人狼ゲームをアマゾンプライムで観れる分は全部観た

人狼ゲームというシリーズについて、私はつい最近までその存在すら知らなかった。たまたまアマゾンプライムビデオで表示されたので、一応、さらっと見てみるだけ、見てみようか。おもしろくなかったら、視聴をやめればいい。そう思い、クリックした。ぐんぐん引き込まれ、観れる分は全部観てしまった。何がそんなに魅力的に思えたのだろうか…。

内容はかなり悪趣味なもののはずで、ゲーム理論的な人間対人間の誘導、扇動、嘘も方便で乗り切らなくてはならないが、乗り切れなかった即死亡という、結構、やりきれない内容だ。お話だから、フィクションだからと思って視聴するのはいいが、感情移入してしまいやすい人なら悪趣味過ぎて気分が悪くなって見ていられないだろう。何しろ登場人物の9割は死ぬことがお決まりの内容なのだ。このように一つの作品で大勢死ぬのがオーケーになったのは、バトルロワイヤルが映画化されて以降のことではないだろうか。バトルロワイヤルの原作小説が書かれた後、あまりの悪趣味ぶりに不愉快との意見がどこへ行っても大勢を占め、しばらく世に出なかったが、やがて向こう見ずな出版社の手に渡り、書籍になり伝説的な作品として記憶された。ナボコフの『ロリータ』みたいな感じだろうか。

バトルロワイヤルより前の時代、我々は『火垂るの墓』で節子が衰弱して死ぬまでを90分くらいかけて息を止めるような思いでみて、苦悶しつつ涙を流していたのである。そう思うと、バトルロワイヤルでは人の死がお手軽過ぎて、嫌悪感が先に立ってしまう。しかし、設定に慣れてしまうと描き方に関心がいくので嫌悪感は薄れてゆき、このように言っていいのかどうかはやや躊躇するが、作品の良い面にも意識が向くようになるのである。バトルロワイヤルの場合、一人ひとりの死にゆく中学生が、それぞれに青春を生きようとしているそのひたむきさに心をうたれずにはいられない。次々と中学生が死ぬので、視聴する側は次々とそれぞれの青春に付き合わなくてはならなくなり、きわめて濃密な映画視聴の体験になる。ある意味、名作である。バトルロワイヤルで中学生がたくさん死ぬのと、暴れん坊将軍で吉宗が悪いやつの部下を大量に成敗するのは全く性質が違うものだ。バトルロワイヤルの中学生には成敗される理由がない上に、一人ひとり、個性があり、想いがあることが表現されるのだから、観客は消耗する。暴れん坊将軍の場合は吉宗に斬られる下級武士たちに感情移入する機会は与えられないし、どうでもいいどこかの誰かが死ぬ場面なので、観ている側は特に疲れたりしない。暴れん坊将軍では個性のある登場人物は限られる。

いずれにせよ、バトルロワイヤルでそのような死の描き方に慣れてしまった私たちにとっては、人狼ゲームも受け入れやすい作品になった。人狼ゲームは初期のものとそれ以降のもので全くテイストが違う。私は初期のものの方が好きだ。熊坂出という人が監督をしていて、映像ももしかしたら結構きれいということもあるように思えるのだが、死にゆく高校生たちには個性がある。三作目以降には各人の性格はあっても個性がない。ここでいう性格とはそそっかしいとか泣きやすいとか怒りやすいとか優しいとかみたいなものだが、敢えて個性という場合、その人物が何を愛し、何を憎むのか、特定の状況下で如何なる行動を選択するのか、倫理と利益はどちらが優先されると考えているのかといったようなものが個性だと言えるように思う。要するに個性とはいかに生きるかという、生き方の選択の仕方にあらわれるものだ。

第一作と第二作では、作品の前半では各人が運命を逆転させようと努力し、忌まわしき運命から逃れようと、時には権謀実作も弄する。だが、いよいよ逃れられないと分かった時、死をいかにして受け入れるかということが主題になる。なんとかして生き延びようとあがくものもいれば、自ら死を受け入れることによって最期まで能動的であろうとする者もいる。常に合理的な行動をするわけではなく、時にはある種の文学的な心境に至ってしまい、不利益になることを承知で行動を選択することがあり、人は時として非合理的な選択をするという人間観が作品に漂っている。彼が或いは彼女がなぜそのような選択をしたのかということは、作品を観終わってからでも思い返し、反芻し、自分の人生と照らし合わせ、自分ならどうしていただろうかということまで想いを馳せることができるので、うまく作品を吸収すれば、人としての成長をすら期待できるかも知れない。

第一作がこれ

第二作がこれ

一方で、三作目以降にはそのような人生に対する哲学や個性の反映というようなものはない。登場人物たちはゲーム理論的な権謀実作を弄することだけを考えて行動する。従って、誰が最も合理的に賢い頭脳を用いて立ち回ったかどうかだけが問題になる。死に対して、運命に対して、自分がどのような姿勢を選ぶかという、もう少し掘り下げなければ見えて来ない面には目が向いていかない。最後の方は武田玲奈がかわいかったので、「わーっ、武田玲奈かわいー、結婚してー」と思いながら見ることで、退屈さとか陳腐さとかみたいなものを乗り越えて視聴することができた。武田玲奈が出ていなかったら、私はもっとひどい心境になっていたに違いない。

武田玲奈が出ているのがこれと

これ

まあ、そのようにぶつくさ言いながらも一生懸命全部観たのだから、それだけ訴求力のあるシリーズだということは言えるのではないだろうか。


映画『非常時日本』の荒木貞夫

大阪毎日新聞社1933年に作った『非常時日本』という映画がある。youtubeで断片的なものを見ることができたので、ここにそれについての備忘を残しておきたい。この映画については『日本映画とナショナリズム』という研究論文集で詳しく触れられているので、それも参照しつつ述べたい。

