家康の死に方

徳川家康は通常、1616年、即ち大坂夏の陣の翌年に亡くなったとされています。私は長年それについて疑いを持たずに来ました。しかし、世間には様々な家康替え玉説が存在しています。たとえば桶狭間の戦いの直後、家康は今川氏から独立しますが、その時に本物は殺されて替え玉が家康になったのだとする説があります。ガンダムオリジンでシャア・アズナブルの本物が死んでキャスバルがシャアになるようなものですが、この場合、どちらかといえば替え玉が歴史の重要な部分に登場しまくることになるので、替え玉が本物ということでもいいのではないかというような気もしてきます。他には関ケ原の戦いのちょっと前だとする説もあります。女性に対する好みが変わったというんですね、それ以前の家康は未亡人の女性を好んでいたのですが、関ケ原の戦いの前からは突然、極端に若い女性を好むようになったというのです。女性の好みってそんなに簡単には変わらないのが一般的と思いますが、なんとなく胡散臭いし根拠薄弱というか、必然性のようなものに欠けるというか、イマイチだなあと思わなくもないんです。家康はその後、執拗に豊臣氏をなぶり殺しみたいにしていきますけれど、これが果たして戦国武将の中でも格段に高い教養があることで知られる家康のやることか、との指摘もあり得ますが、今川を武田と協力して滅ぼす時とか、武田を織田と協力して滅ぼす時の様子を考えると、弱いものをなぶり殺しにするのは家康の真骨頂と言えなくもありません。同じようなメンタリティで、多分、穴山梅雪という武田の遺臣も謀殺しています。小早川秀秋も、やはり同じようなメンタリティで、推測ですけど、毒殺しているっぽいですよね。

で、そんな家康なんですが、性格が陰湿というか、日本で一番有名な陰キャ風の性格らしく、非常に用心深くて、保身のためなら嫁さんも息子も殺すような人生を送るような人物ですから、うっかりやられる可能性は極めて低いと思うんですね。なので、大抵の替え玉説は信用できないなあとどうしても思うんです。

ところがですね、ある時、ふと気づいたんですが、家康の死に方って全然、家康らしくないんですね。家康は健康オタクで知られていて、自分で生薬を配合するし、食事だって一口四十八回噛むとか、徹底して長生きのためになんでもやった人なわけです。にもかかわらず、彼の最期は鯛の天ぷらの食べ過ぎで、食中毒を起こして死んだということになっているんですね。もちろん、司法解剖とかできてないですから、本当に食中毒なのか、胃がんなのか、毒殺なのかなんてことは分からないままですが、いずれにせよ、直接の死因が食あたりとかって家康に限って絶対にないと思えるんです。ですから、実は徳川の天下になったので替え玉が不要になったために、食中毒で死んだことにしたか、本当に毒でも盛って殺したかということだったとしても、そこまで不思議ではないような気がするんですね。そう思うと、死んだ時期も怪しいですよね。大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡した翌年ですから、いかにも都合良く、やっておきたい仕事だけやり終えて死んだのように見えるわけですよ。もしも、もしもですよ、本当に1616年に死んだ家康が替え玉だった場合、本物の家康はいつ死んだのかということになりますけど、仮にそうだとした場合、やはり家康は大坂夏の陣で死んだ可能性はあって、それ以前ではないと思うのです。

たとえば家康は徳川幕府を江戸に開いた後、すぐに隠居して駿河城に入り、駿河城から政治の命令とか出しています。二代目将軍徳川秀忠とはある種の二重権力状態になっていて、徳川家臣もどっちが正統な命令権者なのか判断に悩んだという話もあるようですから、駿河城に入っていた家康は間違いなく本物と思います。偽物の家康が本物の秀忠に勝てるわけないからですね。

じゃ、家康が死んだのはいつなのかなってことになりますけど、大坂夏の陣で真田幸村が家康の本陣に突っ込んだ時、家康は自害を覚悟したともいわれているほどですから、本当にぎりぎりまで追い詰めたはずなんですけど、実はそのときに家康は戦死していて、ぶっちゃけ9分9厘徳川勝利で進んでいたわけですから、幸村を殺して家康は生きていることにし、家臣たちがとりあえず戦後処理を終えたと考えるとすれば、それなりに辻褄は合うように思います。

ただ、私のごく個人的な感想なんですけど、家康が日本史に残した足跡は確かに大きいものの、人間的におもしろそうな人かと言えば、超つまらなさそうな人のような気がするので、まあ、わりとどうでもいいと言えばどうでもいいような気もしますが、今、日本史をずーっと下っている最中なので、一応、今回みたいな話題も挟み込んでみました。



豊臣氏滅亡‐最後の悲痛な母子の物語

関ケ原の戦いの後、徳川家康は豊臣氏最高クラスの家臣として、豊臣氏家中の行政を司りました。以前なら年上の前田利家が家康をけん制することもあり得ましたし、石田三成が家康の真意を見抜いて妨害してくることもあったわけですが、この戦いの後は家康に対抗できる武将はいなくなっていました。機動戦士ガンダムで言えば、ララアが死んでアムロに対抗できるニュータイプがいなくなったのと同じような状態になったわけです。ガンダムではアバオアクーへ進撃するわけですが、家康の場合は大坂城を狙うことになったということになります。

で、豊臣氏内部の行政を自由に処理できる立場になった家康が何をしたかというと、彼は豊臣氏領地の解体を始めました。関ケ原の戦いで戦功があったと認められる人物に対し、豊臣領地から恩賞としての土地が与えられたわけです。200万石以上あった豊臣氏の領地は60万石くらいまで削られました。合法的にです。秀吉が織田氏の領地を解体したのと手法としては同じですから、因果応報、親の報いが子に出たとすら思える展開です。

家康は将軍宣下を受けて江戸で幕府を開きましたから歴史的にも稀に見る二重武家政権状態が生まれたと言うことができます。家康は将軍であるため武士としての立場は豊臣氏に対して優越しており、豊臣氏は武士と公家の両方の性格を持っていたわけですが、武士としての豊臣氏には徳川は命令する権利を持っています。一方で豊臣氏は五摂家と同格ですから、極めて高級な公家でもあり、関白世襲ができる家柄ですから、家康が日本人だというだけで、豊臣氏は家康に対して命令する権利を持つという複雑な状態です。筆頭株主が支店長だったりするみたいな、ちょっとあんまり聞いたことのないような状態になったわけです。当時の人々も果たして豊臣と徳川ならどっちが格上なのか判断できないという感じだったのだと思います。

家康は早々に将軍職を秀忠に譲り、自分は駿河城に入って大御所という立場で政務を続けました。二代目将軍を誕生させたことの意味は、徳川政権は世襲するということを全国の武士に目に見える形で宣言したという風に考えられています。で、この二代目秀忠なのですが、非常にいい人なんですね。家康が豊臣を滅ぼそうと狙っていたのに対して、秀忠は東は徳川、西は豊臣で全然OKという穏やかな政権構想を抱いていました。秀忠の奥さんのお姉さんが淀殿で、秀頼のお母さんなわけですから親愛の情を抱いていたのではないかとすら見えます。しかも秀忠の娘の千姫が豊臣秀頼の奥さんになってますから、秀頼の立場からすると豊臣氏はガチの親戚なわけです。家康と秀忠は今後の豊臣氏をどうするかについて相当に意見が食い違っていたようなのですが、なにしろ家康は羊の皮をかぶって実は大狸というのを何十年も続けてきた人ですから、誠実なだけで育った秀忠では勝ち目はなかったのでしょうね。家康は少しづつ、豊臣滅亡のための準備を進めていきます。

