展するような話ではありません。

利休が秀吉に対し、朝鮮出兵に関して意見したのではないかと本覚坊は推理します。それもあるかも知れません。しかし、おそらくは意地の張り合いで利休が見事に死んでみせた、ということに見えます。文字通り、命をかけて意地を張りとおしたということかも知れません。

映像に無駄がありません。お茶のお作法について私はよく知りませんが、多分、完璧にお作法を研究し尽くしたうえで作品が作られています。建物がきれいです。山の中の小さな庵だってもきれいです。小さな庵には小さな庵の美学があります。画面の一つ一つを見逃すのがもったいなくて瞬きするのもちょっと躊躇するほどです。無駄な台詞がありません。座る姿で多くのことを語ります。静かです。しっかり論じなければならないところは有楽斎が論じます。静と動の区分が明確です。本覚坊は利休の思い出を抱きしめて一人わびさびの人生を送ります。わびさびは難しいです。誰にも説明できない、定義のないものなので論じることができません。お茶と座禅は似ています。違うとも言えます。どっちもありです。禅問答ほど面倒なものはありません。

本覚坊は死んだ利休と、いわば念力で通信しています。利休の心を探っています。人は心でつながりあっているとも言えますし、五感を脳で処理して理解する以上、完全に孤立しているとも言えます。にもかかわらず、孤立した完全なシステムなのに他人の心と通じ合うことができます。本覚坊は日々思う中で、思い出の中の利休と対話し、秀吉との確執について「ああ、こういうことだったのか」と気づいていきます。有楽斎もその都度聴かされてなるほど納得という風になっていきます。中村錦之助が有楽斎をやるのがとても合っています。趣味人風でありながら武人風の鋭さも持っています。知りたいと懸命に願っていることは、ある時、ふと情報が入ったり、天啓のように気づいたりして謎が解けるということは私にも経験があります。本覚坊と有楽斎はそのようにして利休の秀吉に対する意地のひだのようなものを見つけていきます。

利休役の三船敏郎の賢者な感じがハンパありません。凄まじく崇高な人に見えます。若いころは『羅生門』みたいにやんちゃ風が似合い、年齢を重ねたら賢者が似合うのですから、うらやましいことこの上ありません。最後は利休が言いたいことを最後まで言い切ります。論争のある、意見の違うことでここまで言うのは作者の勇気です。素直に尊敬します。

私の推量ですが、弟子の山上宗二が小田原で秀吉に殺された時から、利休と秀吉の間には不協和音が起きたのではないかなあと思います。信長の茶頭をして秀吉の茶頭をしたような人ですから、秀吉が信長の政権を簒奪したことはリアルタイムで知っている人ですし、それでも秀吉と手を携えて出世していくのですから、それなりの生臭さも持っている人だったと思います。だから互いに利用し合って本来はそれでよかったはずなのです。ですが、山上宗二が殺された後は、犯してはいけない領域に秀吉が入ってしまった。以後、利休は茶の席の度に殺意を持たれるくらいに秀吉を侮辱し続けた。のではなかろうかという気がします。遠藤周作が大友宗麟について書いた『王の挽歌』でも、野上弥生子の『秀吉と利休』でも、そこは外せないポイントなのではなかろうかなどと思います。

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映画『羅生門』の陰影と顔芸と成功する人生

黒澤明監督の『羅生門』がどれほどよくできた傑作かということについては、もはやここで語るまでもないことです。何度みても、その良さにひきこまれ、何回もみているのにもったいなくてよそに目を向けることができません。本当にいい作品です。

なんと言っても陰影の映像美が素晴らしいです。空、雲、太陽、木漏れ日、人の顔、立ち姿。白黒映画なので全部陰影ですから、当たり前と当たり前ですが、白黒のパワーが全開です。立つ姿だけで物語ることができます。台詞がなくても物語ることができます。男の走る姿、女の座る姿、台詞を必要としないエネルギーに満ちています。谷崎潤一郎の言う陰影礼賛が映画になったらこういう感じか、と思ってしまいます。

