デカルト‐神と私、精神と肉体、感情と理性の二元論

デカルトは「方法的懐疑」という手法を通じて真理に迫ろうと考えました。即ち、いかなるものに対して疑いの目を向けてみる、例えば「東京湾は東京都に隣接している」という命題があった際、本当に東京湾と東京都は隣接しているのか、地図を見れば隣接しているように見えるが、地図が間違っているかも知れないし、自分の目が間違っているかも知れない、経験的に正しいと思っていることも、五感の経験が錯覚や夢のようなものではないという保証はないと考えたわけです。そして、それを突き詰めた結果、それについて考えている自分の主観が存在するということだけは疑いようのない事実であるとの結論に達し、有名な「我思う、故に我あり」に辿り着きます。

認識していることがどれだけ正しいのかわからない不完全な私が存在することを前提に、不完全が存在する以上、論理的に考えて完全が存在する余地は残されており、その思索の結果として完全な神は存在すると結論します。パスカルは人間が理性で考えて神が存在すると結論すること事態が傲慢不遜であると批判したと言いますが、神の存在証明を論理的帰結に求めるか、神秘的経験に求めるか、聖書的奇跡に求めるかは当時のヨーロッパ人にとっては重要な問題だったのかも知れません。現代人であれば、神は主観の問題であるということで結論に代えることも可能ではないかとも思えます。私は個人的に、それを神と呼ぶかどうかは別として、いわゆるサムシングレートみたいな存在はあるのではないかなあと思ってはいますが、これも主観に過ぎません。

さて、デカルトの立場であれば、神を経験的に感知することはできませんから、理性を用いて演繹的にその存在を証明しかないということになり、いわゆる大陸的合理主義としてイギリス経験論との対比関係と位置付けられています。

この演繹的思考法を用いれば、神であろうと宇宙人であろうと地底人であろうと演繹的のその存在、不存在を論証することが可能になります。詭弁に陥りやすいため、注意は必要ですが、詭弁はいつの時代にも存在すると考えれば、デカルトに限らず、いかなる学問にも共通して注意しなければならないとも言えそうにも思います。

デカルトはこの演繹的思考により、精神は肉体とは別個の存在であるとの立場に立ち(主観を持ち考えている私は肉体の存在不存在とは直接関係しない)、精神と肉体の二元論に至ります。考えに考え抜いたわりには普通の結論のように思えなくもありません。真理は常識の中に存在しているのかも知れません。

心の動きに於いても理性と感情の二元論で説明することが可能であり、デカルトは理性によって感情を抑制することをその道徳律としました。フロイトが人間の心を意識と無意識に分けたのは、デカルトの理性と感情の二元論に対するカウンターパートであると考えていたのかも知れません。理性と感情がはっきりしていれば、理性によって感情を支配することは論理的に可能ですが、人は必ずへんな癖があったり、わかっちゃいるけどやめられないことがあったり、うまく説明できないけどどうしてもやりたいことがあったりする、非論理的な側面を持っており、しばしば理性によってコントロールすることに限界が生じます。そのため、デカルトの思考法だけでは日常生活に応用することに限界があるため、フロイトとしては意識と無意識という分け方を用いることによって、人間の心をより実際に近い形で説明できると考えたのではないかとも私には思えます。

よくポストモダンで脱二項対立という言い方がされましたが、まずはデカルトの二元論を知らないと、ポストモダンの意味するところもはっきりせず、理解に苦しむことになると思います。尤も、二元論だの二項対立だの脱二項対立だのというのはヨーロッパ人の教養から生まれて来た発想法であるため、日本人がそのことで悩む必要はないかも知れません。日本の場合、例えば能の世界観であったり、或いは盂蘭盆の習慣であったりというように、そもそも死者と生者の境界が曖昧で、その曖昧さを楽しむという独特のスタイルがありますので、それはそれで大切にすればいいのではないかとも思えます。

