日中戦争7 リットン調査団

満州事変が起き、満州国が誕生して溥儀が執政に就任するという流れが東洋で起きている一方で、西洋では中華民国から満州国は国際法違反によってつくられたものだとする提訴が国際連盟に対して行われ、日本側でも国際法に違反していないことは証明できるという姿勢を貫き、要するに諸方面が同意した上でイギリスのリットン卿を団長とするリットン調査団が組織されます。

実際に満州地方を歩いた期間はそこまで長かったわけではなく、東京や北京なども訪問し、日中双方の要人、その他当事者そのものと言える溥儀とも面談するなどしてリットン卿は実際のところを判断しようとしたわけです。調査と言っても諜報活動のようなことをしたというよりは、公正明大且つ貴族的優雅さを忘れぬ態度でジャッジしようとしたのがリットン調査団の仕事で、その成果がリットン報告書というわけです。

リットン報告書は北京で書かれ、当時の知識人らしく「満州とは」くらいの大上段から始まっています。リットン卿はインド総督もした人ですから、東洋についてはよく知っているという自負もあったのでしょう。カエサルの『ガリア戦記』で「ガリアは3つに分けられる」から書き出しているのを理想とする人が多いので、どうしても、ついつい、満州とは、中国とは、日本とは、みたいな大袈裟な話から入っていきたくなるのかも知れません。また、リットン卿としても自分の知性を発揮する絶好のチャンスでしょうから多少気負った感じもあったのだろうと思います。

リットン報告書では歴史的経緯を説明した上で、満州国は国際法違反であると結論しています。当時の国際法は、国際連盟の精神と連動して整備されたようなものだと言っていいと思うのですが、19世紀的な弱肉強食の世界、国益のために戦争をする世界、侵略戦争を是とする世界を辞めましょうという精神で構成されています。ウッドロー・ウイルソンの民族自決もその精神の一部であり、侵略戦争ダメ絶対!=諸民族は自分たちで意思決定する権利がある。他民族に意思決定されない(注意 民族とは何かという問題は今回はちょっと置いておきます。またいずれ議論できる日も来ることでしょう)。という思想が当時は特別重視されていました。第一次世界大戦でヨーロッパが荒廃し、科学技術の進歩が良かったのか悪かったのか大量破壊が可能になってしまい、もはや戦争はできない、戦争やってたら人類の文明が滅んでしまうという危機感が出発点になっています。この考え方は第二次世界大戦後の国際法にも影響していて、たとえばポツダム宣言でも日本の将来の政治形態は日本人が自分で決めると書かれてありますし、東京裁判でキーナン主席検事が「人類の文明を守るための裁判」と主張したのも、第一次世界大戦で世界は戦争には懲り懲りだと思ったのにも関わらず、また世界大戦をやってしまったので、第三次世界大戦を予防するための裁判だ!と言っているわけです。ここでは、その是非善悪を問うているのではなく、そういう考え方で彼らが仕事をしていたということを理解するために議論しています。東京裁判については考え方が分かれるでしょうが、一応、私はここに述べているような視点で理解しています。

で、以上のような国際法の観点から言って、満州国は国際法違反だとリットン卿は判断しました。満州地方は日本軍によって占領されていて、溥儀は傀儡に過ぎない。従って、溥儀を君主と仰ぐ満州地方人民の自発的分離独立運動と認めることはできないので、民族自決の精神にも合致しないと判断したわけです。さて、ここからがさすがは世界一の二枚舌の国であるイギリスらしい解決方法が提案されます。日本側はリットン卿に対し、主として2点を強調していました。

