アメリカ映画『アメリカン・ビューティー』に見る愛し方。愛され方。

中年夫婦がなんとか切り盛りする中流家庭は崩壊寸前であり、当事者、すなわち父・母・娘がもういいよねと合意した瞬間に家庭は崩壊し、麒麟・田村の『ホームレス中学生のような』な状態に一瞬にしてなりかねないところからスタートしている。その過程に於いて、旦那は一年間のサラリーだけは獲得したので、破綻はちょっと先のばしに成功した。そして娘の同級生をものにするというアホな妄想を現実にすべく努力を開始した。奥さんは沈む船から逃げ出すために、新しいボーイフレンドとしてやりて不動産営業男をベッドイン。娘はやり手のドラッグの売人とニューヨークへ脱出するというなかなか思い切った手段を模索するようになった。で、なんでこんなことになっちゃったの?と言いたくなるが、よく見ていれば、そうなる気持ちも分かるわなあとも思えてくる。

いくつくあのカップルが付き合いかけてハッピーになり、そうでないのもいるというので、そのあたり、ちょっと詳しく、「愛とは」の入り口まで語れるかどうかやってみたい。

まず一番情けないおやじなのだが、家族に見捨てられていることを承知しているうえに、会社からも見捨てられ、誰にも愛されない私になってしまっている。しかも彼は娘の友達が遊びに来ているのをこっそり盗聴するのだが、なんと当該の友達は「あなたの父親って素敵ね。あれでもう少し筋肉があったらやっちゃうかも」を真に受けて筋トレに励むのである。娘の友達のジョークを真に受けて筋トレする悲しき中年男の姿がそこにある。

奥さんの方は、なんとしても不動産を売って見せる、不動産を売って、成功者と呼ばれる人たちの一部になってみせると努力に努力を重ねるが、なかなかそうもいかなくてすっかり落ち込み気味だ。そして不動産王と周囲から尊敬される凄腕不動産バイヤーの男に近づき、ついにそういう関係になるのである。ここで二人の様子からなぜ彼と彼女はそういう関係にあんったかを少し考えてみたい。行為の最中男は「俺こそは不動産キングだ」と何度も叫ぶ。彼は相手を愛してはいない。彼は性行為中に叫ぶことによって自分とは何かを再確認しようとしており、最高位の相手をそのために利用している。一方の女性はどうだろうか。夫との性交渉はすっかり失われており、欲求不満で満ち満ちている。言い方は悪いが誰でもいいからやっちゃって状態になっており、終わった後もあーこれで私欲求不満が解消できて最高~~という風にご満悦という流れになる。もちろん、この女も男を愛してはいない。

一方で、これは愛によって結ばれているのではないかと考えさせられる二人がいる。この夫婦の娘と、隣に引っ越してきた退役軍人の息子さんだ。父親の暴力は激しく、お母さんは頭がダメになってしまった感じなのだが、こわーい海軍の人なので、ご機嫌斜めにならないように周囲はいつも緊張しなくてはいけないが、それでも、抜け穴はある。そこの息子さんはプロの薬の売人なので、隣の堕落した父親を客にして、ドラッグを売るのである。海軍の父親はその様子を二階の窓から見ている。そして、窓からチラチラ見える様子から「あの二人は同性愛を楽しんでいるに違いない」という全くの桁外れな結論に達し、隣の家に忍び込み、隣の堕落した中年パパとキスするのだが、堕落した中年パパ「あ、あの、間違ってます。私は、そういうわけではないんです・・・・」というので、海軍さんは諦めて帰っていく。ここまでくると海軍さんの妻で、売人の息子の母のあの女性が頭がちょっとダメになってしまっている理由も分からなくもない。海軍さんの妻だけど、全然そういう行為がなくて、おかしくなってしまったのだ。そして社会的地位はあるから体面はと待たなくてはいけない。繰り返しになるが、それでおかしくなってしまったのだと思う。
で、このドラッグを売っている息子さんが、隣の娘さん、ようるすに堕落してしまった中年男に恋をして、二人は少しづつ心を近づけあい、やがて、ピュアな恋を互いに確認する。この映画の中で唯一美しい場面のようなものなのだ。二人は取り巻く環境がなにもかも嫌になってニューヨークへと向かう。売人だけに金はあるし、頼れる人もいるらしい。

さて、幾つかの人間の了解されなければならないところが出尽くしたある日、物語は瞬間に終わる。その日の午後、堕落した中年男はバーガー屋さんで働いていて、そこへ彼の妻と、彼女の不倫相手の男性がスポーツカーみたいなのでドライブスルーにやってくる。不倫発覚というわけである。全財産は奪われ、子どもには会えない….下手すれば人生これでおしまいである。信用大事の不動産を売り続けることができるかどうか…

