江ノ島から鎌倉までは、歩こうと思えば歩けるし、今まで何度かやったけれど、とても疲れるということがあまりに明白なため、今回を最後に二度とやらないと決心をした。今回は江ノ島から鎌倉まで江ノ電沿いに徒歩で歩くとどんなものに出会って、どんな風になるのかの最終報告みたいな内容だ。
まず、小田急片瀬江ノ島駅を降りれば、すぐに江ノ島付近の海岸に出られる。そしてこんな風景を見ることができる。
江ノ島の西の浜だ。片瀬江ノ島駅から徒歩3分ぐらいのところにあるので、簡単に到着できること請け合いである。さあ、出発だ。
江ノ島の西の浜から東へ向かおうとすると、すぐその場で目に付くのがロコモコのお店だ。これは以前に撮影したものだが、仮にロコモコのお店に入ったら、このような景色を見ることができる。江ノ島から鎌倉まで徒歩で二時間くらいかかるので、先にロコモコで腹ごしらえをしておくのも大切なことだ。
ロコモコのお店を出て、藤沢から鎌倉方面へ向かうと、腰越あたりに出てくる。下の写真は藤沢から見て腰越エリアに入る境界線になる岩場のものだ。岩場を超えれば腰越であり、現代の行政区分とは異なる、鎌倉時代人にとっての鎌倉の入り口のそのまた入り口のエリアに足を踏み入れることになる。
この岩場を超えれば、腰越エリアになるのだが、腰越もまた岩場である。江ノ電が通っているために掘削されているが、こんな感じだ。
平家を討滅した義経が鎌倉へ帰還した際、頼朝は腰越から進ませなかった。英雄気取りで帰還した義経は目と鼻の先の鎌倉へ入ることのできないもどかしさを兄に伝えるために手紙を書いたが、それが有名な腰越状だ。義経が腰越で書いた哀切のこもったこの手紙が頼朝の心を動かすことはなかった。義経はここで諦めて京へと引きかえし、頼朝に追われる日々を送ることになる。
哀切に満ちた悲劇の腰越を超えれば、今や世界的に有名な観光地になった鎌倉高校前だ。ここの踏切には主として中華圏の観光客が日々押し寄せている。実際、風光明媚だし、湘南ファンとしては外すべからざる名所だ。
鎌倉高校前を過ぎると、鎌倉高校前と同じ感じに風光明媚な七里ヶ浜で、ここはここで七里ヶ浜高校がある。
七里ヶ浜あたりまで歩けば、そろそろ疲労困憊してくるが、徒歩マニアとしてはこれからが本番だ。これを我慢して歩き続けると、稲村ケ崎だ。
桑田さんの歌で有名なことはもちろんだが、歴史的にみても極めて重要な位置にある。鎌倉幕府の襲撃を意図した新田義貞が稲村ケ崎まで兵を進めた時、陸路は北条氏が固めていて進撃が困難になった。新田義貞は稲村ケ崎の海側に騎馬兵力を進めて鎌倉市街に侵入した。伝承では神剣を海に奉納したら海が割れて陸地が見えたと、モーセの十戒みたいな話になっているが、現実にはどうだったのだろうか。干潮時であれば陸地が見えることは確かで潮干狩りなどに大変適しているらしい。相模湾は遠浅なので、干潮時に広い陸地が見られることに異論はない。だが、新田義貞は騎馬兵力を率いて鎌倉市内に突入したのである。果たして海水をふんだんに吸っている砂地で馬が進撃できたかどうか。とはいえ、実際に新田義貞は鎌倉に突入し、北条氏は滅亡した。とすれば、或いは本当に稲村ケ崎の海側を通ったのかも知れない。
更に極楽寺、長谷、和田塚と歩き、由比ヶ浜までくれば、疑いなく鎌倉エリアだ。この辺りまで来るとくたくただし、風光明媚な相模湾を見るよりも、なるべく近道をして鎌倉駅へ行き、電車で帰りたいと考えるようになる。もはや歩くのも物憂く、はっきり言って江ノ島から鎌倉まで歩いたのを後悔するレベルだ。由比ヶ浜から内陸へ入る道を歩いていると、大正末期に建てられた洋館の旅館であるかいひん荘があった。
明治時代、和洋折衷の木造建築が各地に作られたが、相模湾から東京湾にかけてのエリアに限って言うと、関東大震災で多くの木造建築が失われ、復興の時により本格的な西洋建築が好まれるようになった。大正末期から昭和初期にかけて、石やコンクリートの洋風建築が増えたわけだが、かいひん荘も大正末期に建築されたものだ。現代でこの時代に残る建築物は少ない。空襲で多くが失われてしまったからだ。そうわけでかいひん荘の建築は非常に貴重なのである。
このように歩くことはいい経験になるが、とにかく疲労困憊が激しいのでしょっちゅうは無理だ。徒歩は人の心を明るくするがやり過ぎると疲労困憊してブルーになる。今、壮絶なのでそろそろ終わるが、もうこんなブルーはちょっと経験したくないので、二度と同じことはしない自信はある。興味のある人はお試しになるのがいいでしょう。実を言えば藤沢から鎌倉へは二度とご免ですが、鎌倉から藤沢で同じコースを歩いたことがありませんから、これだけは思い出にやっておきたいと思っているのです。
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稲村ケ崎