第22回衆議院選挙の結果、幣原喜重郎が軸足を置く進歩党が第二党となったことで、幣原喜重郎内閣は総辞職し、次の後継首相は憲政の常道に照らして比較第一党となった日本自由党の総裁である鳩山一郎が組閣を命じられるのではないかと考えられましたが、GHQが鳩山一郎を公職追放に指名したため、誰か別の人を…と人選で右往左往することになります。
会津藩主松平容保の息子である松平恆雄を指名する案も浮上しましたが、いろいろ錯誤を経て吉田茂がいいのではないかということで決着します。吉田は何度も拒みましたが、「1、資金作りはしない 2、閣僚人事には一切口を出させない 3、辞めたくなったらいつでも辞める」を条件に首相指名を受け入れます。なんとなく徳川慶喜に似ています。
吉田茂が首相に就任した一年後、第23回衆議院選挙が行われましたが、これは初めての新憲法下に於ける選挙であったため、旧憲法の制度下で首相に指名された吉田茂内閣を信任するかどうかを国民に問うた選挙でした。憲法上、その後は議会が首相を指名することになりますので、選挙で負ければ吉田内閣は退陣するしかありません。過去の山県有朋のような超然内閣とかそういうものはもはやあり得ないわけです。この総選挙では社会党が比較第一党となり、直後に行われた参議院選挙でも社会党が比較第一党になるという今ではちょっと考えられない結果が出ました。
吉田茂には自由党と民主党での連立内閣を組織して政権を維持するという道もありましたが、憲政の常道の精神を重視し、比較第一党に政権を譲ることが望ましいと考え、総辞職します。吉田茂の次は、社会党の片山哲が民主党の協力も得て新しい内閣を組閣することになります。
これだけ見ると、吉田茂は一体何の仕事をしたのか、何であんなに有名なのか、という疑問が湧いてきますが、吉田は片山哲・芦田均内閣の後に第二次・第三次・第四次・第五次の長期政権を築き上げ、サンフランシスコ講和条約によって日本の主権を回復し、同時に日米安保条約にも署名して今日まで続く火種を残したと同時に、日本の安全保障の基盤を作ったともいえます。そういう大仕事についてはまた改めて述べたいと思います。