で、この映画の内容なのだが、荒木貞夫が今の日本人は西洋的資本主義の享楽に溺れて堕落していてなっとらんと叱咤しており、続いて日本精神や皇国精神、皇軍がどうのこうのと延々と演説するもので、画面には荒木の演説の声とともに都市生活を楽しむ当時の日本の人々の姿が映し出されている。要するに荒木の批判する人々の姿とともに荒木のやや高めの声が流れ続けるという代物なのである。おもしろいかと問われれば、ちっともおもしろくない。全くおもしろくないと言ってもいいほどおもしろくない。荒木の演説そのものが空疎で何を言っているのかよく分からないからだ。

『日本映画とナショナリズム』という論文集では、日本のことを「皇国」と呼び、日本軍のことを「皇軍」と呼ぶのを定着させたのが荒木貞夫その人であり、その定着手段が今回取り上げているこの『非常時日本』という映画を通じてだということらしかった。当時の日本は既に大正デモクラシーも経験しているため、リベラリズムを受け入れて生きている人は多かった。この映画に映し出されている声なき都市生活者だ。そして既に世界恐慌・昭和恐慌も経験しているため、やや資本主義への疑念がもたれている時代でもあったが、実は30年代に入ると関東大震災からの傷も癒えはじめ、高橋是清の財政もばっちり決まって日本は世界恐慌からいち早く立ち直り、また大正デモクラシーの時代よろしく明るく楽しい資本主義の世界は始まりかけていた時代であったとも言える。

だが、満州事変後の日本は、結局は自ら新しい繁栄を放棄するかのようにしてひたすらに滅亡へと走って行ってしまい、残念ではあるが戦争にも負けてしまった。もし日本が満州事変とかやらずに明るく楽しい消費社会に突入していたら、世界の歴史は全く違ったものになっていたかも知れない。で、荒木貞夫は明るく楽しい消費社会を批判する演説をしていたわけだが、当然のごとくこの映画はヒットしなかったらしい。そりゃそうだ。当時の日本人は今の私たち日本人よりも遥かに娯楽を求めていた。私たちはある意味では娯楽に飽き飽きしている。ミニマリストを目指したり、プチ断食をしてみたりというのが流行るのは、娯楽と消費が限界に達して、ちょっと違ったことをやってみたいという風に世の中が変わってきたからだ。

一方で当時の日本人は洋服や洋楽を今よりももっと強く求めていたし、荒木貞夫の演説が心に届いたとも思えない。私は当時の帝国当局者の東南アジア向けのプロパガンダ放送に関する資料を読み込んだ時期があるが、東南アジア在住の邦人には時局に関するニュースや国威発揚の演説よりも西洋音楽の放送の方が需要があって、プロパガンダを流しても効果がないと担当者がこぼしていたのを読んだことがある。かように30年代の人々は戦争よりも消費と西洋を求めていた。

以上述べたことをざっくりと要約して結論するとすれば、1930年代、一般の日本人は西洋化、資本主義的消費社会、明るく楽しい資本主義みたいな方向に進みたがっていたが、満州事変以降、しっかり戦争をやって勝ちたい当局としては、たとえば荒木貞夫のようなおしゃべり好きをメディアに登場させて宣伝し、人々の戦意高揚をはからねばならなかった。従っていわゆる戦前的全体主義は1930年代以降に急速に盛り上がったもので、それ以前、そんなものは存在しなかった。ということができるだろう。無駄な戦争をやって敗けて滅亡したのだから、残念なことは残念だが、荒木貞夫みたいな人たちが権力の中枢にいることを許容する権力構造が存在した以上、いずれは破綻するしかなかったのかも知れない。



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『火垂るの墓』をもう一度みて気づく「無責任の体系」

高畑勲監督が他界されたことを機に、『火垂るの墓』についてよくよく考える日々が続き、もう二度と見たくないトラウマ映画だと思っていましたが、やっぱりもう一回見ないと何とも言えない…というのもあって、改めて見てみました。ネットで広がる清太クズ論は私の内面からは一掃され、それについては完全否定するしかないとの結論に達しました。

父も母も家もない状態で、清太は妹を守ることに全力を尽くしており、金にものを言わせようとした面はありますが、最後に頼れるのはお金と思えば清太が金を使うことは正しく、更に言えば盗みをするのも妹と生き抜くためにはやむを得ません。それこそ非常時です。空襲で家を焼かれなかった人の数倍、清太個人にとってはとても支えきれない大非常時と言えます。

西宮のおばさんが悪いのでしょうか?私は自信をもって西宮のおばさんが悪いと断言できますが、悪いのは西宮のおばさんだけではないというのがこの作品のミソではないかと思います。とはいえ、まずは西宮のおばさんを糾弾するところから始めたいと思います。確かにおばさんにとっては、清太と節子の兄妹は厄介者です。しかし、親を亡くして焼け出された兄妹に対し「疫病神」だのなんだのと言っていびり倒すのは間違っています。印象的なのは清太が決心して節子とともにこっそり西宮のおばさんの家を去ろうとした際におばさんと不意に遭遇してしまった時の様子です。おばさんは「気いつけて」「せっちゃん、さようなら」と言い、心配そうに二人の後ろ姿を見送ります。おばさんは大人なのです。出て行こうとする二人に対して「何をバカなことを考えているのか。二人で野宿でもするのか。いいから家にとどまってこれからのことをよく考えなさい」と説諭してしかるべきです。しかし、心配そうに見送るだけなのです。いびり倒した上に心配そうに見送るだけのおばさんに非があって当然です。おばさんの家には少なくとも三畳間が余っているわけですし、食料がないと言っても清太と節子の食料の配給もあったのです。二人は野宿者となり、配給すら受け取れない状態へと自滅していく様子がおばさんにはありありと見えたはずです。にもかかわらず、心配そうに見送るだけしかしない大人の責任とは問われなくてはいけません。