家康は一度、成人した後の秀頼に京都の二条城で会っています。秀頼は体格が非常に良く貫禄があったため、家康は秀頼を殺さなくてはならないと決心したのではないかと言う人もいます。この時は関ケ原の戦いには参加しなかった加藤清正が秀頼のサポート役で二条城に入っていました。当時、家康が豊臣氏を潰そうと狙っていることはかなりの人に見抜かれていましたから、加藤清正も石田三成のことが嫌いだという理由で関ケ原の戦いの時に西軍に参加しなかったことを後悔していたに違いないと思います。家康から贈られたお饅頭を見て清正が「私は甘いものが大好物なのです」と言ってお饅頭を全部食べたという話があります。秀頼に毒が盛られているかも知れないので咄嗟の行動だったはずですが、それから三か月で清正は病死していますので、本当に遅効性の毒が入っていたのでは、というような話になるわけです。歌舞伎の題材になっているため、虚実が入り混じっていて、何がどこまで本当なのかはよくわからないというところでもありますけれど。私が清正に言いたいのは、大局を見失ったことのつけはかくも大きいのだ。うつけめ。ということです。このような私の批判は清正本人も同意するはずです。

加藤清正、福島正則、石田三成、前田利家のような豊臣氏を心から守ろうとする人々が次々といなくなり、気づくと淀殿と秀頼の母一人息子一人状態になっており、心細い感じになっていったとは思いますが、豊臣氏は秀吉の遺産がとてつもなく大きく、金銀財宝ざっくざくだったため、あんまり困ったことは起きなかったみたいです。問題が起きたのは方広寺というお寺に秀頼が釣り鐘を寄付した時でした。

方広寺は秀吉が建てさせたお寺で、豊臣氏の氏寺みたいな感じになっているお寺だったのですが、そのお寺に寄付した釣り鐘に、国家安康、君臣豊楽の言葉が彫り込まれていることを徳川サイドが問題にしたのです。釣り鐘には無数の文字が彫られていて、それから文字を拾い出し、国家安康が家康を呪い、君臣豊楽が豊臣政権復活を祈るというこじつけは、よくもまあ、言いがかりにもほどがあると思いますけど、儒学者の林羅山がこれに気づいて家康に伝達し、多分、家康はこんなことで本当にいいのだろうかと思いつつ、GOサインを出したということのようです。こんなことしか批判の材料がないということは、秀頼がいかに誠実かつ正直に生きていたかの証明みたいなものだと私は思います。家康は苦労人で知られていますし、武田氏の遺臣に見せたような寛大な心を持ち合わせていたりもするのですが、豊臣氏に対してだけはひたすら苛烈でした。

家康は大坂城を包囲し、大坂冬の陣が始まったのですが、淀殿と秀頼が大坂城を放棄して郡山城に移転することが講和条件でした。淀殿は拒否し、大坂城への籠城を続けます。秀吉が作った日本で一番攻めにくい城ですから、家康もやりようがありません。昼夜分かたず大砲での砲撃を続け、心理的な揺さぶりを狙いました。ひたすら砲声が響くため、豊臣方は眠れなかったそうです。大砲の音がうるさいのは誰にとっても同じですから、徳川軍でも眠れなかったのではないかと思いますが、それについては誰かが指摘しているのを聞いたことはないですねえ。広大な大坂城に対して、大砲の射程距離が足りないため、天守閣には届きません。豊臣側としては家康の出方を高見の見物していればよく、家康としては兵糧の確保、兵隊の士気の維持などの観点から早く決着をつけたいとの焦りが生まれてくるため、実は圧倒的に豊臣有利な状況で戦況が推移します。ところが一発だけ本丸に砲弾が届いてしまい、精神的に参ってしまった淀殿が講和を求めたのでした。その時の徳川サイドの条件は大坂城の外堀を埋めるという、豊臣氏の無力化を狙う気まんまんな内容でしたから、普通だったら断るべきですが、淀殿はそれを受け入れてしまったんですね。とにかく早く大砲が撃ち込まれない生活がほしかったんでしょうね。淀殿と秀頼の責任については追及しないとの条件も取り決められましたから、それで安心したのでしょうか。

そしてさっそく大坂城の外堀を埋める作業が始まったわけですが、大坂城の内堀まで勢いで埋めようとする徳川サイドと豊臣サイドが衝突し、講和決裂となって大坂夏の陣になります。講和条件を破ったのは徳川だろーが。とも思うのですが、徳川としては、そんなことは知ったことではないわけです。大阪では今でも徳川家康は極めて不人気ですが、それはこのような言いがかりで大阪人のシンボルである豊臣氏をいじめ殺したというのが大きいわけですね。

真田幸村と彼の親友の木村重成は家康本陣に突入し、家康の首を獲ることで逆転勝利という作戦案を考えます。おそらくは信長の桶狭間の戦いのことが頭の中にあったはずです。大坂城の外堀が埋められてしまった以上、外に打って出るしかなく苦肉の策でもあったのでしょうね。幸村は秀頼出陣を要請しました。巨大な大坂城天守閣の前に鎧姿の秀頼が姿を現した場合、1、味方の兵隊の士気があがる。2、実は豊臣氏をいじめ殺そうとしていることへの罪悪感でいっぱいな徳川に味方している諸大名の士気が下がる。3、徳川本体は秀頼の首を狙って正面に殺到する。4、家康の本陣はがら空きになる。といいことづくめなわけですね。もちろん秀頼出陣は実現しませんでした。淀殿は秀頼を一刻も見えないところに行かせたくなかったんでしょうね。形式だけの総大将で安全なところにいますから。と言われたとしても、宮本武蔵だって幼い形式だけの敵の大将を殺して勝利したこともありますから、万が一ってことがありますものね。不安だったんでしょうけど、気の毒なのは、もはや後がない以上、効果がありそうなことはすべてやるべきとの認識を淀殿が持てていなかったことのように思います。淀殿のことは結構、悪く描かれることは多いと思いますけど、少女時代に実家の小谷城が信長に攻められて陥落し、大人になったら嫁ぎ先の大坂城が家康に攻められるんですから、本当に気の毒だと思います。

有名な話ですが、真田幸村と木村重成は別動隊を動かして家康本陣を直接襲撃することに成功しましたが、家康が辛くも脱出に成功し、幸村の作戦は成功しませんでした。本当にぎりぎりだったと言われていますから、秀頼出陣があれば、家康が戦死していた可能性は高かったかも知れません。

結局のところ、そんな風にはならず、大坂城に火が放たれます。大坂城が陥落しつつある中、秀忠の娘であり家康の孫である千姫が大坂城から移送されてきます。千姫は秀頼と淀殿の助命嘆願をしますが、圧倒的勝利を目前にしていた家康は当然のごとくそれを拒否しています。助命の請願が受け入れられなかったため、淀殿と秀頼は徳川軍に包囲される中、土蔵みたいなところで自害します。大野治長が秀頼を介錯し、全てを見届けてから自害したそうです。この場合、徳川軍は外で待っていたわけですが、自害する時間的猶予を与えるのが武士の情けということだったんでしょうね。これで戦いは終わりましたが、全く何も悪いことをしていない淀殿と秀頼親子を殺したのですから、この大坂城包囲戦争は日本の歴史上でも極めて後味の悪いできごとであったと私は思います。

大坂城陥落の後、京都に潜伏していた秀頼の息子の国松がつかまり、斬首されています。国松のお母さんが千姫ではなかったので、家康としても躊躇する理由はなかったのかも知れません。当時八歳だった国松を殺すことは人道からは外れていますが、家康の利害にはかなうわけですね。実は国松は生き延びたのではないかとの都市伝説は確かに流布しました。なにしろ、誰も国松の顔を知りません。ですから別人がつかまって殺されたのではないかというわけです。ただ、私は国松は本人だったろうと思います。というのも国松が斬首される時、国松の身辺の世話をしていた田中六郎左衛門という人物が自らの意思で一緒に斬首される運命を選んでいます。徳川はこの田中さんを殺す必要を感じておらず、逃げてもいいよと言われたらしいのですが、田中さんは一緒に死ぬことを選んだんですね。国松が別人だったら、田中さんはそんなことしませんよね。田中さんが死ぬのも目くらましだという風に考えることも可能ですが、ダミーの国松のために死ねるかっていうことを個人のレベルで考えると難しいと思うのです。ですから、田中さんが進んで命を差し出したわけですから、あのときの国松は、きっと本人だったのでしょう。

長い長い殺し合いの時代がこれで終わり、もっと長い平和な徳川時代が始まります。徳川時代がいかに平和とはいえ、その始まりはかくも血塗られていたとも言えます。合掌です。