武田信玄の父子関係の陰



武田信玄は政治家としては有能で、戦争にも強かったことで知られていますが、彼が暗い父子関係を経験していたこともよく知られています。

有名なのは武田信虎の追放ですが、これはどうも今川義元との密約があったらしく、武田信虎が駿府の今川を訪問した後、甲斐へ帰国しようとする際に国境を閉ざして父の帰宅を拒絶しています。

信虎に人間的な問題があったという指摘もあるようですが、家臣団の支持がなければ却って武田信玄が家臣団に殺されることもあり得ますので、武田信玄本人、家臣団、更に今川氏と関係者が事前に同意した上での追放劇だったようです。武田信玄は今川氏に信虎の生活費を送っていたとされており、一番確実なのは殺してしまうことかも知れませんが、さすがにそれは躊躇われたということなのだろうと思います。信虎追放についてはどうしても信虎が人間的に問題があったという取り繕うのような記述だけが残り、実際のところは分からないわけですが、信虎によって潰された家が復活していることから、やはり武田信玄と家臣団との間に充分な了解があったのだろうと考えることができます。

もし以上のことだけで済むのであれば、武田信玄の戦略家としての一面を語るだけで終わるかも知れないのですが、武田信玄の息子の武田信義も不審な死を遂げており、そこに暗い影をどうしても見てしまわないわけにはいきません。『甲陽軍鑑』では、武田信義が謀反を計画し、その事件の発覚後に東光寺というお寺に幽閉され、二年後に亡くなったされています。死因については不明なままですが、殺されたか、自決したか、自決させられたかのいずれかと考えるしかありません。

その背景には武田信義の今川氏の娘と政略結婚しており、結果、信義が今川派となってしまい、武田信玄の今川侵攻の方針と対立したからだともされていますが、やはり死ぬところまで追い込むところに非情さを感じざるを得ません。

フロイト的にエディプスコンプレックスである程度は説明できることかとは思いますが、武田信玄が父の信虎は追放するだけに止め、息子の信義は死ぬところまで追い詰めたのは何故なのだろうという疑問も残ります。もしか息子から見て父はどうしても偉大な存在に見えやすく、信虎の命を獲るのは怖かったのかも知れません。一方で、息子に対しては自分の所有物だという意識が当時の人物であれば当然持っていたでしょうから、自分の所有物を煮ても焼いても構わないと考える非対称的な人間関係が作られていたのかも知れません。家族を愛することが極端に苦手な人だったのではないかとも思えます。

武田信玄の父との関係、また息子との関係を見ると、そこに「歪み」を感じます。しかし、人は誰しもが何らかの歪みを持つもので、武田信玄にも歪みがあるのは普通のこととも言えます。ただ、彼の場合は自分の歪みに対する自覚があったのではないか、それ故に戦いになったら相手の心の歪みを見出してそこを衝いていくこともできたのではないかとも思います。三方が原の戦いは半分は徳川家康との心理戦で、徳川家康は武田信玄の狙い通りに出撃して、待ち伏せされるという展開を見せます。そのように相手の心を見透し、見えない糸で相手を動かしてしまう力があったのも、自分の心理的な歪みに対する自覚ゆえのことかも知れないと思います。最近の流行の言い方で言えば、自分を受け入れることで弱点を克服する、というような感じで言えるかも知れません。

信長が本能寺の変で死んでしまうのは、京都は既に完全にコントロール下にあって安全だと思い込みたいという信長の心理が働いていたと見ることもでき、そういう意味では信長には焦りがあって、現実を受け入れなかったために招いた結果と言うこともできます。朝倉義景も今自分が引いても問題ないと思いたいという願望が現実に対する認識を誤ったとも言えます。

その辺り、武田信玄は自分の願望や恐怖と現実を混同することを避けることで戦国最強と呼ばれるほどの成果を挙げたと捉えることもでき、現代を生きる我々にとっても参考にできる部分があるのではないかとも思います。