この作品では大人の「無責任」が随所で強調されています。たとえば清太が盗みを働いた農家の男は清太を殴り倒し、おさない妹がいることを知りながら「自分が受けた被害」だけに憤慨して警察に突き出します。西宮のおばさんは「助け合い」を清太に強調しましたが、おばさんも所属する大人の世界は我が事のみを考える世界だったわけです。警察官は清太に優しいですが、水を飲ませるだけで今後の二人を助けるきっかけを与えようとまでは考えません。警察官も無責任なのです。清太が母親の着物やお金と交換に食料をもらいに行っていた農家のおじさんも清太にお金がないと分かった瞬間に食料の提供を拒み「うちではそんなに余っていない」「お金や着物のことを言っているのではない」「おばさんに頭を下げろ」と米のおにぎりを食べながら諭しますが、はっきり言えば交換できる物のないやつに与える飯はねえというわけです。

節子が亡くなって荼毘にふすために必要な材料を買いに行ったとき、お店の人が呑気そうに「今日はええ天気やなあ」と言いますが、その表情が実に幸せそうであり、清太にとって重大事である節子の死に対する慎ましい態度というものを見せようとする気遣いすらありません。

高畑勲監督が『火垂るの墓』は反戦映画ではないと言っていましたが、今回改めて見てよく分かりました。これは戦争の悲惨さを描く作品なのではなく、丸山眞男が唱えた「無責任の体系」を描く作品だったのです。ですから、美しい日本とか、助け合いの日本とか、公共道徳に優れた日本とか言ってるけど、お前らみんな、清太と節子を見捨ててるじゃん。と監督は言いたかったのではないかと私には思えます。丸山の無責任の体系のその中心に天皇がいるという議論には私は賛成しかねます。天皇制があるから戦争中の日本人が無責任だったのだという議論そのものが無責任だと私には思えるからです。新聞が煽り、国民も多いに沸いて主体的に戦争に関与し、ある人は儲けも得て、戦争に敗けたら〇〇が悪いと言い立てて自分には責任がないと言い張ろうとする姿こそ無責任です。そしてそれは少なくとも『火垂るの墓』が制作されたその時に於いても同じなのだと高畑監督は主張したかった。だから最後に現代のきらびやかな神戸の夜景のシーンを入れたのではないかと私は思います。

余談というかついでになってしまいますが、統制経済を導入し食料を配給制にして、隣組に入っていないと配給すら受けられないとする、ちょっとでもコースから外れたら即死亡という体制翼賛的国民総動員社会を作ったのは近衛文麿です。国民総動員の名のもとに国民の自由意思を制限し、全てをお国に捧げざるを得ないように仕向けた結果、戦争も敗戦も自分には何の責任もないというロジックが生まれたとすれば、敢えて私は清太と節子が死んだのは、近衛文麿がせいだと言いたいです。

トラウマ映画の『火垂るの墓』ですが、今回は初見ではなく節子が死ぬことは最初から分かってみていましたし、いろいろな情報を得て感情面でも中和してみることができましたから、心理的ダメージは少なくて済みました。もう一回見たいかと問われれば、もう二度と見たくありません。



アニメ映画『GODZILLA-怪獣惑星』のやれることは全部やってる感

アニメ版の『GODZILLA-怪獣惑星』は、とにかくやれることは全部やってる感が強く、私はなかなか満足することができました。まず第一に「終末後」の世界という設定がなかなかいいように思えます。過去、ゴジラは何度となく日本列島に上陸して来ましたが、人間サイドが多大な知恵と努力を注ぎ込み、原則的にゴジラは撃退されてしまいます。赤坂憲雄先生が指摘していらしたようにゴジラは太平洋で戦死した日本兵のメタファーであるとすれば、日本人が繁栄を楽しみ俺たちのことを忘れるということは受け入れがたいと異議申し立てをするかのようにして上陸してきたとしても国土を完全に破壊し尽くすことなく、皇居を破壊することもなくギリギリのところでゴジラは撤退せざるを得なかったと言うことになります。ゴジラは終末的危機をもたらすことはあっても終末は必ず回避されていたわけです。

ところが今回の作品では、ゴジラをして地球の頂点に立たしめ、なぜかわからないが狙い撃ちされる地球人は大急ぎで地球を撤退。あてどない宇宙への放浪の旅に出ます。時代は既に終末後になっています。地球人を宗教的に支えている宇宙人が登場しますが、背の高い美しい金髪の人々で、オカルトの世界では金星人などの宇宙人はブロンドの美少女などの説がありますから、そういった都市伝説も入れ込みつつ、主人公の榊大尉はイケメンで、彼を慕う部下にはきちんと美少女が配されており、キャラ設定にもぬかりないといった感じです。IT技術があほみたいに進歩していて宙に画面が浮かび上がりAIのおかげでいかなる複雑な状況も瞬時に分析可能です。人々がとるものもとりあえず避難宇宙船にはスタートレックや2001年宇宙の旅、またはスペースコロニーを想起させるものがあり、再び意を決してゴジラと対決する人類の武器はモビルスーツならぬパワードスーツで、要するにイケメン、美少女、陰謀、勇気、未知のテクノロジーなどが詰め込めるだけ詰め込んであり、地球で人が頂点に立てないというのは猿の惑星みたいな感じもありますから、そういう要素も取り込んで、作り手がやりたいことは全部やっている、やれることは全てした感に溢れています。ゴジラ撃滅を企図して上陸した地球の地上はもはや得体の知れない植物と有毒がガスで満ちており、もはやナウシカといった様相すら呈しています。更に言うと一体しかいないはずの強敵ゴジラを倒したら、次にもっとでかいラスボス風ゴジラが登場するというのは、永遠にもっと強い敵が出てくるドラゴンボールみたいな感じになっていて、アニメファン、SFファンともに楽しめる内容になっていると思います。