関ケ原の戦い‐家康勝利の理由

明治時代、軍事指導のために日本に来たドイツ人のメッケルは、関ケ原の戦いの布陣の図面を見た瞬間、西軍の勝利であると発言したと言います。最近は諸説あって、本当に陸軍大学などに伝わった、古典的な関ケ原の合戦図面が正しいかどうかについては議論がありますが、それでもそこまで大きく実態から離れてはいなかったでしょうし、伝統的に伝わる図面では西軍が家康の陣地を挟み撃ちする形になっていますから、挟み撃ちされたほうが負けるという絶対的な戦いの定理に照らし合わせて、メッケルは迷わず西軍の勝ちであると発言したわけですね。

もちろん、我々は西軍は負けたことを知っています。しかも半日で西軍は総崩れになり壊滅的な敗北を喫したわけです。なぜ、そうなったのか、今回はそれを確認しておきたいと思います。

関ケ原の戦いでは、徳川秀忠の軍が真田の領地で足止めされてしまい、東軍の戦力が整わないままに戦いが始まっています。西軍でも毛利輝元が大坂城の大部隊を連れてこないまま戦いが始まっていますから、どっちもどっちとも言えますが、実は陣地の構成や兵隊の数とは関係のないところで、戦いの結果は決まっていたということができるのです。

というのも、家康は関ケ原の戦いでは、関係者全員を騙す、最後まで騙しぬくとの覚悟を決めて戦場に臨んでいます。そして目論見どおりにみんなが騙されまくって家康勝利になったのです。家康は心理戦で勝利したというわけです。ここで家康がどんな風にだましたのかを見てみましょう。

最大の騙しは、家康があくまでも豊臣秀頼の家臣としての言動を決して崩さなかったことです。これにより、福島正則のような豊臣家への忠誠心が極めて厚い武将を東軍に取り込むことに成功しました。もし家康が秀頼に対して反旗を翻していると考えられたとすれば、多くの武将の支持を失っていたことは違いありません。すでに天下統一がなされた後の時代ですから、誰も戦乱の世に逆戻りしたいとは思っておらず、家康に協力すれば謀反人の汚名も着なければならぬとなれば、みんな嫌がって逃げてしまいます。しかし、家康は関ケ原の戦いを徳川vs豊臣の戦いではなく、徳川vs石田であるとの演出をすることに成功しました。福島正則は石田三成のことが殺したいほど憎んでいましたから、秀頼に反抗するのではない限り、家康の味方についたというわけです。福島正則はこの点について徳川家康に確認する手紙を送っていますから、やはり本心では不安に感じていたのでしょう。まあ、ここは見事に家康に押し切られてしまいました。福島家は戦争が終わった後は言いがかりをつけられてつぶされていますから、ここはかわいそうですが、頭脳戦に負けてしまったというわけです。

次の家康の騙しは毛利輝元に向けてなされたものです。毛利輝元は石田三成に依頼されて西軍の名目上の総大将になり、大坂城に入っていました。家康は毛利輝元に手紙を送り、戦争が終わったら大幅に毛利氏の領地を増やすから、大坂城から動かないでくれと頼んでいます。毛利輝元はそれを受け入れ、大坂城から動きませんでした。

関ケ原の戦いの布陣図を見ると、徳川家康の背後をつくことができる位置に、毛利秀元、安国寺恵瓊、吉川広家の部隊が存在しましたが、この3人は毛利氏の武将なわけですね。家長の毛利輝元が戦争に参加するふりをするだけなのですから、彼らも戦うふりをするだけで本気で家康を攻めるつもりにはなりませんでした。要するに図面の上では西軍が家康を挟み撃ちできる状態でしたが、実際には家康の背後の西軍はやる気がなかったのです。家康の陣地の背後は安全だったというわけです。

戦争が終わった後で毛利は領地を増やしてもらえるどころか領地を削られています。毛利氏はこの恨みを250年忘れず、幕末の動乱の時代にひたすら討幕運動をするわけですから、本当にいろいろなことが因果応報みたいになってます。安国寺恵瓊に至っては斬首されていますから、だまされて斬首って本当に気の毒です。

さて、最後に小早川秀秋ですが、彼は騙されたというよりもいろいろ考えて、西軍を見捨てることにしたわけですが、かといって本当にぎりぎりまで悩んでいたかというと、そうとも言い難いところがあります。というのも、家康とは密約が成立してはいたのですが、その密約の実行を担保するために家康から監視役が送り込まれていました。ですから、秀秋がぎりぎりまでどっちが勝ちそうなのか旗色をうかがっていたというのは、後世に脚色されている可能性があります。とはいえ、もし本当に家康が負けそうなら、家康から送られてきた監視役なんて殺してしまえばいいわけですから、やはり戦場で家康有利と判断したというのはあるでしょうね。また、小早川秀秋には、あまり秀頼に肩入れする義理はなかったんです。もともと秀秋は将来、秀吉の後継者になることを期待されていた時期がありました。秀秋は秀吉の妻のねねのお兄さんの息子として生まれ、幼少期に秀吉の養子になりました。秀吉とは直接の血のつながりがなかったものの、当時、秀吉の姉の息子である秀次が秀吉の後継者と目されていて、秀次にもし何かあれば、秀秋が後継者になると見られていたのです。

ところが秀頼が生まれてきます。秀次は殺され、秀秋は小早川家に養子に出されました。秀秋の場合、まだ養子に出されただけで済んでよかったとすらいえますが、秀頼が生まれてきたおかげで、豊臣氏から冷遇されたわけですから、秀頼に対して処理しきれない感情があったに違いありません。ですから、家康から甘い言葉で誘われると、だったらそうしようかな。という揺れる気持ちが常にあって、そこを家康に付け込まれたとみるべきかも知れません。関ケ原の戦いが終わって2年ほどで病死していますが、20代の若者で、一番健康な時期ですから、毒殺のような気もしてしまいますが、いずれにせよ裏切者にはろくな未来がないようです。

さて、石田三成はどうすればよかったのでしょうか?実は三成は秀頼の出馬を狙っていたようなのです。もし、秀頼が戦場に出てきて、後方でいいので座って戦いの行く末を見守っていたとします。もちろん、秀頼を擁立しているのは石田三成ですから、果たしてどちらが正規軍は明らかになります。徳川家康の味方をすれば、謀反人扱いされてしまうわけですね。福島正則は反転して家康を狙ったでしょう。その状態で毛利輝元だけ大坂城にこもっているわけにもいきませんから、秀頼の隣に毛利輝元が座るという図になります。その場合、家康の背後の毛利の兵力が家康に襲いかかることになりますから、西軍勝利は間違いなかったでしょう。家康は殺されていたはずです。

豊臣氏が滅亡したのは、家康が様々な陰謀を巡らせたからですが、秀頼を外に出す勇気を淀殿が持っていれば、後の悲劇を回避することは十分可能なことだったと思います。陰謀はしょせん、正面切った、正々堂々としたものに対抗することはできないのですから、もし、淀殿と秀頼の母子に同情するとすれば、この時に出馬していれば…ということを悔やんでしまわざるを得ません。

というわけで、次回は豊臣氏の滅亡の話になります。



石田三成襲撃事件

豊臣秀吉が亡くなった後、豊臣家臣の間での対立が激しくなっていきます。「対立」と言うよりも、憎悪のぶつかり合いと呼んだほうがいいかも知れません。対立の主軸になったのは、加藤清正や福島正則を中心とする豊臣家武闘派家臣のグループと、石田三成や小西行長のような文系官僚タイプのグループによるやはり利害関係というよりは、感情的な対立と呼ぶべきものが表面化していきました。

加藤清正派も石田三成派もどちらも秀吉子飼いの武将であり、幼少年期から一緒に育ったような間柄なのですが、それゆえに感覚の合わない者同士、憎悪の深さも半端なかったらしいのです。

