将軍家定、アメリカ人のハリスに会う

タウンゼント・ハリスは日米修好通商条約を結んだ人として知られています。ペリーが幕府に要求したのは日米和親条約で、これは基本的には国交が存在することを確認する程度のものだったわけで、ハリスが要求したものとは別なのですが、この日米修好通商条約が締結されて漸く、日本とアメリカは正式に貿易する間柄になりました。とはいえ、あからさまな不平等条約で、幕府には関税自主権がなく、治安維持についてもアメリカは領事裁判権を持つというものでした。これと同じ内容のものを井伊直弼主導で幕府は列強と結んだのですが、これを安政五か国条約と言います。明治政府が条約改正を目指したのは、この条約のことなわけです。条約は何度も改訂され、名前も微妙に変化していきますが、太平洋戦争が始まるちょっと前にフランクリン・ルーズベルトから条約の破棄を通告され、日本は経済封鎖されて戦争への道を走るということになりますから、まあ、長い目で見て日本滅亡の伏線にもなったとすら言えるような条約です。終戦直後、石原莞爾は日本の戦争犯罪人を裁くなら、まずペリーから裁けと言ったそうですが、どちらかと言えば、タウンゼント・ハリスの方が罪は重いと私は感じています。

で、ハリスについて詳しいことが知りたい場合は、『大君の通貨』という本が文芸春秋から出ていて、この本を読むと、ハリスの領事としての仕事ぶりがよく分かります。ただし、著者はハリスに対して非常に批判的なため、ハリスの利権漁りぶりが露呈される内容になっています。ハリスが熱心に漁った利権というのが、江戸幕府が発行していた一分銀という通貨を香港なり上海なりに持っていき金に交換するだけで大儲けができるという不思議な商売でした。日本と西洋では金と銀の交換比率が違うため、日本から銀を持ち出すだけで儲かるというわけなのです。結果、日本国内では深刻な銀不足が起き、インフレにもつながっていきます。

ちなみに、ハリスの悪いところばかり言いつらねては気の毒なので、そんなに悪いことばっかでもないよと言うために付け足しておきたいのですが、江戸幕府には関税自主権がなかったものの、関税は列強によって5パーセントと定められ、それまでなかった新たな収入源になったものですから、幕府財政は相当に潤ったそうです。幕府はその儲かったお金で強力な陸海軍を設置しています。

それはそうとして、ハリスが日本に要求したことのなかに、将軍に会わせろというものがありました。当時の幕府の感覚でいえば、将軍は神聖不可侵ですから、ハリスのような外国人に会わせるわけにはいきません。現代ではもちろんそのようなことは考えられないことですけれど、当時は身分が違いすぎると言葉を交わすことすらできなかったわけです。たとえば将軍は直参の旗本とか、大名とかとは直接話すことができましたが、大名の家臣は陪臣になるため、口を利いてはいけないのです。不便なことこの上ないと思えますが、そういう社会の中で、ハリスはいったいどういう立場でぐうすればいいのか、前例ないので分からないというのもあったと思います。

しかもハリスは畳の上で椅子に座っての会見を希望しました。畳の上に正座なんかできるかこのやろうというわけですね。うっかりすると、ハリスの方が将軍よりも目線が上になってしまい、そこだけは絶対に避けなければいけません。将軍家定とハリスが会見した時のスケッチが残っていますが、家定は台みたいなところの上に置かれた椅子に座っており、相当に目線は高かったようです。家定はこのとき、日米両国の友好は未来永劫続くであろうとの言葉を述べたそうですが、さすがは将軍、言うことがポジティブでいいですね。このスケッチで描かれた家定は非常に華奢な少年みたいな感じなんですけれど、華奢感が更に高貴な雰囲気を醸し出しており、たとえばその後の若き君主である明治天皇とか、後の幼帝溥儀とかに通じる東洋の心優しい繊細な君主というイメージがして、私は個人的になかなか好きです。

14代将軍の家茂はアメリカ人に会っていません。しかし15代将軍の慶喜になると、大坂城に諸国の外交官を呼んで会見したりとかしていますから、将軍が外国人と会うことのハードルはだんだん下がっていったものと考えてもいいかも知れません。のちに天皇の時代になっても、昭和天皇に至ってはヨーロッパへの長期遊学を果たしていますし、今の天皇陛下もイギリスへ留学していますから、もはや日本の君主は外国との交流は必須のお仕事の一部とすら言えるわけで、今回はそのような、日本の君主の外国人との謁見事始めのような感じでやってみました。次は14代将軍相続に関する幕府内部の争いについてやりたいと思います。いよいよ幕末の動乱へと入っていきます。



ペリーの具体的な要件

一般的に、アメリカ人のペリーは日本に通商を求めて浦賀沖に黒船艦隊を伴って現れた。ということになると思います。それは間違ってはいませんが、やや不正確な理解になってしまっていると言えるかもしれません。ペリーが求めていたのは日本との通商ではなく、アメリカの捕鯨船の寄港地を求めていたわけです。

