「学歴コンプレックス (低学歴、高学歴問わず) 」はどのようにの克服するべきでしょうか?

「「学歴コンプレックス (低学歴、高学歴問わず) 」はどのようにの克服するべきでしょうか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

ぱっと思ったのは、学歴ともう一つの組み合わせではないかなと思いました。たとえば東京大学卒業の人は凄いと思いますから、東大の人にコンプレックスを抱く人はいるでしょう。しかしたとえば中央大学法学部卒業で司法試験合格者であれば、東大にコンプレックスを抱く必要はないですよね。逆に東大の人の場合、慶応とか早稲田が特定分野で凌駕しようとしてくるのはうっとうしいと思いますから、国家公務員の試験に合格するとか、会社を作るとか、パリに行ってひろゆきさんみたいになるとかで、学歴競争以外の何かを持っておくのがやっぱりいいのかなと。



前世の記憶を持つ子供とキリスト教とユング的無意識の世界

アマゾンプライムビデオで、死者の記憶を持つ子供たちというドキュメンタリーを見た。見たのは全六回あるうちの一回だけなのだが、前世があるとしか考えることができない内容だったため、大変に驚いた。前世がアメリカ軍のパイロットで、太平洋戦争の時に父島で撃墜されて戦死したとする男の子の話は大変有名で、このドキュメンタリーでも取り上げられていた。父島を守備していた日本軍は司令官が米軍捕虜を食べたことで起訴され、アメリカ軍の兵士にぼこぼこにされて半死半生で処刑されたと読んだことがあるのだが、米軍の飛行機が攻めてくると、時々飛行機が落ちてくるため、当該の司令官は酒の肴が降ってくると楽しみにしていたという話を思い出し、前世のパイロットは食われなかったのだろうかと余計な心配もしたのだが、この子供の場合、前世の自分の名前、配属された空母の名前、愛機の種類など実際に裏が取れる情報を話し出したため、両親が努力した結果、前世はこの人だったのだと思しき人物も特定でき、その家族にまで会うという驚きの展開に至っている。父親は輪廻転生などないとの立場から、別の原因があるはずだと考えていたが、以上のような情報がいちいち当たっているため、息子は本当に前世を語っていると確信するようになったそうだ。安易にスピリチュアルに走らず、実際に確かめようとする父親の合理精神を私は歓迎するが、それだけに、息子の前世は本当に米軍パイロットとする結論も重みをもつ。

日本では仏教の輪廻転生思想と近代合理主義が同居し、共存共栄しているため、前世の話題が出ても、割り切って受け入れていくことができるように思えるのだが、キリスト教圏に於いてはこれはかなり難しい。イエス・キリストが輪廻転生があるよとか言っていないので、カトリックの公式見解では輪廻転生は存在せず、すべからく人は一度きりの人生を終えた後、最後の審判を待つということになっている。輪廻転生を認めてしまうと、最後の審判の位置づけが難しくなるので、輪廻転生は認めないという感じなのではなかろうかと推察する。

で、前世がアメリカ軍のパイロットでアメリカ生まれのキリスト教徒というパターンの場合、キリスト教徒としては受け入れがたいにもかかわらず、前世があると認めざるを得ないということになると、そもそも神様ってどうなってるの?という疑問にたどり着いてしまうし、ヨーロッパではわりと宗教についてはゆるめの発想法で適当にやっている面があるのだが、アメリカは真剣な清教徒が切り開いた土地であるため、そういうわけにもいかず、生き方、社会の在り方などの結構根本的なことを揺るがしかねないため、前世があるかどうかも真剣な議論の対象になるのである。日本のように占いで楽しめばいいというような感じではなくなってしまう。

遠藤周作先生は最後の長編小説である『深い河』で輪廻転生を扱っているが、遠藤先生がカトリック信徒でありながらも自分で納得する世界観を得たいと願い、敢えて言うとすればカトリックの世界観への挑戦として絶対に彼らが認めないであろう輪廻転生について筆が及んだと見るべきなのだが、遠藤先生のスピリチュアル的な発想法も相まって、面白い内容になっており、前世とかそういったことに関心のある人は一度は読んでみるのをお勧めしたい。いずれにせよ、遠藤先生が輪廻転生について書いたのも、キリスト教圏では真剣な論争になるということを踏まえた上でのことだ。