特に朝鮮半島での戦争の時は、石田三成のような文系官僚は輸送などのロジスティクスを担当し、秀吉に視察の結果を報告する役割を担った一方、清正は前線で体を張ったわけですが、自然、三成が秀吉にどのような報告をするかで、いろいろなことに違いがでてきます。今でも人事査定は誰がやるかで違いが出ます。まあ、そのようなことだと思えば、小さなことの積み重ねでついにゆるせなくなってしまったと加藤清正の感情が理解できないわけではありません。また、まじめに仕事をこなしただけの三成が、なぜ憎まれるのか、知るかそんなこと、迷惑な。と思ったとしても全く理解できないわけでもありません。要するにどちらにもそれなりの理があるということになります。

前田利家が生きている間は、まだ双方に対する置石みたいな役割を担うことができていて、対立の暴発を押しとどめることができていたようなのですが、前田利家が死ぬと、もう止まらないとばかりに加藤清正や福島正則たちが軍隊を組織して大坂の石田三成の屋敷を襲撃しようと動き始めます。

察知した三成は急ぎ伏見へと逃げるのですが、清正たちは伏見へ追っていき、遂には伏見城を包囲するという事態まで発展します。このとき、三成は伏見のいずれかの場所にいたはずですが、一説には伏見の自分の屋敷にいたともいわれますし、他には徳川家康の屋敷にかくまわれたともいわれています。真実はどうかはわかりませんが、徳川家康にかくまわれたとしても不思議ではありません。

というのも、当時の徳川家康は豊臣家臣の頂点である五大老の一人として伏見城で政務をこなしていましたから、要するに伏見城とその城下は家康のテリトリーであり、家康としては伏見城界隈で加藤清正と石田三成が個人的な恨みを理由に殺し合いをすることは止めさせる必要がありますから、家康が宿敵三成をかくまったとしても、家康の立場なら十分にあり得るのです。仮に家康の屋敷ではなく、伏見城内にかくまわれたのだとしても、家康の意思が働かなければ三成はかくまわれませんから、家康が三成を助けたという構図に違いはないのです。

当時、前田利家がいなくなった後では、家康の天下取りの構想を押しとどめるものはいませんでした。秀吉は大名が個人的に訴訟を取り扱ったり、婚姻関係を取り扱ったりすることを禁止すると遺言しましたが、家康はそういうのは無視して自由に動き始めていました。豊臣政権が家康に乗っ取られるとの危機感を持った石田三成とはすでにバチバチの対立関係にありましたから、事実上の敵同士でありながら家康が三成をかくまうというところに歴史のおもしろさがあるとも言えると思います。

加藤清正や福島正則は家康に説得されて石田三成を殺害することをあきらめます。石田三成もそのまま佐和山城へと帰り、引退の身になりますから、まあまあ、痛み分けといったところかも知れません。関ケ原の戦いが起きた時、加藤清正は九州の領国にいて動きませんでした。福島正則に至っては東軍に参加し、その先鋒になっています。

加藤清正と福島正則は石田三成同様に豊臣氏に絶対の忠誠心を持っていたことは確かなようなのですが、三成とは違って家康の野心に十分に気づくことができず、家康の老獪な手練手管で骨抜きにされてしまい、豊臣氏を守ることができなかったことを思うと、なかなか残念な家臣たちのようにも思えます。あるいは、家康の野心に気づかないわけではなかったけれど、三成への憎悪が優先してしまい、三成が采配を振る西軍には参加しようとしなかったというわけですから、彼らの大局を見る目のなさは気の毒なほどです。

福島正則は関ケ原の戦いの直前に家康にあてて出した手紙の中で、家康がこの戦いに勝った後も豊臣秀頼に対して反逆しないよう約束してほしいと求めています。家康はいくらでも約束したでしょうが、そのような空手形みたいな約束にすがりつつ、彼は結果として主君筋の豊臣氏を滅ぼすのに一役買っていたわけです。

加藤清正も福島正則も家康が天下をとったあとでいろいろ理由をつけられて家をつぶされています。だいたい、本来西軍につくのが筋な武将で東軍の側について長持ちした大名家はほとんどありません。やはり、そういうタイプの武将は家康からすれば敬意を払う対象ではないので、つぶしていいやと思うのではないでしょうか。小早川秀秋なんかもそうそうに不審な病死を遂げています。

武田勝頼が滅ぼされたときに、穴山梅雪が徳川家康に協力して武田氏を裏切っていますが、ほどなく不審な死を遂げています。家康は実家が弱小なので相当な苦労をした人ですし、三河武士の忠誠心以上の宝はないと気付いていたでしょうから、そのあたりがの倫理がちょっと怪しいやつには容赦なかったように思えます。

さて、石田三成は一応は家康のおかげで命拾いし、佐和山城で関ケ原の戦いのための構想を練ります。誰を引き込み、誰が裏切るかというようなこと、どこで決戦するかというようなことをいろいろと考えたと思います。現代風に言えば自民党総裁選挙の票読みみたいなことだったのだろうと思いますが、当時は負ければ殺されますからもっと真剣なものだったかも知れません。

しばらくしてから家康は会津地方の上杉氏を討伐するという理由で上方を離れて出発します。石田三成は上杉氏と気脈を通じて家康の出撃をうながしたわけですが、家康も自分が上方にいない間に三成が挙兵するであろうことを知った上で三成の動きを見つめいました。双方、分かったうえで、それぞれに騙されたふりをしつつ、だましあうという心理戦、駆け引きを経て、戦国日本の最終決戦である関ケ原へと突き進んでいくことになります。



秀吉と家康

1582年の本能寺の変の時、秀吉は明智光秀を倒すことで織田氏重臣のトップへと躍り出ました。現代日本でいえば、ビートたけしさんがフライデー事件で謹慎しているときに明石家さんまさんがトップスターとしての地位を確固たるものにしたのと同じような感じだと思えばちょうどいいのではないかと思います。

で、1583年には、柴田勝家と織田信孝の連合軍を破り、その二人を死に追いやることで、織田家中に秀吉に対抗できる武将はいなくなりました。現代日本でいえば、アムロがララァのエルメスを撃墜したことにより、アムロに対抗できるニュータイプがいなくなったというのと同じ感じだと捉えればばいいのではないかなと思います。

ところが1584年、秀吉の前にさらなる強敵が現れました。秀吉の野望の前に立ちはだかった最強の敵は徳川家康でした。もともとは三河の弱小大名の息子だった家康ですが、今川も武田も滅ぼした当時は巨大な領地をもつ、日本最大級の大名でした。家康は織田信雄と連合して秀吉と戦う構えをとったのです。敢えてガンダム風に説明するとすれば、ア・バオア・クーの戦いでジオングに乗ったシャアが思った以上に強かったというような感じだと言えば、分かりやすいのではないでしょうか。かえってわかりにくいかもしれませんが、まあ、とりあえず、話を進めます。ちなみに、ア・バオア・クーの戦いを青葉区の戦いという人がいましたが、衝撃的で印象に残ったので、青葉区の戦いという人がいれば、それは正解とみなします。

ここまでの流れを見ると、秀吉が関係者からいかに危険視されていたかがよく分かります。柴田勝家、徳川家康、織田信孝、織田信雄。さらにちょっとわき役で滝川一益がいます。アンチ秀吉のメンバーの錚々たること、きら星のごとくとすら思えます。信長の息子たちに最重要家老、そして最大の同盟者がみんな秀吉を止めようとしたわけです。

秀吉にも味方はいました。池田恒興と丹羽長秀です。やはり、徳川家康や柴田勝家と比べると格が落ちますねえ。家康がシャアだとして、勝家や信長の息子たちは黒い三連星とかランバラルみたいな大物がそろっていると言えますが、秀吉がアムロだとすれば、カイシデンとハヤトコバヤシがそばにいるという感じでしょうかね。しかも丹羽長秀は家康との戦いには参加していません。軟弱者っとセイラさんに平手打ちされそうな勢いですね。

いずれにせよ、この秀吉陣営と家康陣営が争った小牧長久手の戦いが起きました。戦いは半年以上に及び、要するに互いに相手を制する決定的な要素に欠け、事実上の膠着状態に陥ってしまいました。ですが、この戦いの最中、池田恒興がその動きを読まれて戦死していますので、秀吉が不利であったとの印象は残ります。秀吉は焦りました。戦いが膠着状態に陥ってしまったならば、勝敗は世間の印象で決まります。引き分けて講和になったとしても、秀吉に天下を号令する資格があるかどうかについて、世間が認めなければ天下人にはなれません。世間の認めない人物に朝廷が権力を委託することなど、考えられません。

