常識的に考えたら、日本が武力攻撃されるなんてことはないと思いますが、自衛隊に年間5兆円近く使ってるのは有効な税金の使い方と言えるのですか?

「常識的に考えたら、日本が武力攻撃されるなんてことはないと思いますが、自衛隊に年間5兆円近く使ってるのは有効な税金の使い方と言えるのですか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

常識的に考えればアメリカが日本を守っているのですから日本が武力攻撃されるなんてことはないと私も思います。ですから自衛隊に年間5兆円も使うのであれば、それを生活保護とかベーシックインカムとかに使う方が遥かに日本人の幸福に貢献するのではないかと思います。しかしながらベトナム戦争以後、本当にアメリカに日本を守り切れるかどうかは、わりと疑問が残ります。過去50年で周辺諸国の経済力・技術力が上がってますから、ますますアメリカががんばってくれるかどうか微妙になってます。仮にアメリカが日本を本気で守らないということがばれれば、これはもうやりたい放題やられますので念のために自衛隊を持っておくのは一つの方法です。更に入念に徴兵制を導入しておけば予備役がごろごろいることになりますので、敵に日本を占領されてもゲリラ戦ができるようになると思いますが、さすがに徴兵制は明白な憲法違反なのでそういうわけにはいきませんね。



日本国憲法は敗戦後の絶望の末に制定されたのか、それとも終戦後の未来への希望をもとに制定されたのか、結局どちらなのでしょう?GHQの思惑などとは別で日本側で携わった方たちの活動を知りたいです。

「日本国憲法は敗戦後の絶望の末に制定されたのか、それとも終戦後の未来への希望をもとに制定されたのか、結局どちらなのでしょう?GHQの思惑などとは別で日本側で携わった方たちの活動を知りたいです。」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

幣原喜重郎内閣の時に松本蒸治という人物が憲法改正草案を作らされました。ただ、明治憲法が天皇の大権が全てという建付けになっていたのをある程度制限するという感じのものだったので、マッカーサーががっかりし、マッカーサー三原則を提示して今の憲法が書かれることになったわけです。当時は様々な民間試案も作られたみたいで喧々諤々あったみたいですから、憲法制定史を調べればいろいろ出てくるだろうなと思います。上に述べたのは、ほんのうわべで申し訳ないくらいの薄い内容ですが、まあ、そんな感じです。



どこまで権力が集中したら独裁者を名乗れると思いますか?

「どこまで権力が集中したら独裁者を名乗れると思いますか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

その気になったら憲法を停止できるレベルだったら独裁名乗っていいと思います。憲法が機能している状態であれば、選挙や任期など権力者交代に関する規定もあるはずなので、適法な長期政権の場合は独裁とは言い切れないと思います。



令和になったら総選挙。多分。‐令和になる前に

首相、内閣が絶対にこなさなければならないのは予算を通過させることで、これは最も重要な義務だと言えると思います。で、予算が通れば首相は身軽になり、自分のやりたいことの追求について考える余裕がうまれます。それは例えば外交かも知れません、経済かも知れませんし、法律を変えることもかもしれません。或いは総選挙のような政局をやって、政権の延命ができるかどうかの賭けに出たり、勝つ自信がある場合はほくそ笑みながらドヤ顔で選挙で300議席獲ったりする一方、これは勝てないと判断すれば、総辞職でなるべく立つ鳥跡を濁さず的に花道を用意してもらって引退生活へ入って行くという選択もできます。要するに予算が通れば首相は身軽になり、選択肢の幅も広がるというわけですね。

しかし、今年に限って言えば事情が少し違います。予算が通った後、今度は時代が滞りなく、穏やかに、できればお祝いムードとともに令和に始まってもらわなければなりません。令和が始まる前にスキャンダルだの政局だのというのは絶対に避けたいはずです。それまではひたすらことなかれ主義で物事が進められているように見えます。言葉の選び方を間違えた大臣は更迭です。更迭すれば話は早く、その話題は終了ですから、安倍さんの令和を穏やかに迎えるために隠忍自重みたいな感じがよく伝わってくるようにも思えます。