1は満州国は民族自決の理念に合致している。
そして2番目に、満州地方を手に入れるために、日本はめちゃめちゃ苦労したんだ。

ということです。1と2の言い分は完全に矛盾していますが、日本側は両方言い張りました。日露戦争で10万人の兵隊が死に、20億円の借金を作った。今もポンド建てで借金を返済している最中だ、そこを汲んでくれよと情に訴えたわけですね。で、リットン卿は日本側の主張1を認めてしまうとヨーロッパに帰ってあいつは馬鹿だと言われるのが嫌なので、1については明確に否定します。しかし、二枚舌が普通なので、日本が情に訴えて来た部分は受け入れてあげましょうという提案がなされました。満州国を独立国として認めることはできないが、日本に権益追求の優先権があることを認め、ついでに国際管理ということにして、ま、細かいことはこれから考えることにして、国際連盟の強い国でうまく分け合いましょうよ。日本は多めに獲ってもいいから、その他の国にもちょっとづつ分けてよ。そしたら、矛盾してるところとか、目をつぶってあげないわけでもないよ。というわけです。

満州地方がもし国際管理になっていたら、ロシアの南下も心配しなくていいし、国民党にも手が出せません。そして利権は日本に優先権がある。こんなにいい話はちょっと考えられません。なんとおやさしいイギリス様と思ってしまいますが、日本側は「満州国は民族自決の精神に合致する独立国だと認めろ」と強弁して話をまとめようとはしませんでした。ああ、これがニッポンの悲劇と思わず天を仰ぎたくなってしまいます。

次は国際連盟で松岡洋右が強弁している最中に起きた熱河作戦についてやってみたいと思います。




日中戦争6 満州国の溥儀

1932年3月1日、第一次上海事変の停戦協定もまだ結ばれていない最中、満州国の建国が宣言されます。満州国の政治的なトップに溥儀を執政として据えて、事実上の関東軍の傀儡国家を成立させたことになります。

満州地方を関東軍が占領した後、日本領にするか、どこかの軍閥と手を組んで自治領みたいにするか、独立国家にするかは意見が割れたようですが、結果としては溥儀を利用した独立国家にする道を関東軍は選びました。第一次世界大戦を経験した後の世界秩序の中で、露骨に日本領を拡大することは既に憚られる状態だったこともありますが、溥儀は満州民族の君主ですから、満州地方の住民の自主独立運動、民族自決の帰結として満州国が建国されたのだと強弁する材料にすることができたことや、溥儀は自前の軍隊を持っていませんから、一度取り込んでしまえばとことん傀儡として利用できる、溥儀に抵抗するだけの力はないと見抜いたということもあると思います。

溥儀は紫禁城から追放された後、天津の租界で、特にやることもなく適当に遊んですごしていたわけですが、関東軍からの満州行きのオファーに対し、共和制だったら行かない、帝政だったら行くとの条件を出し、関東軍サイドが帝政だと約束したことを信用して満州へと秘かにわたって行きました。

で、どうなったかというと、皇帝ではなく執政という最高行政官みたいな肩書を与えられたわけですから、ちょっと騙された感はあったのではないかと思います。溥儀は徹頭徹尾、清朝の再建のために日本を利用しようと考えていたところがあるようですが、日本側は清朝の再建は全然考えていなかったという温度差、不協和音を感じてしまい、溥儀についつい同情してしまいます。

溥儀は二年ほど執政としての立場を真面目にこなし、念願かなって満州国の皇帝に即位します。関東軍から見れば、満州国の皇帝で、溥儀の主観では清朝の復活です。やはり温度差、不協和音はあったと思いますが、溥儀としては皇帝に返り咲くことができたことで、それなりに満足はしたかもしれません。中国のドラマで溥儀を扱っているのを見ると、わりと日本が戦争に敗け始めて大変なことになっている時期に、何も知らず呑気にタバコを吹かしてご機嫌に遊んでいる溥儀が描写されていたりしますので、当時はご満悦だったというのが定説になっているのかも知れません。ベルトリッチの『ラストエンペラー』を見ると、ずっと悲劇的な人世で、そんなご満悦どころではないのですが、まあ、溥儀本人の主観を想像するに、天国から地獄へのジェットコースターを何度も経験していますから、相当に疲労困憊する人生だったのではないかと思います。

溥儀は正確には三度、皇帝になっています。一度目は光緒帝が亡くなった後に三歳で指名されて即位した時です。その後、辛亥革命で廃位されますが、袁世凱が亡くなった後で張勲のクーデター的策略で再度皇帝の座に座り、二週間にも満たない短い期間ですが、清朝が復活しています。そして三度目が満州国皇帝即位というわけです。