秀吉は家康との決戦はリスクばかりが高いと考え、家康の同盟者である織田信雄に揺さぶりをかけることにしました。家康が秀吉と戦争をする大義名分は、信長という絶対的主君筋の息子の信雄が秀吉を謀反人だと言うので、信雄の依頼を受けて戦っているというものです。ですから、信雄をびびらせて秀吉との講和を承諾させれば家康は戦争を続けることを説明できなくなり、講和に応じざるを得なくなります。そして秀吉が信雄を攻めてみたところ、信雄はあっさりと講和に応じ、事実上の降伏をしたため、今度は家康孤立とすら言える状態になります。池田恒興を戦死に追い込んだように、家康は部分的には勝利していたため、信雄を失い孤立したことは手痛かったに違いありません。

当時、大地震が発生し、秀吉・家康ともにまずは地震対応に追われることになったという想定外の出来事もありました。一部では地震対応で秀吉が引いたために家康は助かったとの指摘もあるようですが、私は家康のしたたかさと慎重さを考えるに、そう簡単なことではないようにも思います。

とはいえ、秀吉と家康は敵対するのは互いにあまりメリットはないと悟り、協力し合うことになりました。形式的には家康が秀吉に屈服して秀吉の家臣になるというものでした。家康は手打ちの儀式のために大坂城に入り、秀吉の弟の秀長の邸宅に宿泊しました。殺そうと思えばいつでも殺せるシチュエーションです。このときに家康を殺しておけば、秀吉はその後安心して老後を過ごせたはずですが、それができなかったというあたりに、私は秀吉が心理的に家康に勝てなかったということの現れなのではないかと思います。秀吉が家康の宿舎を訪問して最終打ち合わせが行われたと言われています。年齢的には秀吉の方が年上ですが、身分的には家康の方が格上ですから、わざわざ大坂城まで出向いてもらった以上、秀吉が家康に気をつかったんでしょうねえ。翌日、諸大名が見ている中、家康は秀吉への忠誠を誓い、秀吉の着ている陣羽織をくださいと言って、それを受け取ると、今後は陣羽織を着させることはありません。と言ったそうです。陣羽織は戦いの最中、陣中で切るためのものですから、要するに二度と秀吉様を戦争で煩わせることはありません。という意味のことを言ったわけですね。家康が秀吉と戦うことはないし、秀吉に歯向かうものがいたら、家康が抑えるというような意味と受け取っていいと思います。

その後、家康は秀吉が亡くなるまで、秀吉の臣下として振舞いました。小田原の北条氏を攻めた時に秀吉と家康が並んで立小便をした話は有名ですが、北条氏の滅亡後に家康は関東地方への国替えを命じられています。当時の感覚では、おそらく関東地方はあまりにも京都から遠く、ずいぶんと寂れたところへ追いやられたという印象だったと思いますが、徳川幕府がこつこつと江戸を開発して今の東京になるわけですから、粘り強いことはいかに大切かを教えられます。晩年の家康は江戸ではなく駿河で過ごしてますから、まあ、家康もちょっとは自分に甘いところがあったのでしょう。

秀吉の死後、今度は家康が遠慮なく豊臣氏を解体し、滅ぼしています。このあたり、家康って慎重なうえに冷酷でまじ怖いと思いますねえ。



武田信玄陰険伝説

武田信玄は戦国武将の中でも特別有名な人物だと言えますが、彼がそこまで著名な理由の大きな要因は織田信長、徳川家康という二人の天才が強いプレッシャーを感じた相手がこの武田信玄だったということにあるのではないかと思います。私は以前、学生から、好きな戦国武将は誰かと質問され、武田信玄と答えたことがあります。これから武田信玄のことをめちゃくちゃ言いますけれど、基本的には信玄への愛があるのだと思っておつきあいいただければ幸いです。

信長と家康が同盟を維持し続けたのは、武田信玄に対抗する必要があったからですし、武田信玄が晩年に於いて織田信長を討つために京へ向けて出発したときは、やはり信長、家康そろって、これはもしかすれば万事休すかと恐怖を感じたに違いないと思いますから、まあ、それだけでもすごいわけですよね。

武田軍は日本最強騎馬軍団を持っていて、負け知らずと評価も高いですから、さぞ、武田信玄もすごい人、一度はあってみたい、オーラの光るカリスマみたいに想像してしまいますが、彼の人生をたどってみると、性格は陰湿で、内面には相当に鬱屈したものを抱えていたに違いないとどうしても思ってしまいます。

たとえば、非常に有名な話ですが、彼はまず父親の武田信虎を追放しています。クーデターを起こし、隣の今川領に追いやって、信玄は死ぬまで信虎を受け入れることはありませんでした。信虎はその後京都に行ったりして第二の人生をエンジョイしていた時期もあったようなのですが、信玄が死ぬと武田領に呼ばれ、楽隠居として晩年を過ごします。武田氏が信長に滅ぼされる前に天寿を全うして他界していますから、信虎は結構、運のいい男とも思うのですが、注目したいのは、信玄が信虎を殺していないということです。その気になったら殺すチャンスはいつでもあったと思いますが、おそらく、幼少期から信虎にいじめられ続けたに違いない信玄に信虎を殺す勇気はなかったのでしょう。それだけ信虎への鬱屈した気持ちは強かったのだろうとみることもできると思います。殺してしまったら、憎むことができなくなっちゃうので、殺さなかったのかもしれません。

信玄は近しい人物と激しく対立した面を持つ人ですが、特に激しかったのは、彼の父親との対立よりも、むしろ息子との対立と思います。後継者と目されていた義信が謀反に参加していたとの疑いをもたれます。信玄は彼をお寺に幽閉したのですが、なんと幽閉期間は2年に及び、義信はそのお寺でなくなっています。父親に殺されたと見るべきだとは思いますが、仮に直接に手を下されていなかったとしても、2年も幽閉されたら心身がおかしくなって当たり前ですから、自殺であろうと病死であろうと信玄が殺したようなものといえると思いますね。

結局、信玄の後継者は正室の三条の方の生んだ男子ではなく、側室の諏訪一族の女性に産ませた勝頼ということになったのですが、こんなことをすると伝統ある甲斐武田氏の古い家臣たちはついてきません。三条の方は京都のお公家さんの娘さんですから、その血筋の高貴に誰もが納得しており、三条の方の生んだ息子さんだったら文句はないわけですが、勝頼の母親は武田氏によって滅ぼされた諏訪氏の女性なわけです、俺たちが滅ぼした家の娘さんの生んだ息子が主君ってか?そんなのありかよ?という不満がわいてくるんですね。今なら血筋で人間を判断することは許容されませんが、当時は本人の努力や個性よりもまず血筋です。ですから、勝頼は血筋的にあんまりぱっとしないんです。そういう勝頼を後継者にしてしまうと、お家騒動の元になりますし、勝頼本人も苦労します。勝頼はかなり優秀な人物だったらしいですから、信玄の後継よりも、独立させて好きにさせたほうがもっと凄い実績を残したかもしれません。

信玄の陰険さは外部との戦争にも表れています。たとえば、駿河の今川氏ですが、織田信長との戦いで今川義元が死んだあと、どうしても今川氏はぱっとしないわけですね。で、だったら、もらっちゃおうということで、三河の徳川家康に話をもちかけ、三河と甲斐の二正面から駿河を攻略し、今川氏を滅ぼして家康と信玄は旧今川領を二分しています。家康はちょっと前まで今川軍団のメンバーでしたから、そういう男に今川を攻めさせるっていうのは、結構、陰険なやり口なわけです。今川にとっては弱り目に祟り目です。しかも、関東甲信越地方は上杉謙信に対抗するために武田、今川、北条で三国同盟を維持することが基本姿勢でしたから、まあ、そういったこれまでの経緯とか全部無視して、関係者みんなが傷つくことを承知で、やっちゃうわけです。すごいですよね。血も涙もないですよね。

