【自己訓練】必要以上のものをほしがらない

人は多くのものを欲しがります。私もそうです。いろいろなものが欲しいです。いい服、いい友人、いい食事、いい恋人、いい家族、いい肩書、いい車、いい家etc…しかし、こういったものに対してほしいほしいと思い続けていると、時として欲望に振り回され、自分を見失ってしまうことになりかねません。自分を見失ってしまった状態で成功したり、幸福になったりすることは不可能と思いますから、ほしがる心理を自らコントロールすることが、結果としてよりよいいろいろなもの、有形無形のものを手に入れる近道になるのではないかと思います。

美食は不幸の始まりという言葉があります。あのお店のあのお料理が食べたい、あのお店のあの人が作ったあのお料理が食べたい、あのお店のあの人が作ったあの素材を用いたお料理が食べたいという風に、美食を追求し始めると食事で満足できる回数が減っていきます。食事に満足できないことは不幸です。むしろ、前回にも述べましたが、卵かけごはんで満足できることこそ、幸福になるための近道と思えます。

友人や恋人、職場環境についても場合によっては同じことが言えるかも知れません。幸福な人生のためには良い友人や良い恋人、或いは良い家庭や良い職場環境を得ることは重要なことです。しかし、気に入らないからと言ってよりよいものを求めて渡り歩いたり、とっかえひっかえしている人にそのようなよりよい人間関係がもたらされる可能性は低いのではないかと私は考えています。これは自戒も込めて書いていますが、今目の前にいる人よりも大切な人はいません。今の友人より良い友人はいません。今の恋人より良い恋人はいません。今の職場より良い職場はありません。なぜなら、今、目の前にいる人は、あなたの目の前にいることに価値があると思うからこそ目の前に現れてくれているのです。その人を大切にせずに人間関係が広がっていくことはありません。今の恋人はあなたの価値を認めているからこそ、あなたと交際しています。その恋人をふってまであなたを愛する人に出会う確率はそれほど高くありません。家庭もそうです。職場環境もそうです。今の職場はあなたに給料を払う価値があると考えるからこそ、あなたに職場環境を提供しています。そのことを分かった上での転職はもちろんあっていいと思いますが、今の職場に恵まれているという感覚を持つ事が出来ない人は、次の職場に行っても恵まれていないと感じることでしょう。もちろん、ブラックな職場やサイコパスとの人間関係は人生の破壊をもたらしかねませんから、そこには見極めが必要です。もしブラックだとすれば、或いはサイコパスだとすれば、恋々とせずに断ち切る勇気も必要になります。ただし、たいていの場合はそうではないはずですから、簡単に切り捨てるということはお勧めできません。

人間関係や職場環境はあなたが成長すれば自然により良いものになっていきます。追及すると逃げていくのはお金も異性も環境も同じです。私は行き詰まりを感じた時は、必要なものは全て今、目の前にあると考える自己訓練をするように心がけています。結果として今の環境や関係を大切にすることになりますから、少しずつ物事が良くなることが実感できることが多々あります。今でも日本は最高クラスに環境の良い国ですから、大抵の場合、必要なものは目の前に存在するはずです。ないものねだりをする前に、目の前のものを大切にするということに目を向けるのはどうでしょうか。これも自己訓練の一環となり、自分の成長を促す材料になるのではないかと思います。



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【自己訓練】現状で恵まれていることに気づく

2chで一世を風靡したひろゆきさんが、美食は不幸の始まりみたいなことを言っている動画をyoutubeで見たことがありますが、私は確かにその通りと妙に納得してしまいました。彼曰く、卵かけごはんをおいしいと思えないのは不幸であるとのことなのです。確かに正論と思います。卵かけごはんは確かに安くてしかもとてもおいしいです。頭の中で想像しただけでも幸福感が広がるくらいにおいしいです。卵ごはんを食べるお金もないという人は多分、ほとんどいないと思います。ですから、手に入るところに幸せはごろごろ存在すると言ってもいいかも知れません。卵とお米が自分のところに回ってくるのは物流システムがあるおかげですが、交換は人の本来的な行動であるとレヴィストロースも指摘している通り、物流システムは人間が持つ本来的な「交換したい」という本能に根差しており、突き詰めれば神が人に与えた本性の結果、卵とお米が自分のところに回ってきたと言うこともできると思います(神という言葉を使いましたが、特定の宗教は関係ありません。念のため)