さて、令和になったら首相は自由です。そして、現状では、夏の参議院選挙は自民にやや不利との見方が出ています。安倍首相は憲法改正を究極の政治目標に掲げていますから、残された任期でラストスパートをかけていきたいのなら、夏の参議院選挙でも勝つ必要があります。私は個人的には憲法改正には関心がありません。憲法の内容を現状に合わせましょうというだけのことですから、要するに私たちの生活にも、日本の世界政治の中でのアクターとしての位置も今まで通りというわけです。そのようなことのために口角泡を飛ばして議論することにあまり価値は感じません。憲法はやや曖昧でちょうどいいくらいにも思っています。明治憲法では憲法を細部に至る神学論争が行われ、統帥権の名のもとに首相が陸海軍に命令できないという意味不明な現象が生じてしまい、条文を読んで現実を見ない日本帝国は滅亡していきました。というようなわけで、憲法改正には関心はないんですが、一応、いろいろウオッチしている身としては、令和になったら解散風が吹くかもなあと思って眺めております。




2019年の政治の見どころは、衆参同日選挙の有無

このところ、安倍晋三首相に揺れを感じます。焦っているように見えるのです。安部さんの究極の目標は憲法改正で、憲政史上稀な長期政権を打ち立てて尚憲法改正ができていないわけですから、もし安倍さんが憲法改正できなければ、私が生きている間に憲法改正が行われることはないと思います。私は今の憲法が自主憲法ではないとは思っていますが、内容はなかなかいいことを書いてあると思っているので、正直に言うと憲法改正がされるかどうかには関心がありません。自衛隊は憲法に明記されていませんが、自衛隊が生まれたのはアメリカの要請があったからで、自衛隊にいろいろな制約がかかっているのも、そういう国際政治上の要請によるものですから、ぶっちゃけ憲法とは関係ないと思っています。仮に憲法に自衛隊が明記されることがあっても、国際政治上の要請から制約がかかるでしょうから、同じと言えば同じなのです。また、今の憲法はそれくらい解釈に幅を持たせることができる憲法だと考えることもできますから、解釈に幅を持たせることができるくらいでちょうどいいのではないかとも思うのです。例えば大正時代から太平洋戦争にかけての時代、「内閣が軍に口出しするのは憲法違反だ」という論法がまかり通るようになり、小さなことでも憲法違反だ、統帥権干犯だと騒ぎ立てて問題にされてしまうようになったことが、結果としては誰もが口をつぐんでアメリカとの戦争まで突入してしまったわけです。ですから、あまり些細なことで騒ぎ立てるのは少なくとも政治とか憲法とかについて考える際にはなるべく避けた方がいい、コップの中で嵐を起こしてコップが壊れたら元も子もないと思っています。

とはいえ、政局はおもしろいので気になります。選挙では苦労する人がたくさんいますから、外野でおもしろがるのはまことに申し訳ないとは思うのですが、やっぱり政局に対しては純粋に興味津々になってしまいます。私は野球を観ないのですが、野球を観るのが好きな人が今年はどこが優勝するかについて喧々諤々するのと同じような感覚です。

で、安倍さんは自分の政治目標を達成するためには、残りの任期中に与党3分の2以上を維持した状態で、与党全体を説得し、国民投票に持ち込みたいに決まっています。できるかどうかは分かりません。私個人に賛成も反対もないです。いずれにせよ、そういうわけで3分の2以上を維持するためには今年の参議院選挙で勝たなくてはいけないわけです。あと半年ですから、すぐに夏の選挙の到来です。小沢一郎さんが人生最後の勝負をかけて野党の糾合を進めています(これを野合と呼ぶかどうかは、それぞれの価値観の問題でしょうね)。安倍さんとしては今回だけは小沢さんに敗けるわけにはいきません。そうなると、中曽根さんの時のように、死んだふり衆参W選挙で圧勝パターンを狙うことは充分に考えられます。もし私だったら、人生をかけた大目標を達成するような場面が来た時、できることは全てやりますから、安倍さんもできることは全てやるはずです。衆参同日選挙になると、政権選択プレッシャーが有権者にかかってくるのでついつい自民党に票が集まりやすくなると言われています。もし安倍さんの立場なら今年やらなければいつやるのかという感じではないでしょうか。