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嫌いな人を愛する

生きているとどうしても嫌いな人に出会います。学校や職場に嫌いな人がいて、しかも何らかの理由で協力しなければいけない立場になることもあります。もし、過去のいきさつにひっかかることがあったから嫌いだとすれば、話し合ってそのことに決着をつけるとか、或いは相手が謝ってくれたらそれで赦すとかそういうことができますが、謝らない場合もあります。逆切れされてむしろ悔しい思いをすることもあります。更に言えば、生理的に嫌いな場合、どれほど努力してもやっぱり嫌いなものは嫌いですから、どんなに自己暗示をかけて「あの人は良い人だ。僕はあの人のことが好きだ」などとやってみたところで、かえって自分の心に嘘をつき、自分を苦しめてしまうことになってしまいます。人によってはもう無理…と思って職場をやめてしまうこともあると思います。嫌いな人のために自分が転職リスクをとらないといけないなんて、馬鹿馬鹿しすぎて本当に残念な気持ちになってしまうかも知れません。

私個人は嫌いな人のことを好きになることはまず不可能だと思っています。99パーセントくらいは不可能で、これはもう仕方がない。好きになることを諦めるしかない。できればその人とかかわりのない生活を送りたいと願うしかないかも知れないと思います。残りの1パーセントは相手がある時、とてつもなく自分を助けてくれることがあった、それで相手に対する見方が変わったというようなこともあり得ると思いますが、そもそも生理的に嫌いというのは、「この人はそういう人じゃない」と深いレベルで気づいているから嫌いなので、そういうことはあまり期待しない方が良さそうな気もします。

自分を変えれば相手が変わるとよく言われますが、自分に無理をかけて相手に笑顔を見せて、相手に親切をして…といったことを続ければそっちの方が苦痛でかえってよくないような気がします。

ここは、「自分はあの人のことは嫌いなんだ」と開き直ってやっていくしかありません。嫌いな人がいるというのは普通のことで、嫌いな人とかかわりたくないと思うのは正常な心の動きだと思います。

ただし、相手の不幸を望む必要はありません。他人の不幸は蜜の味で、嫌いな人が困ったことになっていたりしたら、ちょっと気分が晴れるという経験は私もないわけではありません。ですが、そういうのは美しくないですから、相手が自分と関係のないところで幸福になってくれるといいなあと思う心の在り方を、ある種の矜持として持ちたいものです。というよりも、嫌いな人のことで自分が心の中で汚れたことを考えるなんて、そっちの方が嫌です。「憎む」などというエネルギーを浪費する行為を嫌いな人のためにやりたくありません。

「嫌いな人を愛する」というのがこの記事のタイトルですが、「嫌いな人のことを嫌いのままでいい」のであれば、愛するってどういうことよ?ということになります。タイトルと内容が矛盾しているみたいに思います。

愛には無数の形やパターンがあると思いますから、飽くまでもその一形態ですが、どんなに嫌いな人でも人間としての価値は自分と同じだけあるのだと認め、あんなに嫌な人にもその人のことを愛している人もいるのだと認める、すなわち人間として尊重する。できるだけ接点を減らして口もききたくないですし、顔も見たくないですが、それでもその人も価値ある人間で尊厳があるのだと、心の中で認めることも、一つの愛の形かなあと思います。表現する必要はありません。表現するために相手と接点を持たなくてはいけなくなりますから、表現しなくていいです。

ただ、心の中でそう思う、相手の人間としての尊厳を静かに認める。そのうえで敬遠する。そうすると敬遠の仕方が変わってきます。どのみち相手も自分のことを嫌いなことは想像に難くありませんが、敬遠の仕方が変わると、相手の敵意を逸らすことができ、無用なトラブルを減らすことになるのではないかなあと思います。

『幸せになる勇気』のアドラー心理学の愛の実践

とてもいい本です。アドラー心理学の実践編で、『嫌われる勇気』の続編です。以前『嫌われる勇気』を読んだとき、レトリックばかりのように思えて、上手に理解することができませんでした。アドラー心理学の入門みたいなものを読んだこともありましたが、反論したいことやもっと質問したいことが沢山あって、ちょっと違うかなあと思っていましたが、この本を読んでだいぶよく腑に落ちた感じがします。