その日の夜は忙しい。毎日筋トレをして自分を鍛えていた堕落した中年男はなかなか引き締まった肉体を手にしており、自分の娘のところに泊まりに来た、お目当てのスクールガールといい雰囲気になる。互いに欲望とメンツを満たすためだけの行為が行われようとしていたのだが、女性の方が「私、初めてなの。下手だと思われたくないから、先に伝えようと思って..」で、男は素に戻り、僕はとってもラッキーな男だと言い残して自室に入り込み、家族の写真とかを見て過ごす。あるいはこの男の更生の可能性を暗示する場面かも知れないのだが、銃を隠し持った妻によって頭を撃ち抜かれ人生を終える。妻は不倫を知られた以上、自分が文無しになって路上に放り出されても誰も助けてはくれないとの分かっているため、だったら夫を殺してしまえば、離婚の裁判が開かれたないと考え、刑事事件の裁判になることの恐ろしさまで気が回らなかったのだろうとしか考えることができない。といいつつ、もう少し突き詰めてみると、実は妻は主人公の夫を愛していたのかもしれない。夫とセックスレスになったことが諸悪の根源であり、夫ときちんと行為が行われていれば不倫することもなく、大抵の問題が解決していた可能性は残されるようにも思える。そうでなければ、夫を殺害した後で、クローゼットの夫の大量のスーツに抱き着いて泣く場面が入り込む理由がない。

以前はアメリカの中産階級の崩壊というところに注意を向けて見ていましたが、今回はもう少し、いろいろな人の愛の表現方法みたいなことを考える材料になると思い、書いてみました。



孝謙天皇の愛への渇望

聖武天皇の娘で、女性として唯一、立太子され(つまり、中継ぎではなく)、天皇に即位したのが孝謙天皇です。一度退位し、重祚しているというだけでも波乱の人生ですが、在位中に橘奈良麻呂の乱、退位後に藤原仲麻呂の乱を経験し、重祚後には道鏡事件も起きていおり、更に天武系の系統も絶えたという風に思うと、本当に波乱万丈、悩ましい人生を送った人のように思います。

一度目の即位の時は、母親の光明皇后が後ろ盾になってくれていて、実際の政治は藤原仲麻呂がやってくれるという、人形かお神輿のような存在でしたが、光明皇后が亡くなった後は、後継者の淳仁天皇と藤原仲麻呂ラインと激しくぶつかるようになります。道鏡と親密な関係になり(どの程度、親密だったかは想像するしかありません)、孝謙上皇と道鏡によって政治をすると宣言します。

淳仁天皇と藤原仲麻呂及び周辺の天武系の皇子たちが共謀して反乱を起こしますが、孝謙上皇サイドの方が動きが速く、孝謙上皇が勝利します。淳仁天皇は廃されて流罪になり、逃走を図った翌日に亡くなっていますが、暗殺説が根強いように思いますし、私もそうではないかなあという気がします。この結果、天武系の適切な皇位継承者がいなくなった一方、天智系の皇族が生きていましたが、天智系に皇位を渡すわけにもいかないという心境もおそらくはあって、孝謙上皇は重祚して称徳天皇になります。

称徳天皇の時代が来て道鏡はいよいよ出世し、法王というお手盛りの位にも就いて順風満帆、人生の全盛期を迎えます。道鏡が天皇を目指したという説は根強く、「宇佐八幡宮神託事件」で、宇佐八幡宮から「道鏡を天皇に即位させるよう」神託が下ったという、普通ならちょっと考えられない工作も行われました。このような、常識を逸したとも思える工作が可能かも知れないと当時者に少しでも思わせることになったのは、もしかすると、孝謙天皇が唯一、中継ぎではなく立太子を経た天皇であったため道鏡には「その天皇と夫婦になって夫が次の天皇になろうと思うのですが、何か?」という意識があったのかも知れません。「持統天皇と何か違いますか?男と女の違いだけですよね」くらいに思ったのかも知れません(持統天皇は天智天皇の娘ですので、道鏡とは実は全然違います。念のため)。

和気清麻呂が宇佐八幡宮まで出かけて行って「あんな御託出しやがって、分かってるのか」と追及すると「ひっこめます」ということで片が付き、称徳天皇が病床について亡くなると道鏡は事実上の流刑になり、ことは収拾されました。

称徳天皇が「どうしても次は道鏡で行く」と強気に出た場合、どうだったでしょうか。道鏡が天皇に即位していたでしょうか。おそらく、道鏡は信西と同じく、全然関係のない人物が偶然の重なり合いで中央に入って来ただけの人物だという目で見られていたでしょうから、もし称徳天皇が強行な態度を示せば適当な理由をつけて殺されたかも知れないという気がします。

最終的に道鏡天皇を実現させなかった称徳天皇は度量と常識をはたらかせたとも言え、道鏡との親密な関係もどこかの段階で終了したように思えます。あるいは道鏡が宇佐八幡宮のご託宣を出してきた時点で「いくらなんでも…」と思って醒めてしまったのかも知れません。想像です。

