日本は国民国家 (nation-state) としての条件を満たしていますか?

ベネディクト・アンダーソンは『想像の共同体』で無名戦士の墓について論じています。たとえばアメリカにはアーリントン墓地があり、そこには会ったことのない同胞が眠っていることをアメリカ人ならだれでも知っているわけですね。そしてその同胞はアメリカのために命をかけて戦った英雄なのだということもみんな知っている。その英雄のことを、顔も知らないのに戦っているところを想像し、命を落としたところを想像し、感動し、アメリカ人に生まれて良かったと思い、英雄への敬意と感謝の心を新たにするわけです。会ったこともない同胞のことを想像して感動して胸が熱くなる、自分に関わる物語だと確信して消費することができる。なぜ会ったこともない人のことを自分に関係する英雄だと確信できるのかと言うと、そういう風に新聞とか書籍に書かれているのを読んだからで、アメリカであれば、誰もが話せる前提になっている英語で書かれていると。これこそが国民国家が持つ必須の構造である、決定的な要素であるとすら言えることはよく知られていることと思います。

言うまでもなく日本の場合、アメリカのアーリントン墓地が九段下の靖国神社に相当するわけですね。私は祖父が戦死してますので、個人的に全く無関係とも言い難く感じますが、でも、祖父に会ったこともないし、何も祖父のことを考えるために、祖父以外の数百万柱の英霊も一緒に祀られている靖国神社に行く必要もないのですが、やはりそこには物語があって、多くの人が、同じ日本語を話す無名戦士が日本のために死んで行った英霊であると確信して胸が熱くなるわけです。やはり千鳥ヶ淵の雰囲気は靖国神社と隣接していて皇居のすぐ近くであるということの物語性・ドラマ性をつい私が頭の中で作り上げてしまって、やはりぐっと来るわけです。頭ではそれは所詮、フィクションであると分かっていても、やっぱりぐっと来てしまうのです。そして多くの人がおそらくそうなのです。それが良い事なのか悪い事なのかは論じていません。

そういうわけですので、靖国神社という無名戦士を思い出すための施設が存在し機能しているわけですから、日本が国民国家と言えるかと言えば、間違いなくその必須要件は満たしていると思います。