私の理解ではアドラー心理学は

1、他者の評価を気にしない
2、自分のやりたいことをやる
3、他人に押し付けない
4、そのままの自分を受け入れる

という感じです。一つ一つの言葉は確かにその通り!と納得できますが、「でも、しかし…」がついてきます。そんな生き方してたら、どんどん孤独になるのでは?一人で生きろと?みたいな疑問が私の中にはありました。それなら、それでいいですが、そしたらアドラーさんみたいな偉い先生の話なんか聞かなくてもできるもんと思っていました。一人でできるもん。です。

ところがこの本では、更にその一歩、愛の実践の話に入ります。愛とは能動的に他人を信頼し、その反応は相手に任せて自分が実践するものだ、ということらしいです。途中でエーリッヒフロムの本が念頭に浮かびましたが、この本でもフロムに触れています。ただ、フロムの『愛するということ』は前置きが長く、結論があっさりしていて、拍子抜けで、正直ちょっとがっかりでした。

それに対して『幸せになる勇気』では、実践するとはどういうことか、どのように実践するのかが具体的に分かりやすくかかれてあり、自分にも実践できそうだと感じました。

また、他者評価を気にしない、そのままの自分を受け入れる(そのままの他人も受け入れる)、自分を愛する、他者を愛するということなどについて、普通にいろいろ疑問に思ったり反論したくなったりすることが対話形式で述べられていて、「そうそう、そこ、それ」と膝を打つ思いで読み進めるができました。相手がどういう反応をするかは完全に相手に任せて、自分は目の前にいる人物に対して自分ができることをする、という姿勢はある種の決然さを要求されますが、何故、そうすることに価値があるのかということを納得することができます。

相手に任せるということが相手を尊敬することであり、それが真実に人間関係を築いていくことができるというのは、確かにそのとおりですが、そのためには相手が期待通りの反応をしないことを受け入れるという勇気を持つしかありません。まさしく『嫌われる勇気』です。

そして更に一歩進めるならば、愛の実践もまた、男女愛であれば特定の異性と幸福を築いていくという決然たる意志によって行われることで、そういう意味では『幸せになる勇気』を持つのがいいと述べています。

私はどんなことでも好き嫌いが激しく、嫌いな人とは「さよなら…」しかないと思い込んでいる面がありますが、そこを更に、それが男女愛であっても、或いは友情であっても、その他いかなる人間関係でも、相手に強いることなく幸福な関係を築こうとする決意を持つ。というのは当然のようでいて忘れてしまいがちな人生の価値と言えるかも知れないなあと思います。

個人主義的に生きている人でも、共同体重視思考で生きている人でも、一読してみて自分の在り方を省みる手助けをしてくれる本になると思います。真摯な、とてもいい本です。

『エヴァンゲリオン』旧劇場版を改めて観て気づく観衆の心理的成長

『エヴァンゲリオン』の新劇場版はまだ完結していないため、なんとも言えない部分がありますが、エヴァンゲリオン世代にとって旧劇場版はなかなか忘れられない青春の一ページです。今回、改めて旧劇場版をみて、新劇場版とは心理の描き方に大きな違いがあり、それは観衆や作り手の心理的成長とも少なからぬ関係があるのではないかと思えました。

エヴァの旧劇場版では、碇シンジは4人の美しい女性に囲まれた状態で試練を与えられます。綾波レイ、アスカ、律子さん、ミサトさんの4人の女性との心理的相克があり、同時に父親との競合というある種のエディプスコンプレックス、更に言えば父殺しの願望が描かれます。複数の異性が次々現れてプラトニックにせよ、何にせよ主人公と関係性が生まれていくというのは、いわゆる「ハーレム型」と呼ばれる物語の展開になりますが、このような描かれ方は人の厨二的な心の琴線に触れやすいです。

複数の異性がいれば、一人くらいは自分の好きなタイプが登場する可能性が高くなるため、いわゆるセット売りになり、興業的にも有利になるはずです(私は興業とかセールスとかに疎いので、「はず」としか言えないですが)。