三船敏郎の顔芸が素晴らしいです。強さも弱さも余裕も窮地も顔で表現できています。顔の彫りが深いからかも知れません。表情だけで物語ることができます。この点は『エリザベス』にも共通したものです。もうちょっと言うと、動きと表情が男のエロスに満ちています。天分なのかも知れません。訓練ではカバーし切れないものを持って生まれてきた人と言ってもいいのではないかと思います。人生とはそういうものかも知れないです。人生で成功するためには「こんな風になりたい」と憧れをもって努力するよりも、自分の天分を見極め、天分のあるものを突き詰めていく方が効率がいいかも知れないということをこの映画を観ると考えてしまいます。

殺される武士の役の森雅之の彫りも深いです。しかし、顔芸が三船敏郎ほど豊かではありません。怒っている時も悲しんでいる時も喜んでいる時もあんまり変わりません。喜怒哀楽の変化を感じさせません。もし、三船敏郎と森雅之のどちらか端整かと問えば、文句なしに森雅之です。彫刻のように美しい顔をしています。しかし、弱さが似合いません。森雅之タイプが弱さを見せれば、単に情けなく見えてしまいます。一方で三船敏郎が弱さを見せるのも絵になります。かわいいやつに見えます。『七人の侍』でも『椿三十郎』でも時々見せる弱さや困惑が魅力的に映ります。男も女も三船も惚れます。弱さが絵になるというのは実にうらやましいことです。無敵です。やはり、これも天分と考えるのが妥当のように思えます。

京マチ子の顔芸もいいです。京マチ子はちょっとだけ雰囲気が田中裕子に似ていると思います。異論もあるかもしれないですが、仮に原節子や吉永小百合を引き合いに出すとすれば、田中裕子に近いと思います。私の好みが影響していますので、異論のある方に対してはすみませんとしか言えません。泣いても笑っても怒っていても絵になります。京マチ子の説明不可能な魅力は三分の一は訓練、三分の一は魂、残りの三分の一は持って生まれた顔の造形に原因するものではないかと思います。人間が生まれた後で伸ばすことができるのは訓練だけですから、どんなにがんばっても天分のない人は京マチ子になれません。私がいかに努力しようと三船敏郎になれないのと同じです。

霊媒師の岸田今日子が恐いです。本領が発揮されています。絶賛以外の言葉はありません。

誰がどの役にふさわしいかを見極めて適材適所した黒澤明が最終的には一番凄いということなのかも知れません。晩年の『夢』とかぶっちゃけそんなにおもしろくないですし、『乱』もちょっと多弁ではなかろうかと思わなくもありません。そういう意味では『羅生門』は監督の才能、役者さんやスタッフの巡りあわせ、時運の全てがかっちりと合わさって生まれた奇跡とも言えそうな気がします。

人生の成功は持って生まれた天分の見極めにあり、と言えるのではなかろうかと、今回改めて『羅生門』を観て思った次第です。

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原田眞人監督『クライマーズハイ』の地方紙記者のカッコよさと日本の戦後

原田眞人監督の『クライマーズハイ』は、横山秀夫さんの原作とは大事なところで違いがありますので、その辺りを中心に述べてみたいと思います。

映画でも原作でも、新聞記者の世界が描かれているという点では同じです。私は地方紙の記者ではありませんでしたが、支局にいたころの感覚は近いものがあったように思います。地方の記者は中央の記者のようにぱっと華やかな場面を取材することはあまりありません。地道で地域に密着していて、地元の人と一緒に生きています。土地と一緒に生きる新聞記者が土地の人となれ合うことは決して珍しいことではありません。それゆえに、なれ合わず、ジャーナリズムをやるという矜持を保たなくてはいけません。小さな事件、地元のイベント、目立たないスポーツ大会にであってもジャーナリストとしての矜持とともに取材に行きます。そこがかっこいいのです。大きな事件、有名な事件を扱わなくても矜持を保とうとするからかっこいいのです。尊敬できるのです。

『クライマーズハイ』では、日航機墜落事故の時の架空の地元新聞社が登場します。残酷な事故に地元の記者たちは浮足だちます。大きな事故の現場に取材に行けるからです。不謹慎ですが、新聞記者はそういうあたりが不謹慎になるようにできています。「不謹慎だ」とは思いますが、ああ、新聞記者はこんな風に浮足立つのかというのがよく分かります。編集で怒号が飛び交います。雰囲気がとてもよく出ています。共同通信とNHKの報道を適当にいじって独自の記事みたいに装う場面も「あぁ、わかるわぁ」と思います。