日本人であれば真剣に突き詰めなくても仏教的死生観には馴染みがあり、私は英国教会の洗礼を受けてはいるが、仏教的輪廻転生を受け入れられないということはない。しかし、だからと言ってすぐにスピリチュアルに走ってしまってバシャールも輪廻転生あるって言ってるよ、とかになっても詰まらないので、もうちょっと近代合理主義的な結論を得られないものかとも思ったのだが、ふと思い出したのはユング先生のことである。ユング先生は人間には集合無意識みたいなのがあって、それがクリエティブなものと結びついていると考えた。芸術家が自分の作品を作るために霊感を得ようとしたとき、その人の発想法を遥かに超えた新しい作品のアイデアを得ることがあるが、これは人類共通の叡智と感性みたいなところ、人類の共有財産みたいなところからアイデアが湧いてくるみたいな感じで考えれば、ユング先生の集合無意識がどのようなものか、イメージしやすいのではないだろうか。ユング先生はかなりスピリチュアルなことに肩入れしたことで有名だが、近代的科学的心理学者として全く疑いのない、不動の評価を得ている先生だ。私は前世の記憶を持つ子供について、ユング的無意識という概念で理解することは可能なのではないかと思い至ったのである。子供が人類の共有財産みたいな深層集合無意識にアクセスし、過去の人物の情報を得ることができたと仮定すれば、キリスト教的世界観を維持したまま、近代合理主義をかなぐり捨てることなく、前世の記憶を持つ子供が存在するという事実も説明可能なものになろうというものだ。

だが、しかしである。もしそうだとすれば、前世があるとかないとかよりももっと大きなスケールで、人はスピリチュアルな存在であり、互いに結びついていて、その結びつきは時間も空間も超えるということになってくるため、キリスト教の世界観であろうと仏教的世界観であろうとぶん投げて、やっぱバシャールすげー。というところにたどり着いてしまいそうな気がする。ま、それでもいいのだが。



クラシック音楽の聴き方

今年の夏休みはショッキングなことが幾つか続いたので、映画をじっくり観たり、本をゆっくり読んだりということに時間を使うことができず、やむを得ず心境が回復するまでクラシック音楽を聴くことにした。随分時間がかかったが、現状は大体立ち直っている。

で、なぜクラシック音楽ばかりを聴いたのかと言えば、J-POPもK-POPも聴きたいような心境になれず、ロックはおろかジャズですら明るすぎて聴く気になれずに、自分の心境に合うものが聴きたいと思うと、クラシックの静かなやつを選んで聴くようになってしまった。言うまでもなくショパンである。ショパンのピアノばかり何週間も聴いていた。クラシックでショパンのピアノに浸るというのは随分ときざったい気もするが、私はピアノはもちろん弾けないし、音符も何となくしか分からない、俄かクラシックリスナーである。

で、とにかくクラシックしか聴きたくなかったのだが、心境の変化とともに、聴きたいものに変化が現れ、結果としてクラシック音楽に対してちょっとだけ理解が深まった気がするので、ここで書いておきたいと思う。

まず、繰り返しになるが、心境が思いっきり落ち込んでいる時はショパンのソフトなピアノ以外は受け入れることができない。で、少し回復して私がよく選ぶようになったのがショスタコービッチである。なんとなく暗いのだがなんとなく明るいという、どんな心境で聴いていいのか分からないのがショスタコービッチの良さである。回復期にあって、ちょっと回復したかも知れないけど、まだ自信ないという私の心境にぴったりと合った。それからしばらくして、私はラフマニノフに手を出した。ラフマニノフのピアノはわりとシンプルだが迫力がある。迫力のあるものに私が耐えられるようになったということに私は気づくことができた。

さて、クラシック音楽と言えば、普通、ベートーベンとかモーツアルトあたりが一般的且つ定番ではなかろうか。小林秀雄がモーツアルトを絶賛しているので、モーツアルトは最高に決まっているという先入観が私にあったが、モーツアルトは明るすぎることに気づいた。『アマデウス』という映画でも明るく無邪気で天才のモーツアルトが登場するが、テンションが上がっている時か、無理にでも上げたい時でないととても聴いていられない。そして、ドンジョバンニとか聴いたらなんとなく「音楽ってこんな風にデザインできるんだぜ」と彼が言っているような気がしてしまい、久石譲さんが音楽に才能は必要ないという言葉を読んだことがあるのを思い出し、「あー、音楽って基本のデザインのパターンを知っているかどうかで違って捉えられるんだろうな」という素朴だが私にとっては新しく、芸術とは才能ではなくパターンであるという個人的には革命的な格言を思いついてしまったのである。

今は充分に元気なので、ベートーベンの第九をちょうど聴きながらこれを書いている。ベートーベンは映画でモーツアルトみたいになれと教育されて、そこまで辿り着けない悩みみたいな描かれ方をしていたのだが、突き詰めるとパターン+ちょっとだけ個性なのだとすれば、別に迷ったり悩んだりする必要はないのではないかという気がした。芸術はパターンなのである。第九だって、「な、お前ら、こういうの好きなんだろ」のパターンに従っているように私には思える。