さて、この三部作の続きが果たしてどうなるのか、ここまでいっぱいに広げた風呂敷をどうやってしまいこむのかに注目せざるを得ませんね。



『火垂るの墓』の清太の戦略ミス

世界に名だたるトラウマアニメ映画『火垂るの墓』についてここ数日、考え抜きました。高畑勲監督が他界されたのでいろいろ話題にもなりましたし、私も映画館で鑑賞して愕然として「なぜ自分はこのような絶望的な心境にならなければならないのか」というやり場のない苦しさを感じた一人ですから、いったい何が悪かったのか、どうすれば良かったのかということを考えざるを得なかったのです。以下、清太と節子はどうすれば生き延びることができたのかについて、結論をまず述べ、次いでその理由、続いて補足的な意見を述べたいと思います。

まず結論ですが、清太と節子は神戸の自分たちの家のあった焼け跡にバラック小屋を建てて寝起きしていれば助かったに違いない。です。

では理由を述べます。清太は西宮のおばさんのところに居候し、随分と嫌味を言われ現代の価値にして1000万を超える金銭を頼りに独立。田園と山の間みたいなところの「横穴」に棲みついて、最終的には兄妹共倒れの結末へと至ります。この過程が残酷すぎるのでトラウマ映画と呼ばれ、二度と見たくないと言う人続出で私も本当は二度と見たくありません。ネットでは清太が西宮で居候させてくれているおばさんに対する態度が悪く、お手伝いもせず、節子とごろごろしているだけのごくつぶしでしかないのに、プライドばかりが高くおばさんに頭を下げるくらいなら出て行ってやると大見栄を切って自滅へと突き進んだ清太の性格への批判が強いようです。また、高畑監督も社会との関係性を失ってはいけないというメッセージを込めているつもりで、現代の若者に共感してほしいという趣旨の発言をされていますが、ネットの意見も高畑監督のメッセージも清太にとっては酷でしかありません。

清太の家が空襲で焼けるのが昭和20年の6月で、清太が亡くなるのは9月です。僅か三カ月で考え方や生き方を改めなければ即死亡という無理ゲーをさせられた清太が気の毒に思えてなりません。清太の人生に対する敗因は私は決して西宮のおばさんに対して妥協しなかったからだとは思いません。高畑監督のメッセージは生きるためには嫌味を言われいびられる生活にも隠忍自重せよということで、現代の恵まれた若者はそういうことができていないというわけですから、要するに『火垂るの墓』は手の込んだ「近頃の若者は」という議論なのです。しかも高畑監督は若者に共感してほしいと述べていましたが、「近頃の若者は」論に共感する若者は皆無に等しいと私は思います。ところが戦争・空襲・敗戦という普通なら滅多に遭遇しない大災難という舞台設定を活用し、見るものが降参せざるを得ない作画の作りこみ、節子というイノセントな存在の徹底利用を行うことで、観たものはトラウマレベルのダメージを受けながらも「泣ける映画だ。凄い映画だ」とうなづかざるを得ないところまで追い込まれてしまいますので、実は高畑監督の「近頃の若い者は」という実はありがちな言い分に気づくことができないというか、節子の死を心理的に解消するのにエネルギーを使ってしまい、観客はそれ以上考えることに困難を感じるようになり、何をどう理解していいか分からなくなり、混乱するのです。

清太が自滅した最大の要因は自分と節子が戦死したエリート軍人の子女たちであるというメリットを活用しなかったことに求められると私はよくよく考えた末に結論するに至りました。ネットなどでは清太がエリート軍人の息子であったが故に無駄にプライドが高く、自滅したと語られていますし、高畑監督もその線で作ったように私は思います。しかし、逆なのです。エリート軍人というのは値打ちがあるので、しかも戦死しているのですからますます当時としては値打ちがあったに違いないのです。仮に以前住んでいた焼け跡にバラック小屋を建てて暮らしていたらどうなるでしょうか。血縁はなくとも地縁がありますから、「あそこの息子さんは海軍の偉い人の息子さんだ」ということをみんな知っています。そして、ここからが重要になるのですが、神戸市内の都市空間で生きていれば必ず誰かが「役所へ行って相談しなさい」とか「水交社を訪ねてみなさい」と助言してくれるはずです。或いはどこからかそういう情報が入ってきます。役所が戦死した軍人さんの子女を放っておくわけがありません。海軍の互助組織である水交社が無視するわけがありません。公的な支援を受けられる可能性は高く、海軍つながりでいけばお金持ちの支援者が現れる可能性も充分にあります。単に生意気中学生清太一人だけではないのです。幼い、誰が見ても何とかしないといけないと思わせる節子という存在がいます。兄妹セットで救おうとする社会のあらゆる要素を利用することができたに違いないのです。清太はエリート軍人の息子というプライドを維持しつつ成長し、将来は周囲の支援で大学に進学し順調な人生を得たかも知れません。当時の日本の状況から言えば、終戦直後から後はあれよあれよという間に経済発展していきますから、あのクリティカルポイントさえしのぎさえすればそれで良かったわけで、充分に可能性のあるシナリオです。

しかしながら、清太はまず西宮のおばさんという閉じた空間へ逃げ込み、次いで次に山と田園の間みたいなところにある横穴へと逃走するわけです。これではいけません。水交社を訪ねなさいと言ってくれる助言者に出会うことができません。兄と妹は資金力で生命を維持しようとしますが、農家のおじさんからは「お金の問題じゃない」と忠告されます。三宮のおばさんに頭を下げろというわけです。そんなことを要求する方が酷です。しかし残念なことに農家のおじさんにはその程度の知恵しかなかったのです。