当時、現役で報道の仕事をしていた人から日航機墜落事故の取材の経験を聞かされたことが何度もあります。彼らにとっては「勲章」なのです。この映画では日航機事故に絡む、いわゆる「陰謀論」も目立たないように、しかしはっきりと触れています。「原田監督が触れているのだから本当かな」と私は思ってしまいそうになるのですが、知識不足なので判断することができません。

新聞記者は読者の存在を忘れがちです。人間関係が狭く、業界の人と取材先の人(県庁とか県警の人)に限られてくるので、その人たちが読んでどう思うかだけに関心が向きがちです。自分の書いた記事が他社の記事より詳しいか、他社の記者が知らないことを自分は書くことができたかどうかに意識が向いてしまいます。売り上げと記事の内容は関係がないので、読者の存在を忘れます。映画でも原作でも、事故被害者の遺族の人が新聞がほしくて新聞社に来ます。編集の人は「ちょっと邪魔なんですけど」と言わんばかりに追い払います。主人公の悠木という記者が追いかけて新聞を手渡します。記者は普通の人、普通の読者に寄り添えるかという、実は一番大切かも知れないことが挿入されています。

原作では悠木記者が子どもだったころ、家が貧しくてお母さんが客を取っていたというエピソードが書かれています。映画ではお母さんはアメリカ軍の兵士を相手にしていたと少し変更が加えられています。この変更で、映画だけの持つ意味がぐっと深まります。日本の戦後を語る上で不可欠なアメリカというタームが登場します。私たちがどういう時代を生きているのかを短い場面でさっと問いかけています。

また、映画では悠木記者の息子がヨーロッパで育ち(離婚して元奥さんはスイスに行ったのについていった)、白人の女性と結婚してニュージーランドで牧場を経営しているという場面が最後の方に短く入っています。奥さんの白人の女性は決ずしも目の覚めるような「美人」というわけではありません。普通の人です。それ故にこの息子さんが「西洋」の幻影を追うような人生を送っているわけではないことが分かります。普通に出会い、普通に愛を育て、普通に努力し、懸命に、でも多分幸せに生きていることが分かります。悠木記者のお母さんはアメリカ軍の兵隊に買われる存在でしたが、息子さんは愛情によって西洋の人と結ばれています。その間にある乗り越えるべき何かを息子さんは乗り越えたということを暗示しています。今を生きる日本人の私たちに、そういう何かを乗り越えて行こう、乗り越えるべきだ、乗り越えられるというメッセージを監督が込めているように私は感じます。

原田眞人監督の映画は『バウンスkoGALS』の時から一貫して、戦後の日本を問いかけています。近代の日本にとって西洋は欠かすことのできないタームであり、戦後の日本にとってアメリカは欠かすことのできないタームです。『バウンスkoGALS』の主人公がアメリカに留学するとはどういうことか、私たちの人生にとってアメリカとは何かを考えてほしいと言っているように私には感じられます。『おニャン子危機一髪』はみてないのでわかりません。

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鈴木清順監督『カポネ大いに泣く』の日本とアメリカ

鈴木清順監督の作品の中で、最も有名なのは『ツィゴイネルワイゼン』だと思いますが、個人的なベストは『カポネ大いに泣く』です。田中裕子が美しいです。ショーケンが若くてたくましいです。

映画のオープニングでは20世紀初めごろのアメリカの映像が使われています。遊園地で遊んでいる人々や飛行機に乗って楽しんでいる人々が映っています。日本人にとってアメリカとはこういうものだということを表現しているのだと思います。不思議な道具を使って楽しく人生を謳歌する人々が昔の日本人にとってのアメリカ人です。眩しき別世界です。

田中裕子とショーケンが夫婦でサンフランシスコに渡ります。悪いやつに騙されて田中裕子は娼婦になり、ショーケンはアメリカで浪花節をやります。歌舞伎でも能でもなく浪花節というところが渋いように思います。沢田研二がショーケンと田中裕子を助けます。阿藤海が広東語をしゃべっています。今見れば、阿藤海さんが出ているだけで泣けます。たこ八郎さんが出ています。泣けます。