いずれにせよ、そのように実は人は生きているだけで様々なものに恵まれています。寝る場所があり、意見交換をする友達がいて、大抵の人には職業があり、多い少ないはあっても収入があり、卵とお米を買うことができます。このような一見当たり前のことが、実は天の恵みであるということ、自分は恵まれているということに気づくことは精神衛生上、とても良い効果があるのではないかと思います。宗教チックな言い方やお説教的な言い方を避けるとすれば、現状の自分が恵まれていると考える訓練をすることで、精神衛生がより良い状態になり、結果として人生がよくなっていくというテクニカルな問題として論じることも可能と思います。

神様とか天の意思とかそういうものを信じるか信じないかは別にして、現状の自分は恵まれているという訓練は私もなるべくやるようにしています。結果としては頭に来ることや腹が立つことは減少します。人生は主観のみによって構成されていますので、怒りが減少することは即、人生の質が向上したと言っていいはずですから、今後もこのような自己訓練は続けたいと思っています。意図的に幸福感を増幅させるよう訓練することによって、実際に幸福になっていくということは多くの人が提言していることでもあります。また、幸福を感じる自己訓練は、成功する人生への道のりとも思います。

テクニカルな問題として、他者との比較はなるべく避けるべきです。時には他の人と比較することで自分の問題点が見え、改善すべき課題に気づくということもありますから、他人との比較を一切するべきではないとまでは言いませんし、比較するという思考回路がなければ人間の本性である交換が成立しません(自分はAとBを比較した結果、Aの方がよりよいと思うが、手元にはBがある。一方で、Bの方がより良いと思うけど、手元にはAがある人がいて、交換が成立します)。そのように思うと、比較するという思考を一切断ち切ってしまうことは人間性の喪失にもつながりかねませんから、比較することを完全に止めることはできません。しかし、繰り返しになりますがテクニカルな問題として他人と自分を比較し過ぎないように自分の思考に注意すべきではないかと思います。精神衛生上効果があると信じ、私は今日も、自己訓練をしています。



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【自己訓練】相手を見下したり、バカにした態度をとらない

当たり前のことですが、相手を見下したり、バカにした態度をとるようなことは決してお勧めできることではありません。しかしながら、人は時として、場合によっては自分でも気づかないうちにそういうことをやってしまっていることがあります。職場での上下関係で、下の人に対して、お店の人に対して、或いは大してよくは知らないけど社会的地位の低い人、またはそんな風に見える人に対して、そういう態度を無意識にとってしまうことはあるかも知れません。

そういう態度をとってしまい、相手がそれを敏感に感じ取った時、私やあなたはそんなことがあったことすら忘れるかも知れません。しかし、もしかすると相手が復讐を誓うこともあり得ます。その人は立場が下であるが故に、正面切って復讐して来ないかも知れません。しかし、虎視眈々と機会を狙っているかも知れませんし、私やあなたが困った時に、その相手に頼ることはできないでしょう。そういう意味では、普段から自分より目下の人に対して横柄な態度をとることは潜在的な敵を増やすことになります。また、周囲もそんなあなたを見ています。周囲の人もそんなあなたや私に対していい印象は抱かないでしょうから、非好意的な中立者を増やしていくことになります。

ですから、成功する人生を得るためには逆のことをやればよいということになります。田中角栄の人心掌握術として、実にシンプルですができる親切はやっておくというものがあったそうです。大変にシンプルです。そしてそれは上に書いたこととは逆のことです。やれる範囲で親切にしておけば、好意的中立者が増えます。好意的中立者が大勢いることは、民主主義の社会では不可欠な要素です。いざいよいよ決戦、一騎打ちという場面になった時、好意的中立者が自分の味方をしてくれる。そして天下を獲れるというわけです。

見下したり、バカにしているかどうかは高い確率で見抜かれます。普段から、周囲の人に、心の中でだけでも良いので少々でもいいから敬意を持つ、敬意を払うことができる時には敬意を払うというのを心掛けると、人生がよりよくなる可能性が上がるのではないかと思います。



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【自己訓練】他人の仕事の出来栄えを批判することで優越感を得ようとしない

人は誰でもよりよい仕事を成し遂げたいと望むものだと私は思います。それは配達の仕事であったり、接客の仕事であったり、農業であったり、或いは家庭内での子育てであったとしても、よりよい成果を出したい、よりいい感じにきめたいと望むに違いありません。しかし、そのよりよい仕事を達成するための一つの心理的な大きな壁になるのが、他人の仕事の出来栄えを認めたくないという心理的な作用です。

どんなに頑張っても自分よりいい仕事をする人はいます。世界一にならない限り、自分よりいい仕事をする人が存在します。そして世界一になることはなまなかなことではありません。ですから人は努力しつつも、他人の仕事の出来栄えが自分より良かったとしても、それを認めたくないという心理的な作用が起きるわけです。

