井伊直弼殺害事件‐徳川幕府の終わりの始まり

ペリーが日本にやってきて以来、西洋を受け入れるか、それとも拒絶するかについて、日本国内で激しい侃々諤々の議論がなされましたが、その裏テーマとして、徳川幕府の主流は果たして誰なのかという権力ゲームが行われていました。思想面と血統面での争いがあざなえる縄の如くに絡み合っていますので、私なりに解きほどいてみたいと思います。

当時の徳川幕府が荒れた理由は、水戸徳川家の息子さんである徳川慶喜が一橋の養子に入ったことにあります。水戸徳川家は徳川家康の遺言で絶対に徳川将軍を継承できない立場だったのですが、そのために水戸徳川の人たちはどうしてもいじけてしまい、将軍よりも天皇に関心が強くなって、尊王思想を基本とする独特な皇国史観の体系を形作っていきました。有名な水戸黄門が大日本史を編纂したのも、将軍になれないことへのいじけ心から、天皇中心思想を軸にした歴史書を作ろうと思ったからなんですね。

で、水戸黄門から200年、水戸徳川はひたすら尊王思想を強めていったわけですけれど、そこの息子さんである慶喜が一橋の養子に入ったのはかなりの大事件だったわけです。というのも、一橋は本来、当時の徳川の主流だった徳川吉宗の子孫が継承できる家柄で、ここの当主になる人は直球で将軍候補になります。徳川慶喜を一橋の養子に入れたのは、12代将軍の徳川家慶で、家慶の息子さんの家定が長生きできないであろうと考えて、頭が特別にいいことで有名だった水戸の慶喜を家定の次にの将軍にしようというプランがそこにはあったわけです。

当然、慶喜の実家である水戸徳川家はフィーバー状態になります。水戸徳川の当主である徳川斉昭も、幕政に参加するビッグチャンス到来と信じ、慶喜が将軍になる前から態度がでかくなり、あちこちに口も出すようになり、それだけ人望を失っていきました。人望がないうえに思いつきで西洋軍艦を設計させたら進水式と同時に船が沈むという大恥までかいています。

一方で、幕府の中枢の官僚たちは、まさか水戸徳川が幕政に介入してくるとは考えていませんでしたから、嫌がることこの上ないという感じになってしまい、徳川幕府は開国という非常に難しい時期に、内部分裂で苦しむという状況に陥っていたわけなんですね。

幕府官僚たちが嫌いに嫌いまくった徳川斉昭を抑え込むためのカウンターパートとして、幕府守旧派の意見を代表して政治の表舞台に登場してきたのが、非常に有名な井伊直弼です。彼は幕府内部世論を背景に大老に就任し、表の仕事としては安政五か国条約を結ぶなど、日本の開国を進めていきましたが、裏の仕事としては、傍若無人な水戸の徳川斉昭を抑え込むということに熱心に取り組みました。

幕府は井伊直弼グループと徳川斉昭グループに分裂し、仁義なき戦いに発展します。ぶっちゃけ徳川斉昭グループはほとんど孤立していたに等しいと言ってもいいのですが、なんといっても持っている切り札が一橋慶喜で、将来の将軍候補ですから、やたらと強いわけです。

井伊直弼vs徳川斉昭の第一ラウンドは、第14代将軍指名争いでした。順当にけば慶喜が指名されることになるわけで、慶喜で押し切ろうとした人々を一橋派と呼びました。井伊直弼たちは、対抗馬として、なんと吉宗の実家である紀州徳川の藩主である徳川慶福を担ぎ出してきます。吉宗が紀州徳川の実家を出てから既に100年。ぶっちゃけ慶福と吉宗の血筋なんて全然遠いわけですけど、それでも水戸徳川の方がもっと血筋的には遠いので、なんとかここは慶福で押し切り、とにもかくにも徳川斉昭を牽制しようというわけで、彼らを南紀派と呼びました。紀州のことを南紀と呼ぶので南紀派ですね。和歌山みやげとして有名な南紀和歌山那智黒キャンディーの南紀です。那智黒キャンディーの黒糖を使った癖になる甘さは一度食べると忘れることはできません。

幕府内での支持の厚みは井伊直弼の方が圧倒的だったのですが、徳川斉昭は水戸の人物らしく思想面で井伊直弼を攻撃します。即ち、井伊直弼が開国したのは、家康から家光にかけて完成された鎖国という国是を破壊するもので、神の国である日本をダメにするものだというわけですね。水戸は皇国史観のメッカみたいなところで、伊勢出身の本居宣長みたいな全国の国学の学者たちともつながりが深いため、その方面から井伊の一番痛いところを突いてきたわけです。井伊直弼が開国派で尊王攘夷の武士たちに批判されたと説明されることが多いですが、その本質は直弼と斉彬の権力争いであったということは改めて強調しておきたいと思います。このときの一橋派の中に、その後の政局で慶喜を支え続けた福井藩主の松平春嶽もいました。