ショーケンは世間知らずです。夜の大統領と昼の大統領の違いが理解できません。アメリカで一番偉い人の前で浪花節がやりたいと思い、夜の大統領のアルカポネの前で浪花節をやります。細かいことを計算をせず、真っすぐに、純粋な天真爛漫さだけで突き進みます。それがこの人物の魅力なのです。禁酒法の時代に酒の利権をめぐってアルカポネと日本系マフィアが抗争します。日本系マフィアはほぼ皆殺しです。アメリカの大ボスには勝てないのです。アルカポネはチャックウイルソンがやっています。懐かしいです。

田中裕子が事故で死にます。ショーケンはアメリカ人の愛人と暮らします。戦争が始まり、日本人と日系人は収容所に入れられます。愛人の手引きでショーケンは脱走します。そして最後に切腹してあの世の入り口で田中裕子と再会します。切腹は痛すぎてショーケンは悶絶します。「こんなはずでは」と口走ります。切腹に興味津々だったアメリカ人の愛人は驚いてどこかへ逃げてしまいます。なぜ切腹しなければいけないのかという謎が残ります。映画に謎解きはありません。何度も観て考えなくてはいけません。全てにおいて勝るアメリカ人に日本人が自己表現を挑むとすれば、切腹しかなかったのかも知れません。或いは切腹は外せないのかも知れません。『戦場のメリークリスマス』と同じです。

アメリカロケは一切しなかったそうです。横浜で撮影しています。あ、京浜東北とか思います。日本で十分にアメリカを見つけることができる、日本の近代とはどういうものかを考える材料にしてほしいと言っているように思えます。

玉乗りが素晴らしいです。田中裕子の三味線も本当に弾いています(と思います。撮影の時に本当に弾いていると思うのですが、音と手が時々合っていない箇所があるので、三味線の音はアフレコとかなとも思います)。浪花節とジャズのセッションがあります。様になっていて渋いです。細部にエネルギーが使われているので何度観ても新しい発見がある映画です。

『かもめ食堂』の覚悟と孤独と救い

『かもめ食堂』は女性を中心に絶大な支持を得た伝説的な映画です。私も周囲の人に聞いたら、女性はだいたい「とても好きだ」と答えます。友人の中には『かもめ食堂』の影響で新婚旅行にヘルシンキに選んだという人もいます。

男性からはそこまで支持されているとも感じませんが、男性でも、何度も繰り返し観るうちに小林聡美さんの凛とした役に共感や感情移入ができるようになると思います。ヘルシンキで日本料理のお店をするというのはかなりの覚悟が必要です。お店を開けば固定費用がかかります。居酒屋さんならお酒で売り上げを伸ばすことができますが、このお店はそういうわけでもありません。ロンドンやパリのようにチャラい夢見がちな場所でもありません。日本人目当ての商売でもありません。正々堂々真っ向勝負でストックホルムの人を相手に日本食で商売しようという静かな冒険です。客は集まらないと思うのが普通です。主人公はお店を構えて客が来ないなら無理して集めないという姿勢を貫きます。内心不安に違いありません。しかし、自分のスタイルは守ります。

もたいまさこさんが「いいわね。好きなことをやっていらして」と言うと小林聡美さんは「嫌いなことをやらないだけです」と答えます。さりげない会話ですが、壮絶です。嫌いなことをやらないと覚悟して、いろいろ捨てて断捨離したら、ヘルシンキで日本食屋さんをする選択肢が残ったというのは壮絶な人生です。日本で同じことをやるのは主人公的にはダメなのです。自分を貫いた結果、そうなってしまうというのは妥協なき人生という意味で憧れもありますが、そうでもしなければ生きられないという意味では背後にある苦しさを想像しないわけにはいきません。

私は片桐はいりさんが変な顔をしないで普通の役で出ているのをこの映画で初めて見たと思ったのですが、学生にみせると片桐はいりさんのアップで笑いが起こります。人の顔を見て笑ってはいけませんと注意しようかとも思いましたが、大学生はもう大人ですし空気を壊したくなかったのでわたしは気づかないふりをしました。自分の防衛を優先しました。ごめんなさい。

傷ついた人を癒す力がある作品です。アル中のおばさんが立ち直ります。逃げた男も帰ってきます。希望を与える作品です。実際には深い孤独が隣合わせです。映画を一回観ただけでは分かりません。しかし、何度も観ると行きずりの日本人の女性三人が肩を寄せ合い孤独と絶望に戦っています。緊張感を失くせば負けてしまいます。常に自分を保つ気力と覚悟が必要です。