実に大変な人生です。その後、満州国建国についてはリットン調査団が入っていろいろ調べて、民族自決ではないと結論されてしまったり、日本の国際連盟離脱につながったり、ソ連邦参戦の時には口に出すのも憚られるような酷いことが起きたりと重苦しい歴史の出発点になったというか、満州地方に固執したために日本はほろんだみたいなところもありますから、満州は日本の重苦しい過去の中心みたいな場所なのだなあと、ブログを書きつつ、改めてためいきをついてしまいます。




日中戦争5 第一次上海事変‐世界の中心と川島芳子

1931年の満州事変以後、中国に於ける対日感情は極めて悪くなっていきます。日本製品排斥運動も盛んになり、日本の対中輸出は相当に下がって行ったようです。さて、そのような一触即発が続いている最中の1932年、上海という世界の中心都市で日中両軍の軍事衝突が起きてしまいます。世に言う第一次上海事変です。

なぜ私が上海を世界の中心と呼ぶのかというと、当時は日本を含む列強の租界が上海にあって、列強の利権が上海に集中していたからですね。たとえば上海を失うと金融面で支障をきたすとか、貿易面で支障をきたすとか、そういうことがあるので当時の列強は上海で面倒が起きるのをとても嫌がっていたわけです。日本はこの段階ではまだ国際連盟脱退という最悪の選択をしてはいませんでしたが、列強から煙たがられる要因はこの段階で既に生まれていたと言っていいのではないかとも思えます。

いずれにせよ、その上海で日本人のお坊さんが襲撃されて命を落とすという事件が起きてしまいます。一説には日本軍に操られた川島芳子が引き起こしたという話もありますが、真偽のほどは分かりません。田中隆吉という陸軍の人物が川島芳子と深い関係になっていて、田中隆吉の意向を受けて川島芳子がお坊さんの襲撃を謀略したという話なわけですが、それを言っているのが田中隆吉さん本人で、他に証拠があるわけでもなく、第一次上海事変で一番仕事をしたのは海軍陸戦隊ですから、なんで陸軍の田中さんが謀略したのかと言う風に考えると、やや、解せないところもないわけではありません。当時に日本軍は統帥という究極的に融通の利かない制度があって、陸海軍は別々の命令系統で動いていて、協力しあうというのは滅多にありませんから、陸軍の田中さんが川島芳子を使って謀略して海軍が戦争するという構図そのものが、ちょっとリアリティに欠ける部分はあるように思えてならないわけです。

そうはいっても、第一次上海事変が起きたことそのものは事実で、日本軍が戦いの初期段階で海軍陸戦隊と投入し、慌てて陸軍の師団も投入し、物量で中国側を圧倒していきます。

ここは私もよく分かっているわけではないのですが、中国側は第19路軍が上海までやってきて日本軍と衝突するわけですけれど、どうも蒋介石氏の本部と現場の司令官の間での意思の疎通がそこまでうまくいっていたわけでもなさそうなんです。蒋介石氏としても、世界の利権の集まっている上海で大規模な戦闘とか、本音ではやってほしくないんだけれど、第19路軍という下部組織の司令官がやる気まんまんで突っ走ってしまったところがあるみたいなんですね。1926年に蒋介石氏が上海クーデターというのをやってますけど、これは治安維持的な意味で、むしろ蒋介石氏は列強から歓迎されたみたいなところがあるんですが、第一次上海事変では日中双方がちの戦闘で、列強の市民が巻き添えを食うという構図ですから、だいぶ性質が違うものだと言えると思います。

で、繰り返しになりますけど、日本側に圧倒されて中国側は撤退することになります。撤退はしたけれど、善戦したということで、第19路軍は賞賛されたそうです。ただし、司令官の人物は第二次世界大戦が終わった後は蒋介石を離れて、中国共産党に参加していますので、やっぱりそもそも両者の関係はあまりいいものではなかったのかも知れません。