一般に、称徳天皇の粛清に次ぐ粛清で天武系の皇族がいなくなり、天智系の皇族が復活して今に続く皇統になったと説明されることは多いと思いますが、天武系の皇族が全くいなくなったというわけでもありません。かき集めて、臣籍降下した者も入れれば、血統としては受け継いでいる人もいましたし、吉備真備はその線を狙ったようです。ですが、天智系の白壁王が後継者として即位した背景には、藤原百川が仕組んだかどうかはともかく、やはり天智天皇とタッグを組んで世に出て来た藤原氏の意思というものがあったような気がします。

後継の白壁王が光仁天皇に即位した後、皇后の井上内親王と息子の他戸親王は暗殺されたとする見方が強いですが、井上内親王と他戸親王は聖武天皇の血を引いており、即ち、天武系になりますので、天智系でやっていきたい藤原氏に謀られてしまったらしいです。光仁天皇の立場からすれば、自分の即位後にわけのわからん理由で妻と息子が殺されていますので、名実ともに藤原氏の人形にされてしまっている…と無力さを感じたかも知れません。高野新笠という、百済王朝の系統の女性との間にもうけた子が桓武天皇に即位しますが、このような系統の皇子を次の天皇に後継させるというあたりに、藤原氏の「天武系復活は絶対にない」という強い意思を感じると同時に、藤原鎌足の時代に百済王朝の人たちの亡命を受け継いでいますから、自分たちの物語をそこに見出し、百済王朝の血統を日本の天皇家の中に残したいと言う意図も感じなくもありません。

以上のようなことを考えると、天武系vs天智系と言うよりは天武系vs天智系を推す藤原氏の対決の構図になっており、天智系の人々は何もしていないのに復活したとも言えますが、言いがかりをつけて殺すのが当たり前のようにされていた時代に、孝謙天皇は相当にストレスも強く、周りは藤原ばっかで疲れるという心境の時に道鏡にすがったのかも知れません。

ついでになりますが、仏僧の道鏡が八幡宮のご託宣を利用するって、それで本人的にはいいのか?という疑問もあるのですが、道鏡は弓削氏の系統の人物らしく、弓削氏は物部氏の系統になりますので、もしかすると道鏡の心中の根幹には物部氏の後継者だという自負があったのではないかという想像がはたらきます。想像です。

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聖武天皇と光明皇后のスピリチュアルな愛

飛鳥・奈良時代は皇族、貴族の間での足の引っ張り合いと殺し合いがあまりに多く、その時代にはいわゆる「古代のロマン」が語られる一方で、そういう血なまぐさい時代でもあったと思いますので、私は当時の人々の心境を考えるとき、ぞっとしなくもないです。

そういう時代の中で、聖武天皇と光明皇后の二人については奈良時代の激しい政治家のぶつかり合いの中で、ちょっとほっとする二人の姿が浮かんできます。

聖武天皇は光明皇后とともに仏教への信仰が厚く、東大寺に大仏を建立させたり、全国に国分寺を建てさせたりしたことで知られています。ですが、今とは仏教に対するイメージが違います。仏教はまだ日本に渡って来てから200年くらいかどうかという時期で、実際に浸透したのはもっと後の時代になるはずです。仏教はまだまだ新しい価値観、思想、スタイルで、今風に言えば聖武天皇と光明天皇はスピリチュアル夫婦だったという気がしなくもありません。

その背景にはちょっと前に壬申の乱があり、天智天皇と天武天皇の系統で皇族が分裂し、皇位継承権の高い天武天皇系(聖武天皇も天武系)の争いがひどくなり、大津皇子が「反逆の疑い」で殺される、自分の治世になってからも長屋王が同じく「反逆の疑い」で自殺させられる、藤原氏の鼻息は荒い、息子の基王が早世するなど、悲嘆に暮れざるを得ない悲劇が身辺で続いたからに違いないように思えます。そういう時代に新しい仏教にすがろうとした心の中を想像すると、ああ、きっと純粋な人だったのだなあという感想が生まれてきます。

聖武天皇の死後、光明皇后が東大寺に聖武天皇の遺品を奉納しているのも、微笑ましい、心の和む、夫婦愛という言葉が頭に浮かぶエピソードです。光明皇后は慈善事業に積極的な人で、公共のお風呂を作って貧しい人や病人を招き、ハンセン病で皮膚全体に膿が溜まっている人が来たときは口で膿を吸い出し、思いっきり汚い客が来たときも根性で体を洗ってあげます。実はどちらも本当は如来様だったというオチがついているのですが、私には一つ目のエピソードがナウシカの原型で、二つ目のエピソードが千と千尋の原型だと思えてしかたありません。

