思うに、蒋介石は英米ソに助けられて戦勝国入りできただけなので、実力が認められたわけではないですし、蒋介石の側にも日本統治にどうしても参加しなければならない必然性もなかったんだけれど、一応、蒋介石も仲間に入れてみようか。というような感じで案が作成されたような気がします。なので、蒋介石にとっての利便性とか需要とかは最初から考えていなかったのではないでしょうか。結局この案は立ち消えしてますから、机上の空論に過ぎなかったのではないかなとも思います。
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『戦後日本』の転換点を三つあげるとすれば、何ですか?
「『戦後日本』の転換点を三つあげるとすれば、何ですか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。
一度目はサンフランシスコ条約と日米安保の同時発効
二度目はプラザ合意
三度目は堀江貴文さんの逮捕
と思います。一度目ですが、日本が主権を回復したわけですから、あの時からが実際に戦後が始まったと言えると思います。で、二度目なんですけど、それまでは高度成長も含んで戦後の復興が続いたとも言えるんですけれど、世界が、主としてアメリカから「日本は既に復興期を過ぎている。世界で一番金持ってる。これからはアメリカが日本を甘やかすことはしない」と宣言され、加えて「アメリカはベトナム戦争で疲弊し、もう世界の警察もおりたい。というわけで、日本よ、後はよろしく。ガクっ」となり、日本は張り切って「はい。私たちは永遠にアメリカ様の下請けです」と応じたのがプラザ合意だったと理解しています。以後、日本はアメリカから容赦なく追い詰められ、円高になり、産業は失い、規格は英語圏に準ずるという、世界で最も豊かな敗戦国の姿を世界に晒すことになりました。とはいえ、日本にはまだまだ世界的な存在感を発揮するチャンスはありました。90年代から2000年代にかけてIT分野に於いてアジアで先進的な地位を確立していましたし、アジア全体の発展ぶりから見て、ITでアジアを制することができれば世界の覇者になれるという空気は確かに当時ありました。しかし、当時のIT分野で最も急進的な立場だったと言える堀江貴文さんが逮捕されたことで、日本でITをやることはハイリスクであるとの認識が世界に広がり、誰も日本でITをやりたがらない、日本のITには投資が集まらない、優秀な人材はシリコンバレーへと流れていく、失敗して帰ってきた人材は見捨てるという風潮が普通になってしまい、現代日本はIT発展途上国に堕してしまったと私は考えています。5年くらい前まではそれでも何とか日本に勝機はあると私は信じる努力をしていたのですが最近は諦めました。
『ライシャワーの日本史』の戦後の日本
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東京生まれのアメリカ人の日本通、日本大使を務めたこともあるライシャワー先生による日本解説書です。近代以前、明治から太平戦争まで、戦後の3つの部分で構成されていて、どれも内容はたいへん緻密で私の知らないこともたくさん書かれてありました。
興味深いのは戦後について大変細かく書かれていること、それが必然的に日米関係史+自民党戦国史になること、アメリカ人に分かるように意識して書かれていることです。英語版が1978年、日本語版が1986年に出版されていて、ちょうどアメリカ人が真剣に日本人との付き合い方に不安や悩みを抱えていたころにあたります。
日本はバブルの絶頂期をいよいよ迎えるという時期です。世界第二位の経済国家で、アメリカの東アジア政策にとってはなくてはならない存在で、世界的にも行儀のよい人々として知られ、日本の評判は上々と言えば上々。しかしながら、日本の国内世論はアメリカ軍基地に対しては否定的で安全保障条約に反対するためには暴動とも言って良いほど激しいデモが行われ、時には感情的な反米が表に出ることに戸惑いも感じるし、何といっても日本車がアメリカ市場を席捲してデトロイトは壊滅への道を辿り、日の出の勢いの日本がアメリカをも飲み込むのではという恐怖を与える存在にまで成長していた時代です。
アメリカ人の立場から見れば、日米安全保障条約のおかげで日本は平和を享受できるし、アメリカが好意的に日本を助けてやったおかげで日本は戦後の経済復興に成功したし、そもそも同盟国として一緒に世界秩序の維持のために役割を果たすはずの日本人がどうしてそんなにアメリカを困惑させることばかりするの?と不可解なことしきりだったに違いありません。アメリカはこんなに日本人を大事にしてあげているのにどうして?というわけです。