以上が、第一次上海事変のあらましということになるのですが、この時に日本側が勝ちすぎて、便衣兵狩りもやったらしく、中には中国人じゃないのに巻き添えになった外国人もいたらしくて、日本に対する警戒論がやたらと強くなっていったようです。そういう意味では上海の治安を維持する蒋介石氏対上海で派手にやらかす日本軍、みたいな印象が欧米諸国に刻印される大きなきっかけになったとも言えそうですから、将来の日本の運命を左右するできごとだったとも言えるように思います。




日中戦争3 張作霖事件‐昭和天皇と田中儀一と関東軍

昭和3年、1928年の6月4日、北京から満州方面へ脱出してきた張作霖の列車が爆破され、張作霖が死亡するという事件が起きます。列車が爆破されて転覆するという大事故ですから、かなりの人が命を落としたようです。

張作霖がどういう人かというと、日露戦争の時にロシア側のスパイとして活動していたんですが、日本軍に捕まり、以後、日本軍への協力者に立場を変え、辛亥革命で清朝が倒れた後は少しづつ力をつけて満州地方を支配する軍閥を形成するようになった人です。関東軍の協力を得ていたので、当時の満州地方ではかなり有力かつ有利な立場にいた人物と言ってよいでしょう。彼は北京まで乗り出していき、当時バラバラに分裂していた中国の真実の支配者は自分であると宣言します。これが張作霖の全盛期だと思いますが、反共産主義活動に熱心で、ソ連大使館内を捜索して共産主義活動関係者の逮捕に及ぶなどが過激すぎたためか、列強からの支持を少しずつ失って行きます。列強はむしろ、国民党軍を率いる蒋介石を中国の正統なリーダーとして認める方向へと舵を切って行くことになりました。蒋介石の国民党軍が上海から北京へと迫り、戦いに敗れた張作霖が奉天へと帰る途上で列車爆破事件が起きたというわけです。

蒋介石が日本側に対して、満州地方へは進出しないとの言質を与えており、「だったらいいんじゃね」と関東軍関係者は考えるようになったらしく、どっちかと言えば溥儀を擁立して満州国を作る構想の方が魅力的なので「張作霖が帰って来ても困るよねー」という空気が関東軍にあったことは事実のようです。

この事件を起こしたのは関東軍の河本大作大佐と少数の協力者によるものだということは、すぐに分かったのですが、誰も処罰されることもなく、事件の犯人は隠ぺいする方向で日本政府部内でも大体の意思統一がなされました。当時、まだまだ若い昭和天皇は、田中儀一首相に対し、事件の真相の公表を指示しましたが、田中首相が言を左右にして言う通りにしないので、昭和天皇がキレまくり、叱られた田中内閣はそれを理由に総辞職することになります。『昭和天皇独白録』では、昭和天皇が当時のことを回想し「田中首相に辞表を出してはどうかと言った」と述べていますが、田中首相辞任から、当該の回想がなされるまで20年近い年月が流れています。それで「辞表を出してはどうか」と言ったことまで覚え居てるわけですから、当時は相当な剣幕で切れまくったのではないかと私は推察しています。

この出来事をきっかけに、昭和天皇は、天皇が政治に口を出し過ぎると内閣が潰れて混乱が生じるということを学び、立憲君主として意思決定に口を挟まないというポリシーを貫くことにしたと一般に言われていますが、田中内閣が潰れた後で、昭和天皇は西園寺公望から立憲君主のあり方みたいなことでお説教されたようです。

張作霖の事件は日本帝国の戦争の長い歴史から見ると、どちらかと言うとあまり目立たない事件だとも思いますが、一連の出来事を眺めてみると、日本帝国の特質のようなものがよく見える出来事ではないかと思えます。まず第一に、張作霖が邪魔になったので殺すという短絡的かつ倫理性ゼロの発想法が関東軍でまかり通っていたことが分かります。更にそのような独断専行が批判されないという特殊な空気が日本政府には濃厚に流れていたということも分かります。また、昭和天皇の政治に対する考え方を知る上では、この事件を語ることは不可欠だとすら言えるように思います。これからも少しずつ、日中戦争史、できる範囲で続ける予定です。