神戸市内でバラックを建てるのは難しくなかったはずです。廃墟の焼け残りを利用して簡単なものを作ればよかったはずです。都市部なら炊き出しもあり、終戦後は米軍の救援物資もやってきます。清太が自滅したのは海軍エリート軍人の息子というプライドを捨てられなかったからではありません。自分は海軍エリート軍人の息子だというプライドを思い出させてくれる神戸の自宅跡を放棄したことにその要因があると私は思います。補足しますが、当時はお金を持っていても役に立たなかったという意見もネットにはありましたがそれも間違いです。国家が経済統制している裏側では闇マーケットが完全な市場原理で成立していました。物はあったのです。インフレはしたでしょうが、1000万を3カ月で使い切るということは考えにくいですし、新円切り替えはもうちょっと後のことです。新円切り替えと同時に貯金は紙くずになった可能性はありますが、そのぐらいの時期まで生き延びれば、繰り返しになりますが戦死者遺族への支援を受けられたと思料できます。清太クズ論がネットで見られますが、清太がクズだったのではなく、出会う大人に知恵がないのが悪かったと言えますし、なぜ知恵のある大人に出会えなかったのかと言えば、これには清太の戦略ミスがありますが、都市空間を避けた閉じた生活に入ってしまったからですね。



時代劇映画『十三人の刺客』の新しいverと古いver

江戸時代後期、前の将軍の息子にして現将軍の弟というやたらと血筋のいい明石藩の松平のお殿様があまりに性格が残虐すぎるために老中幕閣により暗殺が決定され、旗本を中心にした13人の暗殺部隊が動員、今風に言えばkeyresolve的に実行し、見事打ち取るという映画があります。史実とある程度重なる部分があり、ある程度違う部分があるらしいので、実際の歴史はちょっと忘れて物語に集中して考えたいと思います。個人的にはお殿様がおかしな人である場合、わざわざ暗殺部隊を送らなくても幕閣と大名の家臣が結託して殿ご乱心で座敷牢という流れでOkなのではないかとも思いますが、それでは映画になりませんから、まあ、大袈裟に切ったはったになるわけです。しかし、とてもおもしろいです。

2010年の新しいバージョンでは狂気の殿様の役は稲垣吾郎さんがやってます。自分で自分が狂ってるという自覚があって、「世の中が血で血を洗う戦乱になったらいいなあ」という願望を持つような、かなりいってしまっている人です。で、幕府から密命を帯びた13人の男たちが参勤交代の行列を待ち受け、策を用いて既定のルートを通れなくしてしまい、待ち伏せして袋小路に追い込み打ち取るわけですが、稲垣吾郎は最期に「こんなに楽しい日はなかった。礼を言う」と言って死んでいきます。悪い奴もそれなりに絵になるというパターンで仕上がっています。印象に残ったのは、お家のためと命がけでお殿様を守る明石藩士の顔がほとんど画面に映らないことです。旅装をして笠を被っていますから顔が見えにくいというのはあるでしょうけれど、ばたばた殺されていく端役の人たちの個性はあんまり見えないようにしたほうが演出的にいいという判断があったのかも知れません。

新しいバージョンの刺客たちの首領は役所広司さんがやってます。

もう一つ古い1965年のバージョンがあります。時代劇の巨匠、工藤栄一さんが監督しています。この映画では凶器のお殿様は自分の命は普通の人と同様に惜しいけれど、他人の命はそうではない、ただのわがままぼんぼんという感じになってます。で、おもしろいのは13人の暗殺部隊の首領と、明石藩の重役の頭脳戦みたいなところがかなりおもしろく描かれています。まあ、ちょっと忠臣蔵の頭脳戦の描き方に近いような気がしなくもありません。というか、多分、それなりにそういったことも意識していたのかも知れません。で、大勢の明石藩士が死にゆくわけですが、わりと顔がよく映っていて、襲われる側も殿を守るために必死という感じが伝わってきます。襲われる側の気持ちもよく理解できるというか、私はそっちに感情移入してしあい、ああ、気の毒だと思いながら見入ってしまったので、非常にエネルギーを使いましたが、観る側にエネルギーを使わせるのも映画の力量ですから、凄い映画だと私は素直に思いました。日本の時代劇映画は世界を席巻し、多くの才能に影響を与えていますが、時代劇を見れば見るほどそりゃそうだ、おもしろすぎると納得します。

古いバージョンは片岡千恵蔵が首領をやってます。



原田眞人監督『関ケ原』の2人の女性の愛

原田眞人監督の『関ケ原』、観てきました。原田監督は「男にとって女性とは何か」を考え抜き、それが作品の内容に反映されていると私には思えます。で、どういう視点になるかというと、男性は女性に愛されなければ生きていけない(ある意味では独立性のない)存在であると規定し、女性から愛されるとどうなるか、愛されなければどうなのか、ということを問いかけてきます。たとえば『自由恋愛』では圧倒的な経済力にものを言わせて2人の女性を手に入れたトヨエツが、最後、女性たちに見放され悲しく退場していくのと対照的に女性たちは女性たちだけで存分に輝く世界が描かれます。『クライマーズハイ』では、妻に愛されなかった新聞記者が、妻以外の女性に愛され、後輩女性記者とは恋愛感情抜き(潜在的には恋愛感情はあるが、顕在化しない状態)で仕事に向き合います。