世に疎く、心細い生き方をしている碇シンジはまさしく中学生そのもので、アスカとレイが同級生の女の子タイプ、律子さんとミサトさんが年上のお姉さんタイプ(美人で怖い。時々優しい)と住み分けがされており、シンジがレイの自宅へ通行パスを届けに行く場面は初恋の生まれる現場というちょっと照れる言い方も可能で、要するに中学生くらいの男の子が異性に対して求めているものを全て提供してくれています。観客は中二の心で自分の初恋を思い出したりしながら、感情移入していくことができます。

一方で、新劇場版のエヴァでは、重複する箇所もありますし、それが全てではないものの、「綾波レイ」という特定の女性を愛し、彼女を救うためにシンジは力を尽くします。特定の女性を愛して救おうとするのは、大人の男性の心の動きと言えます。『序』がレイとの出会いと絆の生まれる物語であり、『破』はレイを愛していることに明確に気づきレイの救出に力を尽くしています。三作目になると意味不明になってきて、四作目がまだなので、この辺りはまだなんとも解釈も考察もできませんが、新劇場版の最初の二作については以上のような理解が可能だと思います。

旧劇場版と新劇場版の客層は相当にかぶっており、旧版が上映された時に十代か二十代だった人が、今三十代か四十代で新版を観ているのではないかと思います。いい作品や有名な作品は世代を超えることが多々あるので、世代論が全てとは言いませんが、大きな要素ではあると思います。多くの人が若いころは「ハーレム型」を好みあちこち目移りするのに対し、年齢を重ねると特定の相手を愛するという経験をしていくことになります。そのため、若いころは旧版に感情移入でき、年齢を重ねると新版にも感情移入できるという構図が成り立つように思えます。これがもし新版でも全く同じ「ハーレム型」ですと、共感できる人とできない人に分かれるようにも思えます。

まるで観客の心理的成長を見越してそのように作品の感じを変えたのではないかとすら思ってしまいますが、たまたまかも知れませんし、庵野さんの心の変化が主要因かも知れません。そこまでは分かりませんが、時には無意識のうちに、観客と制作者がシンクロするということもあると思いますから、これは、そういう類の話かも知れません。

シン・ゴジラ』も良かったのですが、早くエヴァの新作が観たいです。よろしくお願いします。

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アメリカ映画『アメリカンクライム』の虐待の連鎖と心理

実際に起きた虐待殺人事件を基にした、とても深刻な問題を扱った映画です。スクリプトは裁判記録に残っているものを使ったということですから、よりリアルに、実際に起きたことに対して忠実に作られていると考えていいと思います。

主人公のシルビアはエレンペイジという不世出の女優さんが演じています。『ハードキャンディ』でも凄い役をしていますが、美人というだけではない深みのある、一度見たら忘れない不思議のある雰囲気のある人です。

シルビアの一家は旅芸人をしています。トムハンクスの『ビッグ』に出てくるみたいな簡易遊園地を作り、子どもを集めていろいろな娯楽施設を運営するような感じです。仕事で各地を回りますから、子どもたちをどこかに預けなくてはいけません。ほんのちょっとしたきっかけから、子どもたちがガートルード・バニシェフスキーの家に預けられます。子だくさんな家なので、まあ、一人二人増えたって同じ苦労だというわけです。ここまでなら『羅生門』のラストと同じです。

しかし、バニシェフスキーという女性が虐待体質の人物だということが僅かずつ明らかになっていきます。何かと理由をつけては暴力をふるったり、暴言を吐いたりします。口にするのもはばかられるような酷い虐待が続き、それは次第にエスカレートしていきます。

シルビアは同世代の男性と友達になり、深い仲になった可能性が示唆されます(映画ではその可能性を示唆する作りになっていましたが、実際の事件の司法解剖では二人の関係は友達以上、恋人未満であったことを示唆しています)。

いずれにせよ、シルビアがそういう行為を行ったと信じたバニシェフスキーは彼女をあらゆる侮辱する言葉で罵り、監禁し、最終的には死ぬまでその虐待は続きました。中年に達した女性の若い女性に対する嫉妬ということもありますし、おそらくはバニシェフスキーも酷い虐待を受けて育ったのではないかと考えることもできると思います。

