人狼ゲームというシリーズについて、私はつい最近までその存在すら知らなかった。たまたまアマゾンプライムビデオで表示されたので、一応、さらっと見てみるだけ、見てみようか。おもしろくなかったら、視聴をやめればいい。そう思い、クリックした。ぐんぐん引き込まれ、観れる分は全部観てしまった。何がそんなに魅力的に思えたのだろうか…。
内容はかなり悪趣味なもののはずで、ゲーム理論的な人間対人間の誘導、扇動、嘘も方便で乗り切らなくてはならないが、乗り切れなかった即死亡という、結構、やりきれない内容だ。お話だから、フィクションだからと思って視聴するのはいいが、感情移入してしまいやすい人なら悪趣味過ぎて気分が悪くなって見ていられないだろう。何しろ登場人物の9割は死ぬことがお決まりの内容なのだ。このように一つの作品で大勢死ぬのがオーケーになったのは、バトルロワイヤルが映画化されて以降のことではないだろうか。バトルロワイヤルの原作小説が書かれた後、あまりの悪趣味ぶりに不愉快との意見がどこへ行っても大勢を占め、しばらく世に出なかったが、やがて向こう見ずな出版社の手に渡り、書籍になり伝説的な作品として記憶された。ナボコフの『ロリータ』みたいな感じだろうか。
バトルロワイヤルより前の時代、我々は『火垂るの墓』で節子が衰弱して死ぬまでを90分くらいかけて息を止めるような思いでみて、苦悶しつつ涙を流していたのである。そう思うと、バトルロワイヤルでは人の死がお手軽過ぎて、嫌悪感が先に立ってしまう。しかし、設定に慣れてしまうと描き方に関心がいくので嫌悪感は薄れてゆき、このように言っていいのかどうかはやや躊躇するが、作品の良い面にも意識が向くようになるのである。バトルロワイヤルの場合、一人ひとりの死にゆく中学生が、それぞれに青春を生きようとしているそのひたむきさに心をうたれずにはいられない。次々と中学生が死ぬので、視聴する側は次々とそれぞれの青春に付き合わなくてはならなくなり、きわめて濃密な映画視聴の体験になる。ある意味、名作である。バトルロワイヤルで中学生がたくさん死ぬのと、暴れん坊将軍で吉宗が悪いやつの部下を大量に成敗するのは全く性質が違うものだ。バトルロワイヤルの中学生には成敗される理由がない上に、一人ひとり、個性があり、想いがあることが表現されるのだから、観客は消耗する。暴れん坊将軍の場合は吉宗に斬られる下級武士たちに感情移入する機会は与えられないし、どうでもいいどこかの誰かが死ぬ場面なので、観ている側は特に疲れたりしない。暴れん坊将軍では個性のある登場人物は限られる。
いずれにせよ、バトルロワイヤルでそのような死の描き方に慣れてしまった私たちにとっては、人狼ゲームも受け入れやすい作品になった。人狼ゲームは初期のものとそれ以降のもので全くテイストが違う。私は初期のものの方が好きだ。熊坂出という人が監督をしていて、映像ももしかしたら結構きれいということもあるように思えるのだが、死にゆく高校生たちには個性がある。三作目以降には各人の性格はあっても個性がない。ここでいう性格とはそそっかしいとか泣きやすいとか怒りやすいとか優しいとかみたいなものだが、敢えて個性という場合、その人物が何を愛し、何を憎むのか、特定の状況下で如何なる行動を選択するのか、倫理と利益はどちらが優先されると考えているのかといったようなものが個性だと言えるように思う。要するに個性とはいかに生きるかという、生き方の選択の仕方にあらわれるものだ。
第一作と第二作では、作品の前半では各人が運命を逆転させようと努力し、忌まわしき運命から逃れようと、時には権謀実作も弄する。だが、いよいよ逃れられないと分かった時、死をいかにして受け入れるかということが主題になる。なんとかして生き延びようとあがくものもいれば、自ら死を受け入れることによって最期まで能動的であろうとする者もいる。常に合理的な行動をするわけではなく、時にはある種の文学的な心境に至ってしまい、不利益になることを承知で行動を選択することがあり、人は時として非合理的な選択をするという人間観が作品に漂っている。彼が或いは彼女がなぜそのような選択をしたのかということは、作品を観終わってからでも思い返し、反芻し、自分の人生と照らし合わせ、自分ならどうしていただろうかということまで想いを馳せることができるので、うまく作品を吸収すれば、人としての成長をすら期待できるかも知れない。
第二作がこれ
一方で、三作目以降にはそのような人生に対する哲学や個性の反映というようなものはない。登場人物たちはゲーム理論的な権謀実作を弄することだけを考えて行動する。従って、誰が最も合理的に賢い頭脳を用いて立ち回ったかどうかだけが問題になる。死に対して、運命に対して、自分がどのような姿勢を選ぶかという、もう少し掘り下げなければ見えて来ない面には目が向いていかない。最後の方は武田玲奈がかわいかったので、「わーっ、武田玲奈かわいー、結婚してー」と思いながら見ることで、退屈さとか陳腐さとかみたいなものを乗り越えて視聴することができた。武田玲奈が出ていなかったら、私はもっとひどい心境になっていたに違いない。
まあ、そのようにぶつくさ言いながらも一生懸命全部観たのだから、それだけ訴求力のあるシリーズだということは言えるのではないだろうか。