『関ケ原』では、石田三成を愛する伊賀くノ一の初音と徳川家康を愛する、これもはやはり伊賀のくノ一の蛇白(だったと思う)の2人は同じ伊賀人でありつつ、敵と味方に分かれるという設定になっています。石田三成を美化するスタンスで描かれ、徳川家康のタヌキぶりを強調する感じで描かれていますが、純粋で真っ直ぐな石田三成は行方不明になった初音を思いつつ、戦いに敗れて刑場へと向かいますが、その途上で初音が現れ、あたかも関係者でもなんでもないふりをして軽く会釈をします。石田三成と初音はプラトニックな関係ですが、その分、清潔感があり、石田三成という人物のやはり純粋さを描き切ったように感じられます。生きているということを見せるために彼女は現れたわけですが、石田三成は彼女の無事を知り、安心して刑場へと送られていきます。『ラセーヌの星』というアニメでマリーアントワネットが2人の子供が脱出できたことを知り、安心して刑場へと向かったのと個人的にはダブります。

一方で、徳川家康は話し上手で女性を魅了することも得意です。関ケ原の合戦の最中に陣中に現れた刺客に対し、白蛇が命がけで家康を守ろうとしますが、家康は彼女と刺客をまとめて切り殺してしまいます。原田作品ファンとしては、たとえ時代物映画であったとしても「女性を殺す」というのは最低の行為ということはすぐに察することができますから、家康という人物の悲劇性が描かれているというか、家康が自分の命のためには自分を愛した女性をためらいなく殺してしまう悲しい人生をおくった男という位置づけになるのではないかと思います。

徳川家康は役所広司さんが演じていますが、悪い奴に徹した描かれ方で、多分、この映画のためだと思いますが、全力で太っており、ルックス的にも悪い奴感が全開になっており、監督の求めに応じて役作りをしたこの人は凄い人だとつくづく思えてきます。

原作を読んだことがなかったので、すぐに書店に行き、原作を買い、現在読んでいるところですが、原作と映画にはかなりの違いがありますし、原田監督としては原作を越えた原田色をしっかり出すということを意識したでしょうから、原作と映画の両方に触れてしっかり楽しむというのがお勧めと思います。

原田監督の作品は、分からない人には分からなくていいというスタンスで作られているため、予備知識がないとなんのことか分からない場面や台詞がたくさん出てきます。私も一部、ちょっとよく分からない部分がありましたが、それはみる側の勉強不足に起因していることになりますから、原作を読んだり、他にもいろいろ勉強してまた映画を観て、そういうことか、と納得するのもありかも知れません。



宮崎駿『風立ちぬ』の倫理と愛のエゴイズム

今更ながら、『風立ちぬ』について考えてみたいと思います。この作品は、徹頭徹尾、主人公(まず間違いなく、宮崎駿さんの完全なる投影)のエゴイズムが描かれています。エゴイズムを完全にやり切ったらここまで美しくなるということを証明したとも言っていいほどに美しい映画です。なぜかくも美しいのかと言えば、主人公が他人のことを一切考えず、自分のエゴイズムを貫徹したからであり、いかに生きるかということを考える上でも格好の材料とも言える作品と思います。

主人公の堀越二郎は高い倫理観を持っています。この作品の美しさを支えているのは彼の倫理観の高さによると言ってもいいかも知れません。もちろん作画もすばらしく、音楽もきれいなのですが、観る人が堀越二郎のように自分の好きなことにしか関心のない人物に感情移入できるのは、彼が高い倫理観に基づいて行動していることに尽きるのではないかと思います。彼の倫理観は弱い者に対しては優しくするで透徹されており、たとえばいじめられている下級生を見かければ助けますし、関東大震災で菜穂子さんとお絹が罹災した際には、背負って歩き、救援を求め、一切が終われば恩着せがましいところを一切見せずにさっていきます。気持ちいいまでに親切です。しかし、それは例えば倫理や道徳の教育を訓練を受けたり、あるいは自己教育や鍛錬、修養などによって身に着けた優しさや親切さとは違うものです。そもそもの性格として弱い者を助けたいという欲求持っており、弱い者を見かけたら本能に従って助けているだけであり、広い意味ではエゴイズムを満たしているに過ぎず、作者の宮崎駿さんは意図的にそのような人物にしています。堀越二郎は仕事帰りに雑貨屋さんみたいなところで「シベリア」というカステラみたいなお菓子を買いますが、近くの電柱の下で帰りの遅い親を待つ貧しそうな三人兄弟を見かけます。いかにも弱く、社会的な弱者に見え、彼はその本能的欲求したがって彼らに親切にしたいと思い、彼らにシベリアをあげようとします。しかし、一番上の女の子がそれを拒絶し、姉と弟はそこから走って逃げていきます。わざわざこのようなシークエンスが入れこまれている理由は、堀越二郎が深い思索や鍛錬の末に親切な人間になったのではなく、弱い者に親切にして自分が満足を得たいというエゴイズムを実践しているのであるということを宮崎駿さんが観客に教えるためであったのだと私は確信しています。

堀越二郎のエゴイズムは仕事でも発揮されます。仕事をすれば周辺で何が起きているか全然気づかなくなるほどに没頭します。服部課長が来ても気づきません。話しかけられても気づきません。技術者ですから、もちろんそれはそれでよく、仕事ができるという意味で堀越は重宝されますし、服部さんは堀越を大事にします。しかし、服部さんは堀越二郎に人間的な愛情は持ってはいません。堀越二郎に特高警察の捜査の手が伸びた時、服部さんは「会社は君を全力で守る」と言いますが、続けて「君が役に立つ人間である間は」とも付け足します。日本ではかつて愛社精神などという言葉が流行し、組織や構成員は人間愛によって結ばれていることを強調する精神がありましたが、堀越と服部課長の間にそのような人間愛はありません。服部課長は堀越の技術だけを必要としており、堀越もそれで満足しています。堀越も会社から愛されることをそもそも必要としておらず、飛行機の設計という仕事さえさせてもらえれば充分に、あるいは十二分に満足であり、ウエットなものはむしろ邪魔であり、完璧なwin-winが成立しています。