その後、娘が孝謙天皇に即位すると、阿倍仲麻呂の乱、道鏡事件と、また嫌な事件が続くようになり、桓武天皇まで来て「もう、こんな陰謀渦巻く奈良は嫌だ」と遷都が始まります。遷都の主目的の一つは奈良の仏教勢力を政治に介入させないためで、でっかいお寺が引っ越さないのなら自分たちが引っ越す、という強行突破みたいなところもあり、聖武天皇の努力がかえって仇になっていたというように思えなくもありません。時代の皮肉のようなものですが、それでもやっぱり、聖武天皇と光明皇后の夫婦愛を想像すると心が和み、いい話だなあ、いい人たちだなあと思うことができ、少しいい気分になれます。

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嫌いな人を愛する

生きているとどうしても嫌いな人に出会います。学校や職場に嫌いな人がいて、しかも何らかの理由で協力しなければいけない立場になることもあります。もし、過去のいきさつにひっかかることがあったから嫌いだとすれば、話し合ってそのことに決着をつけるとか、或いは相手が謝ってくれたらそれで赦すとかそういうことができますが、謝らない場合もあります。逆切れされてむしろ悔しい思いをすることもあります。更に言えば、生理的に嫌いな場合、どれほど努力してもやっぱり嫌いなものは嫌いですから、どんなに自己暗示をかけて「あの人は良い人だ。僕はあの人のことが好きだ」などとやってみたところで、かえって自分の心に嘘をつき、自分を苦しめてしまうことになってしまいます。人によってはもう無理…と思って職場をやめてしまうこともあると思います。嫌いな人のために自分が転職リスクをとらないといけないなんて、馬鹿馬鹿しすぎて本当に残念な気持ちになってしまうかも知れません。

私個人は嫌いな人のことを好きになることはまず不可能だと思っています。99パーセントくらいは不可能で、これはもう仕方がない。好きになることを諦めるしかない。できればその人とかかわりのない生活を送りたいと願うしかないかも知れないと思います。残りの1パーセントは相手がある時、とてつもなく自分を助けてくれることがあった、それで相手に対する見方が変わったというようなこともあり得ると思いますが、そもそも生理的に嫌いというのは、「この人はそういう人じゃない」と深いレベルで気づいているから嫌いなので、そういうことはあまり期待しない方が良さそうな気もします。

自分を変えれば相手が変わるとよく言われますが、自分に無理をかけて相手に笑顔を見せて、相手に親切をして…といったことを続ければそっちの方が苦痛でかえってよくないような気がします。

ここは、「自分はあの人のことは嫌いなんだ」と開き直ってやっていくしかありません。嫌いな人がいるというのは普通のことで、嫌いな人とかかわりたくないと思うのは正常な心の動きだと思います。

ただし、相手の不幸を望む必要はありません。他人の不幸は蜜の味で、嫌いな人が困ったことになっていたりしたら、ちょっと気分が晴れるという経験は私もないわけではありません。ですが、そういうのは美しくないですから、相手が自分と関係のないところで幸福になってくれるといいなあと思う心の在り方を、ある種の矜持として持ちたいものです。というよりも、嫌いな人のことで自分が心の中で汚れたことを考えるなんて、そっちの方が嫌です。「憎む」などというエネルギーを浪費する行為を嫌いな人のためにやりたくありません。

「嫌いな人を愛する」というのがこの記事のタイトルですが、「嫌いな人のことを嫌いのままでいい」のであれば、愛するってどういうことよ?ということになります。タイトルと内容が矛盾しているみたいに思います。

愛には無数の形やパターンがあると思いますから、飽くまでもその一形態ですが、どんなに嫌いな人でも人間としての価値は自分と同じだけあるのだと認め、あんなに嫌な人にもその人のことを愛している人もいるのだと認める、すなわち人間として尊重する。できるだけ接点を減らして口もききたくないですし、顔も見たくないですが、それでもその人も価値ある人間で尊厳があるのだと、心の中で認めることも、一つの愛の形かなあと思います。表現する必要はありません。表現するために相手と接点を持たなくてはいけなくなりますから、表現しなくていいです。

ただ、心の中でそう思う、相手の人間としての尊厳を静かに認める。そのうえで敬遠する。そうすると敬遠の仕方が変わってきます。どのみち相手も自分のことを嫌いなことは想像に難くありませんが、敬遠の仕方が変わると、相手の敵意を逸らすことができ、無用なトラブルを減らすことになるのではないかなあと思います。

ディズニー映画『リロ・アンド・スティッチ』の悲しみと愛

両親を事故で亡くしたリロは姉と二人暮らしで、お姉さんの育児能力に疑問を持つ児童相談所は、リロを施設で育てることを考えています。リロはそそっかしいところがあり、友達がなく、孤独をかみしめて生きる小さな女の子です。

物語のもう一人の主人公であるスティッチは銀河の遠い場所で遺伝子工学を利用して開発された生物で大変凶暴です。スティッチは凶暴で更生の可能性なしとして追放が決まりますが、途中で脱走。地球にやってきます。追手を逃れるために体の形を少しだけ変えて犬のふりをし、リロに飼われるという展開になります。