しかし、衆参同日選挙の時に支持率ががたっと落ちてしまうようなことがあると、両方敗けて政権を失うという大きな賭けにもなるわけですから、なんとかして支持率を上げたいという焦りがあの手この手を打っている安倍さんの姿から見えて来るような気がします。ロシアのプーチン大統領と平和条約を結んで二島返還みたいなことが起きればぐぐっと支持率が上がるかも知れないという心境にもなるでしょうし、昨年末から急に不景気になってきましたから、景気対策を打ちたい、できれば消費税の引き上げを更に引き延ばしにしたら支持率上がるだろうか。というような心情も見えてくるように思えるのです。

個人的には消費税は上げないでほしい、できることなら下げてほしい、はっきり言うと廃止してほしいと思っているタイプなので、憲法改正には関心はないですが、安倍首相が消費税引き下げを公約に衆参同日選挙をやってほしいなあと思います。

いずれにせよ、以上のような理由で今年は衆参同日選挙の可能性は充分にあると踏んでウオッチしたいと思います。








迫水久常著『大日本帝国最後の四か月』で知る「終戦」の手続き

1945年4月、鈴木貫太郎内閣が誕生してから終戦までの期間については様々な著作や研究がありますから、終戦が決まるまで、相当なすったもんだがあったことはよく知られていると思います。いよいよ決着がつかなくなって「聖断」なる、ある種の非常手段によってポツダム宣言を受諾するという意思決定がようやくなされたわけですが、鈴木内閣で内閣書記官長という半分官房長官みたいな立場に居た迫水久常という人物の手記を読むと、そこに至るまでの制度的な手続きが大きな壁になっていたことが分かります。

まず第一に旧憲法では天皇に和戦の大権があることになっています。しかし、明治時代は元老という憲法に規定のない最高権力者たちによる寡頭政治で意思決定がされていて、首相も元老が指名し、戦争するかしないかみたいな大事は元老が決めて軍隊が動き、首相は軍のお手伝いというようなものでした。その後、大正デモクラシーを経て最後の元老の西園寺公望が「憲政の常道」を掲げ、元老の影響力を少なくし、民主政治で選ばれた政治家が首相になるということを慣例化させようとしますが、軍人以外の政治家が首相になると殺されるというのが続いたために途中から断念して軍人首相時代に入り、やがて行き詰まりを見せて、近衛文麿というお公家様内閣が事実上日本帝国にピリオドを打つという流れになります。近衛在任中に西園寺公望が亡くなり、元老の首相指名という慣例も消滅しましたが、議会による首相指名ができませんでしたから、元老に代わって重臣会議が開かれるようになり、そこで首相指名が行われるということになります。何が言いたいかというと、太平洋戦争を終わらせる場合、重臣たちが「うん、やめたほうがいいよね」と言わなければ首相から「戦争やめましょう」とは言えないということです。

しかも、迫水氏の著作に拠りますが、ポツダム宣言の受諾は外交条約を結ぶのと同じになるから、枢密院の了解を得る必要があり、当時の平沼騏一郎枢密院議長を昭和天皇の聖断の場に立ち会わせることで、手続きを簡略化しようとします。

更にメインディッシュになるのが陸海軍で、有名な話ですが当時の阿南陸相が辞表を出せば内閣不一致で総辞職。改めて重臣会議で首相を指名して閣議を開き、枢密院の了解も経なければならないということになるので、ぎりぎりまで主戦論を唱えていた阿南陸相の辞表カードには周囲が相当びびっていたという話もあるようです。さりながら、阿南陸相は8月15日の未明に自決していますので、関係者からの評価は高く、迫水氏も阿南陸相が主戦派の陸軍首脳をなだめつつ心中では終戦に持ち込みたいというアクロバティックなことをやろうとしていたとして、その「腹芸」に感服したという趣旨のことを著作で述べています。

要するにポツダム宣言を受諾は首相、軍、枢密院、重臣が全員一致しなければ実現しないようになっていて、それぞれが「制度的手続き」を盾に取り主張をぶつけ合い議論が前に進まないという事態に陥ってしまいます。そうこうしているうちに原子爆弾も使用され、ソビエト連邦も攻めてくるという絶体絶命な状況が訪れます。にもかかわらず議論がまとまらず昭和天皇に決めてもらうという異例の手続きを踏むことになりました。ここで難しいなあと思うのは通常、天皇は自分から意見を表明しないことになっているにも関わらず、本気になって意見表明しようと思えばできないわけでもなく、天皇の意見が通るか通らないかはその時々の政治状況によって異なり、終戦の場合はたまたま天皇の意見が通ったという制度上の曖昧さです。昭和天皇の責任があると言おうと思えばいくらでも立論できますし、反対に昭和天皇には責任はないと言おうと思えばこれもまたいくらでも立論できるのです。法学論争が神学論争とは言い得て妙なりです。