以上、素人の音楽談義でございました。



赦せないことを赦せるか

随分以前に観た韓国映画で題名も忘れてしまったのだが、有名な俳優さんが出演している韓国映画が今も時々、頭の中で蘇る。主人公は若いころ警察官をしていて、結婚し、公務員を辞めて実業家になり、妻が不倫して赦せずに離婚し、事業協力者に裏切られて破産し、文無しになって自殺するという救いが全くない映画なのだが、私はどうしても時々思い出してしまい、その主人公の彼の何が人生を破滅させたのかを考え込んでしまう。

というのも彼は全く悪いことはしていない。警察官を辞めて実業家になるのは個人の自由だ。妻が不倫して離婚するのは正当な事由だ。事業協力者に裏切られたのも、裏切った方が悪い。にもかかわらず、彼は自分の人生を回復させることができなかった。なぜ、どこからこの人はおかしくなっていったのだろう、と良く考え、自分の人生の教訓にしたいというようなことを反芻するようにして考えてしまう。

ただ、彼が破滅していったことについて、私はなんとなく分かるような気がしなくもなかった。それは、彼の不倫した妻に対する態度に現れているように思える。妻の不倫は疑惑ではなく間違いなく申し開きのできない現場を押さえていて、警察官らしく現行犯で捕まえたと言える。その後、妻は泣きに泣いて赦しを請うのだが、彼はどうしても赦すことができず、妻を置いて振り返りもせずに家を出る。私には、ここがターニングポイントだったのではないかと思える。これは難しい問題で、もし自分が同じ立場でパートナーを赦すことができるかと問われれば、自信がない。赦せないかも知れない。パートナーに浮気されたことがないし、私も二股のようなことはしたことがないので心境が完全に分かるわけではないが、普通に考えて赦せないだろうし、世間的にも赦せないことは理解されるだろう。

ただ、泣いて赦しを請う人間に対し、一切の赦しを与えず、背を向けて立ち去るという軽蔑の姿勢を見せる彼の覚悟には強い攻撃性が感じられた。攻撃性は方向性の問題なので、時に他人を傷つけるし、時に自分を傷つける。彼はあの時、妻を赦さないという覚悟をすることによって、結局は自分を赦すことができず、自ら人生の破滅を招いたということができるのではないだろうか、という気がするのだ。

もちろん、そういったことは演出の問題もあるから、私の勝手な解釈で、制作者はただ単に救いのない人生を描いて観客を落ち込ませようと意図していただけかも知れない。ただし、本でも映画でも受け手の心に響かなくてはいけないので、作品には必ず制作者の人間に対する理解が入っていなくてはいけないし、そうでなくては作品は作れないとも言える。

赦し難しことを赦すというのは人によっていろいろあるだろうから、貞操の問題だけに集約されるものではないかも知れない。しかし、貞操は最も分かりやすい例だということはできるだろう。私にもひたすら赦せないと思っていた人が何人かいるが、最近、なんとなく、赦してもいいのではないかという気がしてきた。そして、ある人は言外に赦しを私に請うていたということも思い出した。あの時、私は赦しを与えないという姿勢を言外で見せた。今思えば、赦しておけばよかった。赦しを与えた時、心の傷はそれだけ苛まれなくなるような気がする。なぜなら、赦した側にとっても完全な過去になるからだ。赦しがたいことを赦すから値打ちがあるのである。そして、赦することは自分を救済することにも繋がるはずなのだ。



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スタンフォード監獄実験で証明されたものは何か

スタンフォード大学で行われた有名な心理実験。学生アルバイトを集めて適当に看守役と囚人役に分け、看守役が囚人役に対して激しい罵倒を浴びせたり、理不尽なお仕置きをしたりを続けた場合、看守はより看守らしく、囚人はより囚人らしくなっていくという仮説を証明しようとした。一般に、看守役の囚人役に対する暴虐な態度があまりに酷く、予定の二週間を大幅に繰り上げて実験は終了したが、見かねて中止しなければならないほどに看守はより看守らしく、囚人はより囚人らしくなっていくことが証明されたとされている。

ナチスドイツがユダヤ人に対するホロコーストをなぜ成し得たか、なぜ起こり得たかについて考察手掛かりになるとも理解されているだろう。

だが、私はこの監獄実験について多少の情報を集めてみた結果、看守がより看守らしく、囚人がより囚人らしくなるということは全く証明されなかったのではないかと思える。なぜなら、囚人役はあまりに耐え難い場合はドロップアウトすることが認められ、ドロップアウトしない囚人役はアルバイト料をもらうために囚人役を続けていたに過ぎず、看守が看守に徹し、囚人が囚人に徹することができた理由は、繰り返しになるがアルバイト料をもらえるという相応の理由があったからだ。