そして、あの人の仕事にはああいう問題点がある、あの人はああ言ってるけど実は、あの仕事の裏はどうせ…などと批判を加えることで自己評価を維持しようとしたくなります。私にもそういう傾向はありますから、なるべく意識して自分を戒めるようにしています。

なぜ他人の仕事の出来栄えを批判することが「よりよい仕事を達成するための壁になる」のでしょうか。答えは簡単で、他人の仕事の出来栄えを批判することで心理的な小康を得、自分の仕事を錬磨することの手を休めてしまうからです。ガリガリやればいいというものではもちろんありませんが、他人を批判することは自分の仕事の手を休める罠だと思くらいでちょうどいいのではないかと思っています。

人は優越感を得たい生き物です。他人を低くすることで自分が優越感を得ることほど簡単なことはありません。それゆえにそのような優越感には中身がなく、脆弱なものにならざるを得ません。自分の仕事より、更に出来栄えの良い仕事をする人がいたら、素直に認め、賞賛する勇気を持つ方が、自分自身の成長には役立つのではないかと思います。他人の良い仕事を認めて賞賛すると、自ずとどの点に於いて自分より優れているのかについて思考が展開します。結果として自分の仕事の改善につながりますから、よりよい仕事をしている人に対する賞賛を惜しむべきではありません。プライドが邪魔をして言葉に出して賞賛できない場合であっても、少なくとも心の中で認めるという努力はするべきと思います。

これもまた心理的な訓練です。このような訓練を経て、自分の仕事の質が上がるのであれば、安上がりな訓練とも思えます。



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【自己訓練】他人の失敗をなじらない

人には自分が失敗するのではないかと怯えながら生きていなくてはいけない時期があります。試験や面接、仕事を始めた後も相手とのやり取り、上司とのやり取り、営業、人によっては企業、などなどどれも失敗すると生涯の心に傷になるようなことがごろごろと待ち受けており、必ず誰でも何度かは失敗を経験します。しかし、失敗が成功を生み出す第一歩になるということは人生の努力を進める上で誰もが知っていることとも言えるとも思えます。ですから、自分が失敗することをあまりに恐れすぎることは好ましいことではありません。時に失敗は必要なものであるとすらいるとも思えます。

さて、自分が失敗することに対して敏感な人は他人の失敗に対しても厳しい態度で臨みます。心中では「ああ、失敗したのが自分ではなくてよかった」と思いつつ、他人の失敗をあげつらい、罵り、お前のせいだと責め立て、嘲笑の対象にすらすることもあります。

しかし、そのような人は往々にして自分の失敗に耐えることができません。失敗に耐えることは成功する人生にとって「絶対に必要」ですから、自分自身の失敗に耐えられるようになるための、その方法論の一つとして他人の失敗に対して寛容になることが有効なのではないかと私は思います。

他人の失敗に対して寛容な人は自分の失敗に対しても寛容です。何かをしくじった人をなじらない人は自分がしくじった時にも自分を責めすぎる可能性は低いです。自分にも寛容で、他人にも寛容に。最悪の事態はもちろん想定しておかなくてはいけませんが、最悪の事態を想定しつつも現実的にできることに取り組み、できないことは諦めるという見極めをつける。できないことは諦めることができると、寛容になることができます。寛容は心の余裕を生み、結果としてよりよいパフォーマンスを引き出すことに効果があると思えます。また、寛容は美徳の一つであるとも言えますから、他人にも自分にも寛容になることは倫理、実利の両方の観点から効果があるとも言えます。私もより寛容でいられるよう、努力は続けているつもりです。時に寛容になれない時があります。そんな時はつい自分か他人かを批判したくなります。そこをちょっと一歩引いて寛容な心境で現実と向き合う。これもある種の心理的な訓練かも知れません。



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他人を赦す効用

【自己訓練】他人を赦す効用

よりよい人生を生きる上で、他人を赦すことは「必要」と言ってもいいかも知れません。なぜなら、他人から迷惑を受けることは生きていれば必ずあります。中には酷い攻撃をされたり、騙されたりなどの酷い目に遭わされることが絶対にない人生というものはおそらく存在しません。13代将軍家定が徳川慶喜が女性に人気があることに対して嫉妬したという話を読んだことがありますし、その徳川慶喜も西郷隆盛に殺されかけ、なんとか命だけはとりとめて長い長い諦めの人生を送ります。ですから、他人のせいで酷いことが起きる場合はあるのです。

もちろん、それが法律違反だった場合は法律に従って処理されなくてはいけませんが、法律違反とも言えないもの、泣き寝入りするしかないこともあるかも知れません。或いはせっかく雇い入れた部下が使えないタイプで部下のせいで思ったような効果を得ることができなかった、親のせい、兄弟のせい、学校の先生のせい、と他人のせいでいやなめに遭うことは必ずあると言ってもいいでしょう。