このような虐待で恐ろしいのは、家庭という閉ざされた世界であるために第三者の目、特に大人の目が届きにくく、仮に問題がありそうだと思われても「家庭内のこと」「虐待ではなく躾」などの言葉の壁によって介入することが非常に難しいことです。虐待を止める人が誰もいない、どこへも救いを求めることができないまま、拷問が続きます。子どもにとって「親」「保護者」のような立場の人に抵抗することは心理的な壁が大きく、虐待が日常化してしまうとそれを受け入れる以外の選択肢を持てない場合が多いです。脱走しても暮らす場所がありませんし、肉体的な抵抗は相当な決心を必要とします。

この事件はその典型例と言えるかも知れません。なぜこの映画が『アメリカンクライム』と題されたのか、一つはおそらくは、この犯罪は人権を重視するアメリカの市民社会に対する挑戦であるということがあると思います。そしてもう一つは同じ事件から取材した映画のタイトルが『隣の家の少女』というタイトルから推測できるように「自分たちの社会に潜む病巣」と制作者がとらえていたからではないかと思います。

虐待の連鎖という言葉は以前からよく使われています。バニシェフスキーは犯罪者ですが、救済を必要とする人物とも言えます。この辺り、どうやって少しでも解決していくか、よくよく考えなくてはいけないと私はつくづく思いました。

非情に観ていて辛い映画です。「やめてくれぇっ映画を止めてくれっ」と思います。映像がきれいで、時々挿入される音楽がご機嫌な感じなので余計に悲劇性が増します。エレンペイジが好きなので、もっと辛いです。

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遠藤周作『鉄の首枷』の小西行長の裏切る人の心理

遠藤周作さんの『鉄の首枷』という小西行長の評伝を読んで私が思ったのは、小西行長のような人間を友人にしたら大変だということでした。

キリシタン大名だった小西行長は、豊臣秀吉がキリシタン禁令を出した際、高山右近を自分の領地に匿います。これは、まあ、いいと思います。信仰という心の自由を守る戦いです。豊臣秀吉が朝鮮半島に兵を出したとき、小西行長と加藤清正が活躍します。二人とも破竹の快進撃をしますが、小西行長の方はなるべく早期に戦争を終わらせるため、独自に講和を図り、秀吉を上手にだまして手を打とうとします。これも、まあ、平和のためだと思えば、悪いことだとは言い切れません。私は秀吉のことはあまり好きではないですから、秀吉の味方をするつもりもありません。

ただ、一旦なりかけた講和が破綻し、二度目の戦争になった時、小西行長は加藤清正が戦死するよう陰謀をめぐらせ、相手側に加藤清正の行動を知らせて攻撃を仕掛けるように持ちかけます。これはやり過ぎです。やり過ぎという表現ではやさしすぎます。裏切ってます。こういうタイプは大事なことを話して「誰にも言わない」約束しても尾ひれをつけて言って歩きます。友達にしてはいけないタイプです。

私も人生で何人かこんな感じの人に出会ったことがあります。気づかないところで約束を破ったり、さりげない嘘をつきます。味方のふりだけは続けるのでかえってやっかいです。小西行長は自分の内面や良心には正直な人に違いありません。それはいいことです。しかし、自分に正直でいることのリスクを取ろうとしないので八方美人になり、嘘をついてかすめ盗ろうとします。とてもやっかいです。

遠藤周作さんが小西行長に関心を持った理由は幼少期に自分の意思とは関係なく洗礼を受けたということが共通しているからかも知れません。行長の内面を推量するために学術論文や当時の資料などを読み込んで書かれた労作です。とても面白い作品です。遠藤さんは行長が内面の秘密を守り抜こうとしたことに自分を投影したのではないかと想像します。遠藤さんの『母なるもの』で、自分には絶対に他人には言えない秘密が一つだけあると書いてあります。どんな秘密かは多分、どこにも書かなかったと思いますから永遠に分かりません。遠藤さんの作品をとにかく読み込んでそこから推量することは可能かも知れませんが、どこまでやっても推量で、本当のことは分かりません。ただ、社会的な安全のために表面は周囲に合わせてそれが自分の本意であるかのように装い、実は内面では全く違うものを抱えているというのは、確かに苦しいことですし、誰もが多かれ少なかれ抱えるものかも知れません。私には「秘密」というほど大げさなものはないですが、それは違うと思ったことを呑み込んで周囲に合わせるということはよくあります。