たとえある人物が有罪判決を受け、自分もその罪を認めている場合、監獄に閉じ込められることには相応の理由があるということを本人も理解しているため、囚人らしい行動を要求された場合、それに応じるだろう。囚人役の学生がアルバイト料のために囚人役をするのと同じである。看守も仕事である。

従って、この実験はナチスドイツがホロコーストを成し得た理由の証明にはならないのではないかと私は思う。ホロコーストの犠牲者は、相応の理由がないにもかかわらず、犠牲になった。ホロコーストの実行者は相応の理由がないと知りつつ、実行したのだから、スタンフォード監獄実験では説明のつかない全く異質な現象だったと考えるべきなのではないかと私には思える。

翻って言うと、スタンフォード監獄実験は、相応の理由がなければ人は囚人に徹しないということを証明したと言うこともでき、ナチスドイツのホロコーストは全く次元の違う視点を持たなければ説明できないということを証明したのではないだろうか。私が過去に見聞した範囲で言えば、ホロコーストという現象の一端を一番よく説明しているのは『ファニア歌いなさい』という映画だと思う。繰り返しみたいとはとても思えないトラウマ映画なため一回観ただけの感想にはなるが、別次元で人が壊れていく様子が描かれていると感じられた。私見です。



心理的な傷から如何にして立ち直るか

心理的な傷は時間軸で言えば短期的なものと長期的なものに分けることができる。そしてその立ち直り方は消極的なものと積極的なものに分けることができる。心に傷を一切負わずに人生を終えることができる人はおそらく皆無である。私も自分の心理的な問題を解決するために様々な努力をしてきたし、現在もそれは継続中だと言える。ここでは、私なりに心理的な傷から立ち直るために実践したことや学んだこと、その効果などを手短にまとめてみたい。

まず、心理的な傷の短期的なものというのは、たとえば誰かに批判されたり、ちょっとしたことで相手の怒りを買ったり、仕事でミスをしてしまったり、飲み過ぎてしまったりして落ち込んでしまった場合のようなものを指している。そして長期的な傷というのは主として幼少年期にたとえばイジメにあったとか、虐待されたとか、或いは事故にあったなど人格形成期に於ける傷が生涯にわたってその人の心を苛むような類のものを指している。短期的な心の傷を受ける要因は主として普段は忘れるようにしている長期的な心の傷の再生みたいなできごとであるため、短期的な心の傷も突き詰めれば長期的な心の傷が起因しているということができるため、突き詰めれば長期的な心の傷を如何にして治癒させるかということが課題になる。ただし、長期的な心の傷の治癒には積極的な療法を長期間断続的に行わなくてはならないため、これを読んですぐに解決するようなものではない。場合によってはさっき傷ついたからその治癒の方法をこの記事で知りたいと思う人もいるはずであるため、先に短期的な問題、直近の問題について取り扱い、続いて長期的な解決について取り扱いたい。