昭和天皇は戦後、憲政上の問題として鈴木内閣が処理しなければならない案件であったけれど、内閣で意見が一致せず、自分に意思決定を依頼してきたので、それを受けたという見解を示しています。これだけでも現代人にとっては何を言っているのか分からない…と思えるような内容ですが、更に軍と枢密院というファクターが入ってくるわけで、高級官僚だった迫水氏が手続きに振り回されていたことに気の毒とすら思えてきます。

太平洋戦争末期、日本の主要都市は大体燃やされてしまい、それでも憲法を維持した国家が機能していたことには驚きも覚えますが、この期に及んで徹底抗戦か降伏かで議論が割れたということには正直あきれてしまいます。しかも制度的手続きを盾に取るという場合はどうしても「ためにする議論」がまかり通りやすくなり、政争やってる場合かよと突っ込みたくもなるのです。ポツダム宣言の受諾通告に際しても、当初「天皇の国法上の地位を変更しない」という前提で受諾すると通告する案があったのですが、迫水氏の回想では平沼枢密院議長が「天皇の大権を維持する」と文言を変更するように主張し(昭和天皇の回想では天皇が法源であることを前提とすると話が出たとなっていたと思います)、天皇の「大権」なり、天皇が「法源」なりという外国人には分かりにくい概念をねじ込んだというのも理解に苦しむところです。一刻も早く戦争を終わらせなくてはいけない時に神学論争してる場合かよとついつい思ってしまいます。平沼氏が検察出身で法律の専門家らしいところを見せたかったのかも知れません。

というわけで、日本帝国はその最期に於いて法の手続き論争をしていたというお話でした。



2018年末衆議院解散説

現在(2017年)の衆議院議員は2018年末に任期の満了を迎えます。一般的な見方、政治ウオッチャーの常識みたいなことを言えば、通常、2018年になる前に首相は衆議院の解散を模索するはずです。過去の経験則から、任期満了にともなう解散総選挙では首相の求心力を維持することが難しく、スケジュール解散などと揶揄されて与党が数を減らすというのがパターン化されており、解散総選挙の先送りは現職の首相にとっては座して死を待つに等しく、政権を維持したいのであれば最後の一年に入る前に解散を打つに違いないというわけです。過去、もっとも分かりやすい例としては、小泉純一郎さんが優勢解散で大量に議席を獲得した後、後任の首相たちが自分の手で解散して敗北することを恐れて一年ごとに辞任するというなんか変な話になってしまい、ババ抜きゲームの結果みたいに麻生太郎さんがスケジュール的にやむを得ず解散を打ち、惨敗したというのがあります。もちろん、リーマンショック以来経済ががたがたで、そういう点で運が悪かったとも言えるかも知れません。

さて、現在の首相は安倍晋三さんです。55年体制が始まって以来、初めて二度目の首相の座に就いたというだけでもただ者ではないわけですが、近年稀にみる長期政権になっており、過去の長期政権の例で言えば、桂太郎さんが合計で長期やったものの、二度目、三度目の任期はかなりぼろぼろになっていたことを思えば、最盛期に迎えているように見える安倍政権は極めて珍しい、異例な、一般論では語れない状況が生まれているとも思えます。

で、安倍晋三さんには3つの目標があると言われます。1つはアベノミクス。これはまだまだ道半ばとは言うものの、失業率が3%を切るという快挙に至ったこともまた事実であり、ゆっくりゆっくりと効果を上げているとも言えますが、これは今辞められると全部沈んでしまうでしょうから、日本の本格回復までがんばってもらいたいところではあります。で、2つ目が憲法改正。果たして何をどう改正するのかというところから議論されなくてはいけない、意外と漠然とした目標で、お試し改憲みたいな話も出て、そんなことで本当に大丈夫かと私は不安に思いましたが、最近では憲法9条に第三項で自衛隊を明記するということでどうも安倍さんの腹が固まった、多分、公明党もそれならオーケーという話になった、維新も多分乗ってくるということで、ようやくどうするつもりかが見えてきた感があります。自衛隊は過去の大地震でどれほどがんばってくれたかが国民の目にもよくわかっていますので、自衛隊の存在が憲法で確認されること事態には反対しないというコンセンサスなら得られると安倍さんは考えたのかも知れません。最高裁判所は統治行為論で自衛隊が違憲か合憲かについては判断しない、ということは少なくとも違憲だという判断は出していない、悪く言えば逃げており、良く言えば司法は万能ではないから判断の分をわきまえていると考えることもできますが、いずれにせよ、公明党、最高裁等々の諸要因を考慮して、自衛隊について書き込むというところに狙いを定めたと言えるように思えます。