最後は客でお店がいっぱいになります。客はみんな地元の人です。北欧の人が日本料理をおいしいおいしいと満足そうに食べる姿は理屈抜きに日本人の自意識を満足させます。そういう面は『カリオストロの城』に通じるものがあるのかも知れません。最後にお店が満席になるのは祈りのようなものだと思います。自分を貫き、信じて歩けばきちんと結果を出すことができるのが人生だ。人生とはそうであってほしい。ヘルシンキまで行って日本食屋さんをやらないと自己実現できないほど不器用な人でもちゃんとやれる。成功できる。そんな祈りや願いが込められているのだと思います。そこに観る人は共感するし、感動するし、静かで優しいカタルシスを得ることができるのではないかという気がします。




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原田眞人監督『魍魎の匣』の日本の戦後

原田眞人監督は日本の戦後を問い続けている人としてつとに知られています。京極夏彦さんが原作の映画の『魍魎の匣』は美少女をめぐる推理映画ですが、原田監督は作品に「戦後」を挿入して今を生きる私たちにいろいろなことを問いかけています。

撮影は上海の郊外で行われたそうなのですが、いかにも終戦直後の日本に見えます。上海の郊外が武蔵野に見えます。さりげなく光クラブの話題が入っています。ほんの短い時間に早口で話しているので、一瞬「?」となりますが、何度も観ると「あぁ、光クラブ」と分かります。一回目で分かる人もたくさんいると思います。私は鈍いので何度も観ないとわかりませんでした。凄い映画は細部にいろいろ凝っています。『エリザベス』と同じです。

終戦直後は新しい時代が始まる予感と戦争に負けたことの劣等感が相半ばする不思議な時代だったろうと思います。この映画はその最中に生きる人の心を掴もうとしています。登場人物が「自分は歯ブラシの工場を経営している」と偽る場面があります。今もきっと日本に歯ブラシの工場があると思います。絶対に世界最高水準の歯ブラシを作っていらっしゃると思います。ただ、やはり歯ブラシの工場という言葉にちょっと前の日本を想起させられます。

京極夏彦さんの原作では登戸の陸軍の研究所の話題が出てきます。映画では登戸という地名は出てきませんが、陸軍から予算をぶんどった研究所は出てきます。死なない研究をしています。戦争中に兵隊が何度でも再生できる技術を開発しようとします。うまくいきません。戦争が終わった後も死なない研究を続けています。いろいろ口実を作って予算を手に入れています。この研究所では戦争は終わっていません。というか、研究所にとっては戦争はそもそも始まっていません。戦争とは関係なく、研究のために研究を続ける自動装置に成長しています。ナウシカのドルク帝国の首都の研究所みたいなものです。戦争も人命も研究を続けるための口実でしかありません。戦争の本質の一端を掴もうとしています。

アメリカと戦争するかどうかという問題と組織の自己実現の区別がつかないまま日本は戦争を始めます。アメリカとの戦争と陸海軍の予算の配分が混同されて議論が進みます。研究所はその本質を表現する存在です。

戦争とか戦後とか、そういう時代を語っても突き詰めれば個々人の人生が集合したものです。突き詰めれば個々人の物語になります。刑事、探偵、作家、編集者、神主、女優、研究者が出てきます。それぞれに人生を背負っています。人生の矛盾を解消するために超人的な努力をする人がいます。戦争で人生が歪む人がいます。登場人物のそれぞれの内面を想像しながら観ると更に楽しめます。