短期的な問題、たとえば誰かに嫌なことを言われたり、仕事をミスをしたりという場合、消極的な治癒方法はそれなりに有効である。消極的な治癒方法とは簡単に言えば時間が解決するということだ。私の場合、激しく落ち込んだ場合も二週間もすればどうにか気力を取り戻すことができる。経験的にマックスに落ち込んでも二週間程度で回復できるため、傷つくようなことが起きても「二週間の辛抱だ」と思うことにしている。実際、数日前にちょっとここでは言えないくらいショッキングなことが起きたが(そのことについて私が悪いとはちょっと思えないようなことだった)、今は次第に回復基調に入りつつあり、個人的な経験測として「二週間もあればだいたい大丈夫」という考えがあるため、結果としては「いつまでこの苦しみが続くのか」という不安からは解放されやすく、その分、心理的な立ち直りは楽にできるようになってきた。これは最近そうなってきたのであって、何度もショッキングなことを経験するうちにようやく気付くことのできた私の心の内側での現象であると言える。短期的な問題についてはその他にとりあえず寝るとか、お酒などの嗜好品にとりあえず逃げ込むとか、週末は自宅に引きこもってyoutubeやnetflixを視聴して何も考えないようにするなど、消極的ではあるが、ある程度の積極性(お酒を飲んだり、何かを視聴したりするのでなにがしかの行動は伴っている)を持っているが、これは耐え難いと思える経験が生じたとき、自分を現実から一旦切り離すことで痛みが軽減するのを待つという方法になる。短期的な心理的な傷に対する積極的なアプローチはカウンセラーに電話するということを私個人は今でも時々やっている。心の痛みを軽減するために他人に話すということは効果があるが、友人にいちいち相談することは、度が過ぎると友人を遠ざけることになりかねないし、自分の恥ずかしい面を友人を見せる場合もあるため、私はわりと慎重である。カウンセラーであれば、他人に話せないことを話せる上に、自分との相性が合う相手であれば適切な意見交換を行うことにより、痛みをかなり軽減させることも可能だ。心理的なショックを受けた場合、私の場合、何が起きているのか理解できない、私が悪いのか悪くないのかも判断できない、原因も分からないという軽いパニックを起こすことになるのだが、いい大人が「パニックだ」と騒いでも信用を落とす以外の効果はないため、とりあえずその場はぐっと耐え、時間を見つけてカウンセラーに電話することにしている。当然後で料金を払わなくてはならないが、一時的にとはいえパニックになっている場合、それこそ死んでしまいたいと思うこともあるから、自分の生命に比べればカウンセリング費用はむしろ衣食住同様の必要経費と言ってもいいと私は考えている。死ぬより金を払う方が断然いいに決まっているからである。カウンセラーを話すことによって、自分の身に何が起きたのか、何が原因で、善処する方法はあるかということについて考えることができるようになるため、無用な危機を避けることもできる。ショッキングなことが起きれば数日間は見た目には普通でも頭の中はパニックになっているため適切な判断ができない状態になっている可能性があり、それでも仕事をしたり日常の選択をし、社会的に行動しなくてはならない。パニック状態のままそれらを遂行すれば無用に傷口を広げることも起きかねないので、私はカウンセラーに頼ることはリスクコントロールの面を有するとも思っている。著名人になればなるほどお抱えの占い師がいたり、宗教的なものに頼ったりする傾向があると聞いたことがあるが、それは、そういったことがリスクコントロールになり、例えば逆ギレするなどの本来なくていいはずのカタストロフを避けることになるのだと言える。

では、長期的な問題について考えたい。よく時間が薬というが、長期的な心理的な傷は時間では解決しない。放置しておけば生涯にわたり本人を苛み続ける。上に述べたように短期的なショックの由来も長期的な心の傷に由来しているため、明朗な人生を送るためには長期的な心の傷に対して戦略的なアプローチを考えなくてはいけない。高額なセミナーに行ってある程度良くなるという人もいるかも知れないから、完全に否定はしないが、個人的にはおそらくそういったアプローチは短期的な効果しか持たず、根源的な治癒には至らないのではないかと考えている。長期的な心の傷は、その人の認知と行動に影響する。人は心の傷によって認知と行動がある程度決定されてしまい、それを繰り返し、その人自身という人格が作り上げられていくことになる。そのため、長期的な心の傷の治癒のためには認知と行動を忍耐強く変えるように努力し、最終的には自分は別人格になるくらいの覚悟も必要になる。認知を行動を変えるというのは、たとえば「私はいつも嫌われる」という認知がある場合、それは幼少期にイジメを受けたりしたことからそういう認知が生まれるわけだが、「必ずしもそうではない」「場合によっては好かれる」という認知へと変化させていくよう自己内対話を行うことになる。この自己内対話が上手にできるようになるためにカウンセリングを利用することは有効かも知れない。自己内対話が上手にできるようになれば、自分できるためカウンセラーの力は必ずしも必要ではない。カウンセラーにはクライアントの根本的な心理的問題を解決することはできない。経験を積んだカウンセラーであればそのことはよく知っている。新人のカウンセラーはカウンセリングで人を救うことに無限の可能性を感じている場合があり、その場合はカウンセラー本人も自分の心の傷を治癒するためにカウンセリング技術に頼りたいという願望があるため、クライアントに対しても「絶対治癒できる。治癒させよう」という姿勢で臨むが、私の経験で言うと、カウンセラー本人にそのような力はない。内科医は患者に薬を投与したり安静にするよう命じることはできるが、病気そのものはその人の生命力で治癒していくのに似ている。ただし、たとえば風邪は自然治癒する可能性が高いが、心理的な傷はそうではないため、「うつは心の風邪」のような楽観視はできない。「うつは心の癌」だと私は捉えており、放置すればキルケゴールの言うように死に至る病になる場合もある。