当時、捕鯨はアメリカの主要産業でした。メルヴィルの『白鯨』はアメリカ文学の代表的な作品として知られていますが、アメリカの捕鯨船が太平洋を無数に航海していたという時代背景があったからこそ成立する物語であり、且つそれなりに共感者を集めることもできたというわけなのです。現代のわれわれが『白鯨』を読んでも別に共感もしなければ、感動もしません。ふーん、そんな業態があるのか、へー。で終わりです。もしかすると漁業のお仕事をしていらっしゃる方なら、更にいろいろ感じることがあるかも知れませんが、それについては漁業関係者の方々に敬意を表し、何らかのご意見があれば尊重するという感じにしたいと思います。

で、ですね、ペリーが求めていたのは捕鯨船の寄港地なわけですから、交易通商とか本気でやりたいと思っていたわけじゃなくて、水とか燃料とか食料とかを補給できればそれでいいわけです。補給の際にはちゃんと対価も支払っていたそうですから、普通にフェアトレードだったわけですね。幕府は下田を開き、アメリカ人の居留が認められましたが、当時はアメリカサイドもちゃんと気を使っていて、飽くまでも日本との協定に従って無理のない居留をしていたそうです。下田はアメリカの船に開かれる前から江戸の玄関口として栄え、交易品の市場がたっていたそうです。今も下田を歩けば古い江戸時代の土蔵をいくつも見ることができますが、あのような土蔵がたくさん建てられたということは、下田が貿易の街として発展したことの証明と言えます。

ペリーが捕鯨船の寄港地を求めていたという話をして、学生たちがどよめいたこともあったのですが、やはりThe Coveという映画とかで捕鯨に対するアンチイメージが広がり、問題が複雑すぎることもあって、まさかアメリカが昔、捕鯨やりまくってたとか知らない人が時々いて、そういう反応になるみたいです。私はThe Coveという映画を見て、ここまでアンチに攻撃されるのなら、無理してクジラを食べなくてもいいとか思っちゃいましたけど、先日は和歌山の太地町にもいって、太地町の人たちが鯨との共生を前面に押し出したアピールを感じることができ、非常に判断が難しいなあと思いましたけれど、アメリカが鯨をとりまくって生態系のバランスを崩したというあたりは覚えておいてもいいかも知れません。今後、捕鯨はどうするかについては過去の歴史を確認してからだ、と思うのですよ。

さて、それはそうとして、要するに捕鯨の寄港地を求めているだけなわけですから、江戸の近くに寄港地がなくてもいいんですよ。しかも、いくらアメリカ側が蒸気船という近代文明の最新艦隊で現れたからといって、たったの四隻ですから、幕府側は夜間に火をかけるとかすれが簡単に撃退できる類の艦隊ですから、確かに黒船がきてびっくりはしたでしょうけれど、びびりまくって恐れおののいたなんていうのは、そんなことはないわけです。当時、四千万人近い人口が日本にいたわけですが、それをわずか数百のアメリカ軍の海兵隊で制圧なんかできっこないんです。大砲だって、守備としては効果があったでしょうけれど、江戸を砲撃して降伏させるなんてパワーがあるわけありません。飽くまでも、攻めてきたら反撃するからな、という意味での脅し効果があったのであって、ペリーが艦砲射撃する不安なんて最初からなかったと私は考えています。ペリーはどうしても江戸幕府が話し合いに応じてくれない場合は、琉球を寄港地にして本国に報告するつもりであったと考えられています。

ペリーは浦賀沖に現れる前に、琉球に上陸して首里城を占領していますから、そのあたりでお茶を濁すこともできんですね。日本の近代のキリスト教布教史は沖縄から語られることが多いのですが、これはペリー上陸後にアメリカの聖公会が沖縄で宣教を始めたことを日本の布教史に組み込んでいるからなんですね。

さてさて、琉球は実は薩摩藩が支配していたことは知られています。ペリーは首里城を占領しましたけれど、これはもちろん薩摩藩にも話が伝わっていたわけです。さらには薩摩藩から江戸にも話が伝わっていたために、幕府もペリーが来ることは知っていたと考えられています。ペリーの来航は寝耳に水でもなんでもなかったわけです。

考えてみると日本側の対応は結構、冷静で、きちんと話し合いがもたれ、協定もちゃんと煮詰めたものが作られています。こんなことができたのは、幕府側も心の準備をしていたからだと考える方が自然なのでないでしょうかね。

ペリーが来航した時、江戸幕府の将軍は第十二代の徳川家慶でした。ペリー来航からしばらくして家慶は病没しましたが、この家慶の意向により、将来、将軍に就任させる予定で、水戸徳川家の人物である徳川慶喜を一橋に養子に迎えています。家慶の後継者は家定でしたが、家定が病弱なことはよく知られていたため、家定が将軍宣下を受けた直後から次の将軍選びが始まったわけですが、もし家慶がもうちょっと長生きして、将軍を引退したあとも大御所政治をしていたとすれば、十四代将軍は慶喜が就任し、行動的で極めて優秀なことで知られた慶喜が長く将軍をすることになったでしょうから、日本の歴史は幕府主導による近代化という展開を見せていたと思います。慶喜も幕府も外国に攻めて行きたいとか全然考えてなかったはずですから、果たして日本が帝国主義国家になったかどうかも微妙だなあとも思いますから、そういう風に思うと、慶喜が将軍になる時期が遅かったことは日本のその後の歴史を本当に、大きく変えたと思いますねえ。次回は家定とアメリカ領事ハリスの謁見についてやってみたいと思います。