そして3つ目は東京オリンピックの時に自分が首相をやるという目標も持っています。これについては個人的な利得、私利私欲の範疇に入るかも知れませんし、「東京オリンピックの時に誰が首相なのか」は個人的には関心もありませんので、論じないことにします。

で、ここから何を論じるのかというと、以上の3つの目標を達成するための「解」はどこにあるのかということになります。一般論で言えば、上の3つの目標はどれもそれだけで難治であって、これを全部達成するというのはかなりの神業と言わざるを得ません。しかし、そこを狙うため、安倍さんは、どうも任期ぎりぎりまで解散しないのではないかと思えてきます。

今の若手の自民党の議員さんの中には、とても次は当選できないと言われている人が多く、実際にみっともないことが週刊誌に書かれることも多く、次の総選挙で自民党が現有勢力を維持することはまず不可能との見方があります。前回の衆議院選挙でも東北地方では小沢王国が存在感を見せており、小沢王国はさらにがちがちに固めていると考えていいわけですから、次回選挙では過半数は維持できてもそれ以上はちょっと望めないという予想が立ちます。とすれば、憲法改正を本当にやりたいとすれば、現有勢力でやるしかありません。天皇陛下のご攘夷、テロ等準備罪、〇〇学園、北朝鮮ととても選挙をやってる場合ではない課題が目白押しで、それを全部片づけてからいよいよこれから改正論議ということになれば、2018年の任期ぎりぎりまで日程を取る以外にはないのではないかという気もします。そうやって、最後は衆議院選挙と憲法改正の国民投票を同時に行い、最終判断では有権者に任せる(民主国家ですから、最終判断についてはそうせざるを得ません)というシナリオがあるのではなかろうかと思えます。私が改憲してほしいとか、してほしくないとか、そいうことではなくて、首相の胸中を「忖度」すればそういうことになると思えるわけです。

もちろん、自民党が政権党から転げ落ちるという不安要素は残ります。なにしろ任期満了に伴う解散ですし、小選挙区制の選挙制度では、ちょっとした風向きの違いで大きく勝ったり大きく負けたりするわけですから、任期満了解散はリスクです。繰り返しになりますが、小沢一郎さんにそれだけ時間を与えてしまうのもリスクと考えているはずです。もちろん、任期満了に伴う解散が政権党に不利なのは、解散の大義名分に乏しく、有権者に訴えかける材料が少なくなってしまうというものがあるからなのですが、憲法改正もセットでやるとなれば、賛成反対はともかく、大義名分としては充分です。

個人的には、更に消費税の減税を公約に入れてもらえないかと、どさくさでもいいので、消費税増税をねじ込んでもらえないかと思います。金融緩和はそれなりに効果を上げているわけですから、ここで消費税の減税があれば、日本経済は一機に回復。東京オリンピックもシナジー効果になって日本は一機に21世紀バブルも夢ではないと思うのですが。

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憲法の私人間効力

果たして憲法は何のためにあるのか。という疑問を一度も持ったことがない人はいないのではないかと私は思います。憲法は確かに重要なものですが、人間の歴史を見ると、憲法がない時代の方が圧倒的に長く、日本では100年ちょっと前に明治憲法が作られ、現行の平和憲法も70年余りの歴史しかなく、本当に憲法がないと困るのか?という疑問が湧くときがあります。

もちろん、我々の民主主義を担保するためには憲法は必須のものと思いますから、民主主義の概念がまだ最近のものである以上、憲法がまだ最近のものであることもやむなしと言えるのかも知れません。

憲法の最大の主旨は国家権力に一定の拘束をかけることを目的にしており、その点で争いはないと思いますし、基本的人権の尊重が憲法で明記されることによって、国家権力の濫用に歯止めがかけられ、我々は民主主義を享受することができるだとも言えると思います。