そのような武田信玄には、徳川家康もひどい目にあわされています。三方ヶ原の戦いでは、武田信玄が家康の軍隊を待ち伏せして壊滅させていますから、赤子の手をひねるようなものというか、まだ若い家康をもてあそぶという残酷な心理も見え隠れしています。

さて、武田信玄が家康をいじめることになった理由は、織田信長を殺す目的で甲斐を出発し、途中で家康の領地である三河を通ったからですが、信玄に狙われた信長は、信玄には勝てないとの自覚があったので、かなりのプレゼント攻撃をしかけていたようです。信玄の好きなものを調べて、それを甲斐まで送り届けていたみたいなんですね。で、信玄に漆塗を贈ったとき、信玄は漆を削らせて、どれくらい厚く漆が塗られているかを調べさせたそうです。想像以上にたっぷりと漆が塗られていて、信玄は信長を称賛したそうですが、もらった漆塗りを削らせるって、その発想が陰険ですよね。しかも、最高級の漆塗りをもらうだけもらっておいて、やっぱり信長を殺す決心をするわけですから、知れば知るほど、いやなやつです。

ですが、戦場に奇跡が起きました。織田信長と戦う直前、武田信玄は陣中で病死し、武田軍は黙って甲斐へと引き返します。戦国最強の大軍団が静かに帰途に就く様子は風の谷のナウシカでオームたちが森へ帰っていくくらいの迫力のある絵になったことでしょうね。信長は自分の強運に自信を持ったに違いありません。信長が最も恐れた男である武田信玄が、いよいよ本当に信長を殺そうとしていた、その直前になって、病死するんです。ほとんどフィクションみたいな話です。

武田信玄が信長を殺そうと決心した理由には、将軍足利義昭からの命令ということもありますが、信玄が仏教を熱心に信仰しており、信長の一向宗門徒の虐殺や延暦寺焼き討ちを看過できなかったという話もありますよね。信長からすれば、信心深い信玄が志半ばで倒れ、罰当たりのはずの自分が完全勝利するんですから、神仏なんか、存在しねえと確信したとしても無理からぬことかもしれません。それでも、ある時、魔が差したようにして明智光秀にやられちゃうわけですから、人間の運命とは不思議なものです。

私たちは戦国時代に生きていませんから、命のやりとりをする必要はありません。運命は不思議なものだから、がんばっていればきっといいこともあるよ、と、よりよい未来を信じてがんばりましょう!



信長と家康-忖度と憎悪

今川義元が桶狭間の戦いで戦死した後、今川軍は駿河地方へと帰って行きますが、松平元康、後の徳川家康はもともとの自分の領地である三河地方にとどまり、独立を果たします。そして信長と清州同盟を締結し、戦国大名としての人生を歩むことになります。最終勝利者である徳川家康の第一歩という点で、メルクマールなできごとであったということができるでしょう。

しかし、清州同盟を結んだ時の徳川家康がそこまで喜びに満ちていたかと想像すれば、おそらくそのようなことはなかったでしょう。桶狭間の戦いが行われる以前の彼は今川氏に隷属している状態でした。厳密に言えば今川の家臣ではなく、れっきとした大名の息子ではあったわけですが、事実上は今川氏のところで育てられ、もし実家が裏切ったらいつでも殺される運命にあるという、かごの鳥みたいな人生を送っていたわけです。いわば、三河地方は法的なオーナーは松平氏ではあったものの、実質的には今川氏の植民地みたいになっていたわけですね。そして今川が撤退して織田と同盟したわけですが、これって実質的には織田の植民地になったということを意味しています。家康からすれば、それまでのご主人様が今川だったのが、ご主人様が変わったというだけのことにすぎません。しかも、今川氏が家康のために様々な教育を施し、お嫁さんまで与えてあげたのに対し、信長は家康を駒として利用することしか考えていなかったようですから、家康としては内心しぶしぶだったのではないかと思います。前回にも述べましたが、信長は桶狭間の戦いの時に味方だったメンバーだけを身内と考えていて、それ以外の家臣は捨て駒でしたが、家康は桶狭間の時は今川サイドの武将だったわけですから、ベストメンバーには入っていないわけです。

それでも家康は織田信長と同盟することで安全保障上、大きなメリットを得ることができました。最大のメリットは織田に対して従属的な立場でしたから、信長に狙われる心配がないというものです。日米安保の最大のメリットはアメリカに敵認定されないことだというようなことを言っている人がいましたが、織田と徳川の同盟も同じで、家康にとっては信長に敵認定されないというメリットを享受することができたわけです。具体的には尾張方面の防衛を心配する必要がありませんでしたから、今川と武田信玄のサイドへの防衛について考えさえしていればよく、それだけ楽だったということができます。武田サイドも家康の実力を認めていたからこそ、今川を攻略して分けませんか?などの打診もしてきたのだということができるでしょう。もちろん、家康の実力とはすなわち、信長が後ろ盾にいるという事実そのものであったわけです。清州同盟の非常に大きな役割としては、織田と徳川が連合しているために日本最強と言われた武田サイドが慎重になって攻めてこないというもので、家康的には非常に助かったはずですが、裏返すと武田がもし滅亡すれば、不要な同盟にもなるわけで、そういう消極的な同盟でもあったということもできそうに思います。

清州同盟が成立してからしばらくの間、三河・尾張地方は信長と家康による平和が生まれ、そこに武田も参加することで、戦乱からは逃れられるという大変に安定したいい状態が続きました。しかし、もともと積極的に京都へ進撃しようとはしていなかった武田信玄が、足利義昭の命令を受けて京都へ向けて進撃を開始し、一機に日本で最も危ないバルカン半島みたいな地域へと変貌していきます。

2万人とも4万人ともいわれる大量の兵隊を率いた巨大な武田信玄の軍は、甲斐・信州を2つに分かれて出発し、後に合流して三河の徳川家康の領地に入ります。家康の居城の前を悠々と通り過ぎたことは非常に有名です。武田信玄にとって、主敵は信長で、家康は全く相手にしていないというわけです。家康は面子にかけて武田信玄と戦うことを決心し、城を出て戦ったのが有名な三方ヶ原の戦いですね。家康の軍隊が少数でやや散開しながら武田信玄の軍隊を追尾したところ、武田サイドは丘を越えた向こう側で密集した状態で家康たちを待ち受けており、少数で分散していた徳川軍は多数で集中していた武田軍に短時間で壊滅的な打撃を与えられたと言われています。

徳川家康も殺されかけましたが、ギリギリセーフでお城に帰り着き、その時の自分の軽挙妄動を反省する目的で絵師を呼び、恐怖で震える自画像を描かせたというのは非常に有名なエピソードです。

日本最強の武田信玄は、家康を追い払った後、織田信長を殺すつもりで進撃を続けるつもりでしたがその途上で病死し、甲斐地方へと引き返していきます。黒澤明監督の影武者という映画では武田信玄は徳川軍の狙撃手の銃撃を受けて戦死したものの、その死を秘匿するために仲代達也さんを信玄の影武者として起用したというのがこの映画の主たる筋なわけですが、実際的な死因はともかく、信長にとっては絶妙のタイミングで信玄がなくなったことは確かであったと言えます。ちなみに黒澤監督は当初、勝新太郎さんを主役にこの映画を撮影するつもりでしたが、途中で喧嘩になってしまい、やむを得ず主役を仲代達也さんに変更したそうです。この映画では影武者なのにみんなに愛されるという人の心を描こうとしたところがあって、そうするとカツシンの愛嬌みたいなのを黒澤監督は期待していたと思います。実際に映画を観たところ、そういう愛されキャラを仲代達也さんもやっていますが、天真爛漫な感じが似合うカツシンの方がはまり役だったのかなあと思わなくもないですね。仲代さんだとちょっと考えすぎな感じになってしまいそうな気がします。

