鎌倉、室町幕府はドロドロの権力争いが目につきますが、江戸幕府の権力闘争はどんなものがありましたか?

2つ挙げたいと思います。少し長くなるかも知れませんが、なるべく手短になるよう努力しますね。

まず1つは8代将軍吉宗の将軍就任までの道のりが誠に怪しいということです。徳川吉宗は御三家で2番目の格である紀州徳川家の四番目の息子であり、お母さんは身分の低い方でしたから、彼よりも将軍後継順位の高い人が大勢いて、とても将軍になれるはずはないというか、そんなこと絶対にあるわけないじゃないくらいの位置にいた人なのですね。ところがですね、お兄さんたちが次々と病死していき、まさかの吉宗の紀州家相続が実現しました。これだけでもちょっと怪しいんですけど、当時、五代将軍綱吉に息子さんが生まれなかったものですから、徳川宗家は断絶がほぼ決定みたいな状態になっていて、では次の将軍は誰になるのかということが、徳川の分家関係者たちの間で具体的な政治闘争の要因になっていったわけです。普通に考えれば尾張家なんですけど、どういうわけか尾張家のちょうどいい男子がバタバタと死んで行きます。また、幕閣たちは今さら尾張とか紀州のような外側の人材に来られるのも嫌なものですから、なるべく宗家の影響下にある人を次の将軍に選びたいという思惑を持っていたというわけで、結局、幕閣たちの意向が通り、徳川家光の孫で甲府徳川家藩主の徳川家宣が次の将軍に擁立されていくわけですね。この時は入念に甲府藩を廃止し甲府藩が裏で幕府を操る可能性を潰しています。順調に行けばその後は家宣の子孫が代々徳川宗家を継いでいくことになるはずなんですけど、まず家宣が2年ほどで病死し、息子の家継も3年ほどで病死して、尾張・紀州にもう一回チャンスが来るわけです。で、吉宗は幕閣たちや大奥にいろいろ密約して本来なら尾張に行くはずの将軍のポストをもぎ取ったとされています。それらの密約は大体全部破られたと考えて良いと思います。
(① 幕閣には政治は今まで通りあなたたちに任せます←嘘。紀州関係者たちが大挙して江戸城に入った。②大奥にはもっと贅沢してもらいます←嘘。大奥のリストラを断行した)

というわけで、以上が吉宗が将軍になるまでに一体、何人死んだのか?それって全員自然死なのか?という恐ろしいお話しでございました。

で、もう一つなんですが、それは14代将軍相続問題なんですね。13代将軍家定が病弱であったため、子孫を設けることのないまま早世するであろうことはわりと早い段階から分かっていたわけです。ハリスが家定と会見した時のスケッチを見たことがありますけど、その絵の家定は華奢な貴公子な雰囲気で元気そうでは確かにないんですね。ですから、次の将軍はどうするのかということでもめるわけですが、12代将軍家慶は、水戸家の7番目の息子さんを徳川三卿の一つである一橋家の養子に入れます。後の慶喜です。当時は徳川三卿から将軍が選ばれることになっていたわけですが、この三卿には紀州系の徳川の人物を当主に充てることにし、当然の帰結として紀州系の人物だけが将軍職を独占できるようにしていたのですが、にもかかわらず家慶が掟破りにも水戸家の人物を迎えてしまったというわけで、番狂わせにも程がある、将軍による上からのクーデターくらいのインパクトがあったわけです。で、幕閣たちは嫌がります。吉宗以降、幕府は紀州色が強まっていましたから、ここにきて水戸人脈に入って来られても困るわけです。仮に本当に慶喜が将軍になったら、それ以降の将軍は慶喜の子孫が就任することになりますので、幕府は水戸系人脈に則られる可能性が非常に高いということになります。幕閣たちは紀州家当主の徳川慶福を擁立することで慶喜に対抗しようとうするのですが、そもそも三卿が将軍を継承するという建付けになっていましたから、理論上、慶喜有利なわけです。この時、慶喜を擁立しようとしていた人々を一橋派と呼び、当時は薩摩藩も慶喜推しでした。しかしながら、慶喜の父親の徳川斉昭が大奥から嫌われていましたから、大老井伊直弼と大奥がアライアンスを組み、慶福を14代将軍に就任させることに成功します。慶福は家茂と名乗り、公武合体ということで公明天皇の妹の和宮を奥さんに迎えるというドラマチックな展開になるわけですけれど、わずか二十歳で病死してしまいます。普通に考えて二十歳なんて元気はつらつですから病死なんて考えにくいとも思いますが、家茂の将軍就任以降、井伊直弼は安政の大獄と呼ばれる一橋派に対する徹底的な弾圧をやりましたから、そりゃ恨まれるだろうし暗殺説も出て当然だとも思うんですね。ここで遂に慶喜が将軍に就任し、慶喜のアクロバティックな政治手腕により大政奉還へと歴史はなだれ込んで行くことになります。

