日中戦争9 西安事件‐蒋介石と張学良

満州事変とそれに続く満州国建国の宣言が蒋介石の国際連盟への提訴により国際問題化し、日本はリットン報告書の採択を拒否し、「国際連盟から脱退すれば連盟の規約にしばられず、経済制裁を受ける理由もなくなるから、脱退しまえばいいんじゃね?」という奇怪のレトリックを思いついて日本は国際連盟を脱退してしまうことになります。現代日本人から見ると、実にもったいないの一言に尽きますが、当時の日本の意思決定担当者たちの考えの甘さ、取り返しのつかないほどの大きなミスがあったことは認めざるを得ません。

ですが、奇妙なことにその後しばらくの間、日本と蒋介石政府との間での友好関係が深まっていくことになります。短い期間のことですので、すっとばしてもいいくらいなのですが、なぜ友好関係が深まったかを考えることは、当時の東アジアの事情がどうなっていたかを理解するのに役に立つと思いますから、ちょっとここでがんばって考えてみたいと思います。ま、結論から述べるとと、要するに日本は満州地域から外へ出て行って占領地を広げたりするつもりはないということを行動から明らかにしていき、蒋介石は共産党との戦いを先に終わらせたかったので、ま、取り敢えずそれでいっか。ということになり、喧嘩する理由がなくなってしまったわけです。

で、張学良という人がいて、この人は関東軍の協力を得ながら満州地方を支配していた張作霖の息子さんになるわけですが、関東軍の河本大作大佐が張作霖を殺害し、張学良氏は張作霖氏の後継者ということになるわけですけれど、満州事変で満州という土地も張学良から奪いとって溥儀を擁立して満州国を作ったという流れになっており、張学良からすれば、親父が殺され領地が奪われたわけですから、最大の敵はやっぱり日本になると思います。

その張学良氏は蒋介石氏の部下の立場として蒋介石軍に参加し西安方面で共産党軍との戦いをやっていたわけですが、戦いが遅々として進まず期待通りの戦果の報告が蒋介石のところへ届きません。で、彼は督戦、するために、要するにもっとまじめに戦争しろとハッパをかけるために西安に行くんですけれど、1936年12月12日、蒋介石の予想を超えた事態が起こります。張学良氏に逮捕監禁され、共産党との協力を約束させられるというわけです。蒋介石氏は西安で、昔、楊貴妃が遊んでいた温泉施設が残っている建物を臨時の執務室に使っていたそうなのですが、張学良が掴まえに来たと知ると急いでそこから逃げ出そうとして果たせず、捕まったそうです。私もその現場を見に行ったことがありますが、唐の時代の楊貴妃と、20世紀の蒋介石のイメージが上手に重ならずに、頭の中での処理にやや苦労した記憶があります。

で、蒋介石氏が逮捕監禁されている時、果たしてどのようなやりとりがなされていたのかということは今も謎であり、推察はできても確認できない流言飛語もいろいろあって分からないことだらけなできごとだったわけですけれど、その後は完全にというわけではないですが、中国は原則として挙国一致で日本と戦うという方針を示すようになり、十五年戦争の歯車が大きく動き出すことになります。日中戦争が本格的に始まる盧溝橋事件と第二次上海事変は西安事件が発生した翌年のことです。第二次上海事変は相当に大規模な激戦だったことは知られており、日本側の死傷者も多く、双方が充分に準備をして本気でぶつかり合ったことは関係資料をぱらぱらっと見るだけでも分かります。繰り返しになってしまいますが、西安事件で事情が変わったのだということがよく分かります。せっかくの短い日中デタントは喜ばしいことだとは思うのですが、残念ながら日本には戦争を止める装置が機能停止になっているような感じで戦争をやめようとする意思決定できない状態になってしまっていたことも災いして、戦火は広がって行ったと言えます。