堀越の徹底したエゴイズムは菜穂子さんとの愛情関係に於いても遺憾なく発揮されます。結核という当時としては死に至る病におかされていた菜穂子さんは療養所を脱出して堀越二郎に会いに行きます。本来であれば、療養所に返すのが筋というものですが、堀越は菜穂子さんを帰さずに妻として迎えます。このことに対し、上司の黒川さんだけが彼に「それは君のエゴイズムではないのか」と本質をつくのですが、堀越は否定せず「覚悟はしています」と言ってのけ、黒川も納得します。これはもちろん価値観の問題で、菜穂子さんに少しでも長く生きてほしいと思えば療養所に帰ってもらうのがベストですが、命を縮めてでも愛する人との短い時間に人生の幸福を凝縮させるというのもまた一つの考え方です。ですから、良い悪いを超えたところにはなってしまいますし、もちろん菜穂子さんというパートナーの願望もあって成立することではありますけれど、堀越本人はそれが自分のエゴイズムによる帰結であることを否定せず、平然として疑問すら抱かない姿を宮崎さんは描きたかったのだと思います。

ここでエゴイズムはどこまで正当化し得るのかという問題に突き当たります。堀越二郎は飛行機を作りたいだけであり、天下国家には関心がありません。送られてきた新しい資材を包んだ新聞紙にははっきりとわかるように上海事変と書いてありますが、そのような新聞報道には一切関心を持たず堀越はその資材だけに関心を向けています。しかし堀越が作る飛行機が実際に上海を爆撃し、重慶を爆撃し、真珠湾を爆撃し、多くの特攻隊員もまた堀越の設計した飛行機で死んでいきます。しかしそれは堀越の関心の外ということになります。堀越の同期が「俺たちは武器商人じゃない。飛行機を作っているんだ」と言い、堀越は沈黙でそれに同意を示しますが、自分のエゴイズムのもたらす帰結についてすら関心がないということもそのシークエンスで表現されています。結果としては菜穂子さんの死期を早めることになってしまったことも堀越は覚悟の上であり、透徹したエゴイズムのためには払わなければならない犠牲であるということを彼本人も理解しているわけです。堀越が菜穂子さんの寝床の隣で仕事をするとき、たばこが吸いたくなりますが、菜穂子さんが「ここで吸って」と頼むので、堀越はたばこを我慢することなく、そこで吸います。エゴイストであるがゆえに仕事と愛とたばこを吸いたいという欲望のすべてを満たすことが可能になるのであり、おいしいところを全部持っていく様は見事としか言いようがありません。

しかし、この映画の最後の最後で、堀越もまたその責任を負わなくてはいけなくなることが明らかになります。菜穂子さんはいよいよ病状が深刻になるということを悟り、一人黙って療養所へと帰ります。そこにある種の死の美学があり、ある意味では菜穂子さんのエゴイズムとも言えますが、菜穂子さんがんだ後、最後の場面で「あなた生きて」と堀越に言います。堀越には生きるという罰が与えられ、菜穂子さんのように人生を美しく仕上げるということが許されません。堀越の作った飛行機のために多くの人が死に、最後は日本が滅亡します。亡国の民として、亡国の責任者の一人として、恥ずべき敗戦国民として「生きろ」と命じられたわけです。

この作品では恥ずべき後半生の堀越の姿は描かれません。そこは観客の想像に任されることにならざるを得ず、作品では飽くまでも堀越のエゴイズムのピーク、絶頂期、美しい部分だけを特段に強調し、全力で美化して描かれています。意図してそうしているわけです。

私はこの作品を繰り返し観て、そのたびに深く感動しました。それは音楽が美しいからであり、作画が美しいからであり、堀越と菜穂子さんの短いながらも人生をかけた愛が美しいからであり、同時にエゴイズムを徹底して貫くことにも美しさを感じたからです。

そのように思えば、男は仕事ができてなんぼであり、仕事さえできればいくらでもエゴイズムは貫けるのだというわりと古典的な結論に落ち着くようにも思え、それはまさしく宮崎駿が仕事に打ち込む人生を他者に見せることで証明しているのだとも思えます。








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『この世界の片隅に』と『瀬戸内少年野球団』

『この世界の片隅に』の評判があまりにいいので観てきました。多くの人が言っているように、映画が終わった瞬間、この映画をどう理解していいのかが分からなくなってしまいます。凄かったことは間違いないのですが、明確な「泣かせどころ」があるわけではなく、すずさんの心の変化に気づくことはいろいろありますが、「ここが見どころ」というものがあるわけでもなく、でも感動的で、私の場合は涙が二すじほどすっと流れました。隣の席の人はほとんど号泣です。

時代背景は太平洋戦争ですから、「戦争もの」に区分することも可能ですが、空襲のシーンはもちろんあるものの、空襲がメインというわけでもありません。実はギャグ満載であり、「戦時下の銃後の生活をメインにしたギャグ漫画映画」に『今日のねこ村さん』なみのほのぼのした感じが加えられ、『じゃりン子チエ』を連想させるちょっとコミカルな感じで描かれる人々、確信犯的なすずさんの天然キャラが全部入れ込まれているにもかかわらず、全く無理を感じず、原子爆弾という重いテーマも、それは重いことなのだと感じることができる、普通に考えればあり得ないような映画です。すずさんの声は確かにのんさん以外にはあり得ず、私にはこの映画のために彼女は生まれてきたのではないかとすら思えます。