物語の結末はわりと平凡でそんなにどうということはありませんが、設定には考えさせられる、同情を禁じ得ない、ぐっと来させるものがあります。

リロとスティッチはともに自分の心の赴くままに行動する天真爛漫で真っすぐな、正直な性格です。そして、正直であるが故に、ただそれだけの理由で周囲から排除されます。リロは友達からハブられた上に姉と自宅から引き離されそうになり、スティッチは凶暴になるように遺伝子工学的に設計されているため、本人の責任とは言えない理由で追放されます。元いるところから引き離される、排除される、居場所を失う危機にさらされるという点が両者の共通項になっています。

リロとお姉さんの間では「家族はどんなことがあっても見棄てない」という言葉が交わされ、家族愛の美しさが表現されます。家族運に恵まれなかった私としては、この言葉にはぐっと来てしまい、どうしても感情移入せざるを得ません。

当初は凶暴だったスティッチはリロの持っている本の中から「みにくいアヒルの子」を見つけ、それが自分と同じだと感じるようになり、そこから少しずつ変化していきます。リロとスティッチは心情的に結びつき互いに助け合うようになります。スティッチはそもそも凶暴になるように設計されていますから、リロに敵対する人物が現れた場合は心強いことこの上ありません。

物語の舞台はハワイで、お姉さんはハワイアンレストランの踊り子の仕事をしていますが、スティッチがした悪さが原因でレストランを首になります。その時に「こんな半端でニセモノのダンスショーなんてこちらから願い下げよ」という主旨の発言をします。たった一言ですが、誰もがうっすらと感じるハワイの「作られたリゾート」感に触れています。ハワイはいいところですが、観光客に気に入るように作りこまれた、あるいは作り変えられたハワイの悲しみを表現しているようにも思えます。

両親のいない姉と妹がいて、児童相談所が両者を引き離すことを考える…というのはアメリカ映画でよくありそうな設定のように思います。日本だと親戚が引き取るみたいな解決策がとられると思いますが、これはどちらがいいかはよく分かりません。親戚だという理由で居候すると『火垂の墓』みたいになってしまいます。

最後はお姉さんの新しい仕事が見つかり、児童相談所も一緒に暮らすことを認め、スティッチも「地球へ追放」ということでめでたくシャンシャンな終わり方ですが、弱いものの味方になる、困っている人が幸せになるという物語はやはりいいものです。あと作画もよかったです。

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『幸せになる勇気』のアドラー心理学の愛の実践

とてもいい本です。アドラー心理学の実践編で、『嫌われる勇気』の続編です。以前『嫌われる勇気』を読んだとき、レトリックばかりのように思えて、上手に理解することができませんでした。アドラー心理学の入門みたいなものを読んだこともありましたが、反論したいことやもっと質問したいことが沢山あって、ちょっと違うかなあと思っていましたが、この本を読んでだいぶよく腑に落ちた感じがします。

私の理解ではアドラー心理学は

1、他者の評価を気にしない
2、自分のやりたいことをやる
3、他人に押し付けない
4、そのままの自分を受け入れる

という感じです。一つ一つの言葉は確かにその通り!と納得できますが、「でも、しかし…」がついてきます。そんな生き方してたら、どんどん孤独になるのでは?一人で生きろと?みたいな疑問が私の中にはありました。それなら、それでいいですが、そしたらアドラーさんみたいな偉い先生の話なんか聞かなくてもできるもんと思っていました。一人でできるもん。です。

ところがこの本では、更にその一歩、愛の実践の話に入ります。愛とは能動的に他人を信頼し、その反応は相手に任せて自分が実践するものだ、ということらしいです。途中でエーリッヒフロムの本が念頭に浮かびましたが、この本でもフロムに触れています。ただ、フロムの『愛するということ』は前置きが長く、結論があっさりしていて、拍子抜けで、正直ちょっとがっかりでした。

それに対して『幸せになる勇気』では、実践するとはどういうことか、どのように実践するのかが具体的に分かりやすくかかれてあり、自分にも実践できそうだと感じました。

また、他者評価を気にしない、そのままの自分を受け入れる(そのままの他人も受け入れる)、自分を愛する、他者を愛するということなどについて、普通にいろいろ疑問に思ったり反論したくなったりすることが対話形式で述べられていて、「そうそう、そこ、それ」と膝を打つ思いで読み進めるができました。相手がどういう反応をするかは完全に相手に任せて、自分は目の前にいる人物に対して自分ができることをする、という姿勢はある種の決然さを要求されますが、何故、そうすることに価値があるのかということを納得することができます。

相手に任せるということが相手を尊敬することであり、それが真実に人間関係を築いていくことができるというのは、確かにそのとおりですが、そのためには相手が期待通りの反応をしないことを受け入れるという勇気を持つしかありません。まさしく『嫌われる勇気』です。

