昔名作と評判だった映画「戦場のメリークリスマス」をアマプラで見ました。わたしには作品の素晴らしさが全く理解できなかったのですが、勉強不足な点があればご教示くださいませんでしょうか?

私は戦場のメリークリスマスが好きなんですけど、考えてみるとなぜ好きなのか説明できないなあと思いました。で、ちょっと考えてみたんですね。主題は確かにどうということはなさそうな気もします。じゃ、何がいいのかなと。

1つには、坂本龍一さんの音楽が良すぎるので、実際以上にドラマチックに感動的に感じられるという仕掛けになっているということはあると思います。ですが、音楽も映画の一部ですから、それはそれで演出の勝利ではないかなとも思います。

次にカメラワークもあるかなと。たとえば最初の方でたけしさんがローレンスを呼び出してジャングルの中を歩く場面がありますけど、ロングショットの長回しで彼らの歩いている姿を撮影しているんですが、背景はジャングルですから、ずいぶんと遠いところなんだなとも思うのですが、同時に、こんな遠いところでも人間の考えることや感じることは同じなんだなというような不思議な心境にさせられるんですね。で、それだけだと大したことは表現してないんですけど、坂本龍一さんの音楽が流れてますから、凄い場面みたいに思えてしまうんじゃないかなと。

それから、たけしさん(原軍曹)の演技ですよね。実直そうな表情で、この人はきっと心がきれいなのに違いないという印象を与えます。ローレンスに対して時々見せる人間愛。ローレンスは敵の将校で捕虜なのに、原軍曹は昔から親しい友人であったかのように時に本音を語るんですね。

次に簡単に触れますけど、デビッドボウイのかっこよさもあるでしょう。

それから、物語の良さとして登場人物たちの成長というのがあるんじゃないかなと思います。一番わかりやすいのは原軍曹です。彼は死刑の執行を待つ身でありながら英語を学ぶんですね。それだけでも心境の変化を想像すると感動できるというか、原軍曹は死ぬ前に敵のことをよく理解しようと思ったんだなと思うと、ちょっと泣けてくる気がするんです。で、ローレンスが会いに来るわけですが、原軍曹は非常に礼儀正しいわけです。あの捕虜を殴りまくっていた下士官と同じとはとても思えないような穏やかな表情と洗練された身のこなしを観客は見せられることになるわけですけど、当然、果たしてこの人は本当に死刑にされなければならないのだろうか?との疑問も抱かせる演出になっていると思います。ローレンスは「もし私に決められるのなら、あなた方を今すぐ解放し、家族のもとへ帰す」と言うのですが、これもまた、捕虜収容所で殺されたかけて経験を持つローレンスが、敵に赦しを与えるいい場面ではないかなと思います。赦しは人間的成長の一つの証であると私は思います。で、坂本龍一さんのヨノイ大尉ですけど、彼は地中に顔だけ出して埋められて死を待つジャック・セリアズに敬礼し彼の髪を切り取ることで、愛を表現します。それまで捕虜収容所長としての威厳を用いて恫喝する形でしか愛を表現できなかった人が、ようやく穏やかに自分らしいやり方で愛を表現できるようになったという場面なわけですね。

最後に、日本人と白人が対等に渡り合うという点で、世界史・国際社会という観点から重要な作品ではないかなとも思います。この作品は間違いなく『戦場にかける橋』に影響されていますが、あの映画では男同士がぶつかり合い、意地を張り合い、認め合うということを日本人と白人がやり合うわけですね。これは人種差別の克服という観点から言っても我々が気に留めておくべき主題ではあると思うんですね。大島渚さんは更に同性愛という要素を入れて『戦場のメリークリスマス』を作ったとことで、もうちょっとウエットな作品になったと言えると思います。

ウエットが良いのか悪いのかという論点はあり得ますが、より深く観客に刻印される映画になったのではないかと思います。私は同性愛者ではないですが、恋愛感情を抱いてしまった時にどう振る舞うかというのは人類共通のテーマなんだなというようなことも思います。

というわけで長くなりましたが、気づくとあの映画がどんなにいい映画なのかを語るご回答になってしまいましたが、多少なりともご納得いただければご回答したかいがあったかなと思います。



『戦場のメリークリスマス』と神と男(ヨノイ大尉はかわいいか?)