それがどうしてそうなるのかをライシャワー先生が噛んで含めるようにして説明しています。戦後の日本で平和主義が育ったことでベトナム戦争には首肯しがたい国民性になっていること、日米安全保障条約も戦争協力という意味では日本人の真情に合わないこと、日米経済摩擦などと言われるが日本人が優秀で勤勉で工夫もいろいろ凝らしているから、などの説明をしています。
アメリカ人が読めば、なるほど、そういうことなのか。と理解の助けになるでしょうし、日本人にとっても、日本の弁明書みたいな役割をしてくれている本です。
そうはいっても、今は昔。ジャパンアズナンバーワンの日本の絶頂期に書かれた本だと思うと、むしろ最近の停滞ぶりにまで思いが及び、懐かしいような気分で読んでしまいます。
私の子どものころはなんでも日本が世界一で、豊かで幸福で平和で、なんでも日本のものがいいに決まってるじゃんという時代でした。ああ、当時、こんな感じだよなあと懐メロを聴くような心境でページをめくりました。
近代以前や太平洋戦争以前のことも詳しく書かれていて、純粋に知的好奇心を満たすのにもちょうどいいです。書かれた時代背景を斟酌しながら読解するのもおもしろいと思います。分厚いのできちんと一言一句読み進めるのに時間がかかるのでちょっと疲れました。
原田眞人監督『クライマーズハイ』の地方紙記者のカッコよさと日本の戦後
原田眞人監督の『クライマーズハイ』は、横山秀夫さんの原作とは大事なところで違いがありますので、その辺りを中心に述べてみたいと思います。
映画でも原作でも、新聞記者の世界が描かれているという点では同じです。私は地方紙の記者ではありませんでしたが、支局にいたころの感覚は近いものがあったように思います。地方の記者は中央の記者のようにぱっと華やかな場面を取材することはあまりありません。地道で地域に密着していて、地元の人と一緒に生きています。土地と一緒に生きる新聞記者が土地の人となれ合うことは決して珍しいことではありません。それゆえに、なれ合わず、ジャーナリズムをやるという矜持を保たなくてはいけません。小さな事件、地元のイベント、目立たないスポーツ大会にであってもジャーナリストとしての矜持とともに取材に行きます。そこがかっこいいのです。大きな事件、有名な事件を扱わなくても矜持を保とうとするからかっこいいのです。尊敬できるのです。
『クライマーズハイ』では、日航機墜落事故の時の架空の地元新聞社が登場します。残酷な事故に地元の記者たちは浮足だちます。大きな事故の現場に取材に行けるからです。不謹慎ですが、新聞記者はそういうあたりが不謹慎になるようにできています。「不謹慎だ」とは思いますが、ああ、新聞記者はこんな風に浮足立つのかというのがよく分かります。編集で怒号が飛び交います。雰囲気がとてもよく出ています。共同通信とNHKの報道を適当にいじって独自の記事みたいに装う場面も「あぁ、わかるわぁ」と思います。
当時、現役で報道の仕事をしていた人から日航機墜落事故の取材の経験を聞かされたことが何度もあります。彼らにとっては「勲章」なのです。この映画では日航機事故に絡む、いわゆる「陰謀論」も目立たないように、しかしはっきりと触れています。「原田監督が触れているのだから本当かな」と私は思ってしまいそうになるのですが、知識不足なので判断することができません。
新聞記者は読者の存在を忘れがちです。人間関係が狭く、業界の人と取材先の人(県庁とか県警の人)に限られてくるので、その人たちが読んでどう思うかだけに関心が向きがちです。自分の書いた記事が他社の記事より詳しいか、他社の記者が知らないことを自分は書くことができたかどうかに意識が向いてしまいます。売り上げと記事の内容は関係がないので、読者の存在を忘れます。映画でも原作でも、事故被害者の遺族の人が新聞がほしくて新聞社に来ます。編集の人は「ちょっと邪魔なんですけど」と言わんばかりに追い払います。主人公の悠木という記者が追いかけて新聞を手渡します。記者は普通の人、普通の読者に寄り添えるかという、実は一番大切かも知れないことが挿入されています。
原作では悠木記者が子どもだったころ、家が貧しくてお母さんが客を取っていたというエピソードが書かれています。映画ではお母さんはアメリカ軍の兵士を相手にしていたと少し変更が加えられています。この変更で、映画だけの持つ意味がぐっと深まります。日本の戦後を語る上で不可欠なアメリカというタームが登場します。私たちがどういう時代を生きているのかを短い場面でさっと問いかけています。
