昭和史72‐昭和16年7月2日の御前会議‐日本帝国終了のお知らせorz

昭和16年7月2日、近衛内閣が御前会議で「情勢ノ推移二伴フ帝国国策要綱」を採決します。閣議決定ではなく、御前会議ですから当時の感覚としては変更不能な絶対神聖な決定だと考えられたに違いありません。

私の手元にある資料では「御前会議にて重要国策を決定 内容は公表せず不言実行」と書かれてあります。当時の一般の人はどんな国策が決められたのかはさっぱり分からなかったというわけです。もちろん、現代人の我々はその内容を知る事が出来ます。1、大東亜共栄圏の確立を目指す 2、南進するが状況次第で北進もする 3、そのためには万難を排して努力する、というのが当該の御前会議で決められた国策だったわけです。

「大東亜共栄圏」については、当時はブロック経済圏を持たなくては生き延びることができないと信じ込んでいる人が多かったですから、まあ、理解できないわけではありません。大東亜共栄圏という美名を使って日本円経済ブロックを作ると言うのは、当時、覇権国のプレイヤーを自認していた日本帝国としては悲願だったということは、分かります。しかし、2番目の南進と北進両方やるというのは、玉虫色、ご都合主義、政府内の南進論者と北進論者の両方を満足させるための無難に見えて実は滅亡必至の国策だったと言わざるを得ません。日本帝国はもともとは南進を志向し、広田弘毅内閣以降、それは国策として進められ、日本帝国が南へ拡大しようとしていることは周知の事実であったとも言えますが、一方でソビエト連邦と共産主義に対して警戒感を持つグループでは北に備えるべしとの声が根強く、松岡洋右がソビエト連邦と中立条約を結んだことは平和的且つ低コストで北の脅威を払拭できた「はず」だったにもかかわらず、ドイツが不可侵条約を破ってソビエト連邦に侵攻したことで、「あわよくば」的な発想が持ち上がり、ドイツ側からは日本のソ連侵攻について矢の催促が来ていたことで、まあ、迷いが生じてしまったと言えるのではないかとも思えます。そもそも西で蒋介石と戦争を継続中で既に軍費が嵩んで日本帝国は青色吐息になり始めていたわけですが、更に東のアメリカと睨み合う中、南にも攻めていく、北にも攻めていくというのは、無理難題というものです。日本帝国は誰にも強要されたわけではなく自分たちで無理難題に挑戦することを選択してしまったと結論せざるを得ません。

仮に、ドイツと一緒に戦争に勝って日独新世界秩序みたいなものを作り上げることを優先するとするならば、断然、北進が正しく、ソビエト連邦は二正面戦争になりますから、日独勝利でもしかたら英米も弱気になって妥協するということはあり得なくもなかったかも知れません。この国策を受けて関東軍は満州で関東軍特別演習を行い、北進の機会を伺いますが、世界に「私たちは野心があります」とわざわざ宣言するような行為をしておきながら、日ソ中立条約もありますし、ノモンハンのトラウマもあって一線を越えることはありませんでした。資本力でドイツが劣っていることは一般知識だったとすら言えますから、長期戦でソビエト連邦に絶対に勝てるかと問われれば、普通なら絶対に勝てるとは思えないはずですが、ヒトラー信仰の空気が支配的になっており、日本が加担しなくてもドイツが努力でソビエト連邦を滅ぼしてくれるだろうというあまりに甘い観測で、状況を見誤ってしまったとも思えます。

一方で、南進は以前から国策だったこともあり、南部フランス領インドシナへの進駐をアメリカからの警告を受けていたにもかかわらず遂行し、結果としては経済封鎖を受けて、やむを得ず真珠湾攻撃へと至ります。すなわち、北進優先だったら戦争には勝てたかも知れないのに、南進の方を積極的に進めて日本帝国は滅亡への道をまっしぐらに大急ぎで駆け抜けてしまったと言ってもいいのではないかと思います。しかも「3」で万難を排してそれを遂行すると昭和天皇の隣席で決めてしまったので、アメリカと戦争してでも南進を推し進めることになってしまったわけです。日本帝国終了のお知らせorzです。資料を読めば読むほどがっくしですが、まだしばらくは続けます。