私は張学良氏のインタビュー動画やインタビュー本などをある程度目を通しましたが、そこはかとなく感じるのは、実は蒋介石と張学良との間にある互いに理解し合う友情のような関係があったのではないかということです。蒋介石氏がどのように話していたかは私は知りませんが、張学良氏は蒋介石氏に対して、わりと理解のある言葉を発しています。張学良氏は残り人生のほとんどを国民党に軟禁されて過ごしたのですが、だからといって憎悪の言葉が出て来ることが言えば、全くそんなことはありません。この辺り、日本人の我々にはもはや理解不可能な中国的な人間関係の築き方の難しいところをはらんでいるのかも知れません。西安事件にはいわゆるコミンテルン陰謀説みたいなものもあって、それについては半分は本当で半分は伝説みたいなものではないかと重います。コミンテルンが絡んでいたのは本当かも知れませんが、蒋介石氏と張学良氏の相互理解の関係はコミンテルンとは関係ありません。そしてなぜ、おそらくは逮捕監禁中にとんでもない目に遭わされたであろう蒋介石氏と、残り人生を軟禁された張学良氏の間にそこはかとない友情が感じ取れるのかということは、もっと別の奥深い繰り返しになりますが、日本人には理解し得ない何かがあるような気がします。ただし、中国語のインタビュー本を読んだ際、張学良氏が若いころは随分もてたと自慢していていて、実名を出して〇〇に住んでる〇〇さんと付き合ってたとか書いてあったんですけれど、そんなことをしゃべったら相手が迷惑するのではないかとそっちの方が心配になってしまいました。

今後の予定としては、盧溝橋事件、第二次上海事変、そして論争多き南京事件へと回を重ねて進めて行きたいと考えています。




日中戦争4 満州事変‐石原莞爾と張学良

張作霖氏が殺害される事件が起きた後、息子の張学良氏‐この人は20世紀の東アジア関係史で最も謎に包まれた人物と言えるかも知れないですが‐が張作霖氏の軍隊と地盤を継承します。張学良氏にはいくつかの選択肢がありました。一つは南下の機会を模索するソビエト連邦と連携すること、もう一つは大陸での権益の拡大を模索する関東軍と連携すること、三つ目は軍閥が群雄割拠する中、力を伸ばしてきた蒋介石氏と連携することです。

で、結果として張学良氏が蒋介石氏との連携を選びます。普通に考えて、当時、張作霖氏が関東軍によって命を奪われたことは既に知れ渡っていましたから、人情の問題としても関東軍との連携はさすがにないだろうと思います。一部には実は張学良氏はソビエト連邦の工作員で、それで蒋介石氏に近づいたんだとする説もあるようですが、私は噂で聞いたことがあるだけなので、まあ、そういう噂もありますよ、くらいに留めておきたいと思います。張学良氏の回想インタビューは音声、動画、書籍など複数ありますが、私が中国語で発行された最近の回想ものの書籍では、若いころにどんなガールフレンドと付き合っていたかを張学良氏がいきいきと語っているような内容で、しかも実名を出していますから、本当にこんなものを外に出していいのかとも思いましたが、後に起きる西安事件については一切の口を閉ざしているあたり、墓場まで重大な何かを持って行ったことは確実で、それが何なのかは永遠の謎になると思います。

さて、張学良氏が満州地方で実力を保ちつつ蒋介石氏と連携することは、関東軍にとってはなかなか面倒なことだったと言えると思います。関東軍が割って入る隙のようなものがありません。全ては張作霖氏を殺害した河本大作大佐が悪いのですが、そっちの方は放置したまま、どうやって割って入るかということを考え抜いた石原莞爾が柳条湖事件を立案します。当時、中村大尉が諜報活動中に張学良麾下の部隊に殺害されたこともあって、現状をなんとかしようと関東軍が模索していた様子も感じ取れます。繰り返しになりますが、河本大佐の件をうっちゃってなんとかするというのは、ちょっと難しいことではなかったかとも思えます。

いずれにせよ、1931年9月18日、板垣征四郎大佐や石原莞爾中佐らが柳条湖での南満州鉄道を破壊し、それを国民党の軍の仕業であると自作自演して先端を開きます。土肥原賢二、甘粕正彦が奉天占領に動き、関東軍は満州地方全域を手に入れる方向で動いていき、天津で亡命生活を送っていた愛新覚羅溥儀を迎え入れて独立政権の確立を目指します。日本領にせず、独立傀儡政権の確立へと動いて行ったことは、パリ不戦条約のような第一次世界大戦後の新しい国際秩序の中で、あからさまな侵略行動がとれない時代に入ったからだと説明することもできると思います。




昭和史76‐太平洋戦争は何故起きたのか(結論!)