そして更に一歩進めるならば、愛の実践もまた、男女愛であれば特定の異性と幸福を築いていくという決然たる意志によって行われることで、そういう意味では『幸せになる勇気』を持つのがいいと述べています。

私はどんなことでも好き嫌いが激しく、嫌いな人とは「さよなら…」しかないと思い込んでいる面がありますが、そこを更に、それが男女愛であっても、或いは友情であっても、その他いかなる人間関係でも、相手に強いることなく幸福な関係を築こうとする決意を持つ。というのは当然のようでいて忘れてしまいがちな人生の価値と言えるかも知れないなあと思います。

個人主義的に生きている人でも、共同体重視思考で生きている人でも、一読してみて自分の在り方を省みる手助けをしてくれる本になると思います。真摯な、とてもいい本です。

『わが青春のマリアンヌ』と『カリオストロの城』

『わが青春のマリアンヌ』という白黒映画はドイツ語版とフランス語版とあって、私はフランス語版の方を観ました。ドイツ語版とフランス語版はそれぞれ別に撮りなおして作ったとのことで、なぜそんな手間なことをするのか若干の疑問は残りますが、内容的には浪漫主義を突き詰めた感じの情熱的な愛をテーマにしたもので、同時に見果てぬ夢を追う悲しき男の物語にもなっています。

物語の舞台はドイツの山の中、バイエルン地方とかそんな感じのところです。時代は多分、19世紀の終わりか20世紀の初めかあたり。ボートがエンジンで動く場面がありますし、鉄道も通ってますから産業革命よりは後ですが、戦争の影とか感じないので、ワイマール時代まではとても行ってないないかなあと飛行機もまだ飛んでない時代かなあといったところです。

寄宿制の学校があって、夏休みになっても行く場所のない少年たちがそこで生活して、退屈な日々を過ごしています。『1999年の夏休み』みたいな感じです。アルゼンチン帰りの男の子が転校してきます。楽器ができて、運動神経がよくて、顔がよくて心が優しいリア充一直線な感じの少し年長の少年です。動物に愛されて、動物の方から寄ってきますのでお釈迦さまみたいです。また、教授の親戚の娘さんも身を寄せます。娘さんはアルゼンチンから来た転校生のビンセントに夢中になります。しかし、ビンセントは娘さんの誘惑にちっとも心が動きません。何故なら、湖の対岸の館に住むマリアンヌという女性にすっかり心を奪われてしまっているからです。

対岸の湖は幽霊屋敷と呼ばれていましたが、少年たちが恐いもの見たさで対岸へ渡ります。番犬に追われてびっくりして逃げ帰りますが、ビンセントは館の中に入り、マリアンヌという女性と出会います。マリアンヌは女性の造形美の極致とはこれであると言わんばかりの彫刻のように美しい女性です。二人は互いに一目で相思相愛になりますが、館には男爵がいて、マリアンヌはその男爵に幽閉されているので、ばれるとヤバいということで、ビンセントは一旦学校に帰ります。

再開する日を心待ちにするビンセントに「助けて」と書かれた一通の手紙が届きます。ビンセントが急いで駆けつけるとマリアンヌ曰く、怖くて年老いた男爵に無理やり結婚させられる。助け出してほしいとのことなのです。

貴族のおじさんの城に幽閉されて無理やり結婚させられるというのは『カリオストロの城』と同じです。館を警備しているこわいおじさんが、カリオストロのグスタフとだぶります。「おー、ここにオリジンがあったのか」と思わずうなってしまいます。『カリオストロの城』ではルパンがクラリスを助け出しますが、わが青春のマリアンヌでは、ビンセントは男爵から、マリアンヌが精神に問題を抱えるようになった事情を聴かされます。しかし、マリアンヌはそうではないと主張します。どっちが本当のことを言っているのか分かりません。羅生門みたいになってきます。

一旦帰ったビンセントは、翌日、親友と再びマリアンヌの館を訪れますが、誰もいません。もぬけの殻です。『雨月物語』みたいです。マリアンヌはやはり幽霊だったのか?との疑問が湧く中、ビンセントは母親の新しい家に呼ばれますが、彼はそれを無視してマリアンヌを探す旅に出ます。無理ゲーをやりたくなるのが男なのかも知れません。しょせん叶わぬと知りながら、見果てぬ夢を追う姿はなんだか『パイナップルパン王子』の父親みたいで、いろんな意味で残酷です。マリアンヌを探すのをやめた時、彼は大人になるのかも知れません。犬が泳いだり、鹿が走ったりする場面がなかなかいいです。



映画『必死剣 鳥刺し』の階級闘争と慈愛

海坂藩という藤沢周平さんの小説に出てくる架空の藩の物語。多分、設定的にはかなり大きい藩です。10万石は確実で、20万石あってもいいくらいです。海があって山があり、お城も大きいですし藩士の数も多いです。庄内藩がモデルらしいのです。海坂藩が舞台の隠し剣シリーズでは下級武士がずるくて貪欲な家老級のおじさん武士に利用されて騙されて虐げられて、最後に一撃で復讐するという一定のパターンがあります。この作品もそのパターンの一つです。