また、映画では悠木記者の息子がヨーロッパで育ち(離婚して元奥さんはスイスに行ったのについていった)、白人の女性と結婚してニュージーランドで牧場を経営しているという場面が最後の方に短く入っています。奥さんの白人の女性は決ずしも目の覚めるような「美人」というわけではありません。普通の人です。それ故にこの息子さんが「西洋」の幻影を追うような人生を送っているわけではないことが分かります。普通に出会い、普通に愛を育て、普通に努力し、懸命に、でも多分幸せに生きていることが分かります。悠木記者のお母さんはアメリカ軍の兵隊に買われる存在でしたが、息子さんは愛情によって西洋の人と結ばれています。その間にある乗り越えるべき何かを息子さんは乗り越えたということを暗示しています。今を生きる日本人の私たちに、そういう何かを乗り越えて行こう、乗り越えるべきだ、乗り越えられるというメッセージを監督が込めているように私は感じます。
原田眞人監督の映画は『バウンスkoGALS』の時から一貫して、戦後の日本を問いかけています。近代の日本にとって西洋は欠かすことのできないタームであり、戦後の日本にとってアメリカは欠かすことのできないタームです。『バウンスkoGALS』の主人公がアメリカに留学するとはどういうことか、私たちの人生にとってアメリカとは何かを考えてほしいと言っているように私には感じられます。『おニャン子危機一髪』はみてないのでわかりません。
『カリオストロの城』の日本の戦後
『カリオストロの城』は何度観ても感動して涙が出てくるとてもいい作品だということは、わざわざここで述べる必要もないほどのことだと思います。
カリオストロ公国は景色がとてもきれいです。設定ではフランスとスペインの間にあって地中海に面した人口3500の世界で一番小さな独立国です。小さい国は魅力的です。『マシアスギリの失脚』みたいに、お話しを大袈裟にせずに独特の世界を作ることができます。雪が積もった峰々と湖が美しいです。お城もきれいです。ディズニーランドのお城みたいです。設定ではお城ができたのは16世紀の終わりころです。イギリスではエリザベス女王の時代が始まったか始まらないかくらい。中世が終わるか終わらないか、イタリアでは中世は終わっているけどフランスとスペインの中間ならまだ中世かな。といった感じのころです。日本では織田信長か豊臣秀吉の時代です。
中世のヨーロッパのお城があんなにかわいくてきれいで素敵というのはちょっと考えにくいです。中世ヨーロッパのお城と言えば、ずどーんと暗くて重苦しい感じのイメージが私にはあります。『薔薇の名前』や『忘れられた巨人』に出てくる修道院のようなイメージです。映画『エリザベス』のスコットランドのお城みたいなイメージです。カリオストロの城みたいなきれいでかわいいお城と言えばルードビッヒ2世のノンシュバンシュタイン城ですが、それは19世紀につくられたお城です。時代的に合いません。
しかし、カリオストロの城には日本人の夢と願いが全力で込められています。ヨーロッパのお城はきっとあんな風にきれいで豪奢でかわいい感じに違いない、そうであってほしい、そうでなくては困るくらいのエゴの欲求を受け止めています。イメージ通りのヨーロッパのお城にルパンと次元と五右衛門と銭形が行くからおもしろいのです。日本人が活躍するからおもしろいのです。日仏ハーフのルパンと銭形がどちらも勝者で、敗者がカリオストロ公爵だから日本人にカタルシスを与えます。戦いに勝利し、クラリス姫のような可憐な美少女の「心を盗んで」去って行くから称賛してしまうのです。何回観ても飽きないのです。
パリのインターポール本部で銭形はカリオストロ公爵の偽札づくりを告発します。しかし、欧米のえらい人たちは政治的な理由でそれを無視することに決めます。観ている側は銭形の誠の心に共感します。初めて見たのは小学生の時ですから「大量の偽ドルが発注された」とか「この偽ルーブル札こそCIAの発注じゃないのかね」とか言われてもよくわかりませんでした。いずれにせよ、国際政治の複雑な大人の事情に負けずに日本男児の銭形が正義を貫こうととする姿を観るのが気持ちよかったのです。