ここまでに長期的な治癒の手段として自己内対話を上手に行うことで認知を変化させるということを述べたが、自己内対話を理屈抜きで強引に良い方向へもっていこうとするのがいわゆるアファメーションと呼ばれるものであると私は考えている。たとえば斎藤一人氏の「愛してます、ついてる、嬉しい、楽しい、感謝してます、幸せ、ありがとう、ゆるします」であったり、「私は愛と光と忍耐です」のような「天国言葉」を毎日繰り返し唱えなさいという教えは、現実が如何に望ましくないものであったとしても、強引に自分に今の現実は素晴らしいと認知させることで、即ち認知を変えることで行動が変化し、結果として人生も良くなるとする考えが基本になっている私は理解している。斎藤一人氏については賛否あると思うが、アプローチとしては正しいと言える。自己内対話によって認知を変化させることには限界があるからだ。人にはどうしても「こうとしか考えられない」という認知がある。そのため、自己内対話をどれだけ深めても突き詰めたコアな部分の認知を変化させることは難しく、そこまでで納得するか諦めるかをせざるを得ない。しかし、斎藤一人氏のようなアファメーション方式では、理屈抜きで認知を変える言葉を自分の頭に強引に押し込んでいくため、自己内対話の壁を超える可能性はある。認知が変われば行動が自ずと変わるため、得られる結果も自動的に変わってくる。高額な心理療法、たとえば前世療法や催眠療法などの手段で認知を変えることはあり得るが、アファメーションは無料でできるため、金銭的にもお得と言える。ただし、忍耐強くやらなくてはならない。コアな部分の認知は何十年も保たれ、その人の人格そのものになっているため、アファメーションもある程度のところまでいくと固い壁を破るのに相当な根気を要することになる。自我が抵抗するのだと言い換えることもできる。ではどうするかというと、私の場合、カウンセリングとアファメーションの双方を利用することにしている。カウンセリングで自分の抱える問題を整理し、アファメーションをするのである。この場合、問題の核になる部分の整理ができた状態で行うため、自我の抵抗を受けにくくなるからだ。

私の経験に基づくものだが、以上述べたことを生活に取り入れるだけでも人生は良くなるはずだし、心理的な苦しみは相当に軽減される。しかし、それだけでも完全な解決ということには至らない。人は結果を良くすることにこだわってしまうからだ。「私は人に嫌われる」という認知を「必ずしもそうではない」と変えることができたとしても、人に必ず好かれるとは限らない、嫌われることはあるし、或いは実際に嫌われているとは言えなくても嫌われたと判断せざるを得ないようなことも起きる。そのようなことはアファメーションをしていても起きるため、アファメーションには効果がないと落胆することも起きるだろう。

ここを乗り越えるのが最大の難関であると言える。「私は人に嫌われる」という認知を矯正しても嫌われることがあるため、人に好かれているという実感を得たいという効果を求め続ける限り、「やっぱり嫌われた」の堂々巡りに陥る危険がある。ここでようやく自分を別人格に変化させる、或いは昇華させるという次元の問題に取り組まなくてはならない。それは「私は人に嫌われても大丈夫」という信念を自分で創造できるかどうかということであり、これはカウンセリングやアファメーションだけで乗り越えられるかどうかは疑問である。カウンセリングは無理にクライアントを変えようとはしない。また、アファメーションは自我の抵抗に合う。また、人は自我を守りたがる。そこを越えられるかどうかは、今の私にとっても課題であるため、ここでこうすればいいという結論を出すことはできない。しかし、ここに気づくことができている以上、そのように自分を昇華させることはできるのではないかとも考えている。「私は人に好かれているか嫌われているかを問題にしない」という信念を確立することができた場合、私は純粋に他人の意見を無視して自分のやりたいことに取り組むことができるし、自分を活かした人生を実感することができるかも知れない。繰り返しになるが、そこまでたどり着くための方法論を私はまだ確立していない。ここまで来ると言語化できる方法論が存在しないため、瞑想や座禅という、ちょっとワープした手法へ移行せざるを得ないかも知れないし、過去の偉人たちの多くが瞑想や座禅にたどり着いたのも同じ理由ではないかと察せられる。

しかし、問題の整理ができていないまま瞑想をしたところで過去の心の傷から解放されるわけではない。問題は頭の中を堂々巡りするだろう。カウンセリングとアファメーションと瞑想を日常に取り入れていくことで「私は大丈夫だし他人にも愛を持って接することができる」という心境に入れるのではないかと思う。この場合、私は他人に愛されなくても大丈夫だという信念を確立しているため、他人が私を愛するかどうかは関係なく他人を愛することができるようになるはずである。ここまでくれば仙人の領域かも知れないし、一生かけて辿り着けるかどうかは分からないが、目指す価値はある。目指してみたい。真実にその領域に辿り着いた時、過去の心の傷は治癒したというよりは問題ではなくなるはずなので、結果として治癒したことになると言えるかも知れない。



