吉宗のリアルホラー権力闘争

徳川幕府第八代将軍の徳川吉宗は、本来、徳川家の中での将軍継承順位が非常に低かったため、将軍になれるはずの人ではありませんでした。ところが、我々が知っているように八代将軍になったわけなのですが、今回は彼がどんな風に権力ゲームで勝ち残っていったかを確認してみたいと思います。よく見てみると、実に血なまぐさいというか、驚くほど恐るべき闘争が行われていたことが分かるのです。

吉宗は紀州徳川家の第二代藩主である徳川光貞の四男としてこの世に生を受けました。紀州徳川家はたくさんある徳川家の中では、本家、尾張徳川家に次ぐ、三番目の家柄になりますけれど、吉宗が産まれてきたときは本家には徳川綱吉がいて、当時はまだ綱吉も若かったですから安泰でしたし、その次に尾張徳川があるわけですから、紀州徳川に将軍の順番が回ってくるなど考えられませんでした。ましてや、吉宗は四男ですから、紀州藩主になることすら本来は無理だったはずなのです。

ところが、吉宗の一番上の兄の徳川綱教が紀州藩第三代藩主の座にありながら、病死します。吉宗には更に二人の兄がいましたが、その二人も同じ年に相次いで病死し、四番目の吉宗に藩主の座が回ってきました。これだけでもちょっと怪しんですが、本番はむしろこれからとすら言えます。

五代将軍の綱吉に後継者たるべき男子がいなかったため、次の将軍候補を誰にするかが焦点になってくるんですけれど、江戸の幕府官僚たちは尾張か紀州から将軍が来るのを嫌がっていました。たとえば尾張藩主が将軍になれば、尾張藩の家臣たちが大量に江戸にきて、江戸城の行政を乗っ取ってしまうことは明らかで、そういうことを幕府官僚はいやがったわけです。ですから、尾張や紀州のような大量の家臣を抱える徳川家の人物ではなくて、もうちょっと言うことを聞きそうなのを選ぼうとします。で、白羽の矢が立ったのが甲府徳川家の徳川家宣でした。御三家の人物でもない彼がなぜ選ばれたのかと言うと、第三代将軍家光の孫だからというのが幕府官僚たちの説明でした。家康が設定した御三家よりも、家光の血筋の論理が優先したということで注目すべきことなわけですが、甲府徳川家は歴史も浅く、幕府官僚組織に組み込めば、飲み込まれて消えてしまうのでやりやすかったというわけです。

ですが、おもしろくないのは、紀州と尾張です。特に尾張は、綱吉の次は尾張からと思って張り切っていたのに、本来傍流とみなしていた徳川家宣が六代目になって、つまらないこと甚だしいわけですよね。しかも、六代目以降は順調にいけば家宣の子孫が将軍職を継承していきますから、下手をすると未来永劫、尾張にも紀州にも将軍の順番が回ってきません。ところが、どういうわけか家宣は将軍に就任してから僅か3年で病没してしまいます。家宣には新井白石、間部詮房という側近がいたのですが、彼らは急いで家宣の息子の家継を第七代将軍に据えました。本来、将軍はせめて元服をしている人物から選ぶという慣例になっていましたが、家継は非常に幼い男の子だったために元服をすませておらず、そこは慣例破りで推し進められました。家宣の血筋を将軍家として残すためにはそれしかないとの判断が働いたというわけです。そのうえ、新井白石も間部詮房も、紀州なり尾張なりに将軍の座をとられると、失職してしまいかねませんから、利害損得を考えても、ここは家宣の息子でということになります。しかし、幼少の息子さんが将軍になったということは、これから何十年か将軍をやるということですから、尾張の人も紀州の人も自分が生きている間に将軍の順番が回ってくることをあきらめなくてはならないということをも意味するわけで、もはや万事休す。むしろ新しい徳川将軍の血筋を祝福し、自分は領国経営を一生懸命やったほうがまだみんなが幸せになるというものです。ところが七代将軍家継も3年後に病没してしまいます。

ここまで述べただけでも、吉宗に将軍の順番が回ってくるまで何人病死したのかと数えるのがちょっと大変な気がしますが、更に加えて、ちょっと省略しますけど、尾張徳川の方でも将軍にふさわしそうな男子がばったばったと死んでいきます。

七代将軍家継が亡くなったとき、まがりなりにも吉宗は直系の紀州徳川藩主でしたが、尾張藩主は本家が滅亡してしまっていて、分家の人が藩主になっており、すでに吉宗リードな状態でした。更には大奥への工作と新井白石たちへの工作も功を奏して、吉宗が晴れて八代将軍に就任という次第になったというわけなんですね。長い!実に長い!吉宗が将軍になるまでを述べるだけでここまで長いとは!