お城といい、欧米相手に正義を貫こうとする銭形の姿といい、最後にルパンと銭形が勝者になるところといい(両方勝者にならないと観客的には不満になる)、改めて観てみると日本人の敗戦トラウマの快復が大きなテーマだということに気づきます。欧米に憧れるという気持ちと欧米に勝ちたいという気持ちの両方を解決しているのがこの作品です。架空の国をやっつけることで、誰も傷つけずに物語の世界でトラウマが癒されます。最後にクラリスがルパンにキスをしてほしそうにするところがトラウマ快復の総仕上げです。ルパンは倫理の観点からキスしないので観ている側は更に気分がいいのです。私もクラリスみたいな人にそんな風にされたいです。実際にそんな風にされたら顔が近すぎてけっこううっとうしいかも知れません。それでもやっぱりされたいです。
作者は以上述べたことを十分に知っていて意図的にそうしています。クラリス姫が閉じ込められる北側の塔の部屋はアラビア趣味です。ヨーロッパのオリエンタリズムをサイードが指摘する前からよく心得ています。ゴート札がブルボン王朝を破滅させたという設定もフランス革命の原因がマリーアントワネットの贅沢とかではなく通貨政策の失敗だったとうこともちゃんと押さえています。宮崎駿さんですから私が気づくくらいのことは十分に意識的だと思います。
ルパンもカリオストロ伯爵もおっさんです。なぜクラリスはルパンのことは好きで、伯爵のことは嫌いなのでしょうか。よーく考えてみると、ルパンは手品でクラリスを喜ばせています。手品かよ…。と私は少しがっくりきます。私は手品ができないので、あんな風にはやれないというごく個人的な理由です。私は楽器も球技も習字も手品も手足を使うことはどんなに練習してもうまくなりません。今はもうあきらめています。
クラリスとナウシカはよく似ています。その理由は作者の好みに集約されるはずです。何回観ても涙が出てくるので作ってくれた人には感謝しています。
原田眞人監督『魍魎の匣』の日本の戦後
原田眞人監督は日本の戦後を問い続けている人としてつとに知られています。京極夏彦さんが原作の映画の『魍魎の匣』は美少女をめぐる推理映画ですが、原田監督は作品に「戦後」を挿入して今を生きる私たちにいろいろなことを問いかけています。
撮影は上海の郊外で行われたそうなのですが、いかにも終戦直後の日本に見えます。上海の郊外が武蔵野に見えます。さりげなく光クラブの話題が入っています。ほんの短い時間に早口で話しているので、一瞬「?」となりますが、何度も観ると「あぁ、光クラブ」と分かります。一回目で分かる人もたくさんいると思います。私は鈍いので何度も観ないとわかりませんでした。凄い映画は細部にいろいろ凝っています。『エリザベス』と同じです。
終戦直後は新しい時代が始まる予感と戦争に負けたことの劣等感が相半ばする不思議な時代だったろうと思います。この映画はその最中に生きる人の心を掴もうとしています。登場人物が「自分は歯ブラシの工場を経営している」と偽る場面があります。今もきっと日本に歯ブラシの工場があると思います。絶対に世界最高水準の歯ブラシを作っていらっしゃると思います。ただ、やはり歯ブラシの工場という言葉にちょっと前の日本を想起させられます。
京極夏彦さんの原作では登戸の陸軍の研究所の話題が出てきます。映画では登戸という地名は出てきませんが、陸軍から予算をぶんどった研究所は出てきます。死なない研究をしています。戦争中に兵隊が何度でも再生できる技術を開発しようとします。うまくいきません。戦争が終わった後も死なない研究を続けています。いろいろ口実を作って予算を手に入れています。この研究所では戦争は終わっていません。というか、研究所にとっては戦争はそもそも始まっていません。戦争とは関係なく、研究のために研究を続ける自動装置に成長しています。ナウシカのドルク帝国の首都の研究所みたいなものです。戦争も人命も研究を続けるための口実でしかありません。戦争の本質の一端を掴もうとしています。
アメリカと戦争するかどうかという問題と組織の自己実現の区別がつかないまま日本は戦争を始めます。アメリカとの戦争と陸海軍の予算の配分が混同されて議論が進みます。研究所はその本質を表現する存在です。
戦争とか戦後とか、そういう時代を語っても突き詰めれば個々人の人生が集合したものです。突き詰めれば個々人の物語になります。刑事、探偵、作家、編集者、神主、女優、研究者が出てきます。それぞれに人生を背負っています。人生の矛盾を解消するために超人的な努力をする人がいます。戦争で人生が歪む人がいます。登場人物のそれぞれの内面を想像しながら観ると更に楽しめます。
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