赦せないことを赦せるか
不遇の時期をどう過ごすか

【自己訓練】マインドフルネス呼吸法をやってみた

最近、精神科医の和田秀樹さんが監修したアドラー心理学に関するムック本を読んでみたのですが、本の後ろの方でマインドフルネス呼吸法をやってみましょうみたいなことが書いてあったので、ちょっとやってみました。

マインドフルネス呼吸法というのはやり方そのものは簡単で、本の説明に従えば、楽な姿勢で座り、目を閉じ、数秒かけて息を吸い、数秒かけて吐く、というただそれだけのことですから、難しいということは全然ありません。以前、座禅を習ったことがあるのですが、そこでは先生から座禅をする時は雑念を追い払わなくてはいけない、雑念が浮かんでい来たら意図的にそれを排除し「無」の状態を目指さなくてはいけないと教わりました。それを実践するのは意外と難しいもので、雑念は次から次へと湧いてきますから、雑念を追い払おうとする心の動きだけで結構疲れてしまいます。また、座禅の組み方や姿勢の在り方なども、ちゃんとしたお作法やルールがありますから、そっちの方に気を取られ、精神が休まるとかそういう境地にはなかなか辿り着くことができませんでした。もちろん、西田幾多郎が座禅を通じて東洋の思想を西洋的な論理でも理解できるように体系化したことには意義があり、マインドフルネス呼吸法も究極的には西田幾多郎的な善の研究的なところを目指す一歩なのだとは思いますし、ゆくゆくは座禅マスターみたいなところにたどり着きたいという願望のようなものはあります。とはいえ、実践的に今の生活に合うようにというような感じで求めるとすれば、マインドフルネス呼吸法の方がやりやすいなあというのが実感です。マインドフルネスと座禅のどちらかがより優れているかなどという議論を始めてしまえば、むしろ本来の目的にそぐわず、本末転倒かも知れません。

マインドフルネス呼吸法のいいところは、禅を習ったときに禁じられた雑念を放置してオーケーなところです。むしろ、静かに目を閉じ呼吸をしているときは湧いてくる雑念からヒントが得られるのではないかとすら思えます。アニメの一休さんが座禅を組んで頓智を思いつくのも、マインドフルネス的効果なのではなかろうかという気がします。

先日、ちょっとやってみて、頭の中に「無理するな」という言葉が浮かび、あ、そうか、楽に生きよう。などと思え、自分にとってはちょうど自分に必要な言葉だったように思えましたから、自己対話としても活用できるのではないかという気がします。ユングは人の心の中には、女性的な男性性、男性的な女性性、感情的包容力のある女性性、リーダーシップのある男性性などが同居しているとしましたが、自己対話とは、そういった自分の内面にあるいくつかのパーソナリティとの対話であるかも知れず、それは迷ったときや疲れているとき、困ったときなどに叡智に近づく効果的な方法であるかも知れません。

まあ、そこまで深く考えなくとも、休憩としても最適ですから、今後も思い立った時にやってみようと思います。ほんの数分、目を閉じて静かに呼吸するだけで、意外と疲れも減少すると感じます。

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ユング‐無意識に人の可能性がある

ユングがフロイトの弟子だったことは有名ですが、同時にフロイトと袂を分かったこともよく知られています。両者は無意識が存在することでは一致していましたが、無意識とは何かということについて大きく異なる見解を持っていました。

フロイトは無意識には碌なものが存在しないと考えていました。心の傷であったり、破壊衝動であったり、性に対する衝動であったりと一般的な社会通念からは望ましくないものばかりが入っていると考えたのです。通常、人間は意識で無意識を抑え込んでおり、人に迷惑をかけないとか暴力を振るわないとか、トラウマが刺激されてできないことに対して「大丈夫、怖くない」とか言って自分を励まして紳士淑女として社会生活を送ります。しかし、たとえばお酒に酔っ払うなどのような状態になった時に、意識のコントロールが弱まり、無意識の衝動が湧き上がってきてしまい、普段ならやらないことをやってしまうという困ったことが起きてしまいます。フロイト的にはそういった困った無意識をどうやって制御するかが肝要であるということになります。

一方でユングはフロイトとは全く異なる観点から無意識を理解していました。無意識には人間の可能性が充ちていると考えたのです。たとえば芸術作品は計画して作るものとは限りません。ある種の閃き、天から降りて来るメッセージのようなものを受け取り、それを絵画にしたり彫刻にしたり文芸作品にしたり、或いは音楽にしたりと昇華させ、人々の楽しみや喜びに貢献することができます。そのため、ユングの発想法から行けば、無意識は抑え込んだり制御したりするものではなく、大いに解放することで人々の幸福度は更に大きくなると考えたわけです。