それはそうと、武田信玄が死んでも、武田勝頼が後を継ぎ、日本最強の武田軍団は手付かずで生きています。しばらくして長篠の戦いで武田軍は壊滅的打撃を受け、中部日本の勢力図が大きく書き換わっていくことになるのですが、そのような状況下で、家康の長男の信康が武田サイドと内通しているのではないかとの疑いが織田信長サイドから提示されました。当時、既に武田サイドは息も絶え絶えの青色吐息で、死に体でしたから、家康の息子がわざわざ内通するとも考えにくいですが、かつて微妙なパワーバランスを担っていたころの武田ではなく、当時の武田は織田・徳川にとって完全な敵として認定されていましたから、そんな武田と内通していることが事実だったとすれば、大スキャンダルにもほどがあり、徳川氏そのものが織田によって攻め滅ぼされてもおかしくありません。弱り切った家康は信康を切腹させます。形としては切腹ですが、要するに殺したようなものです。彼の母親も殺されます。家康は信長に忖度して、息子と奥さんを殺したわけです。実に残酷な経験ですね。

ですから、家康が密かに信長を憎悪したとしても全く不思議でもなんでもありません。そもそも、家康は信長に従属して靴をなめるような態度で接していたわけです。それでも嫁さんと息子を殺すことになったのですから、家康の本心を想像すれば信長に義理立てする理由はもはやなさそうにも思えます。家康は信長に忖度しつつ憎悪していたのではないかと私には思えます。

本能寺の変が起きたのは織田・徳川連合軍が武田を攻め滅ぼして間もないころのことです。家康は武田滅亡のお祝いに京都を訪問し、信長の接待を受けています。接待の実務を担ったのは明智光秀で、仕事ぶりが悪いと信長に酷い目に遭わされたともされていますが、本当かどうかは分かりません。

分かっているのは、本能寺の変が起きた時、信長にとっても家康にとっても、互いに必要のない存在になっていたということです。武田が滅亡した以上、清州同盟を継続する理由はありません。ましてや家康にとっては信長は息子と嫁さんの仇みたいなものですし、信長にとって家康は単に邪魔な存在です。問題はどちらが先に手を下すかということだけだったのかも知れません。信長が先手だった場合、家康がやられることはまず間違いありませんから、パワーバランスを見極める天才だった家康が先に手を出す決心をしても不思議ではありません。

そのような理由で本能寺の変家康黒幕説みたいなものも登場するわけですね。真相は分かりませんけれども、家康が黒幕だったとしても驚きませんねえ。



明智光秀の自分探し

明智光秀はルーツや経歴が分かったような分からないような不思議な人物で、人物評価も一定しない。本能寺の変の実行犯であることは確かだが、『信長の棺』などで描かれているように、最近は光秀の他に黒幕がいたのではないかという話が流行しており、そっちの方がおもしろいので支持が集まるという構図ができあがっていると言える。

これは、戦前に秀吉が忠臣として高く評価されていたことと関係がある。明治新政府は徳川政権の否定を徹底する必要があったため、明治維新と一切関係のない豊臣秀吉を持ち上げた物語を流布させる必要があった。私が子どものころは戦前の教育を受けた人がまだまだ世の中を仕切っていたので秀吉は立派な人説が流布しており、私も『太閤記』の子供向け版みたいなのを読んで、頭が良くて心がきれいな豊臣秀吉は立派な人だと刷り込まれていた。秀吉は織田信長と良好な人間関係を築き、家臣としても誠実に仕えていて、その誠実さはどれくらいかというと信長が死んだあとに光秀と取引せずに打ち取ったのだからこの上もなく立派な人でそりゃ天下もとるでしょう。というような感じの理解になっていたので必然的に光秀は主君を殺した挙句に自分もやられるダメなやつ説を採用することになる。

やがて時代が下り、21世紀に入ってから秀吉善人説はほぼ姿を消したように思える。光秀を倒した後の秀吉の行動は人間性を疑わざるを得ないほど冷淡で打算的であり、知れば知るほど織田政権の簒奪者だというイメージが強くなってくる。そこから光秀が悪いのではなく裏で糸を引いていたのは秀吉なのではないか、いやいや、家康でしょう、いやいや義昭でしょう、いやいや五摂家でしょうと話がいくらでも散らばって行くのである。

大学で光秀についてしゃべらなくてはいけない時、私は上に述べたような事情をふわふわと考えて、毎年視点を変えてみたり、学生へのサービスのつもりで様々な陰謀説があるという話をしたりする。で、なんとなく光秀の肖像画を見ていて、新しい視点を得た気がしたのでここに備忘のために書いておきたい。憂鬱そうな光秀の表情は自分探しをする学生にそっくりでだ。

明智光秀の憂鬱そうな表情。肖像画はその人の内面を語ることがしばしある。

私は自分探しをする学生を否定しない。大学の教師になるようなタイプは大抵自分探しに時間を浪費するからだ。大学院に行く時点で他の同年代とは違う人生を歩むことになるし、更に留学とかさせてもらったりとかするので他の同世代とは人生に対する姿勢や考え方が広がる一方だ。なので、そういう学生の気持ちは私はよく分かるつもりでいる。

それはそうとして、明智光秀の肖像画を見ていると、ああ、この表情がこの人物の人生を語っているのだなあという心境になった。写真のない時代、絵師は人物の特徴を懸命に肖像画に書き込もうとする。信長、秀吉、家康の肖像画はそれぞれの絵師がその人物の特徴を懸命にとらえて描いたものだと説明すれば分かってもらえると思う。家康と慶喜は目がなんとなく似ていると私は思うのだが、家康の絵師がその特徴をしっかりと捉えていたからだと言えるだろう。

光秀はいつ生まれたのかもあまりはっきりしないし、土岐源氏ということになっているがどんな風に育ったかもよく分からない。ある時から朝倉義景の家臣になり、ある時から足利義昭の家臣になり、ある時から信長の家臣になるという渡り歩き方をしている。深い教養で京の公家たちとも親交があったとされるが、その割に雑な人生を送っているとも言える。想像だが戦国武将は仁義がなければまかり通らない。仁義のないものは後ろから刺されて終わるはずである。光秀の渡り歩き方には仁義がない。義昭の家臣と言っても足利幕府に累代で仕えてきたとかそういうのではない。現代風に言うと大学院から東京大学なのだが、東大ブランドを使うみたいな目で見られていたに相違ないのである。そして彼の憂鬱そうな表情からは、そうでもしなければ人生を這い上がることができなかったのだという彼だけの心の中の真実も見えて来るような気がしてならない。

そう思うと、信長を殺そうという大胆な発想を持つ人間が当時いたとすれば、光秀くらいなのではないか、従って黒幕などというものは存在せず、光秀単独犯行説が実は最も正しいのではないかと最近思うようになった。このブログは私が思ったことを書くのが趣旨なので了解してもらいたい。

秀吉は臨機応変に動くことができるが、自分から大きく物事を構想して操るタイプとは言えない。深い企てを考えるタイプであるとすれば朝鮮出兵のような誇大妄想的行動は採らない。信長が死んだからいけるんじゃねと踏んだのであり、信長を殺すというようなリスクをとるタイプではない。

家康も信長を殺したかったかも知れないが、リスクをとるタイプではない。朝廷も言うまでもないがリスクはとらないし、信長が朝廷を廃止しようとしていたから背後には朝廷が動いたというのは証明できない前提を幾つも積み重ねた結果生まれてくるものなので遊びで考えるのはいいが本気で受け止めることはできない。義昭黒幕説もあるが、義昭には影響力はなかった。

光秀を現代風に表現すれば新卒であまりぱっとしない企業の総合職に滑り込み、転職を重ねて、途中は公務員をやった時期もあって、気づくとグーグルとかアップルとかアマゾンとかソフトバンクみたいな新時代の企業の役員にまで出世したような感じになるはずで、わざわざボスを倒してまで実現しなければならないことなどあるはずがない。だが、自分探しを続けていた(たとえば私もその一人であって、ここではある程度の自嘲を込めているので了解してほしい)タイプは、大胆なことをやってみたくなるのである。光秀が大胆なことをすれば自分が抱えている小さな悩みを解決できるかも知れないというリスキーな思考方法を選ぶタイプだったとすれば、それで充分に、いろいろなことの説明がつくのではないだろうか。