で、ここで思うのは、もし慶喜が14代将軍に就任していた場合、当時はまだ幕府の弱体化はそこまで酷くなかったですし、慶喜本人は極めて優秀な人物だったことは間違いありませんから、もしかしたら徳川幕府は存続したのではないかという気がしなくもありません。その場合は徳川中心の近代化がなされていたことでしょう。その場合、日本はどうなっただろうかという好奇心は時々私の心中に頭をもたげます。ですが、ここまで述べましたように、14代将軍の跡目争いがあまりにも過酷なものでしたから、どっちが勝っても遺恨が残り、水戸系の人材は幕府の中で白眼視されていましたから、慶喜が14代将軍に就任したとしても、やっぱりいろいろな足の引っ張り合いで潰れていたんじゃないかなとも思えますねえ。

長くなりましたが終わりです~。



吉宗のリアルホラー権力闘争

徳川幕府第八代将軍の徳川吉宗は、本来、徳川家の中での将軍継承順位が非常に低かったため、将軍になれるはずの人ではありませんでした。ところが、我々が知っているように八代将軍になったわけなのですが、今回は彼がどんな風に権力ゲームで勝ち残っていったかを確認してみたいと思います。よく見てみると、実に血なまぐさいというか、驚くほど恐るべき闘争が行われていたことが分かるのです。

吉宗は紀州徳川家の第二代藩主である徳川光貞の四男としてこの世に生を受けました。紀州徳川家はたくさんある徳川家の中では、本家、尾張徳川家に次ぐ、三番目の家柄になりますけれど、吉宗が産まれてきたときは本家には徳川綱吉がいて、当時はまだ綱吉も若かったですから安泰でしたし、その次に尾張徳川があるわけですから、紀州徳川に将軍の順番が回ってくるなど考えられませんでした。ましてや、吉宗は四男ですから、紀州藩主になることすら本来は無理だったはずなのです。

ところが、吉宗の一番上の兄の徳川綱教が紀州藩第三代藩主の座にありながら、病死します。吉宗には更に二人の兄がいましたが、その二人も同じ年に相次いで病死し、四番目の吉宗に藩主の座が回ってきました。これだけでもちょっと怪しんですが、本番はむしろこれからとすら言えます。

五代将軍の綱吉に後継者たるべき男子がいなかったため、次の将軍候補を誰にするかが焦点になってくるんですけれど、江戸の幕府官僚たちは尾張か紀州から将軍が来るのを嫌がっていました。たとえば尾張藩主が将軍になれば、尾張藩の家臣たちが大量に江戸にきて、江戸城の行政を乗っ取ってしまうことは明らかで、そういうことを幕府官僚はいやがったわけです。ですから、尾張や紀州のような大量の家臣を抱える徳川家の人物ではなくて、もうちょっと言うことを聞きそうなのを選ぼうとします。で、白羽の矢が立ったのが甲府徳川家の徳川家宣でした。御三家の人物でもない彼がなぜ選ばれたのかと言うと、第三代将軍家光の孫だからというのが幕府官僚たちの説明でした。家康が設定した御三家よりも、家光の血筋の論理が優先したということで注目すべきことなわけですが、甲府徳川家は歴史も浅く、幕府官僚組織に組み込めば、飲み込まれて消えてしまうのでやりやすかったというわけです。

ですが、おもしろくないのは、紀州と尾張です。特に尾張は、綱吉の次は尾張からと思って張り切っていたのに、本来傍流とみなしていた徳川家宣が六代目になって、つまらないこと甚だしいわけですよね。しかも、六代目以降は順調にいけば家宣の子孫が将軍職を継承していきますから、下手をすると未来永劫、尾張にも紀州にも将軍の順番が回ってきません。ところが、どういうわけか家宣は将軍に就任してから僅か3年で病没してしまいます。家宣には新井白石、間部詮房という側近がいたのですが、彼らは急いで家宣の息子の家継を第七代将軍に据えました。本来、将軍はせめて元服をしている人物から選ぶという慣例になっていましたが、家継は非常に幼い男の子だったために元服をすませておらず、そこは慣例破りで推し進められました。家宣の血筋を将軍家として残すためにはそれしかないとの判断が働いたというわけです。そのうえ、新井白石も間部詮房も、紀州なり尾張なりに将軍の座をとられると、失職してしまいかねませんから、利害損得を考えても、ここは家宣の息子でということになります。しかし、幼少の息子さんが将軍になったということは、これから何十年か将軍をやるということですから、尾張の人も紀州の人も自分が生きている間に将軍の順番が回ってくることをあきらめなくてはならないということをも意味するわけで、もはや万事休す。むしろ新しい徳川将軍の血筋を祝福し、自分は領国経営を一生懸命やったほうがまだみんなが幸せになるというものです。ところが七代将軍家継も3年後に病没してしまいます。

ここまで述べただけでも、吉宗に将軍の順番が回ってくるまで何人病死したのかと数えるのがちょっと大変な気がしますが、更に加えて、ちょっと省略しますけど、尾張徳川の方でも将軍にふさわしそうな男子がばったばったと死んでいきます。

七代将軍家継が亡くなったとき、まがりなりにも吉宗は直系の紀州徳川藩主でしたが、尾張藩主は本家が滅亡してしまっていて、分家の人が藩主になっており、すでに吉宗リードな状態でした。更には大奥への工作と新井白石たちへの工作も功を奏して、吉宗が晴れて八代将軍に就任という次第になったというわけなんですね。長い!実に長い!吉宗が将軍になるまでを述べるだけでここまで長いとは!