殿さまの側室が殿さまを骨抜きにしてしまい、藩政をわたくししています。諫言する家臣あれば切腹させられ、身内の出世のために年貢が上がり、民が苦しみます。主人公のトヨエツが義憤にかられて側室を場内で刺殺します。通常だったらぎりぎり切腹。打ち首でも妥当な処分なはずですが、石高の削減と一年の閉門で許されます。なんかおかしいなあという空気がありますが、なにがどうおかしいのかは、なかなかはっきりしてきません。

家老の岸部一徳が一計を案じ、トヨエツを殿さまのボディガードに据えます。お気に入りの側室を殺された殿さまからすると不愉快なことこの上ありません。それでも我慢してトヨエツに仕事をさせます。殿さまは分家の吉川晃司のことが嫌いです。他の家臣は殿さまに意見することもできませんが、吉川晃司は分家なので立場が違い、言いたいことをはっきり言うことができます。なので、殿さまが間違っていると思ったときは直言します。殿さまにはそれが気に入りません。殿さまの心境を忖度した岸部一徳が吉川晃司を激怒させる方向に話を持っていき、刃傷沙汰にならざるを得ない状況を作り上げ、トヨエツと勝負させます。双方剣の名人ですが、トヨエツ勝利。岸部一徳はトヨエツに全ての罪を着せて城内の武士に殺させようとします。トヨエツは剣術の達人ですので、簡単にはやられませんが半死半生、半殺しの状態で岸部一徳の前でうつ伏せに倒れます。死んだと見せかけて、岸部一徳が油断したところで一撃で刺し殺します。トヨエツもこと切れます。

壮絶な内容ですが、悪い上役に手下が反撃するという構図は階級闘争で最後の最後で非搾取階層が命がけで勝利するという構図を当てはめているのではないかなあと思います。このシリーズは全部そういうパターンなので、原作者は意識的にそういう構図を作っていたのだろうなあと思えるのです。真実の非搾取階級は農民の人々で、下級武士は搾取階級の最下層にいて、もし革命が起きればどちらかと言えば早い段階で始末される対象になるのですが、そういうのでは日本人の好む絵にならないので、偉い家老クラスの武士vs下級武士になっていると言えそうな気がします。

トヨエツと吉川晃司の殺陣が絵になります。かっこいいです。子どものころ観た時代劇チャンバラものは主人公が踊るようにひらひらと舞いながらぱっぱっ敵をきりたおしますが、人を殺すのに軽薄すぎはしまいかと疑問を感じました。一対一で鬼気迫るものの方が見応えがあるんじゃないかなあと個人的には思います。城中で斬り合いになっている時、外で雨が降っているのもドラマチックでいいと思います。

藤沢周平さんの作品は優しい視線に溢れているというか、情愛と慈悲に満ちていて、描いているストーリーは残酷なのですが、あの枯れた味わいの文章はとても好きです。凄いと思います。

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北野武監督『HANA-BI』の愛

主人公の刑事は、奥さんが不治の病に侵されています。過去に同僚が犯人に撃たれて死んでいます。同僚を守れなかったという思いが強く、同僚の奥さんに対する罪悪感がハンパないです。親友の同僚が犯人に撃たれて車いす生活になります。その同僚を守れなかったことへの責任感のようなものも強いです。奥さんとの残された時間を大切にするために、主人公は警察を辞めます。

決心すると早いです。廃車を買います。超人的な集中力と作業量で廃車をパトカーに改造します。制服を着てパトカーに乗り込むと、銀行へ行き、銀行強盗に成功します。手に入れたお金の一部は同僚の奥さんにあげます。残りのお金を持って、主人公は奥さんと車であてどない旅に出ます。そうはいってもそんなにすっごい贅沢をするわけでもないです。湖に行ったり、旅館に泊まったり、トランプで遊んだりです。すっごいことではなくて、トランプで遊ぶとか湖に行くとか、たき火をするとか、そういうことを一緒にやることが一番素敵な時間の過ごし方だと監督は言っているように思います。『Brother』でも『ソナチネ』でも、物語そのものはいやになるくらい深刻なのに、それでもやっぱり遊んでいる場面を必ず入れます。遊ぶ時の心の純粋さが好きなのだと思います。タモリさんが赤塚不二夫さんと遊んでいた時のような純粋で真っすぐに楽しい時間、というのに近いかも知れません。『菊次郎の夏』では、そこにもっともっとフォーカスしています。映画の後半はただ遊んでいるだけです。

それはそうとして、やくざが主人公と奥さんを追ってきます。「銀行強盗をしたのはどうせおめえだろ」とやくざは見抜いています。その金を狙ってきます。殺します。奥さんを侮辱する男がいたら半殺しにします。

