足利義満の死の秘密-ムーみたいな話

足利義満は、足利幕府の最盛期を存分に謳歌した将軍として知られています。彼が強い権力を行使して天皇をも抑え込み、好き放題していたことはよく知られています。また、彼に面と向かって歯むかえる者もいませんでした。義満の権力がいかにすさまじいものだったかを知るために、彼の祖父である足利尊氏と比較してみましょう。

足利尊氏は戦争の才能に恵まれていたために各地の戦いで勝利し、敗ける戦いというものは全くゼロではないものの、あまり経験がありません。そして人間性が豊かでやさしく欲が少ない人だったということも、前回述べました。にもかかわらず、尊氏は懸命に尽くした後醍醐天皇に憎まれ、ともに北条氏を相手に戦ったはずだった新田義貞とは不倶戴天の敵になり、政情安定せず、苦労を重ねたことは言うまでもありません。

一方、足利義満に祖父尊氏ほどの人間的な豊かさもなければ人格的な高潔さを伝えるエピソードも特にないにもかかわらず、天皇よりも派手に振る舞い、公家よりも武士が上というのを分かりやすく表現した金閣寺を建てて恥じず、自分の息子を皇太子と同格の扱いにし、自分も法律上は後小松天皇の父親という立場を手に入れ、それはもう、自由過ぎるほどに望んだものを手に入れています。

どうして後小松天皇の法律上の父親という身分を手に入れることができたのかというと、後小松天皇の生母が亡くなると、義満は自分の正妻を天皇の義理の母親になるように仕組みます。簡単に言えば、後小松天皇と自分の奥さんを養子縁組させたわけです。で、結果として、後小松天皇の義理の母親の夫である自分は天皇の義理の父親になるという、なかなかチートな手の込んだことをやっています。もちろん、狙いはバレバレですから、当時の人は義満の横暴ぶりに歯噛みしたに違いありません。

或いはいよいよ天皇越えをする武士が現れるかとおもしろがったかも知れません。過去、平清盛が孫が安徳天皇になったことで、天皇越えしそうな時期はありましたが、福原遷都を強行して挫折した後に清盛は突如熱病に倒れて亡くなっており、遂に武士による天皇越えはありませんでした。で、義満がそれに挑戦している状態について今回は述べております。明との貿易では日本国王に封じられることによってその権利と富を得ています。明の皇帝から日本国王に封じられるということは、単に明との貿易権を手に入れたというだけではなく、天皇が日本国内の秩序の中でのみ権威がある存在なのに対し、義満は明を中心とした東アジアの国際秩序の中での地位を手にしたということを意味しており、少なくとも国際的には自分の方が正統なのだとアピールする目的もあったのかも知れません。というか、多分、そうでしょう。外務省の事務次官よりも駐アメリカ大使の方が立場が上なのと同じようなものなのかも知れません。かえってたとえが分かりにくいでしょうか…。。

足利尊氏がもともと鎌倉幕府の御家人で、北条氏が彼の上司であったということは、誰もが知っていました。北条氏は足利氏の主君では決してありませんでしたが、上司ではあったわけです。で、尊氏は上司を潰した部下なわけですね。主君は後醍醐天皇ということになるでしょうけど、その人からは嫌われました。そういうのをみんな見ていますから、尊氏がどんなにいい人でも服従させることに限界があったと言えます。三代目の義満にはそういうのがありませんから、小さいころからわがままいっぱいで、美しい景色を京都に持ち帰れと家臣に命ずるなど、目下のものに平気で無理ゲーさせて恥じなかったわけですね。

さて、足利義満は飽くまでも法律上の、義理であるとはいえ、天皇の父親です。ということは、足利義満は天皇家の家長を名乗ることも可能なわけですね。それはつまり、義満の実の息子は天皇家の家長の息子ですから、天皇になってもおかしくないということになります。たとえば息子の義持を親王の格にしておいてですね、親王というのは、要するに天皇家の息子さんという意味ですが、義満が天皇家の家長なら、義持は天皇家の息子さんですから法律的に矛盾しないわけですよ。で、後小松天皇が亡くなったら足利義持を次の天皇に即位させるという寸法です。血縁的に考えれば、全くのでたらめですが、法律的には義持と後小松天皇は義理の兄弟なわけですから、そこまで荒唐無稽というわけでもありません。今の時代なら、そういう人が会社を継ぐとかあると思いますけど、当時は血縁が全てです。当然、公家社会の義満に対する憤懣は大きかったものと想像することができます。

後小松天皇からすれば、気が気でなかったでしょうね。足利義持立太子がすめば、自分は毒殺されるかも知れないくらいの危機感はあったと思います。後小松天皇個人の危機感と公家社会全体に広がる、義満による天皇家乗っ取り計画への危機感がありますから、足利義満さんに消えてもらいましょうと思ったとして全く不思議はありません。

歴史作家の井沢元彦さんは、足利義満が権力の絶頂にいる中、突如、熱病で倒れ亡くなったことについて、毒殺説を採用しており、その実行犯は世阿弥ではなかったかと指摘しています。世阿弥は公家社会で教育を受けることができた人ですから、天皇と公家秩序へのシンパシーは強い。そして、義満のお気に入りでもあったため、個人的に近づくことができる。従って、公家社会からの依頼を受けて毒殺したのではないかというわけです。義満の死後、世阿弥はなんの罪かは分かりませんが島流しの目に遭わされており、これも足利サイドが義満は多分、世阿弥に殺されたんじゃないかなとうすうす気づいたので、そのようにして懲罰したというわけですね。私は説得力のある説だと思います。私も義満が突如熱病で倒れて亡くなったというのが、清盛の時とそっくりで、私たちの手の届かないところの意思が働いたのではないかという気がするのです。もちろん、私は天皇制を支持していますので、天皇家が乗っ取られなくて良かったと思っていますから、世阿弥が義満暗殺の実行者だとすれば、世阿弥よくやったとエールを送り、せめてもの哀悼の意を表すために世阿弥の著作である風姿花伝を読んで能の勉強をしたいと思うほどなのです。

それはそうとして、義満は南北朝の統一についても、南朝に対して、将来は南朝を正統な血筋ってことでいきますから、形式だけ北朝に降伏して京都に帰ってきてくださいと頼み、おそらくは貧乏暮らしで疲れ切っていた南朝の人たちが渡りに船と京都に来た後は知らぬ顔で、約束を守ろうとしませんでしたから、義満という人はそもそもチートな性格だったのでしょうね。