ですが、他人を憎むと結果として自分の苦しみが長引きます。よりよい人生を送りたいと願うのであれば、他人を憎むということを敢えてやめてみるということは、時に「必要」なのではないかと思えます。他人のせいで悪いことが起こった場合、たいていの場合には自分にも多少の非はありますから、その多少の非を認めることで他人への憎悪を減少させることができるかも知れません。また、これは倫理とかそういう話ではなくて効果、効用、功利的な問題ですから、結果として自分にとってもお得なのだと割り切り、テクニカルな問題として他人を赦すということを実践する、忘れてしまうというのが個人的にはお勧めなように思います。

絶対に赦せないということもあると思います。絶対に赦せないのを赦すのが、究極的なミソかも知れません。絶対に赦せないと思う相手をテクニカルに忘れていくようにすることで、毎日の生活のストレスは減少し、結果としてよりよい人生を得られるのではないかと思います。

タモリさんの赤塚不二夫さんへの弔辞はとても有名ですが、赤塚不二夫さんはどんなに酷い目に遭わされても「それでいいのだ」精神で、他人を呪うことがなかったという趣旨のことをタモリさんは弔辞で述べています。言葉にすると簡単かも知れないですが、実践するのは難しいことです。倫理的に考えても自分が正しいと思って憤懣やるかたなしのこともあるでしょう。私にだってそういうことはあります。そこをテクニカルな問題だと捉えなおして忘れて行くということを私自身も時に自分の人生をよりよくするための手段として意識的に取り入れようとしています。もちろん、完璧にはできません。イエスキリストですらいまわの際で父なる神に疑問を投げかけたと言われていますから、凡人の我々にそれを完全に達成することは無理かも知れません。しかし、実践することにより、状況がベターになるのであれば、やってみる価値はあるのではないでしょうか。ルイ16世は処刑される直前「私は全ての者を赦す」という言葉を残したそうです。この言葉はマリーアントワネットの「パンがなければお菓子を食べなさい」ほど有名ではありませんが、この最後の言葉にルイ16世という人物の器の大きさ、人間修行、自己訓練の態度を知ることができますから、そういう目で見ればルイ16世に対する印象も変わってきます。自分の名誉のためにも「赦す」ことを訓練したいものです。



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自分が成長するための自己訓練リスト



例えばお金は、人として器の大きい人に入ってくるようになっていると言われます。ドナルドトランプみたいに器が小さそうな人が大金持ちだったりすることもありますから、100パーセントというわけではないかも知れないですが、器が大きければお金、仕事、恋愛関係で有利になるという傾向はあるように思いますから、今回は果たしてどんなことをすれば器が大きくなるのか、どんなことができる人が器が大きいと言えるのか、自分の頭の整理のためにもちょっとリストアップしてみたいと思います。

1、他人を赦す
2、失敗した自分を赦す
3、くよくよしない
4、瞑想をする(いろいろ大変な時でも立ち止まって落ち着くことができる)
5、少額の募金をする
6、道を譲る
7、席を譲る
8、他人の失敗をなじらない
9、他人の仕事の出来栄えを批判することで優越感を得ようとしない
10.恩のある人にはきちんと礼を述べる
11、相手を見下したり、バカにした態度をとらない
12、現状で恵まれていることに気づく(これは意外と難しい、でも恵まれている部分は必ずあるので、それに気づく)
13、必要以上のものをほしがらない
14、文句を言ってくる人がいたら、笑顔で対応する
15、弱い人を守るという意思を持つ
16、自分より凄い人に対して、卑屈にならず、かつ反発せずに、自分が劣っていることを認める
17、問題点に気づいたらできる範囲で改善のための努力をする
18、昼飯程度なら奢る
19、贅沢しなくても幸せだと気づく
20、無名でも幸せだと気づく
21、嫌いなことはやらない勇気を持つ
22、仕事に根を詰めすぎない勇気を持つ
23、将来を心配しすぎない
24、目の前の仕事にきちんと集中する
25、掃除をする
26、道や公園でも掃除をする
27、礼儀正しい
28、お店の人に怒鳴ったりしない
29、家族を大切にする(できる範囲で)
30、自分だけ得をしようとしない
31、約束の時間を守る
32、約束を守る
33、目下の人にも礼儀正しい
34、勉強する(学校の勉強とは限らないが、学校の勉強でも良い)
35、きれいな景色を見に行く
36、不満は言わない
37、分不相応な遊びはしない
38、睡眠は十分にとる
39、有酸素運動をする
40、ハンガーコントロールを心掛ける
41、寒いジョークは言わない
42、皮肉を言わない
43、他人の悪口を言わない
44、勝ち負けにこだわりすぎない
45、神とか仏とか、サムシンググレートの存在を意識する(信仰心を持てとまでは言いません)
46、ギャンブルをしない(やめられない人もいるでしょうから、あくまでもできる範囲で)
47、たばこを吸わない(やめられない人もいるでしょうから、あくまでもできる範囲で)
48、お酒を飲まない(全く飲まないのもつらいでしょうから、あくまでもできる範囲で)
49、身なりを正しくする
50、自分が凄い人間だとか、頭のいい人間だとか、優秀な人間だとかを相手に理解させようとしない。

