ペリー艦隊が浦賀沖に現れた1853年、時の徳川将軍は第12代徳川家慶でした。家慶が将軍に就任したばかりのころは、先代将軍家斉が大御所として実質的な権力を握っておりあまりぱっとせず、次の将軍に予定されていた家定は極度な病弱でおそらく大変不安に思ったでしょうから、気の毒な将軍だなあという印象が強いです。
水戸家は本来絶対に将軍職に就けないとされていた水戸家の徳川慶喜を一橋家に養子として入れたのは、家慶の発案によるもので、慶喜の頭の良さは幼少期から評判で、できればそういう人物を次の将軍にしたいと家慶が考えていたと言われています。もし仮に慶喜が13代目の将軍に就任していたとしたら、後年、将軍後見職や禁裏御守衛総督の時に相当に熱心に政治に参加していたことを考えると、なかなか手腕を発揮していたかも知れず、日本は天皇家と徳川家の両方を君主にした立憲君主制の国なっていたかも知れません。
徳川慶喜は徳川将軍の中で唯一写真の残されている人物ですが、なかなかの美男子で、徳川家定が将軍をしていた時に、お女中たちが慶喜が通るとはしゃぐので、家定が非常に嫉妬したという話も読んだことがあります。大奥のお女中たちと飽くまでも臣下の立場である慶喜が顔を合わせる機会があったかどうかは多少怪しいですが、二百年続いた大奥ですので、その辺はいろいろとうまい仕掛けがあったとしても不思議ではありません。
家定の死後、江戸幕府内部では一橋慶喜擁立派と紀州の徳川慶富を擁立する南紀派とに分裂し、南紀派が勝利して大老井伊直弼の辣腕が発揮されるという展開になりますが、いわゆる安政の大獄で一橋派に対する粛清が行われ、徳川慶喜も謹慎が命じられます。この辺り、慶喜本人からしてみれば何もしていないのに罪人扱いをされたわけで、不必要に政治に介入しようとした父親に対して頭に来たか、それともこの手の茶番で右往左往し日常の仕事はほとんど劇場国家の江戸幕府に愛想が尽きたかしたか、その心境は想像になりますが、こんな幕府ならなくても日本は困るまいという考えが彼の内面に生まれて、大政奉還という奇策に出るのにためらいを感じなかったのではないかという気もします。
勝海舟の回想によれば徳川慶喜はなかなかの西洋好きだったらしく、その点で国学一筋だった父親の徳川斉昭とは合わなかったでしょうから、仮に13代将軍に慶喜が就任していたとしても、徳川斉昭が生きている間はいろいろうるさく口を出されて意外な迷走を見せた可能性も残ってはいますが…。
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