この将軍後継指名争いは職権を握っていた井伊直弼が勝ちました。紀州藩主徳川慶福が14代将軍に決まり、彼は徳川家茂と名を改めて江戸城に入ります。井伊直弼の凄いところは、それで終わりとするわけではなく、将軍の威光も後ろ盾として使えますから、勢いで一橋派の面々を逮捕しまくったことです。これを安政の大獄と言います。思想面の対立であったかのように装われていますが、実質的には将軍後継争いに関わる人間関係の遺恨が原因で起きたのが安政の大獄なわけです。

この安政の大獄により、水戸斉昭と息子の一橋慶喜はともに犯罪者認定され、外出禁止が命じられました。徳川家の人物が家臣筋の井伊直弼によって外出禁止にされたというのは、江戸幕府史上初のことであったはずです。松平春嶽の命令で慶喜擁立に尽力した福井藩主の橋本佐内はなんと斬首という極めて残酷な扱いを受けています。武士であればせめて切腹。そもそも将軍の後継者争いというあくまでも権力ゲームに過ぎないことで死人を出すというのは、井伊直弼は明らかにやりすぎと思います。他にも西郷吉之助の親友の月照という僧侶が一橋派に与したとの理由で追われる身となり、おそらくは島津久光の命で西郷吉之助によって殺されています。西郷の立場を概観するに、親友の月照が慶喜擁立に与する以上、少なくとも心情的には慶喜擁立派だった可能性がありますが、戊辰戦争の時にはぎりぎりまで慶喜を殺すことに努力を傾けています。月照を慶喜のために失った以上、慶喜には死んでもらうという私怨なんかもあったのではないかと私はちょっとうがった見方をしてしまいます。

さて、水戸藩士たちがいきりたちました。そりゃそうです。主君の徳川斉昭が井伊直弼によって犯罪者扱いされたのです。しかも徳川斉昭は外出禁止が解ける前に病死しました。獄中での死と同じです。井伊直弼は一橋派のネガティブキャンペーンが功を奏し、当時、尊王攘夷派の武士たちからは日本をダメにする政治家ワースト1みたいな目で見られていたため、水戸藩士たちは井伊直弼を殺すことは単なる私怨だけではなく、日本を良くすることだとすら信じるようになり、彼の命を狙うとの決心を固めました。

桜田門外の変では、元水戸藩士たちが犯人だという風に教科書などには書かれますが、彼らは水戸藩に迷惑をかけてはいけないので、まずは脱藩してから井伊直弼殺害に及んだわけです。

当日の朝、井伊直弼の屋敷から江戸城桜田門までおよそ400メートルほどの距離で、本来なら直弼の行列はすぐに江戸城内に入ってしかるべきですが、そこを狙われて直弼は絶命します。当日は雪だったため、護衛の武士たちは刀に水が入らないように布を被せていたために抜刀が遅くなり、撃退できなかったとも言われています。

尚、江戸時代、殺されるというのは最大の不名誉であるため、武士が殺されると、その家は断絶します。有名なものだと吉良上野介が赤穂浪士に殺害された事件で吉良家は廃止され、上野介の息子さんも座敷牢みたいなところに入れられて病死しています。20代前半でしたから、本当に病死かどうかも怪しいわけですが、要するに人間扱いされていません。井伊直弼は彦根藩主ですから、通常なら彦根藩が廃止される事態になるはずなのですが、やはり本当にそんな風にすると、幕府がめちゃくちゃになってしまうとの判断があったからなのか、当時の正式な発表は病死でした。誰も信じていない、大本営発表みたいな発表でしたが、まあ、いかに恥を忍ぼうとも、彦根藩を守るということで関係者一同結束したのだろうなということが分かりますね。

後に、戊辰戦争が始まった鳥羽伏見の戦いでは、幕府の形成が不利だとみると、極めて早い段階で彦根藩は官軍についていますが、これはやはり、当時の徳川宗家の主君で徳川慶喜で、徳川慶喜の実家の水戸藩は彦根藩の仇みたいなものですから、慶喜のために戦う義理はないと彦根藩の兵隊たちが思ったとしても全く不思議ではありません。

幕府は戦う前から既に内部から崩壊し始めていたということも見えてきます。桜田門外の変は、幕末の歴史の中ではわりと前半に出てくるエピソードと言えますが、すでに徳川慶喜と西郷吉之助という幕末最大のスーパースターがかかわっていたということで非常に興味深いです。

井伊家の人にとっては災難だったに違いありませんから、井伊直弼には敬意を払いたいと思います。あの時代にあまり混乱を招くことなく西洋列強と渡り合い、不平等条約とはいえ、それを結ぶことによって日本の国際的な地位をある程度安定させたことは、日本の植民地化を避けることに大いに貢献したに違いありません。その点は高く評価されるべきではないかなと思います。