さて、ここまで、いったい何人が毒殺されたのかついつい疑いの目で吉宗を見たくなってくるのですが、更に吉宗の凄いところは、後世も自分の血筋で将軍職を独占できるように設定しておいたことです。吉宗は徳川三卿と呼ばれる3つの家を自分の息子たちに創設させました。田安・清水・一橋と呼ばれる三つで、将軍はこの三つの家から選ばれることになったわけです。徳川三卿は養子を融通しあって絶えないように調整され続けましたから、本来、徳川の親戚筋で一番高貴だったはずの尾張徳川に出る幕はありません。しかも紀州徳川家も存続したため、尾張は一機に傍流へと転げ落ちてしまったというわけなんですね。幕末、尾張徳川は早々に官軍の側についてますけど、吉宗の時の経緯を知っていれば、そりゃそうだと、そこまでして江戸に義理を尽くす理由はないと尾張の人が思っていたとしてなんら不思議はありません。幕末の長州征伐の時は、幕府軍司令官を尾張の徳川慶勝が担当しましたが、彼のやる気がなかったのは有名な話で、それもさもありなんと勘ぐってしまいます。徳川滅亡の要因の一つは、吉宗一人勝ち現象があったからと言えなくもなさそうに思えます。

尚、最後の将軍である徳川慶喜は一橋の人でしたから、一橋慶喜と呼ばれましたが、もともとは、絶対に将軍になれるはずのない水戸徳川の人でした。その彼が一橋に養子に入ったことで、大きな番狂わせが起き、徳川の団結が乱れたこともまた事実で、なるほど成功の中に失敗の種があるのかと、人間の営みの不思議のようなものをついつい考えてしまいますねえ。



新井白石とイタリア人宣教師シドッチ

イタリア人宣教師のシドッチは1708年に屋久島に上陸し、直後、地元の人に発見されて長崎に護送されます。長崎ではオランダ語通訳と対面しますが、シドッチはラテン語またはイタリア語を使うため、ある程度の語彙の相似は認められるものの、何を言っているのかはっきりとは分かりません。カトリック宣教師のシドッチは新教国のオランダ人を敵視していたため、出島のオランダ人との直接の会見はためらわれ、襖越しにシドッチと通訳が話すのを聴かせますが、オランダ人もよく分からないと言います。

ただ、シドッチが江戸に行きたいと言っていることは分かったため、それならばそうしようということになり、江戸へ送られて新井白石と対面するという次第になります。

新井白石はシドッチと面会し、来日目的、ヨーロッパ事情、キリスト教の思想などについて質問します。数年後にその時に得た情報を基に、その他の手に入る文献や私見を交えて白石は『西洋紀聞』を書き表すことになります。新井白石とシドッチの対面は遠藤周作さんの『沈黙』でロドリゴ司祭と通訳武士との宗教問答のモデルになっているとも言われていますが実際には違うようです。私が諏訪邦夫さんの現代語訳を読んだ限りではシドッチの覚えたての日本語と新井白石のオランダ語を用いての、おそらくは手ぶり身振りと筆談でなんとなくわかるというのが大半のやりとりであったため、『沈黙』のような気迫のある理詰めの話し合いにはならなかったのではないかと思えます。『西洋紀聞』では、イエスキリストの伝承は仏教の伝承によく似ており、イスラエルがヨーロッパに比べて比較的インドに近い土地であることから、ユダヤ教は仏教を下敷きにしているのではないかという推論を立てていますが、これはシドッチとの対面の際のやりとりでそういう話があったというよりは、飽くまでもシドッチの話を聞いてから、白石が自分で論考したとものではないかと思えます。

キリスト教が激しく迫害されて何十年も経ち、もはやヨーロッパの宣教師も日本への布教を諦めたかのように思えるこの時代になぜシドッチが来日したのかについて、新井白石はシドッチが元禄時代の小判をどこからか入手して所持していたことに着目し、元禄時代に財政難陥った幕府が小判の質を落としたことを知り、日本の国情不安と見て人心に訴えかける好機を見たのだろうと書いています。そこに気づく新井白石も慧眼ですが、金貨の質に着目したカトリック教会もさすがです。ただ結果として元禄はインフレになり空前の好景気に沸いたというのは想定の範囲外だったのかも知れません。

新井白石はキリスト教のあらましを理解した上で、その教えは仏教と似ているが浅はかであるとの結論に達しており、これは何となく、遠藤周作さんの『侍』で長谷倉常長(支倉常長をモデルにしている)が、イエスキリストの福音書の物語を聴いてこんな奇怪な物語を信じることはできないと驚愕する部分に通じているようには思えます。 

江戸の小石川に禁教とされていたキリスト教の信徒または宣教師を隔離・幽閉するための切支丹屋敷があり、シドッチはそこで軟禁されますが、シドッチの身の回りの世話をしていた夫婦に洗礼を授けていたことが発覚し、牢に入れられ、その翌年に亡くなったとされています。劣悪な環境での衰弱死が想像され、火あぶりとかそういうのも酷いですが、衰弱死させるのもかなり酷いやり方のように思えます。コルベ神父を連想させられなくもありません。

最近になって跡地から人の骨が見つかり、DNA鑑定の結果、イタリア人のものである可能性が高いとされ、必然的にシドッチ司祭のものではないかと考えられています。『西洋紀聞』そのものについては新井白石の知的好奇心の旺盛さが感じられて、ちょっといい話なのですが、一方でシドッチの最期は壮絶すぎて、両者の運命の違いというものまで考えさせられます。もっとも、新井白石は八代将軍吉宗の時に「お役御免になったんだから今住んでいる屋敷から立ち退け」と言われ「ざけんな、ここは俺の家だ。絶対引っ越さねーからな」というやり取りがあり、幕府の役人がはてどうしたものかと困っていたら大火事が起きて新井白石の屋敷も燃え落ちてしまうという、へんてこりんな晩年を迎えています。私は密かに、新井白石引っ越し問題をどう解決するかで頭を抱えた役人が故意に火事を起こしたのではないかと邪推しています。

新井白石の『西洋紀聞』は後世にに読み伝えられ、魏源の『海国図志』と並び、幕末の知識人の西洋事情を知るための参考資料になったようです。



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