幸若舞継承者の子孫のお稽古場を訪問させていただいたら、日本史への理解がぐっと深まる経験になった。

評論家活動をしている友人が都内某所の日本舞踊教室へ行くというので、一緒に伺わせていただくことになった。その友人は仕事の一環としてそちらへよく行くそうなのだが、私は完全に役に立たない立場でただの見学者でしかなく、本当に一緒に行っていいのかやや不安だったが、せっかくなので行かせていただくことにした。そしてそれは非常に貴重な経験になった。

幸若舞のお師匠の先生の名前は幸若知加子先生とおっしゃるお方で、その名の通り、歴史ある幸若舞継承者の子孫の方なのだが、普段は若柳恵華先生というお名前でご活躍されているのだという。で、どうしてお名前が2つあるのかという疑問にぶち当たるのだが、まずはその理由を説明するところから、由緒ある幸若舞と日本の歴史の深い関係について述べてみたい。この記事は先生からたくさんの聞かせていただいたお話を基礎として私なりの解釈を加えたものになるため、もし間違っていて、関係される方からご指摘を受ければ内容は訂正したいと思う。

先生にどうして2つお名前があるのかということなのだが、幸若舞はかつて江戸幕府の音曲役として支援を受けて発展していたものの、明治維新になると支援が受けられなくなり、おそらくは新政府から迫害される恐れもあったため、幸若舞の看板は一旦下ろし、表向きは普通の日本舞踊のお師匠様として活躍しつつ、信用できる人たちの間だけで密かに幸若舞が継承されることになったということなのだった。まさに秘伝の舞である。なので先生にも表のお名前と幸若舞の正当な継承者としてのお名前の2つがあるというわけだ。

ここで疑問に思うのは、なぜ江戸幕府が幸若舞を支援していたのかということなのだが、それが、徳川家康の父親が幸若舞の担い手だったというのである。徳川家康の父親といえば松平広忠だが、この人物が幸若舞を担い、家康の腹違いの兄弟が継承していったと言う。つまり徳川将軍家と幸若舞の家元のお師匠様は親戚筋ということになり、幕府の支援・保護を受けていたとしても納得できることではあるのだ。ここで、私はふと、あるところで「徳川家康は源氏の子孫ではなく、家康の実家の松平氏はそもそも猿楽師をしていた」という話を聞いたのを思い出した。もしその人が幸若舞のことをあまりよく知らず、「猿楽のようなもの」という認識だったのだとすれば、幸若知加子先生からおうかがいしたお話と、以前、私がよそで聞いたことのある話は一致する。

長々と沿革を書いてしまっているが、ここからさらに幸若舞の本質に踏み込んでみたい。幸若舞とは天皇家とも関係の深い陰陽道の思想を継承する舞であり、能の源流であり、もしかすると雅楽とも関係のある実に古い踊りであって、北極星・北斗七星をメタファーにした足の動きをするのが特徴で、独特の摺り足をしたりドンと舞台を踏んだりするとのことで、それはお相撲のしこにも通じるものがあるのだということだった。日本で最初にお相撲をとったのは野見宿禰であると日本書紀に書かれているが、であるとすると、幸若舞は日本書紀以前の時代にまでそのルーツを遡って求めることができるということになる。摺り足は空手のような日本武術の基本的な動きであり、時代劇でもうまい人はきちんと摺り足を使って殺陣をするのだから、私はそのとき、日本の伝統芸術の基本中の基本の足の動きを宗家のお師匠様に教えていただいているということになっていたのである。源氏物語からアダプテーションした『葵上』という能の演目では、六条御息所が生霊となって現われて舞台をドンと踏み込んで音を響かせるが、これも源流は同じであろう。北極星は道教で天皇大帝とも呼ぶので、日本の天皇という称号の源流である可能性が極めて高いと思うのだが、それを表現する足の動きを幸若舞が継承しているのだとすれば、ここは完全に私の推測になるのだが、幸若舞は天皇家のための呪術を担っていた可能性が高いのではないだろうかと思えた。陰陽道は遅くとも天武・持統の時代には確立されていたため、幸若舞は飛鳥時代にまで遡ることができるということなのだ。

さて、私の脳裏に、陰陽道と関わりがあり、かつ徳川家康とも関わりのある人物の名前が頭にふと浮かんだ。織田信長である。信長は本能寺で自害する前に「敦盛」を舞ったことで知られていて、これは当時、本能寺から生き延びた女性たちの証言が残っているため、まず間違いなく「敦盛」を舞ったに違いないのだが、この「敦盛」は幸若舞なのだという。で、故竹内睦泰氏が語ったところによると織田氏は忌部氏の子孫であり、忌部氏とは中臣氏などとともに朝廷の祭祀を担当した家柄であるため、当然、陰陽道とも関わりがあることになる。だとすれば、織田信長は忌部氏の子孫であり、陰陽道に関する知識も豊富であったということになり、陰陽道の精神を継承する幸若舞とも深くつながっていたのだから、人生の最期に幸若舞のレパートリーである「敦盛」を舞ったということは納得できるのだ。信長と家康は今川義元を殺した後で清州同盟を結ぶことになるのだが、そもそも信長が忌部氏から続く陰陽道の継承者で、松平氏が幸若舞の継承者であったとすれば、今川義元がいなくなった後の時代の東海地方で両者が同盟を結ぶのはごく自然なことであるとも言えるだろう。私の完全な妄想だが、もしかすると信長と家康は幸若舞の人脈を通じて以前から密かに連絡を取り合って居り、桶狭間の戦いで今川義元が殺されたのも、今川の武将として戦いに参加していた家康が信長に協力していたからではなかろうか…などと私は妄想してしまった。だとすると幸若舞はギルドのネットワークみたいな感じで影響力を持っていたかも知れないのである。