一応、がんばって50挙げてみました。いずれ機会を見て、上の50にどのような効用があるのかについて
書いてみたいと思います。どれも、確かに人としてあるべき姿について書いていると思えますから、
以上のことをプリントアウトして壁にでも貼っておけば、気づかないうちにだんだんそうなる、即ち
器の大きい人になれる、結果としてお金や仕事、恋愛や人間関係も良くなるのではないかと思います。

人間には運、不運がありますから、器を大きくしても嫌なことや悪いことは起こります。ですが、
日ごろから上に書いたことを注意して行動していれば、不運な時にも或いは被害は小さくて
すむかも知れません。

【自己訓練】正の自己内対話で人生を良くする



人の幸不幸は幼少期でだいたい決まると言う人がいます。ある意味に於いてそれは正しいと言えますが、同時にある意味に於いて、そこは必ず克服されなければならない課題である、人間という尊厳を持った存在である我々はその克服方法を探し求めざるを得ないとも言えると思います。

運よく幸福な幼少期を経験した人は「人生とは幸福で素晴らしく美しいものである」という確信を持つことができるようになりますから、人生で起きる全てのことをその思考パターンによって理解します。そのため、成長した後にどのようなことが起きようとも幸福感を維持することができます。そもそも生きているだけで幸福だという思考が定着しているため、多少のいやなことがあっても私は幸福だという思考パターンが持続しますから、どうということはないのです。人生の記憶は常に選択的なものですから、良いことだけを何度も思い出し、更に私は幸福であるという確信を強め、悪いことがあっても気にならず、場合によっては悪いことも良いことだと自分の頭の中でコードの読み替えをすることができますから、結果として人生には良いことしか起きないことになり、私は幸福だという思考パターンはますます強められ、一生幸福で過ごすことができます。幼少期の環境や経験は自分ではコントロールできませんから、これはもはや運の範疇に入るとも言え、そういう幼少期を過ごすことができた人には素直に「おめでとう。あなたは宝くじで10億円を当てる以上に運がいい」と祝福の言葉を述べるほかはありません。無条件に幸福な人生というプライスレスなものを手に入れることができたと言えるからです。

しかし、幼少期を幸福感だけに満たされて過ごすことができる人は稀なはずです。人生には良いことも悪いこともランダムで発生しますから、幼少期に悪い経験をしたり、嫌な思い出が残るという人の方が多いでしょうし、不運な場合には、幼少期に他人には言えないような経験をしたことで、ひたすら不幸を感じながら人生を送ってしまうケースもあるはずです。私は幸福だという確信を持った人が、成長後にいかなる経験をしても私は幸福だという確信を強めるように、私は不幸だという確信を持ってしまった人は、放置すれば生涯、私は不幸だという確信を強めていくことになってしまいます。

人には尊厳があり、人は自分を他人と同じように尊敬する権利を持っています。自分のその権利を守り、よりよい人生を送るためには、「私は不幸だ」という確信を強化することを可能な限り避け、「私は幸福だ」という確信を強めることができるよう、意識して選択し、行動するべきです。絶望に打ち負かされず、不幸感に支配されず、それを克服し、幸福感を勝ち取らなくてはいけません。たいていの人は「私は幸福だ」と「私は不幸だ」の感覚の自己内対話で揺れ動いているはずですから、私は不幸だと感じてしまった時、絶望に敗けそうになった時、不遇な時期のために手を打ち、私は幸福だと感じるように自己訓練をするのだと言ってもいいかも知れません。

手っ取りば早いのは絶望に打ち負かされそうになった時、好きなものを食べたり、好きなDVDを見たりすることです、非常に苦しい絶望するしかないような悲嘆に暮れるような状態の時は、まずは自己回復の時間をとるしかありませんので、チョコレートを食べるなり、アイスクリームを食べるなり、好きな映画俳優の動画を見るなりして自分を癒すことを考えなくてはいけません。これはてっとり早く、かつ安上がりですが、一時的な効果しかない応急処置であるということは知っておく必要があります。下手をすれば依存症になりますから、あくまでも一時的な自己救済手段です。