戦時下の日常をたんたんと生き、生活の窮乏もたんたんと受け入れる人々の姿が静かで圧倒的です。時々ポエティックな場面があり、それはすずさんの心の中で起きている現象を表現しているのだと私は思いますが、それ以外の場面が極めてリアルに描かれているために、三文詩人のような安さは生まれず、ポエティックな場面を文字通り詩的に受け取ることができます。ギャグもしかりで、ギャグの場面以外がめちゃめちゃしっかりしているので、ギャグを入れ込まれてくると笑うしかなくなってしまいます。そして静かに一人また一人と大切な人がいなくなっていく現象に薄ら寒い恐怖も覚えます。これは原作も読まなくてはいけなくなってしまいました。

個人的には私の祖父が連合艦隊の人で呉で終戦を迎えていますので、私の祖父もこういう光景を見ていたのだろうかという感慨もありました。

終戦のラジオ放送の場面では、一緒に聴いていた人たちが「そうか、敗けたのか」と、これもまた淡々と受け入れる中、すずさんだけが号泣し、「最後の一人まで戦うつもりじゃなかったのか。なぜここであきらめるのか」と叫びます。周囲の人からは「はいはい(あなたは天然だからすぐ感情が昂るのよねえ)」といなされますが、私はあのラジオ放送ですずさんみたいな感じた人は実は意外と多かったのではないかと想像していて、戦後、それを口にするのは憚られていてあまり語られなかったのではないかというようなことを、ふと思いました。

さて、物語は戦後も少し描かれますが、アメリカ軍の兵隊からチョコレートをもらったり、配給でアメリカ軍の残飯ぞうすいをもらったりして、がらっと変わった新しい日常を、人々はまたしても淡々と受け入れます。

アメリカ軍が来て、チョコレートをばら撒いて、人々が敗戦の傷から少しずつ立ち直って生きる姿は『瀬戸内少年野球団』を連想させます。この作品では敗戦があったとしても、それでも今を生きる人々のたくましさを感じることができると同時に、ヒロインの女の子のお父さんが戦争犯罪人で処刑されるなど、戦争に敗けるとはどういうことかをじわっと観客に問いかけています。

『瀬戸内少年野球団』の風景は、屈辱的ではあるけれど、それが戦後日本の出発点で、後世の人にもそれを忘れないでほしいという願いをこめて制作されたものだと私は思いますし、私は世代的にぎりぎりどうにか、そういう貧しかった日本の印象を記憶の片隅には残っていて、この映画のメッセージ性にぐっとくるところがあったのですが、『この世界の片隅に』は『瀬戸内少年野球団』より少し前の時代から時間的シークエンスを描いており、その描こうとしたところは実は同じものなのではないかという気がしてきます。

もし、これら二つの作品を連続して観ることができれば、ある意味では現代日本の原風景とも呼びうるものを感じることができるのではないかなあとも思えます。

『かもめ食堂』で「明日、シナモンロールを作りましょうか」がジーンと来る場面だと気づいた件

フィンランドで小林聡美さんが経営している食堂を手伝うことになった片桐はいりが、妙に空回り気味なやる気を出してしまい、お店のメインメニューのおにぎりにトナカイ、ザリガニ、ニシンの具を入れたらフィンランド人の客にウケるのではないかと提案し、小林聡美さんが渋々受け入れる場面があります。

試しに作ってみたものの、明らかな失敗作で、しかも片桐はいりさんは小林聡美さんのお店のコンセプトに挑戦したとも言える場面で、人間関係的に微妙な空気が漂います。その日の夜、小林聡美さんが就寝儀礼のように毎日行っている合気道の膝行の練習中に片桐はいりさんがお邪魔して「私にも膝行を教えてください」と言ってきます。小林聡美さんは快諾し、二人で膝行の練習をしますが、片桐はいりさんには膝行の経験なく、全く様になりません。そこで小林聡美さんが「明日、シナモンロールを作りましょうか」と提案します。小林聡美さんの心中を想像してみると、「そうかあ、私との人間関係を良くしたいと思って膝行を習いに来たのかあ、しおらしいなあ、客が店に全然来ないというのは確かだし、何か新しい手をうたないといけないという片桐はいりさんの意見も決して間違っていたわけでもないしなあ、なんかやった方がいいというのも確かだしなあ、あ、シナモンロール」という心の動きがあったと拝察できます。

片桐はいりさんの目的は膝行を習うことではなくて、小林聡美さんとの関係修復なのですが、その気持ちが嬉しいなあと思わせて、小林聡美さんのどこかにあったかたまりがほぐれて、シナモンロールというアイデアが化学反応的に生まれる場面です。

シナモンロールを作ってみたら、それまで外で見ていただけのフィンランド人のおばさま三人組がお店に入ってきてコーヒーとシナモンロールを注文します。客が入り始めた、お店が機能し始めた感動的な瞬間です。

そのように思うと、人間万事塞翁が馬みたいな感じの展開で、最初、片桐はいりさんの新しいおにぎりの具のアイデアは小林さとみさんにとってははっきり言えばちょっとうっとおしいというか、「こんな人に店を手伝ってもらうことは本当に良かったのか、やっぱりせっかく自分の店を出したんだから、自分の好きなようにしたいのに、もしかして、この人、無駄におせっかいの多い人かも」と思ったものの、結果としてはシナモンロールというアイデアが誕生して、お客を呼び込むことになったわけで、その最初の一歩である片桐はいりさんのちょっと空回り気味なやる気は全然無駄ではなく、有効だった、二人で新しいものを作りだすための感動的な展開だったということが分かります。

やっぱり評価されている映画は何回見ても気づくものがあります。『ゴッドファーザー』を何回も繰り返してみるとモーグリーンに関心を持つようになったりするのと同じことかも知れません。




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