リバタリアニズムとリベラルの違いは、何ですか?

リベラルには反ファシズムという程度の意味合いしかないと私は思っています。リベラルの概念は幅が広いため、誰もが「我こそはリベラルである」と主張します。ちなみに私自身も私のことをリベラルだと思っています。社会主義者も資本主義者も自由主義者ももしかしたら共産主義者も場合によっては皇国史観支持者も自分のことをリベラルだと考えています。で、リバタリアニズムはそのように多種多様なリベラルの中の一派であって、完全自由を理想とし、あらゆる権力の介入を嫌います。私自身もかなりなリバタリアニズム的思考を持ちます。念のため補足しますが、「弱肉強食が当然」などという浅はかな考えを持つ人物はリバタリアニズムに向いていません。徹底的に自由を追求した時、人は誰もがその才能を発揮し得るというのがその理想であって、それは確かに飽くまでも理想とするところに過ぎず実現されていない場合はまだまだ多いとは思いますけれども、それは克服されなければならない問題であって従容として受容すべきことではなく、克服するために自ら行動すべしというような感じに考えているわけです。「天は自ら助くる者を助く」を素朴に信じているとも言ると思います。



自由主義と新自由主義はどう違うのですか?

多分、あまり違わないのです。もともとアダムスミスが経済は人それぞれ自由に勝手にやるのが一番いい結果になると、神の見えざる手に導かれるとしたのが自由主義の嚆矢になると思いますけれども、フランス語でこれをレッセフェールと言いますが、ある時からレッセフェールではダメだという意見が生まれ、レッセフェールのままだと貴族や地主、資本家などのアッパークラスが永久に人々を搾取するという問題を持つ人が生まれてきてですね、トマスモア的ユートピアは自然に生まれて来ないので、意図的にヘーゲル的社会変動を起こさなければならないという共産主義革命思想が生まれたり、そこまでやらなくても政府の意図的な財政運用で人々は豊かになれるとするケインズ経済学的思想が生まれたり、いやいや中央銀行が金融を緩めたり引き締めたりするだけでどうとでもできるとするマネタリスト思想が生まれたりして、20世紀はアダムスミス的ではない形での経済金融政策が様々に議論されたのですが、21世紀に入るか入らないかくらいのころに、「ちょっとまて、アダムスミスで良くね?レッセフェール最高じゃね?」と言い出したのが新自由主義者なのだと私は理解しています。ですので、自由主義の中に古典的自由主義と新自由主義が存在し、古典的自由主義と新自由主義の違いは流行した時期の違いだけであるということではないかなと思います。