人生には時として自分の人生には価値がないと思いたくなるほどの悲嘆に襲われる時がありますが、そうでないときから、日常的に自己内対話が正の方向に向かうよう、特に「私は不幸だ」という感じ方の強い人は心がけなくてはいけません。そのような日常的な「訓練」として効果があるのは、一人の時でいいので「私は幸福だ」と言ってみることです。仮に24時間「私は不幸だ」と思っているとすれば、「私は幸福だ」と言葉に出すことにより、たとえ1秒でも「私は不幸だ」という思考が遮られ、不の自己内対話に多少なりともブレーキをかけることができます。

アドラーは外形的にいかなる不幸があったとしてもそれに立ち向かい幸福を勝ち取るべきだと言っているのは、実は幼少期に「私は不幸だ」という確信を持ってしまった人にとっては不可能と思えるほど酷で絶望的な努力です。しかし、それでも幸福感を勝ち取る努力を続ける以外には自己救済の道はないと彼が考えていたことについて私は完全に同意します。ですので、日ごろの自己救済の訓練を続けるべきです。もちろん「私は幸福だ」と繰り返し言葉にするとき「そんなことを言っている自分は馬鹿なのではないか」という考えが浮かんできます。そこは割り切って、1日1分とか5分とか決めて「私は幸福だ」と唱え、無理のない範囲で続けることがベストです。それを繰り返すことにより、「私は不幸だ」という確信がじょじょに揺らいで行き、その分、私は幸福だと考えることができるようになる可能性があがります。

高級レストランで食事をしたり、一流ホテルに宿泊することも、私は幸福だと感じるためには効果があります。実際に目の前に素晴らしい食事が出されたり、素敵な部屋に通されることで「私は幸福に値するのだ」と自分を説得する材料にできます。もちろん、これも時々、幸福感を強めるための強化合宿のようなものですから、金銭的な限界や物理的な限界を考慮し、依存症にならないように注意することは忘れてはいけません。カウンセリングを受けるのもいいでしょうし、あまりに残酷な挫折感を味わった場合には、金銭的にゆるすのであれば、しばらく
海外を歩くというのも私はアリだと思います。私は不幸だという思考の連鎖を断ち切ることができれば、自己回復力が機能し、やがてまたいろいろなことに挑戦できるようになっていきます。

有酸素運動瞑想も「私は不幸だ」という思考の連続性を断ち切る効果がありますから、日々続けることにより、不幸感の連続性が断ち切られ、その分、幸福感を得る可能性は上がります。健康にもいいので、特に有酸素運動はかなりお薦めと言えます。

もちろん、おそらく一番いいのは、良い意味での諦めを持つことです。充分に諦め、期待しない。そうすれば少々の挫折や嫌なことがあっても打ちのめされるということはありません。幼少期に「私は不幸だ」という確信を持ってしまった人には打ちのめされることが連続で起きてしまいます。悪いことがその人に集中して起きるのではなく、様々な事象から「私は不幸だ」という説得材料を見つけ出し、その信念を強化してしまうことがパターン化してしまっているからです。諦めるという究極の達観に至れば、そのパターンから逃れることができるかも知れません。しかし、これはおそらく最も難しい方法であるであるとも思えますから、敢えてお薦めはしません。

人生「私は幸福だ」と感じて生きるのが一番で、以上までに私が幸福だと感じるために講じ得る幾つかの手段を述べてみましたが、やはり外形的な成功というものは「私は幸福だ」と感じるために強い説得力を持つこともまた確かなように思えます。最初から諦めてしまっては人生を生きる醍醐味のようなものが失われてしまいます。目指している試験に合格したり、理想の恋人と結ばれたり、ほしいと思うだけの金銭的報酬を得たりすることは自分自身を「私は幸福だ」と説得する上での分かりやすい証拠であり、有力な説得力材料になることは事実と思いますから、俗っぽいとは言え、社会的、世間的な成功を目指すことも充分に良いことだと思います。

では、どうすればそのような成功を掴めるのか、また日を改めて確率論という観点から考えてみたいと思います。

桶狭間の戦いに見る織田信長の選択と集中

戦国時代、戦国大名は必ずしもいわゆる「天下」を狙って戦いを繰り返していたというわけでもないと現代では考えられています。天下を獲るというドリームよりも、現実問題として家臣により多くの恩賞を与えるために周辺の土地をじわじわと浸食していくことが最大の関心事という場合が多く、武田信玄はその代表例としてよく語られます。