司馬遼太郎『関ケ原』を読むと、関ケ原の戦いわけのわからない部分がわりとよく分かるようになる

関ケ原の戦いのわけのわからない部分は、一般的に豊臣秀頼を擁立した石田三成と徳川家康が戦ったということで説明されています。しかし、だとすれば豊臣政権という正規政権を守るための戦いであるにもかかわらず、なぜ秀吉七本槍と言われた福島正則が徳川家康につき、加藤清正は事実上の局外中立みたいになっていたのかということとがよく分かりません。

いろいろ読んでもわかったようなわからないような感じで上手に全体像をつかむことが分かりません。これは関係者、世間一般、などなどそれぞれにこの戦いの位置づけが違うことから説明が難しいややこしいことになっていることに原因があります。

まず、石田三成は徳川家康を謀反人と位置づけ、自分たちが豊臣政権の正規軍であるという立場を採って戦いに臨みます。一方の徳川家康ですが、そもそも上杉征伐を豊臣政権の正規軍という体制で行うために出発し、その途上で石田三成の旗揚げを知りますから、徳川家康こそが豊臣政権の正規軍という立場で、石田三成こそ謀反人という立場で戦いに臨むわけです。

ついでに言うと朝廷から見れば、関ケ原の戦いは石田三成と徳川家康の私闘という立場で事態の推移を見ていたものと考えられます。関ケ原の戦いから徳川家康の将軍就任まで3年もかかっているという事実は、朝廷が豊臣政権を正規の政権と見做していたため、私闘で勝っただけの徳川家康に将軍職を与える正当性があるとは当初考えていなかったことを示すものと思えるからです。

徳川家康に福島正則がついたのは関ケ原の戦いを大嫌いな石田三成をやっつけるための私闘と位置づけ、豊臣政権の正当性は一切毀損されないと思っていたかららしく、福島正則、加藤清正ともに豊臣政権への忠誠心は厚いものがあったと言われていますから、簡単に言うと大局観のようなものが全くなかったと考えるのが正しいように思えます。

百戦錬磨の大狸の徳川家康は、それをうまいこと言って、豊臣政権に挑戦するわけないじゃん。この戦いは豊臣政権の簒奪を狙う石田三成をやっつけるための戦いに決まってるじゃんという立場を貫き、まんまとそれに乗せられたという感じでしょうか。

もちろん、徳川家康は怪しいなあ、豊臣政権を潰して自分の政権を作ろうとしているんじゃないかなあと思った人は多いはずですが、そこからは心理戦も絡んできます。内心、徳川家康が次の天下を獲るだろうけど、豊臣政権に挑戦するのはスジが悪い。でも、表面上家康と三成の私闘ということなら、問題ないよねという立場で次の権力者徳川家康にすり寄るものが続出します。石田三成は嫌われまくったということで有名ですが、石田三成が嫌いな人は上に述べたような理屈で家康につくわけです。

一方、大局をきちんと見ていて、徳川家康をほうっておくと豊臣政権は潰されるよね。という立場で戦いに臨んだのが宇喜田秀家。漁夫の利でなんかとれるといいなあと思っていたのが毛利輝元。という辺りになるのではないかと思います。

さて、この戦争で誰がどちについたのかについては二人の女性の要素も無視できません。一人は秀吉の正妻である北政所、もう一人は秀頼の母親の淀殿です。北政所の目には、秀頼を生んだ淀殿に豊臣家を乗っ取られたような心境でしょうから、淀殿・三成同盟にシンパシーはありません。徳川家康に肩入れし、秀吉に恩を感じる大名に家康に加担しろとけしかけます。一方淀殿は三成と同じく人望にかけ、諸大名への影響力はありません。

突き詰めると、豊臣家内部の人間関係が分裂していたことが、徳川家康に隙を与えたとも言え、あらゆる権力が滅びる時はまず内部の崩壊があるということがこの場合にも当てはまるのではないかと思えます。司馬遼太郎さんの『関ケ原』を読むとその辺りのややこしいところがよく分かるようになります。

この戦いの以降、大坂の陣で豊臣家が完全に滅ぼされるまでの間、豊臣は豊臣で政権掌握者、家康は家康で政権掌握者というちょっとよく分からない曖昧な状況が続きます。これを終わらせるために家康は難癖をつけて大坂の陣を起こすわけです。

元々秀吉によって出世させてもらった豊臣家臣で家康に加担した大名たちを家康は快く受け入れていますが、戦争が終わった後はばんばん潰しています。家康が内心、裏切り者を軽蔑していたことを示すものではないかとも思いますし、やはり裏切るというのはいい結果をもらたらさないという教訓も含んでいるような気もします。

司馬遼太郎さんの作品に言及すると、島左近かっこいいです。私もかくありたいものです。



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原田眞人監督の『関ケ原』、観てきました。原田監督は「男にとって女性とは何か」を考え抜き、それが作品の内容に反映されていると私には思えます。で、どういう視点になるかというと、男性は女性に愛されなければ生きていけない(ある意味では独立性のない)存在であると規定し、女性から愛されるとどうなるか、愛されなければどうなのか、ということを問いかけてきます。たとえば『自由恋愛』では圧倒的な経済力にものを言わせて2人の女性を手に入れたトヨエツが、最後、女性たちに見放され悲しく退場していくのと対照的に女性たちは女性たちだけで存分に輝く世界が描かれます。『クライマーズハイ』では、妻に愛されなかった新聞記者が、妻以外の女性に愛され、後輩女性記者とは恋愛感情抜き(潜在的には恋愛感情はあるが、顕在化しない状態)で仕事に向き合います。

『関ケ原』では、石田三成を愛する伊賀くノ一の初音と徳川家康を愛する、これもはやはり伊賀のくノ一の蛇白(だったと思う)の2人は同じ伊賀人でありつつ、敵と味方に分かれるという設定になっています。石田三成を美化するスタンスで描かれ、徳川家康のタヌキぶりを強調する感じで描かれていますが、純粋で真っ直ぐな石田三成は行方不明になった初音を思いつつ、戦いに敗れて刑場へと向かいますが、その途上で初音が現れ、あたかも関係者でもなんでもないふりをして軽く会釈をします。石田三成と初音はプラトニックな関係ですが、その分、清潔感があり、石田三成という人物のやはり純粋さを描き切ったように感じられます。生きているということを見せるために彼女は現れたわけですが、石田三成は彼女の無事を知り、安心して刑場へと送られていきます。『ラセーヌの星』というアニメでマリーアントワネットが2人の子供が脱出できたことを知り、安心して刑場へと向かったのと個人的にはダブります。

一方で、徳川家康は話し上手で女性を魅了することも得意です。関ケ原の合戦の最中に陣中に現れた刺客に対し、白蛇が命がけで家康を守ろうとしますが、家康は彼女と刺客をまとめて切り殺してしまいます。原田作品ファンとしては、たとえ時代物映画であったとしても「女性を殺す」というのは最低の行為ということはすぐに察することができますから、家康という人物の悲劇性が描かれているというか、家康が自分の命のためには自分を愛した女性をためらいなく殺してしまう悲しい人生をおくった男という位置づけになるのではないかと思います。

徳川家康は役所広司さんが演じていますが、悪い奴に徹した描かれ方で、多分、この映画のためだと思いますが、全力で太っており、ルックス的にも悪い奴感が全開になっており、監督の求めに応じて役作りをしたこの人は凄い人だとつくづく思えてきます。

原作を読んだことがなかったので、すぐに書店に行き、原作を買い、現在読んでいるところですが、原作と映画にはかなりの違いがありますし、原田監督としては原作を越えた原田色をしっかり出すということを意識したでしょうから、原作と映画の両方に触れてしっかり楽しむというのがお勧めと思います。

原田監督の作品は、分からない人には分からなくていいというスタンスで作られているため、予備知識がないとなんのことか分からない場面や台詞がたくさん出てきます。私も一部、ちょっとよく分からない部分がありましたが、それはみる側の勉強不足に起因していることになりますから、原作を読んだり、他にもいろいろ勉強してまた映画を観て、そういうことか、と納得するのもありかも知れません。