日中戦争2 用語解説→関東軍とは

関東軍について、簡単に説明しています。関東軍は知ってる人にとっては常識で説明の必要はないんですが、知らない人にとっては「なんじゃそりゃ?」な用語だと思いますので、一応、やっておいた方が網羅的にやっておいた方がいいかなと思って動画にしていました。よろしくお願いします。




日中戦争1 日中戦争前史‐北京議定書

日中戦争は言うまでもないことですが、1937年に突如として起きたものではありません。そこへ至るまでに何十年もかけて蓄積された圧力のようなものが存在します。

以前、学生から「一体、いつから日本が中国に侵略していくようになったのか?」という趣旨の質問をされた時に、はて、どこから話せばいいのだろうかと考え、私はやっぱり北京議定書から始めるのがいいのではないかと考えるようになりました。

日清戦争から始めても決して間違ってはいないとは思います。ただ、日清戦争はその後の日本の浸食とは性質がやや違うように思います。日清戦争が起きた時、中国は既にアヘン戦争を経験した後の時代で、欧米からの浸食を受けてはいましたが、それでも東アジアの覇権国だという位置づけに違いはありませんでした。日本は新興国の挑戦者であり、両者が朝鮮半島に対する影響力を巡って争ったわけですから、覇権争いの戦いだったと言えます。

一方で、日中戦争は日本側から一方的にフルボッコをかましていこうという戦争をして、まあ、最終的には日本がフルボッコされたわけですけれども、いずれにせよ、日本がいつから中国をフルボッコにして利権を得ようと言うようなことを始めたかということをずっと辿って考えてみると、1900年の義和団の乱がその始まりなんじゃないかという気がします。義和団の乱はわざわざ説明する必要はないと思いますけれども、日本と欧米からどんどん浸食されている中国で、排外的な勢力が叛乱を起こし、普通だったら清朝がそれをなんとか取り締まるはずなんですが、清朝の西太后なんかはこれは外国人をやっつける好機だと思って列強に宣戦布告してしまうという、かなり行き当たりばったりで無計画な戦争状態が中国内部で始まってしまいます。

列強は一致して事態の収拾に臨み、清朝の皇帝と西太后とかは父祖の地である熱河まで避難して、取り敢えず列強が義和団の乱を抑え込んで、清朝とも講和しようという流れになります。『北京五十日』という古い映画があって、この映画でこの一連の事件のことを描いていますが、伊丹十三さんが日本軍の指揮官をやっているんですが、今思い出すと、中国人に対する偏見丸出しで、あんな映画を本当に作っていいのかという疑問もわいてくるんですが、それはともかく、この講和の際に、列強の兵力が中国に進駐すること、海岸地帯の租界から北京まで外国人が安全に通行できるように、そういった辺りにも外国の軍事力が進駐することなんかが決められるんですね。

これが、中国に対して侵略的に日本が入っていった第一歩なんじゃないかなと思いますし、当時、学生にはそんな風に説明しました。

その後、対華21か条要求とか、九か国条約とか、張作霖事件とか、満州事変とか、そういうのが折り重なって複雑怪奇な状態になっていくんですが、それはまた次回以降について考えてみたいと思います。




白山眞理著『報道写真と戦争』で学ぶ日本帝国の宣伝活動

日本帝国政府内閣に「情報部」なるものが設置されたのが昭和1937年9月だ。日中戦争と歩を同一にしており、日本帝国政府が当初から日中戦争を総力戦と位置付けていたことを根拠づける展開の一つだと言うことができる。情報部は一方に於いて内務省警保局から引き継いだ検閲の仕事をし、一方に於いては宣伝・プロパガンダの仕事をした。ナチスの宣伝省をモデルにしていたであろうことは論を待たない。