日本各地でそれぞれに独立政権を営んでいたという意味では混沌として明日の見えない時代でもありますが、その中で、実際に天下に号令する意思を持って軍を動かしたわりと早期の大名として今川義元の名を挙げることができるのではないかと思います。足利将軍家の次の次の家柄で、大軍を連れて上洛するということになれば、当時の将軍足利義輝に代わり、天皇に申し出て、誰にも文句を言わせない手続きを踏んで将軍になることを狙っていたと見られます。当時は三好長慶みたいな「奸賊」が跋扈していましたから、天下を糾す的なヒロイズムもあったとしても理解できなくもありません。

1560年、諸説ありますが、今川義元は最大で4万、少な目に見積もって2万あまりの軍勢を率いて京都を目指します。太田牛一の『信長公記自』によれば今川軍は4万5千、桶狭間山に陣取り、謡と踊りに興じていたとされています。想像ですが、戦争を盛り上げる演出の一環として、山では踊り、平地では戦ったのかも知れません。神に踊りを奉納し、神通力を頼もうとしていたのかとも思えてきます。今川軍は夜を徹してずんずん進み、一方の織田信長は早朝に起き出して馬を駆け、熱田神宮についた時には主従が6騎、雑兵2百ほどと記されています。砦をまわって兵を集め、だいたい2000人で桶狭間に入ります。一般に奇襲とされていますが、今川軍の反撃も激しくばたばたと織田軍が50人ほど倒れます。300人ほどで今川軍は今川義元の輿を囲んでまもりますが、織田信長の「敵が引いたら押し、敵が押して来たら引く」戦法によって義元の廻りの人は次第に少なくなり、やがて輿を担ぐ人もいなくなり、今川義元本人が登場し、短い斬り合いの後で義元が討ち死にします。以上は太田牛一の記述に拠っています。

果たして滅亡必至だったはずの織田信長の勝因は何だったのでしょうか。各地に分散して織田領地を圧迫している今川軍を基本的に無視し、今川義元本人だけに狙いを定めるという一発勝負、一滴乾坤が功を奏したと見る他はちょっと思いつきません。そしてそれ以外の選択肢を全て捨てています。文字通り、捨てる勇気を持っていたと言えます。義元周辺以外の今川軍のことはほうっておいたのです。真珠湾攻撃の際に連合艦隊が少数精鋭の艦隊を編成したのも、同じ考えがあったに違いなく、一発目が成功したのにその後は無用に占領地を広げたことが却って負担になって日本軍の傷口を広げる結果を招いています。やはり、限られたリソースを極限まで有効に使うには、集中と選択、覚悟を持って捨てるということが必要かも知れません。その場合、自ずとチームは少数精鋭になるはずです。それからやはり、武運、天佑神助というものは私は本当にあるのではないかと考えて、ちょうど信長はそういうものを受け取ることができる時期だったということもあるのではないかなあと思います。戦国時代のようなリアルな命のやり取りの人たちが最後は目に見えない神仏にすがったというのも、私は全く無根拠のことではなくて、「運勢」でしか説明できない無数の戦いのケースがあったのを彼らが実際に見聞していたからではないかと思えます。源平の戦い源義経が屋島から平家の背後を衝いたの200騎で山を登っていますので、これもやはり少数精鋭の方が一滴乾坤の時には動きやすいということの証明かも知れません。ついでに言うと楠木正成も500人で北条軍を右往左往させますが、これも考え方としては同じだったと言えると思います。その割には織田信長は2000人で突撃していますので、むしろ数が多すぎたと言えそうな気すらしてきます。

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「才能」について考える

「才能」とは、ある種の偏りのようなものではないかと私は最近考えています。生まれてきたとき、人は何がしかの天分を必ず備えているはずです。スポーツに向いていたり、音楽に向いていたり、学者に向いていたり、商売に向いていたり、様々あると思いますが、多少の向き不向きを抱えて生まれてくるはずです。

一方で、才能を開花させるためには持って生まれた天分だけでは不十分である程度の環境を備えていなければいけません。両親が音楽家で、音楽家の天分を持って生まれてきた人が徹底した音楽教育を受けて開化したり、スポーツの天分を持って生まれてきた人のお父さんがたまたま阪神タイガースが大好きで(広島カープでも読売巨人で1も、千葉ロッテでもどこでもいいのですが)、夏になると息子を連れて何度も球場に足を運び、もちろん息子には少年野球に通わせて、いい道具もそろえてくれてということになると、息子さんは元々天分がある上に、球場での盛り上がりを知っていますし、いい道具があれば友達に対してもかっこ悪くないですから、メンタル面でも野球に対する愛着が生まれるでしょうから、きっと伸びるに違いありません。