資料を読み続けてきましたが、一応、手元に集めたもの全てに目を通しましたので、ここで一旦、昭和史については終えることにしますが、そこから私が得た知見を述べたいと思います。太平洋戦争は何故起きたのか、私なりに結論を得ることができました。

1、蒋介石との戦争に固執し過ぎた

日本軍、特に陸軍は蒋介石との戦争は絶対に完遂するとして、一歩も引く構えがありませんでした。しかし、情報・宣伝・調略戦の面では蒋介石が圧倒的に有利に展開していたということに
気づきつつもそこは無視してとにかく重慶を陥落させるということに固執し、空爆を続け、蒋介石のカウンターパートとして汪兆銘を引っ張り出し、新しい国民政府を建設し、蒋介石とは
対話すらできない状況まで持ち込んでいきます。情報・宣伝・調略の面では、蒋介石はソビエト連邦を含む欧米諸国を味方につけており、しかも欧米諸国はかなり熱心に蒋介石を援助していましたから、長期戦になればなるほど日本は疲弊し、国力を消耗させていくことになってしまいました。フランス領インドネシアへの進駐も援蒋ルートの一つを遮断することが目的の一つでしたが、それがきっかけでアメリカからの本格的な経済封鎖が始まってしまいます。アメリカから日本に突き付けた要求を簡単にまとめると、「蒋介石から手を引け」に尽きるわけで、蒋介石から手を引いたところで、日本に不利益はぶっちゃけ何もありませんから、蒋介石から手を引けばよかったのです。それで全て収まったのです。更に言えば、日本帝国は満州国と汪兆銘政権という衛星国を作りますが、味方を変えれば中国の国内の分裂に日本が乗っかったとも言え、蒋介石・張学良・汪兆銘・毛沢東の合従連衡に振り回されていた感がないわけでもな
く、汪兆銘と満州国に突っ込んだ国富は莫大なものにのぼった筈ですから、アメリカと戦争する前に疲弊していたにも関わらず、それでもただひたすら陸軍が「打倒蒋介石」に固執し続けた
ことが、アメリカに譲歩を示すことすらできずに、蒋介石との戦争を止めるくらいなら、そんな邪魔をするアメリカとも戦争するという合理性の欠いた決心をすることになってしまったと言っていいのではないかと思います。

2、ドイツを過度に信頼してしまった

日本が蒋介石との戦争で既に相当に疲弊していたことは述べましたが、それでもアメリカ・イギリスと戦争したのはなぜかと言えば、アドルフヒトラーのドイツと同盟を結んだことで、「自分たちは絶対に勝てる」と自己暗示をかけてしまったことにも原因があるように思います。日本だけでは勝てない、とてもアメリカやイギリスのような巨大な国と戦争することなんてできないということは分かっている。だが、自分たちにはドイツがついている。ドイツが勝つ可能性は100%なので、ドイツにさえついていけば大丈夫という他力本願になっていたことが資料を読み込むうちに分かってきました。確かにドイツは技術に優れ、装備に優れ、アドルフヒトラーという狂気故の常識破りの先方で緒戦に勝利し、圧倒的には見えたことでしょう。しかし、第一次世界大戦の敗戦国であり、植民地もほとんど持たなかったドイツには長期戦に耐えるだけの資本力がありませんでした。更にヨーロッパで二正面戦争に突入し、アメリカがソビエト連邦に大がかりな援助を約束してもいますから、英米はドイツはそろそろ敗けて来るということを予想していたとも言われます。日本帝国だけが、ドイツの脆弱性に気づかなかったというわけです。ドイツは絶対に勝つ神話を広めたのは松岡洋右と大島駐ベルリン大使の責任は重いのではないかと思えます。

3、国策を変更する勇気がなかった

昭和16年7月2日の御前会議で、南進しつつ北進するという玉虫色的な国策が正式に決定されます。フランス領インドシナへの進駐もその国策に則ったものですし、構想としてはアジア太平洋エリア丸ごと日本の経済圏に組み込むつもりでしたから、その後も南進を止めることはできなかったわけで、南進を続ければそのエリアに植民地を持つイギリス・アメリカとは必ず衝突します。アメリカとの戦争を近衛文麿が避けたかったのは多分、事実ですし、東条英機も昭和天皇からアメリカとは戦争するなという内意を受けていたのにも関わらず、国策に引っ張られ、国策を決めたじゃないかとの軍の内部からも突き上げられて戦争を続けてしまったわけです。