秀吉の家臣に小西行長という人物がいて、関ケ原の戦いの時は石田三成の味方をしたということはそれなりに知られていると思いますが、もっと詳しいことはよくは語られません。子どものころに読んだ子ども向けの『太閤記』では、朝鮮出兵の講和のために担当者が適当な嘘をつこうとしたくらいのことが書いてあったのは覚えていますが、その人物が小西行長だとか、小西行長がどういう人物かとか、そういうことは出てきませんでした。名前だけはよく見たことがあるのに、どんな人かこの作品を読むまでは全然と言っていいほど知りませんでした。

もちろん、遠藤さんが描いた小西行長像ですので、本当の小西行長の姿とどれくらい同じなのかということは簡単には判断できません。そんなことは論じても仕方がないかも知れません。私にとっては、大事なところで嘘をついたり裏切る人の心理がなんとなく、ようやく理解できたと感じられたので、とても有益な作品でした。


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ナボコフ『ロリータ』の病める愛と心理観察

有名な話ですが、ナボコフはアメリカの出版社にこの作品の出版を断られまくり、パリの出版社に持ち込んでようやく世に出すことができました。ナボコフは亡命ロシア人で最初に書いたときは英語で出版された時はフランス語で作品の舞台はアメリカですから、良くも悪くも国際的です。アメリカの出版社が断りまくったのは作品の内容があまりに病んでいて、倫理的な問題も大きいからですが、現代では20世紀の主たる小説の一つに数えられています。

主人公はフランス人でアメリカで教師をしています。ローティーンの少女への関心が強いです。あるシングルマザーの女性と結婚します。主人子は美男子で、女性の心を掴むことに長けています。うらやましいです。本当の目的はその女性の娘さんです。日記に本音を書いています。女性に日記を読まれます。女の子は夏休みなのでサマースクールのキャンプ生活をしています。お母さんは急いで娘さんに「この男に気を付けろ」という内容の手紙を書きます。万事休かと男は諦めます。女性はポストに投函する直前に交通事故に亡くなってしまいます。

男はサマースクールのキャンプ場まで少女に会いに行きます。法律上は父親ですので簡単に面会できます。お母さんが亡くなったという事実を伝え、少女を連れて帰ります。誘惑し、目的を達成します。車に乗り、二人で各地を旅します。男は新しい赴任先へと少女と一緒に向かいます。法律上は父親なのでずっと一緒にいても誰も怪しみません。

ある日、少女がいなくなります。男は必死になって探します。少女はだんだん大人になっていて、若い男性と結婚していることが分かります。男が訪問すると、少女は男性に「父親が来た」と説明し、二人だけになって話し合います。行方不明になった時、とある脚本家の男性に連れていかれたことが分かります。男は決心して脚本家を訪れ、銃で殺してしまいます。

結構長い物語ですが、詳細に内容に触れることはためらわれます。世界的な小説ということになっているので、教養という意味では一回くらい読んだ方がいいです。読むのが面倒な人は映画で観てもいいです。肝になる部分はそれで分かります。映画だったら2時間くらいで終わるのでお手軽と言えばお手軽です。キューブリック監督が撮ったバージョンとエイドリアンライン監督の撮ったバージョンがあります。