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黒澤明監督『乱』から考える危機管理

日本映画の巨匠、黒澤明監督の『乱』はシェイクスピアの『リア王』の翻案作品として、世界的にも著名です。

ざっとあらすじを先に述べます。戦国時代のとある強大な大名の一文字秀虎には三人の息子がいます。太郎、次郎、三郎です。ある日、秀虎は引退を宣言し、家督を太郎に譲ります。ところが三郎が強力に反対します。理由は家督を譲った父親はたちまちに居場所をなくし、兄弟三人は血で血を洗う争いをするに違いないというのです。あまりに悲観的な反対論に秀虎は激怒し、三郎を追放します。太郎が家督を相続した後、秀虎は陣中の大将の象徴である馬印を維持しようとしてもめ事になります。怒った父親の秀虎はもともと自分の居城だった城を出て、次郎の城を訪問します。ところが事情を察した次郎は受け入れを拒否。追放した三郎の城が無人になったので秀虎はそこに宿泊します。そこに太郎、次郎の連合軍が攻めたてて、秀虎は発狂。鳥や獣のように荒野をさ迷うようになります。更に次郎の家臣が太郎を殺害。次郎が当主に収まります。欲望にとりつかれた骨肉の争いです。隣国に逃れていた三郎が秀虎を迎えに行きます。父子再会したところで秀虎は正気を取り戻しますが、三郎は次郎の送った鉄砲隊に撃たれて死んでしまいます。内部でもめていることを察した大名が攻めてきます。一文字家は滅亡します。救いゼロです。

周辺の戦国大名を圧迫し、強烈な存在感を示していたであろう一文字家はなぜあっさりと滅亡したのでしょうか。危機管理という観点から考えてみたいと思います。

太郎、次郎、三郎という相続権利者が三人いる以上、誰かがコントロールしなくてはいけません。秀虎が突如引退を宣言してコントロールを止めてしまえば何が起きても不思議ではなくなります。今で言えばアメリカのような覇権国家が突然「疲れたので、もうやめます」というのと同じです。

そうは言っても国家は基本的に半永久的な存続を前提としますが、秀虎の場合は人間ですからいずれ歳をとって亡くなってしまいます。そのため永遠にパクス秀虎を続けることはできません。いずれ誰かに譲らなくてはいけません。その意味で、引退を宣言し、太郎に家督を譲るというのはさほど間違った選択とは言えません。しかし、一文字家は滅亡してしまいました。秀虎は果たして何をミスってしまったのでしょうか?

最大の問題は秀虎の引退後の行動にあるように思います。秀虎は引退を宣言し、太郎に家督を譲った後も「大殿」として象徴的な存在であり続けようとします。太郎的に言えば、実権を譲られたとしても象徴が残っているのでいろいろやりにくくて仕方がありません。自民党で総理大臣をやった後に〇〇会長とかやりたがるようなものです。ナウシカで言えばドルク皇帝がいつまでも生きているのと同じです。太郎ともめて城を出ていくのも問題です。相手を見捨てるという行動によって「自分にはまだ力があるのだ」ということを誇示しているのです。現代で言えば政界ご意見番と称して日曜日の朝のテレビに出て好きなことを言うようなものです。後任にとってはとにかくうっとうしい存在なので、小泉さんが中曽根康弘さんに有無を言わさずご引退いただいたのと同様に、戦国時代的価値観であれば「死んでもらおう」となります。

この映画からは、一度何かを諦める時は必ず完全に諦めるということをしなければもめごとを大きくし、最悪の場合、滅亡に至るという教訓を汲み取ることができると私は思います。秀虎のハンパに残った欲望が事を荒立て、家ごと吹き飛んでしまったと言えるように思えるのです。太郎が父親の秀虎をかかえこんでいれば次郎が欲を出して太郎を殺すことも起きません。表面的なストーリーを追うと太郎と次郎が人でなしに見えますが、実は親父が危機を呼び込んでいたのです。引退したからと言って余生は何もすることがないというわけではありません。芸術でも遊びでもナンパでも政治や軍事以外のことに注力すればよかったのに、親父はそれを思い切ることができませんでした。

太郎と次郎は楓の方という女性に振り回されて殺し合いを加速させていきます。若い男が女性に振り回されて無理ゲーをするのは普通のことです。そこをそうならないように知恵を使うのが親父の仕事ですが、親父はそれをほっぽらかして、それどころか自分も一緒になって大騒ぎしてプレイヤーを続けたのがいけなかったのです。

人生ではやりたいことをしっかりやって次のステージに向かうとき、引退でも転職でも別れ話でも、一切の未練を捨てる勇気が必要です。その勇気が持てないのはある種の甘えではないかとも私には思えます。このように書くと厳しいようにも読めてしまうかも知れないのですが、一通りやることをやったらそのことはもう心配しなくてよく、次のことに専念できるのだとすれば、人生にはそういう優しさが残されているのだとも言えるようにも思います。

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