では基本的人権(たとえば思想信条の自由)は私人間に於いても有効なのでしょうか。人間関係の多くが優位と劣位で構成されます。特に雇用主と被雇用者の間には歴然たる権力関係があるとも言えますから、国家と同様に拘束を受けるべきなのでしょうか。それともその辺りには相当程度の自由があると言えるのでしょうか。

大変に有名な事件ですが、東北大学の院生が化学製品の大手企業に採用された後、在学中学生運動に参加していたことが発覚したことで、試用期間後に解雇され訴訟に至るという事例がありました。日本人は憲法で思想信条の自由があるため、たとえ企業であったとしてもそれを犯すことはできないから、雇用関係に於いて過去に学生運動に参加したことを理由に解雇するのは不当であるというわけです。憲法が私人間でも効力を持つのかという点が注目されました。

裁判所の判断では、憲法の効力が直接私人間に及ぶことはないという立場が採用され、間接的にはそれはあり得ても、直接的にはあり得ず、企業はどんな人を雇用するかについては相当に高い事由を有しているという結論が示されました。

この事件では原告と被告が和解し、原告は十年以上の裁判での闘争を経た後に職場に復帰したわけですが、結果としては憲法の効力がやたらめったらと広い範囲に及ぶのは困るものの、個人の生活や人生にかかわることだから、そこはなんとかしましょうよという原則NOで例外的YESのような解決が図られたのだと理解することもできるのではないかと思えます。裁判所が違憲審査を認めることはまずありませんが、訴訟に至った場合、個別具体的な救済の手を打つことで、まあまあなんとか。としている事例が多いように思うのは、私がまだまだ浅学だからでしょうか。




日本の国家原理

明治に入り、伊藤博文憲法の起草に取り掛かりますが、これは意外とやっかいな仕事だったようです。というのも、ヨーロッパでは憲法を持っているかどうかが文明国かどうかを判断する大きな基準と見られていましたが、ヨーロッパに於ける憲法は大原則として王権との闘争、王権の制限、場合によっては王権の否定というところから憲法の原理や思想が育まれてきたのに対し、日本の天皇の場合はヨーロッパの王権とその性質を異にしているため、イギリスやフランスの憲法ではあまり参考にはならなかったからです。そもそも天皇が租税権を有していない、或いは有しているとしてもそれは形式的なものに過ぎず、現実問題としては権利の行使はない、または委任された政府が判断して課税、分配をしているという国情に於いて「天皇は税金を自由に課税できない」などのような項目を盛り込んだところで意味がありません。

伊藤は知恵を絞り抜き、天皇が天照大神の子孫であることを理由に、あたかも王権神授説と見まごうような条文を盛り込みながら、天皇を事実上無力化し、形式上は全ての権力(司法、行政、立法、軍事)が天皇に集中しているようにしておきながら、事実上の権力分立を図るという、うまい具合な感じの憲法を作り上げます。ただし、現代の我々の憲法でいうところの「基本的人権」には思想が及んでおらず、ヨーロッパ型の市民社会的な憲法を書くことには伊藤にも躊躇いがあったのかも知れません。そういうことはゆっくりと時間をかけて進めるべきという発想がおそらくは伊藤の内面にあったのではないかとも想像できますし、もしかすると山県有朋あたりの横やりもあったかも知れません。伊藤本人はイギリス崇拝主義みたいなところもあったわけですから、まさか本気で天皇権神授説みたいなことを考えていたわけでもないでしょう。

さて、太平洋戦争が終わり、GHQによってようやくというべきか、めでたくというべきか、日本人の手で書かれなかったという意味で残念ながらというべきか、判断に迷うものの、ルソーの社会契約説を基礎とする日本国憲法が作られ、それが現代の我々の国家原理となっています。また、ワイマール憲法を参照して社会権も盛り込んである上に、ナチスドイツを産んだ反省から間接民主制に徹しており、更に天皇については「象徴」という便利な言葉でその存在を保障していますので、いろいろな意味でなかなかよく作られている憲法と言えるように私には思えます。