作品の中では男と少女のエゴがよくぶつかり合います。「少女のエゴ」は永遠の謎みたいなものです。分かってみれば簡単ですが、それまでは男は悩んで煩悶して死にたくなってきます。理解できた時にはもう遅かったりします。今書きながら思い出して悲しくなってきます。この作品はナボコフの懸命の観察の結果によって少女のエゴを描いています(いろいろ「実験」したかも知れません。わかりません)。サガンの『悲しみよこんにちは』は十代の著者が少女の立場から少女のエゴを描いています。両方読めば、違った視点から人間心理の理解が深まるかも知れません。田山花袋の『蒲団』も読むのもいいかも知れません。ただ、田山花袋の『蒲団』は退屈で、矮小な、女学生にふられる男子教師の姿が描かれます。田山花袋は故意に矮小な男の姿(自己像)を自然主義的に書いたということなのだと思いますが、読んでいてがっくりします。明治小説が好きだという人もいますので、楽しめる人がいれば、それはそれでいいと思います。

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サガン『悲しみよこんにちは』の女の人の心理

『悲しみよこんにちは』はサガンのデビュー作で代表作です。というかサガンの作品では他には特に知っているものがありません。多分、フランス語ではいっぱいいろいろ書いていると思います。ですが、普通に日本で生きててサガンの作品に触れるとすれば『悲しみよこんにちは』で始まり『悲しみよこんにちは』で終わります。いい本です。涙が自然に流れて来そうなくらいとてもきれいで切ない内容です。

お父さんと娘のセシルが南フランスの海辺のリゾートで夏休みを過ごします。きらきらとした透明感のある素敵な夏休みです。お父さんは離婚しています。でもかっこいいのでとてももてます。作品に詳しく書かれているわけではないですが、きっとガールフレンドが沢山います。そういう設定になっているはずです。うらやましいです。娘のセシルもお父さんが大好きです。かっこいいお父さんが自慢です。セシルはお父さんがガールフレンドと遊んでも別に気になりません。お父さんにとっては私が一番なのよ。くらいに思っています。むしろ他の女の人たちに対して優越感を持っているくらいです。

ところが事情が変わってきます。お父さんが真剣に愛する新しい結婚相手を南フランスの別荘に連れてきてセシルに引き合わせます。新しいお母さんはマジメで聡明で素敵な美人です。もてる男性は遊び相手と真剣に愛する人とは選び方が違うのだと、著者よく観察しています。セシルと新しいお母さんは仲良くなれるようにお互いに努力しますがうまりうまくいきません。互いに悪気がないだけに余計に歯がゆい感じです。新しいお母さんに用事ができてしばらく南フランスを離れます。その間にセシルは一計案じます。同じリゾートで夏休みを過ごしているお父さんの最近までいたガールフレンドを使おうと考えます。お父さんにいろいろと吹き込みます。「あの人を最近見かけたけどきれいになってた」とか適当なことを話します。お父さんは男です。男は単純です。セシルにそういうことを言われると、また前のガールフレンドと遊びたくなってきます。セシルがいろいろと策を講じた結果、とうとうお父さんは前のガールフレンドとどっかへ遊びに行ってしまいます。そこに新しいお母さんが帰ってきます。何が起きているのかすぐに察知します。車に乗ってどこかへ行きます。「無事に帰って来てくれるだろうか」と心配していたら、新しいお母さんが亡くなったという連絡が届きます。新しいお母さんは車と一緒に谷底に落下してしまい、自殺とも事故とも判別できません。セシルは自分の意地悪な思いつきで素敵でマジメな新しいお母さんを死なせてしまったことを後悔し、生涯、その罪悪感とともに生きる覚悟をします。生涯悲しみとともに生きる覚悟をします。生涯の友である悲しみがやってきます。悲しみよこんにちはです。

女の人の心理がよく出ています。多分、もてる男性のタイプにそんなにバリエーションはありません。女性の作家は男性のバリエーションにあんまり関心がない場合が多いように思います。むしろ同性のバリエーションをいろいろ細部まで書きます。男はワンパターンでいいです。紫式部の『源氏物語』と同じです。サガンが十代の時に書いた作品ですので、技巧とかそういうのではなくごくごく自然に書いた作品なのではないかと思います。自然体で短い作品で、心境がきちんと描かれているので読みやすいです。文学少女風のきれいな文章です。翻訳でしか読んでないので本当の原文のことは分かりません。男性が読んでもいい作品です。自分の来し方や在り方について省みることができます。できないか…?

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