ユングとフロイトのどちらが正しいということはなく、どちらにも正しい面があると思えます。芸術が時にアウトローだったりするのは、ユング的な要素とフロイト的な要素の双方が表出した結果と捉えることができますし、芸術とは得てして諸刃の剣だったりもすると思えます。

ユングは更に、人には集合無意識があると考えました。世界各地の神話や民話に共通点が多いこと(洪水などの大災害から生き延びるなど)に着目し、人は祖先より受け継いだ膨大な記憶をそれぞれに蓄積しており、遡れば遡るほど祖先は共通していきますし、現代を生きる人もそれを受け継いでいるわけですから、我々は大きい全体の枠組みとして多くのものを共有していると言え、それが集合無意識であるとしたわけです。人々がある時、渦のように革命を起こしたり、或いはとあるトポスに支配的な空気が生まれたり、選挙で特定の政党が大勝ちしたりするのも、この集合無意識の視点から説明することも可能と思えます。

夢野久作の『ドグラマグラ』もユングの精神分析を基礎にしてその作品を書いたと言っていいと思いますし、当時としてはまさしく最先端のヨーロッパの心理学を採り入れた作品と言えます。現代風に言えば量子論小説を書くくらいの試みではなかったかと思えます。

ユングの集合無意識の理論はエーリッヒフロムの社会心理学にも応用可能と思えますし、ユングの考え方は現代も受け入れられているものですから、大変に興味深く、世の中の動きを考える際にユング的な「集合無意識」の視点から考えるのも面白いかも知れません。



関連動画 夢野久作‐キューピー【朗読】

フロイト‐人は無意識によって支配されている

ヨーロッパでは伝統的に人間の理性を追及し、理性とは何かを明らかにしようとする試みが続けられました。ある程度は現代でもそうかも知れません。それに対するカウンターパートを唱えたのがフロイトであると言ってもいいかも知れません。アメリカではプラグマティズムがそのカウンターパートであり、ヨーロッパ内部ではオーストリア人のフロイトがそうであったというわけです。

フロイトは人は理性によって行動したり決断したりするのではなく、無意識によって自分ではどうすることもできないような衝動で行動したり決断したりするのだと考えました。無意識とは何かと説明するとすれば、エロス、タナトス、トラウマ、エディプスコンプレックスあたりに集約できるかも知れません。

エロスとは主として性に対する衝動であり、これには社会通念上の制限があるのが普通ですから、当然に抑圧され、無意識の世界、自分では気づかない心の奥底の領域に閉じ込めざるを得なくなります。

エロスは単に性的なことだけを指すのではなく、生きるということと密接に結びついています。生きるとは即ち創造的であり生産的な行為のことです。ですので、一生懸命仕事をしている人やがんばっている人、情熱的に生きている人はそれだけでエロスに満ちていると言うことができるかも知れません。

そのエロスの反対にあるのがタナトスです。一般に破壊衝動と訳されていると理解しています。フロイトは第一次世界大戦をその目で見ていますから、かくも残酷なことが起きるのは経済的合理性などでは説明できず、人の心の奥深いところに破壊衝動、タナトスへの欲求があるからだとフロイトは考えました。カミュの理由なき殺人もこういう視点から説明可能かも知れません。また、私たちがカミュの『異邦人』を読んで、読んだ人が全員そうではないにしても、ある程度理解できるなあと思えるのも、私たちの心の奥底にタナトスが共通して存在しているからだと考えることも可能なように思えます。

トラウマは精神的外傷と訳されるもので、幼少年期の心の傷が生涯ついてまわるとフロイトは考えました。なくて七癖と言いますが、心の傷を抑圧しているために人は時として合理性に欠く行動をとるのだというわけです。ドイツの伝統的な観念論や古代ギリシャ以来の理性に対して喧嘩を売っているとも言えますが、確かにトラウマという言葉を使うことによっていろいろ説明できることは確かなようにも思えます。

最後にエディプスコンプレックスですが、これが果たして各人に誰にでも存在するかどうかはあんまり分かりません。「父親」的存在に厳しくされることで、父親を克服したいという願望が生まれることは理解できますが、そこを母親という女性の取り合いの話になるのがすんなりと受け入れることができず、これはヨーロッパ社会に特有の何かなのではないかとも思えますが、そこは人それぞれの判断や感じ方によって異なるかも知れません。

フロイトが理性ではなく無意識という言葉で人間を説明したことの画期性は今も否定されてはいませんが、フロイトが無意識を否定的・悲観的に捉えていたのに対し、弟子のユングは無意識に対して創造性などの人間の可能性を見出し、アドラーはトラウマに捉われない人生の構築を唱えるようになり、フロイトと決別することになります。

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