かわいそうなのは、持って生まれた天分と与えられる環境がうまく適合していない場合です。スポーツの天分を持って生まれてきたのに、親御さんは勉強しろとしか言わない。あるいは学問の方面に才能がある一方で、全然運動ができない子どもなのに親御さんが野球大好きで毎週末が阪神タイガースデーで(広島カープでも、読売巨人でもどこのチームであってもいいのですが)、お父さんが懸命に野球を仕込もうとしますが、全然伸びず、ため息をつかれてしまう。などのケースは実に気の毒です。

天分と生育環境が適合した場合、日常の意識の方向や受ける訓練が(「野球」でも「音楽」でもいいのですが)、全て同一方向に向かうとそちらに偏りが生じます。野球のことについては素晴らしいけれど、文学については関心がない、などのように、偏っていきます。この偏りの度合いがあるレベルを超えたとき、人はそれを「才能」と呼び、ある種の完成形をそこに見出し、人によってはその人と応援するためなら自分のお金を払ってもいいと思うようになるのではないか、それを才能の開化と呼ぶのではないかという気がします。

日本では良くも悪くも義務教育では音楽も体育も国語も算数もそこそここなせる人材になれるように教育されます。そのため、悪い面としては才能という名の偏りのある人材を生み出すことに限界があり、良い面としては生まれた家の貧富の関係なく、楽譜の読み方も教えてもらえるし、サッカーや野球のルールも教えてもらうことができるというものがあります。天分を持って生まれて来た子であれば、たとえば音楽の授業は必ず受けますので、その時に必ずなにがしかの才能の輝きを発揮するはずですから、そこから伸びていく、伸びるきっかけを得ていくということは充分に考えられます。

しかしながら、私たちが想像するような才能あふれる開化をみせる人は、三歳から英才教育を受けていますので、義務教育中に輝きを見せるとしても、既に勝負はついているとも言えます。片方はヨーヨーマになれますが、片方は運も手伝ってブラスバンドの全国大会進出あたりでは、才能の「開化っぷり」のように随分と開きがあるように思えますし、後者ではそれで生活していくことはちょっと難しいかも知れません。

ヨーヨーマのような特別なケースは横に置くとして、普通の人(私もその一人ですが)、人並みに義務教育を受けて、高校に進学したり、大学受験をしたり、就職をしたりする「普通」の環境で育った人はそれっきり、才能なんて諦めなよ。といういう結論で終了かというと、そうとも言い切れない気がします。

私は人には少な目に見て最低でも二度の人生の転機があるのではないかと考えるようになっています。一つは思春期で、もう一つは40代あたりに迎えるように思うようになっています。思春期はいろいろなものに出会い、感動し、また感動を求め、それがバンドをやりたいという願望になったり、恋愛に向かったりします。新しい傷つき、立ち直るという経験をしなくてはいけませんが、長い目で見ればそれは貴重なことです。

もう一つの転機は40代で、それくらいの年齢になると、それまでどのように生きて来たか、生き様のようなものが問われます。なんらかの方面で努力を続けてきた人は、その積み重ねが報酬や地位のようなもので現れます。一方で、生き方の変更も余儀なくされてきます。若いころは自己中心的で「自分が〇〇したい」ということだけで走ってこれたのが、40代に入ると献身的で利他的であることの価値を思い知らされるようなことに必ず出会うような気がします。その時にそういう新しい生き方を選択できるかどうか(できない人は多分、生涯できないでしょうし、人によってはすっとそっちへ行ける人もいるかも知れません)で、品格のようなものに違いが出てくるように思えます。

さて、ここで話を「才能」に戻しますが、40代を過ぎて上に述べたような品格や人間性のようなものを高める生き様ができるようになると、もう一度、天分を発揮する機会に恵まれるように人生はできているのではないか、と私は最近感じます。その天分は人それぞれなのですが、天分に加えてそれまでの努力で継続して培った後天的な能力が加わりますし、「生き様」を支持してくれる人も多かれ少なかれ現れて応援してくれたり、協力してくれたり、或いは協力し合ったりするものではないかと最近は思えるのです。

ヨーヨーマみたいな感じではないかも知れないけれど、その人らしい「才能の開化」の方向性が見えて来るようになるのではないかなあという気がします。そういう意味ではコツコツやることは才能を補い得るとも思えますので、がんばって生きようというわりと普通の結論になってしまうのですが、わりと普通なことも意外と大切かも知れません。こんなことを考えるようになったのは年を取ったんだなあと自分でも思います。

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