以上までに述べたことが全て本当だと仮定した場合、これまでとは日本史に関して見えてくる景色が違ってくる。日本史に関わる理解もいろいろと変更されなくてはならなくなるかも知れない。実際、長い日本の歴史を通じて構築された複雑な人間関係・血脈・宗教的つながり、芸術的つながりなど、複数のルートで人はつながっていて、教科書に書かれている歴史はそのほんの上澄みをなぞっているに過ぎないに違いなく、いろいろと探れば関係者だけが密かに継承している歴史・事象・伝承などがたくさんあるに違いないと私は思ったのだった。

幸若知加子先生は、東京コレクションで「敦盛」を舞った時の動画を見せてくださったのだが、その時の先生が謳った「人生五十年」は軽やかな歌声でありながら、少し物悲しい、うまく表現できないが小さな女の子が「通りゃんせ」を歌っているような印象のものだった。数多のドラマや映画で信長が敦盛を舞うシーンが入れ込まれて来たが、どれも気合の入った野太い声の「敦盛」が多く、幸若知加子先生の動画の歌声とは全然印象が違う。人生の最期にあの信長が舞ったのだから、より迫力が出るように演出に力が入ったのだとは思うが、信長の肖像画を見れば、かなり繊細な性格であったことが想像できる。実際には幸若知加子先生の舞のように、もっと軽やかで、悲しげで、品性を感じる舞いだったのかも知れない。



中華文化の清明節と日本のお彼岸はすることが似ていますが、時期が近いだけで関係はないのですか?

「中華文化の清明節と日本のお彼岸はすることが似ていますが、時期が近いだけで関係はないのですか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

関係あると思います。日本のそういったことって結構、中国の道教の影響を受けているはずですから。「天皇」という名称を最初に使ったのは天武天皇ですが、北極星のことを天皇星と呼んでいるところからぱくっていると考えてさしつかえないと思いますし、伊勢神宮を整備したのも奥さんの持統天皇が藤原京を作ったのも、中国から来た陰陽道、要するに風水に基づいて進めたと考えて良いと思います。




天武天皇の子孫たち‐そして誰もいなくなった

天智天皇が宿敵蘇我氏を倒すことで古代日本では天皇家独裁の方向へと舵が切られていったわけですが、その後、天皇家内部での仲間割れへと事態が発展して行きます。

天智天皇の死後、天智天皇の息子と弟で天下分け目の戦いが行われ、弟が勝利。弟が天皇に即位します。天武天皇です。天皇家はこの段階で天智天皇の子孫と天武天皇の子孫の二つに系統が分かれてきました。

天智天皇の子孫は、仮に健やかに成長したとしても、別にいいことがあるわけでもないし、特に人々から大事にされるわけでもなく、ただ、無為に日々を送る、無為徒食の人々になっていきます。負け組なわけです。これはこれで、もしかすると、のんびりとして穏やかでいい人生かも知れません。だって、皇族には変わりないですから、衣食住は保障されていて、しかも権力争いに巻き込まれることはないんですから。

一方の天武天皇の子孫はそんな安楽な人生を送るわけにはなかなかいきませんでした。というのも、彼らは勝ち組ですから、天皇になれる可能性のある人々なわけです。従って、競争は苛烈になります。天武天皇は成功者・権力者ですから、複数の女性に男子を産ませています。それぞれの女性が、自分の産んだ男子に後を継がせたいと考えて競争状態になるというのは全く不思議なことでもなんでもないというか、自然なこと、人情として理解できることなわけですね。

天武天皇は息子たちを吉野へ連れて行き、そこで約束をさせます。この約束を吉野の盟約と言うのですが、天武天皇の皇后で後の持統天皇になる女性の産んだ男子である草壁皇子を次期天皇にするということで他の皇子たちは競争しないと誓約させたわけです。ところがどっこい、大津皇子という人物がだんだん頭角を現していき、草壁皇子にとっての挑戦者のような存在になっていったと考えられています。で、草壁サイドはどうしたかというと、大津皇子は謀反を計画していると訴えました。大津皇子は捕らえられて自害させられています。挑戦者がいなくなったことで、草壁皇子の天皇即位かというと、そうはいきませんでした。やはり、大津皇子を死なせた直後に草壁皇子即位ではちょっと露骨すぎるのが憚られたのではないかと思うのですが、天武天皇の皇后が持統天皇に即位します。多分、ころあいを見て草壁皇子に譲位しようと考えていたと思えるんですが、肝心の草壁皇子が病没してしまいます。その他の皇子たちも持統天皇の在位中にばったばったと死んでゆき、皇位継承に適切な人物がほとんどいなくなってしまいました。

草壁皇子の息子さんが生きていたので、ぎりセーフだったわけですが、持統天皇はその人に譲位しました。それが文武天皇になるんですけど、その子孫には聖武天皇みたいに興味深い人もいるんですが、結論から言えば、あまりに激しい足の引っ張り合いや殺し合いが続いたために、結局のところ死に絶えてしまい、皇位継承は天智天皇の子孫にバトンタッチすることになりました。

負け組で、無為徒食で歌を歌ったり散歩したりして過ごしていただけのはずの天智系の復活なわけです。今の天皇家はこの天智系の子孫ということになり、天智系の運の良さみたいなものを感じないわけにはいきません。

というわけで、王朝交代かと思うほどの激しい権力争いの話をわりと今回はさらりとしてしまいましたが、天武系が滅んで天智系に移るまで100年くらいかかってます。その間に奈良時代という魅力的な時代も始まっていましたから、奈良時代のことを次回以降少しやってみたいなと思います。