過去の部下たちが追ってきます。銀行強盗をしたのも、やくざを殺したのも主人公だということに気づいています。ですから、逮捕しなくてはいけません。部下たちが追い付いたとき、主人公はもう少し待ってくれと頼みます。そして奥さんと二人で自ら命を絶ちます。悲惨な話ですが、感動します。ここまでできる配偶者がいることに感動します。「愛する」とはどういうことかを真剣に考えています。主人公は愛にあふれた人物です。見た目は怖いですが、死んだ同僚のことや負傷した同僚のことへの深い思い、思いやりが不器用そうな雰囲気とともに溢れ出ています。北野武さんの映画は惻隠の情がよく出てくると思います。根本的な問題解決はしてあげられないけれど(なぜなら、それはその人にしかできないことだから)、ほんの少し相手の心が明るくなる、ほんの一瞬だけ気持ちが楽になる、少しだけれど生きていこうかなと思えるような希望を与える、そういう場面はちらっちらっ入るのが本当にうまいというか、凄いというか、ぐっと来ることがあります。

久々にこの映画を観て涙ぐみました。この映画を観ると結婚したくなります。

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北野武監督『菊次郎の夏』の愛

『菊次郎の夏』はいろいろな意味で凄い映画です。映画の前半と後半で雰囲気が全然違います。前半では菊次郎おじさんの暴言がさく裂しまくっていて、観ていて不愉快というか怖いです。私の父もあんな感じの人で、酒とギャンブルと暴力と暴言と女とやくざな人生を送って最後は血を吐いて死んだのですが、父が生きていた頃のことを思い出して心臓が締め付けられそうな心境になり、嫌悪感マックスな感じでした。悪態は酷いのに喧嘩に弱いところも父親にそっくりでした。母親への暴力が酷い人ですが、この映画で菊次郎が岸本加代子に暴力を振るうかどうかは分かりません。一応、コンプライアンス的にそういうことはないという解釈をしたいと思います。

ただ、映画の後半は野原を駆け回って、旅の途中で知り合ったグレート義太夫さんとか井出らっきょさんとかと一緒にただただ遊びます。夏です。まさしく少年時代の夏休みです。それをいい歳をしたおっさんが夢中になってやっているからおもしろいのです。ひょうきん族を思い出します。ただただふざけ合う。おっさんたちが心から楽しみ、友愛を育む姿は美男美女がスクリーンで愛し合っている姿よりも美しいかも知れないと時には思います。この映画では特に、どこまで悪ふざけできるかを試しているのではないかなあという気がします。

男同士で駆け回って遊ぶというところに北野武さんの映画の真骨頂があるのではないかという気がします。『ソナチネ』でも、『Brother』でも、男たちで海の近くでボールを投げ合ったりして遊ぶ場面があります。文字通り子どもに帰る、無邪気な男たちです。武さんの映画にはだいたいやくざか悪徳刑事かどっちが、場合によっては両方出てきますが、普段ドラッグや女、金がらみで人殺しとかしている人たちが一瞬だけ子どもに帰って海で駆け回るギャップが観る側ぐっといろいろなものを語りかけるのかも知れないとも思います。見た目がスマップほど爽やかではないだけで、男たちが無邪気に遊んでいる姿の美しさを表現するというコンセプトはスマップときっと同じなのだと思います。

この映画の冒頭では、男の子の帰り道にはヤンキーもいるし、さりげなく短い時間ですが、ホームレスで段ボールの上で寝ている人も出てきます。貧しい感じ、ギスギスした感じ、とがった感じと、男同士の友愛(「友情」と言うほどかっこいいわけではなくて、ただ、その時、一緒にいて、遊んで楽しいよねという感じ)、素朴さ、惻隠の情が同居している映画です。北野武さんの映画は観れば観るほど「北野武さんという人は本当はどんな人なんだろう、どういう地獄を心に抱えているんだろう」という疑問が膨らみ、どういう人なのかどんどん分からなくなっていきます。乾いた部分、激しく傷つき、傷つけあう部分と驚くほど深い情愛と優しさの両方を、多分、極端に強く抱えている人なのではないかという気がします。映画を観ているだけなので、ご本人のことは全く知りませんが、作品が人を表すということが真実なのだとすれば、北野武さんの作品からはそのような心の存在を感じてしまいます。悪態を尽くしカツアゲも盗みだってやる菊次郎は一緒に豊橋まで旅をする男の子に深い情愛を持つようになっていくことが分かります。『HANA-BI』でも、いつでも躊躇なく暴力を振るう刑事が、病気の妻にだけはひたすら優しい愛情を表現します。『菊次郎の夏』と『HANA-BI』は偏愛という部分が共通しています。『Brother』でも気に入った黒人の若い部下への優しさと愛情があります。一方で、第三者に対する暴力は酷いものです。やはり強い偏愛が、やたらと印象深い物語を産んでいるのかも知れません。

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