で、今回は検閲の方の話ではなく宣伝の方の話なのだが、当時の帝国の宣伝対象は大きく3種類に分類することができる。一つは帝国内地の臣民、もう一つは外地・植民地の人々、もう一つが諸外国だ。内閣情報部は帝国臣民に読ませるために『週報』を発行し、やがて『写真週報』を発行するようになるが、他に対外宣伝の目的で『FRONT』『NIPPON』などの雑誌を発行する。英語を含む複数の言語で発行されていたらしい。アメリカの『ライフ』誌をモデルにして発行したもので、これらの雑誌の発行を通じて「報道写真」という分野が対外宣伝のために確立されていく。

内閣情報部の対外宣伝写真がほしいという要請を受けて名取洋之助、木村伊平、土門拳などの著名な写真家たちが日本工房なる会社を銀座に設立し、実際に大陸に渡って写真を撮影して帰って来るようになるのである。白山眞理先生の『報道写真と戦争』は、彼ら写真家たちの戦争中の足跡を戦後に至るまで丹念に情報収集した画期的な研究書だ。

この著作を読んで見えて来ることは、「報道写真」とはそもそもヤラセだということだ。報道写真は記録写真とは全く違うものだ。記録写真は証拠として残すために撮影するものだが、報道写真は情報の受け手が感動する演出を施して、「これが真実だ」と伝達する役割を負っている。演出はするが芸術写真とも異なるというところが微妙で難しく、醍醐味のあるところだとも言える。私は以前新聞記者をしていたことがあって、この手の報道写真を撮影して歩く日々を送っていた。ヤラセなければデスクが納得する写真は撮影できないので、新聞の写真は大抵がヤラセだと思っていい。私は新聞記者がヤラセを日常的に行うことに疑問を感じたが、ヤラセが普通だったので私もそうするしかなかった。白山眞理先生の著作を読んで、この報道写真のルーツをようやく知ることができたと思い、私は長年の謎が一つ解けたような感動を覚えた。

もう一つ興味深いのは、戦争は確かに日本に於ける報道写真というヤラセ撮影の文化を生み出したが、それがアメリカの雑誌をモデルにしているということだ。日本兵の骸骨を机の上に於いてほほ笑んでいる少女の写真とか、硫黄島で星条旗を掲げるアメリカ兵の写真とか、ヤラセなければ撮影できるわけがない。マッカーサーも自己演出のために自発的にヤラセ写真をプレスに撮影させた。フィリピン奪還上陸の写真は自分がかっこよく見えるように撮り直しをさせたと言われているし、昭和天皇と並んで映った写真も、写真がもつ効果を熟知した上でやっていることだ。写真の技術が発達して報道に使用できるようになった時、ヤラセになることは明白な運命だったのだとすら言えるかも知れない。

もともと写真は高価な趣味で、明治時代は徳川慶喜のような元将軍クラスの人物でないと遊べなかった。昭和の初めごろになると誰でも記念写真を撮れる程度には写真は気軽な技術になったが、それでもフィルムと現像の費用を考えれば慎重を要する技術で、見るものを感激させる報道写真を撮影するためにはヤラセるしかなかったのだとも言えるだろう。しかし現代はスマートフォンの普及に伴い、誰でも無限に撮影と録音ができる時代が来た。プロのカメラマンが撮るよりも、現場に居合わせた素人が本物を撮影して報道機関に持ち込んだり、ネットに直接アップロードするのが普通な時代になった。過去、報道写真は時代を作るほどの影響力を持ち得たが、今後は通用しなくなりすたれていくのではないだろうか。



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和辻哲郎の『アフリカの文化』論

和辻哲郎は1937年に『思想』という雑誌で、『アフリカの文化』という文章を発表した。フロベニウスの『アフリカの文化史』という書物を引き合いに出し、アフリカには「合目的的、峻厳、構造的」な文明が存在していたことを日本人に紹介している。

アフリカの歴史は古く、たとえばエチオピアには2000年以上続いた皇帝国家があったことは知られているが、ヨーロッパで文明が発達するより遥か以前から精緻な構造物や文化体系が存在したというのである。それを破壊したのは大航海時代のヨーロッパ諸国で、古くから存在したアフリカの文物を破壊し尽くし、プランテーション農業を普及させた。和辻哲郎の言葉を借りれば、そのような貧しいアフリカイメージは「ヨーロッパの作り事」であるらしい。