さて、ここまで、いったい何人が毒殺されたのかついつい疑いの目で吉宗を見たくなってくるのですが、更に吉宗の凄いところは、後世も自分の血筋で将軍職を独占できるように設定しておいたことです。吉宗は徳川三卿と呼ばれる3つの家を自分の息子たちに創設させました。田安・清水・一橋と呼ばれる三つで、将軍はこの三つの家から選ばれることになったわけです。徳川三卿は養子を融通しあって絶えないように調整され続けましたから、本来、徳川の親戚筋で一番高貴だったはずの尾張徳川に出る幕はありません。しかも紀州徳川家も存続したため、尾張は一機に傍流へと転げ落ちてしまったというわけなんですね。幕末、尾張徳川は早々に官軍の側についてますけど、吉宗の時の経緯を知っていれば、そりゃそうだと、そこまでして江戸に義理を尽くす理由はないと尾張の人が思っていたとしてなんら不思議はありません。幕末の長州征伐の時は、幕府軍司令官を尾張の徳川慶勝が担当しましたが、彼のやる気がなかったのは有名な話で、それもさもありなんと勘ぐってしまいます。徳川滅亡の要因の一つは、吉宗一人勝ち現象があったからと言えなくもなさそうに思えます。

尚、最後の将軍である徳川慶喜は一橋の人でしたから、一橋慶喜と呼ばれましたが、もともとは、絶対に将軍になれるはずのない水戸徳川の人でした。その彼が一橋に養子に入ったことで、大きな番狂わせが起き、徳川の団結が乱れたこともまた事実で、なるほど成功の中に失敗の種があるのかと、人間の営みの不思議のようなものをついつい考えてしまいますねえ。



徳川吉宗の出世事情

徳川吉宗は紀州徳川家二代目藩主徳川光貞の四男として生まれた人で、普通に考えると絶対に将軍になる順番はまわってきません。しかし、それでも将軍になれたのはどういう事情があったのかというのは気になるところです。

まず、吉宗は紀州家の中で出世していきます。そもそもが徳川光貞の隠し子みたいな扱いだったのですが、まず、光貞の長男が病没します。そういうことはよくあることです。しかし、光貞本人、次男、三男が同じ年につづけさまに病没します。この辺り、単なる自然現象なのかそれともいわゆる吉宗サイドの「陰謀」があったのかは分かりません。しかし、大変に興味深い展開であったと言えます。

仮に紀州藩主の座を目指して、次々となくなった兄弟たちのうち何人かを謀殺したとしても、通常であれば50万石のお殿様になれればそれで充分。その先までについては黒幕なり草の者なりがいたとしても構想していなかったのではないかと思います。

ところが、中央で番狂わせが生じます。五代将軍綱吉に男の子ができません。俄然、御三家に注目が集まるわけですが、それよりももっと注目されたのが甲府徳川家の徳川家宣です。徳川家光の孫にあたる人で、嫡流に最も近く、次の六代目の将軍は家宣で決まります。しかし、ここからが何かがおかしいという気がしないわけでもありません。徳川家宣は就任後僅か三年で病没してしまいます。

すわ七代目は御三家にまわってくるかと色めき立った人もいると思いますが、家宣の子が七代将軍家継として将軍職に就きます。四歳くらいの幼君です。ところが家継もわずか三年で病没します。

その間、尾張徳川家では藩主の徳川吉通が二十代の若さで病死。幼い若君の徳川五郎太が家督を継ぎますが、同じ年に病没します。五郎太のおじさんの徳川継友が新藩主になりますが、ここまでの流れを見る限り、徳川吉宗のライバルになり得る人が次々と病没していることが分かります。

果たしてこんなことが自然に起きるでしょうか。どこかの段階で吉宗のフィクサーなり黒幕なりブレーンなり草の者の長みたいな人なんかが「これはいけるかもしれない。いや、やってみせる」という決心をしたという説明があった方がむしろ自然なことのように思えなくもありません。

吉宗は徳川三卿を設置して自分の嫡流がなくなったとしても、尾張徳川家には絶対に将軍職に就かせないという工夫をしかけておきましたので、戊辰戦争の時に尾張藩が早々に官軍についたとしても不思議ではありません。それこそ毛利氏が江戸時代毎年「殿、今年こそ徳川を」「いや、今年はやめておこう」というやりとりが儀礼化したように、尾張徳川家でも吉宗系宗家を代々呪詛していたとしても不思議でないというか、その方が自然です。

徳川三卿はその後、どんどん増えた徳川氏と松平氏の養子中継所となり、吉宗の意図とは少々異なる位置づけになっていきますが、みんなにとって都合よく回していくという意味では意義ある存在として活用されます。徳川慶喜が絶対に将軍になれない水戸家から一橋家に養子に入って将軍になるという、いろんな意味でのメイクミラクルの下地になったとも言えます。

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