『戦場のメリークリスマス』はこれまでにDVDで何十回と観た映画です。リバイバル上映にも出かけたこともあります。今思えばかなり変わった映画ですが、音楽もいいし映像もきれいなので、ついつい何度も観てしまうのではないかと自分では思っています。この映画は突き詰めると異文化理解とか異文化交流くらいの軽いところがテーマなのではないかとふと思うのですが、正面切って作られるとここまで魅せられてしまうものなのかも知れません。

ヨノイ大尉とハラ軍曹は天皇は神で日本は神州だと信じています(映画の中にそういう台詞はありませんが、ヨノイ大尉の部屋の奥に『八紘一宇』の掛け軸がかかっていたりするのはそういう前提があるからでしょうし、そもそもそういう前提がないといろいろ成り立ちません)。悪霊の存在も信じているので、自決した部下が悪霊にならないようにハラ軍曹は経文を唱えますし、ヨノイ大尉が捕虜の私刑を決断した時も、悪霊になりませんようにと念仏らしきものを唱えます。経文とか念仏は仏教で、仏教は完璧な物理の論理に支えられているため悪霊が存在する余地はないのですが、日本は神仏習合なので悪霊を鎮めるために念仏を唱えます。欧米人向けに作られているので欧米人が不思議の国日本のふしぎっぷりを大サービスでみせているという印象もあります。観客の要望に応えるためかハラキリシーンもしっかりと入っていて、痒い所に手が届くとすら言っていいかもしれません。

一方で、自殺したオランダ人捕虜のために西洋人の捕虜たちが祈りを捧げ、歌を歌う場面も入れてあり、そこはとてもきれいな場面になっていて西洋人の観客なら敬虔な気持ちになれるに違いありません。

日本軍国主義を生き方で体現していたといえるハラ軍曹は最後に英語を話すようになり、物語の狂言回しの役割を負っているローレンスと英語で語り合います。ハラ軍曹が翌日の朝には戦争犯罪人として処刑されることになっており、日本人の目線で見れば戦争に負けるってのは嫌だねぇ、という感想を持つこともできますが、欧米人の観客の目線に立てば、迷信に捉われた日本兵が最後には文明を理解できるようになり、一番最後の台詞が「メリークリスマス、ミスターローレンス」ですから、キリスト教の神の恩寵をも受けながら旅立って行くという感動的な展開になっています。

日本人から見ればこれぞまさしく敗戦国民の姿なのですが、西洋人にとっては未開人が文明化されていく過程を描いていることになります。

こんな風に書くとまるで私がこの映画を批判しているみたいですが、飽きずに何十回も観ているということはやっぱりこの映画が無意識にめっちゃ好きなのに違いありません。もしかすると私は多少は東洋の神秘みたいなのを残しつつ西洋化した今の日本がかなり好きなので、この映画が根底に持つ価値観を受け入れやすいのかも知れません。いずれにせよ、上述のような日本と西洋の対比がなされている映画で、繰り返しますがぶっちゃけただの「国際交流」を深刻に描くとこういう風になるという感じだと思います。

戦場のメリークリスマスに登場する人物はほぼ100パーセントが男性です。女性はセリアズ少佐の少年時代の回想シーンで教会に来ている人の中に登場するだけです。男の世界の物語です。ヨノイ大尉とハラ軍曹とローレンスは敵と味方の違いを超えて深い友情で結ばれています。行動様式も価値観も違うためいちいちぶつかりますが、それでも俺はお前のことが好きだよという感じの関係は見ていてとても気分のいいものです。大学で人文科学をしていると会う人の8割は女性なので、男性との友情を育むことへの憧れが私の中にあり、男同士でお酒を飲むことは人生最高の喜びだとかなり本気で思っています。

ヨノイ大尉はローレンスには友情を感じますが、セリアズ少佐という捕虜には同性でありながらロマンチックな意味での愛を抱くようになります。今でこそLGBTの人たちを尊重するという価値観は世の中にかなり定着してきているように思えますが、当時はまだそういうわけではなく、当時としては思い切った内容になっているのだと思います。ヨノイ大尉は赦されざる片想いを持て余し、大声を出すわ捕虜を虐待して死人まで出すわと結構めちゃめちゃやります。そもそも部下が自決する羽目になるのもヨノイ大尉の無茶ぶりを諫めようとしたことが発端です。そんなことで自決させてしまって責任をちゃんと感じてくれよと言いたいくらいです。私は何度見ても、それは多分、私が未熟だったが故に、ヨノイ大尉の無茶ぶりが理解できず、捕虜収容所での所長の独裁的言動としか思えませんでした。しかし最近、ああ監督が表現したいのは「そんなヨノイ大尉ってかわいいよね」ということなのだなぁとようやく気づいたのです。私は個人的には全然かわいいとは思いませんし、かわいいから部下を自決に追い込んだり、捕虜から死人が出ても、ちょっとお茶目でおきゃんな感じだよねとも思いません。しかし、監督の意図がそこにあると気づいて、場面を回想すると、確かにヨノイ大尉がかわいいという目線で描かれていることがよく理解できます。えー、嘘だと思う人はもう一度ご覧あれ。