アフリカ人が迷信の偶像崇拝の文化にすがり、進歩しようとしないというのも全くの嘘で、植民地化、プランテーション化によって旧来のものが破壊された結果、貧しく、「ヨーロッパ商人に寄生する」アフリカ人社会が創造されてしまったというのである。アフリカの古くからある高い文明性については大航海時代の初期の征服者たちは気づいていたものの、次第に忘れ去られ、やがてはディズレイリがヨーロッパという巨大大陸を自分の足でまたぐような風刺画で表現される、ヨーロッパに支配され、教育され、文明をもたらされる側の立場に立たされるようになってしまったというわけだ。呪術を信じ、非文明的なアフリカ人というイメージは奴隷商人によって利用され、非文明人なので(場合によっては人間より動物に近いという観念すら持って)、アメリカ大陸に奴隷として人身売買されることの罪悪感は消し去られ正当化された。

19世紀の冒険家たちがアフリカの奥地に足を踏み入れることにより、まだヨーロッパの支配が及ばない地域へ行った際、そこで完成された美しく豊かで合理性のある文明的なアフリカ人の姿を発見したのだという。フロベニウスが1906年にアフリカ探検旅行に行った際には、上に述べたような完成されたアフリカ社会が残された地域があり、その文明の度合いの高さに驚いたという。

和辻哲郎がこの文章で述べていることは、サイードが『オリエンタリズム』で主張したことと相当程度に重複していると言える。サイードはアラブ世界がヨーロッパ人が勝手に自分たちの好きなようにアラブ人の姿を描いたと主張しているのに対し、和辻哲郎はそれと同様のことがアフリカ人に対して行われたと、サイードがオリエンタリズムを書く何十年も前に指摘していたということになる。

もっとも、和辻がこのような文章を発表した背景には、当時の日本人が欧米人に対して劣等感を持っていたことと無関係ではないだろう。何事も欧米が進歩しており、日本で完成された文化や歴史を捨て去ることが果たして正しいのかという問いを彼は『アフリカの文化』という文章で発したのである。この文章が発表された時期は既に日中戦争が始まっている時期で、欧米社会からの日本に対する批判は厳しかった。それら批判に対する心理的な反抗がこの文章の持つ性格の一面であるが、サイードより40年も前に同様の指摘をしていることは重要と思えるので、ここで紹介しておきたいと思った。



リチャード・ストーリィ『超国家主義の心理と行動』の日本帝国滅亡必然説

リチャード・ストーリィなる人物はイギリス生まれの学者さんなのですが、過去、日本がなにゆえに帝国主義に邁進し、滅亡したかを実証的に研究したのが『超国家主義の心理と行動』という著作です。原文の英語のタイトルは「Double patriot」となっていますが、ここで言うダブルとは二重という意味ではなくて、二倍という意味、普通より二倍の濃さを持った愛国主義というイメージなのだそうです。

玄洋社の頭山満のような、アジア主義者が民間で広がり、彼らが軍人とつながって拡大主義が台頭するというのを延々と様々な資料を用いて述べています。『西園寺公望と政局』のような資料も用いていますので、日本人であれば彼の研究を後追いして裏取りをするのも可能と思います。

面白いのは226から日中戦争あたりの記述で、重要なファクターとして石原莞爾が登場します。226事件皇道派が一掃された後に、石原莞爾が陸軍の大物たちを裏で操り、対ソビエト戦に備えた国家構想を抱き、実現しようとしていた一方で、陸軍内部では統制派が登場し、彼らが日中戦争にのめり込んでいきます。いつ、どこで誰が何を話し合ったのかを克明に再現しており、研究というよりは取材の集積みたいになっています。