以上の3つが主たる原因と思いますが、どれもみな、日本人が日本人の意思としての選択であったと私には思えます。蒋介石との戦争に必然性はありませんから、いつでも辞めてよかったのです。ドイツを信用するのも当時の政治の中央にいた人物たちの目が誤っていたからです。国策だって自分たちで決めることですから、自分たちで変更すれば良かったのです。そう思うと、ほんとうにダメダメな選択をし続けた日本帝国にはため息をつくしかありません。私は日本人ですから、日本が戦争に敗けたことは残念なことだと思います。しかし、こりゃ、敗けるわなあとしみじみと思うのです。

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昭和史61‐蒋介石と汪兆銘と張学良と毛沢東

昭和15年5月11日付のとある情報機関の発行した機関紙によると、同年4月26日に南京に於て国民政府遷都慶祝大会が挙行されたという内容の記事が掲載されていましたので、ちょっと紹介してみたいと思います。「遷都」というのがポイントです。ここで言う国民政府とは蒋介石政権のことではなく、汪兆銘政権のことを指しています。つまり、汪兆銘政権が正式な中国の「国民政府」であり、重慶にいる蒋介石の国民政府はニセモノで、本物の国民政府を南京に「遷都」させて誕生させたというわけです。ですので、当時の段階では国民政府が2つあったということになってしまいます。国旗も酷似しており、どっちがどっちでどうなのかと言うわけのわからない混乱状況に陥ってしまった感があるのですが、「和平反共及び日華親善」という標語も見られ、日本帝国が汪兆銘政権の既成事実化を狙っていたことが分かります。当該記事をざっと読むと要するに蒋介石が共産党と手を組んだのがいけないということらしく、蒋介石が容共を続ける限り戦争は継続されるということらしいです。で、本当は日本人と中国人は大の仲良し、悪いのは蒋介石という構図になっているわけですが、不思議なことに毛沢東の名前をこれまで一度も見たことがありません。張学良の名前も全然出てきません。ひたすら蒋介石、蒋介石です。この辺り、裏があるとすればどんな裏があるのか、情報不足で推測するのもちょっと難しいのですが、打倒蒋介石に慣性の法則が働いて加速しているようにも思えます。このように日中戦争は「反共」を大義に継続されていったわけですが、一方で松岡洋右がスターリンと接近して日ソ不可侵条約を結び、太平洋戦争の最後の方になると、ソビエト連邦を唯一の友好国と頼みにするようになるのですから、やはり何かが誤っていた、どこかに齟齬が生じていたと感じないわけにはいきません。やっぱりゾルゲと尾崎穂積に誘導されていたということなのでしょうか。

国共合作も謎が多く、張学良がその真相については最期まで明かさなかったため、今に至るまで実際のところははっきりとはしていません。蒋介石が西安事件で監禁された時に脅迫されて共産党と協力することにしたということまでは分かります。しかしその後、自由の身になった蒋介石が太平洋戦争が終わるまでその約束を守り続けたことや、張学良が軟禁され続けたことも疑問です。普通に考えれば蒋介石が自由を回復すれば張学良を殺して既定路線通りに毛沢東と戦争を続けていたはずですが、そういう風にはなりませんでした。張学良の口述という中国語の本をパラパラっと読んだことがありますが、張学良は蒋介石を信頼していたらしく台湾に移転してからも親交が続いたと言っています。一体、裏に何があってどうなっていたのでしょうか。考え込んでいくうちに、蒋介石と汪兆銘の仲間割れ、張学良と毛沢東も加わった集合離散、合従連衡に日本帝国が振り回されていたようにすら思えてきます。

当該の号には上に挙げた記事の他に援蒋ルートについても説明されており、一般に援蒋ルートと言えば東南アジア、たとえばフランス領インドシナ、或いは英領ビルマからの重慶へのルートが知られていますが、ソビエト連邦から新疆方面を通って重慶への援助ルートがあると記載されています。ソビエト連邦からも援助がもらえたから蒋介石は西安事件後も国共合作を続けたという安易な判断でいいのかどうか、結論しかねるところですが、考えれば考えるほど、中国の近現代史は奥が深いというか、裏が深いというか、質実剛健とか武士に二言がないのが大和魂とかみたいにわりと真っ直ぐなことが好きな日本人にはとても太刀打ちできないよう事柄のように思えてしまい、その意味でも日中戦争は早々に決着させておくべきだったと思えてなりません。


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