論争の的になるのは憲法9条になるわけですが、英米法風に判例を積み重ねて自衛隊を実質合憲としていくというのも一つの方法のように思えますし、裁判所が統治行為論を採る以上、個人的にはそれもありかなあと思います。ただ、どうしても、どうしても、現行憲法では具合が悪いと考える人もいるでしょうけれど、もし、憲法を変えるとすれば、個人的には憲法9条第二項に但し書きを書き加えるのがいいのではないかなあと思います。即ち「但し、自衛権はこの限りではない」または「但し、自衛権及び国際貢献に於いてはこの限りではない」と付け加えれば、だいたい丸く収まるというか、現実にも一致させていくことができるのではなかろうかという気がします。

稀に、日本には自衛権がないと考える人もいるように思えますが、ロックが唱えた生命、財産、自由、平等」の自然権の確立を考慮すれば、自衛権がないと国民の自然権も守れませんので、自衛権に関してはあると考えるのが自然なことではなかろうかと思えます。

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政治家の靖国参拝と政教分離

今さら言うまでもないことですが、日本は憲法で政教分離することに決められています。しかしながら、もしそれを厳密にやるとなると結構難しい問題もはらんできます。

政治家が特殊な宗教に入信しているなどの極端な例を持ち出す必要はなく、むしろ政治家が地元のお寺の檀家さんだったり、あるいは初詣でご近所の八幡神社に参拝したりというようなことは、日本人の一般的な生活の一部と言えますので、そこまで政教分離がーっと言うのはもしかすると少し無理があるのではないかなあと思えなくもありません。小沢一郎さんが熊野詣をしたことがありますが、そういうのもダメなのかと言えば、かえって日本人の生活感覚から乖離してしまうのではなかろうかという気もしてしまいます。

一応、目的・効果基準という概念があるらしく、政治が特定の宗教に対して「宗教的意義を持ち」かつ「援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為」をしてはいけないということで線引きがされているようです。

三重県津市で市立体育館を作る際、地鎮祭を行ったことが政教分離の原則に反するのではないかという訴訟が起きたことがありましたが、これについては最高裁で「専ら世俗的行為」にあたるとして訴えが退けられたという判例があるようなのですが、一方で愛媛県知事が靖国神社や護国神社に戦没者遺族援護の一環として公費で玉串料を納めたことは最高裁で違憲だという判断がくだされているそうです。

公費で玉串料を納めたところで判断の違いが出たのではなかろうかという気がしなくもないですが、三重県津市の地鎮祭の件でも神主さんにはお車代くらいはお渡ししているのではないかという憶測は可能のようにも思えますので、そのへんはいいのだろうかと個人的には疑問に思えなくもありません。

さて、地方自治体の長が地元の神社の神主さんと仲良くするとかなら特に目くじらを立てて騒ぎ立てることもないように思えるのですが、総理大臣が靖国神社という論争のある場所に出かけて行くことの是非についてはどう考えればいいのでしょうか。中曽根康弘首相が靖国神社に参拝したことも訴訟で争われましたが、地方公共団体の首長の場合、住民訴訟という手段で問いかけることができるのに対し、国家に対しては住民訴訟という仕組みはなく、国家賠償請求ということになるわけですが、これについては違憲の可能性は絶対ないとは言えないけれど、原告に具体的な被害が出ていないという理由で退けられているようです。

なかなかの変化球のようにも個人的には思えるのですが、靖国神社については靖国神社そのものが政治論争の真っただ中にあるようにも思え、私もどう思っていいのか分からない…と立ち止まらざるを得なくなってしまいます。小泉純一郎さんが「心の問題だから私の自由」というのも一理あると思えますが、かくも政治性の強い論争の的になっている宗教施設に総理大臣が行くことが絶対に正しいのかと議論の刃をつきつけられれば「ぐぬぬ…」ともなってしまいそうな気がします。

私は母方の祖父が戦死していますので、何度か靖国神社に行ったことはありますが、総理大臣とか天皇陛下にも参拝してほしいとかは特に思いません。私個人の意思で行きたい場所に行きたい時に行ければそれで文句はありません。もうちょっと言うと総理大臣と天皇陛下が参拝したとしてもそんなに嬉しくもありません。私には関係のないことなので、どっちでもいいというのが本音です。愛媛県の知事が玉串料を納めたのがよくなかったみたいなので、玉串料は私費でやっていただければオーケーなのではなかろうかとも思います。尤も、天皇陛下の場合、「私費」があり得るのかという素朴な疑問は残るわけですが…。

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