当初は民間の運動に注目していますが、後半はほとんど政治の中枢、政局のドラマで、ナチスと同盟をしたいグループとそうでないグループとの相克、昭和天皇が狂信的愛国者を嫌っていたという点で狂信的愛国者は大きな矛盾をはらんでいたが、木戸内大臣が昭和天皇さえ守ればいいという覚悟で彼らを適当にスルーしていく様子、政治家たちが暗殺を恐れて軍をコントロールできなくなる様子等々が非常に詳しく書かれています。記述は真珠湾攻撃の直前までなされていますが、日本は北進論と南進論で分裂したいたものの、北進すればソビエト連邦との戦争は必至、南進すればアメリカとの戦争は必至、どう転んでもナチス滅亡も必至だったため、対ソ戦であろうと対米戦であろうと「日本にとって破滅に終わるという点で、まったく変わるところはなかったのである」と書かれています。滅亡まで「国家主義運動は走り切った」とも書いてあるため、一旦暴走した愛国主義は滅亡まで突き進むしかなかったのだと言うことも示唆しています。

特徴を上げるとすれば、原則として東京裁判で事実認定されたことをベースにしており、そういう意味では昭和天皇に対してはあまり批判的ではなく、一方で軍や愛国主義者に対しては冷たい視線が維持されています。ヨーロッパ人が日本の軍国主義を書くとどうなるかということがよく分かる一冊と言えます。


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昭和史71‐植民地と総力戦

日中戦争が泥沼化していく中、植民地では志願兵制が導入されていきます。私の手元の資料では植民地の人の健康管理、体力増進をやたら強調していますので、将来的には徴兵制に対応できるように整えようとしていた意図があったようにも思えます。

朝鮮半島での志願兵制は少し早かったようですが、昭和17年には台湾でも志願兵制が施行されることになり、それに先駆けて皇民報公会なるものも組織されることになったと、手元にある資料の昭和16年7月1日付の号で述べています。

で、この皇民報公会が何をするのかというと、台湾全島民を組織化し、皇民化を徹底し、お国へのご奉公をいつでもやれる組織にするということらしく、これまで「総力戦」という言葉は何度も当該資料で出てきましたが、ここにきてそれを実際にやろうというわけです。とはいえ、既に経済警察が置かれて経済の仕組みは統制経済、近衛文麿が大政翼賛会を作って政治的にも政党政治が死に絶え、蒋介石との戦争に莫大な戦費を使っていますから、とっくの昔に総力戦は始まっているとも言えますし、もうちょっとつっこんだことを言うとすれば、全島民ということですから女性、子供、老人も組織化するとしても、一体、それが戦争にどういう役に立つのか私にはちょっとよく理解できませんし、そういうことをやろうとするというのは日本帝国に焦りがあったことの証明のようにも思えます。

台湾は南進論の拠点と位置づけられており、当時既に東南アジア進出(侵略?)は既定路線になっていたわけが、当時、それらの地域はほぼ全域が欧米の植民地だったので、欧米諸国と戦争するつもりが充分にあったということも分かります。当該の号では、アメリカ、イギリスの民主主義・自由主義の体制に対抗して民族生存の戦いが行われるという趣旨のことが書かれてありますから、やなりわりと早い段階でアメリカとの戦争は想定されていたと言えると思いますが、一方でよく知られているように、中央ではぎりぎりまで本当にアメリカと戦争するべきかどうかで悩みぬき、憔悴していたとすら言える印象がありますし、ぎりぎりのところで近衛文麿が思いとどまろうとして東条英機の反発に遭い、首相の座を投げ出すあたり、政治家は迷っていたけれど、官僚は準備万端整えつつあったと見てもいいのかも知れません。もちろん、官僚は目の前の仕事に力を尽くしたのだと思いますが、大局的な判断するべき閣僚たちが右往左往の状態に陥っていたと見るべきなのかも知れません。

ここは想像になりますが、中央の意思決定関係者たち(政局関係者たち)、軍、官僚、植民地官僚、外交官がそれぞれにある人はアメリカとの戦争は困ると言い、ある人は蒋介石打倒のためなら世界を相手に戦争すると言い、ある人は戦争以外の手段で東南アジアを自分たちのブロックを確立しようとし、全体としては大東亜共栄圏という国策がある以上、周囲との軋轢、摩擦、対立は避けられないとも思えるものの、その国策はやめてしまおうという勇気のある人はいなかった。それが結果としては滅亡への悲劇につながったのではないかという気がします。


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