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昭和史57‐南進論とフィリピン

フィリピンは長年スペインの植民地下にありましたが、米西戦争の結果、アメリカ領になります。ただ、フィリピンではスペイン時代から独立運動、抵抗運動が根強く、アメリカ領になってからもその抵抗は続き、しかも宮崎滔天のようなアジア主義者がフィリピン独立運動に協力する動きも見せていましたから、アメリカも相当に手を焼いたようです。結果としては、アメリカの議会でもフィリピン分離論が盛り上がり、フランクリン・ルーズベルト大統領の時代にフィリピン独立法が成立し、第二次世界大戦後の1946年に既定路線通りにフィリピンは独立を果たします。

日清戦争の結果、日本が台湾を領有して以降、西洋列強は日本が更に南に位置するフィリピンに対して領土的野心を持っているのではないかと警戒していたようですが、1905年に桂・タフト協約でアメリカのフィリピンに対する権益を日本が犯さないと約束し、日本が朝鮮半島に対する権益をアメリカは認めるという交換協定のようなものが結ばれ、双方、手出しをしないという状況が続きます(上述したように、宮崎滔天のような民間人はいろいろ動いていたようですが…)。1908年には高平・ルート協定というものが結ばれ、日本はアメリカのハワイ・フィリピンに対する権益を犯さないと約束し、アメリカは日本の朝鮮半島及び南満州の権益を黙認するという協定が結ばれます。アジア太平洋地域に於ける勢力図の再確認のようなものだったと言っていいかも知れません。

ですが、日本国内では南進論が根強く、第一次世界大戦の結果、フィリピン東方の南洋諸島が日本の委任統治領になったことから、フィリピンは日本の領域に囲い込まれたアメリカ領という、ちょっと難しい位置になってしまうことになりました。

さて、先にも述べたように、フィリピンが1946年に独立することは30年代から既定路線になっていたわけですが、日本側が不安に感じたのはフィリピンに米海軍基地が存続するかどうかということだったようです。私が追いかけているとある情報機関の発行していた機関紙の昭和14年1月11日発行の号では、フィリピン独立法について述べられており、しかしその後もアメリカ海軍基地が存続するかどうかについての懸念が述べられています。当該記事では「比律賓の永久中立の問題」と「米軍海軍根拠地の問題」があると指摘しています。当時、この記事が出た段階では、日本帝国は広田弘毅首相の時代に五相会議で南進が決定された後なわけですが、それは云わばこっそり五人の大臣でそういうことにしようと相談して決めた程度のもので、具体的に南進論が閣議で正式に決定されるのは1940年7月、近衛文麿内閣でのことです。当該記事は同じ年の1月という微妙な時期に出されたことになるわけですが、独立後のフィリピンの「永久中立」を求めるというのは、日本の南進にアメリカ海軍が脅威になるという認識があったからに相違なく、もうちょっと踏み込んで言えば、南進論が国策になっている以上、そのうちフィリピンも獲りたい、控えめに言っても「大東亜共栄圏」構想にフィリピンを取り込みたいという狙いが背景にあったことは間違いないように思えます。欧米列強が自国の植民地が日本に獲られるのではないかと警戒したのは、読みとしては正しかったとも言えますし、結果的にこの国策が日本帝国を滅ぼすことになったとも言えるため、何もわざわざ遠い南国を獲りに行かなくても良いものを…という残念な心境になってしまいます。

日本の南進論が具体的に発動するのは北部仏印進駐からで、その後アメリカ側からは日本に対し、もし日本帝国が南部仏印にまで手を出したら経済制裁をすると警告を出していたにもかかわらず、南進の国策通り、日本帝国は南部仏印にまで進駐を始めます。フランス本国がナチスドイツに降伏した後なので、おそらくは渋々ではあったではあろうものの、日本のインドシナ進駐は平和的に行われました。ナチスドイツがフランス本国を抑えてくれていたおかげで楽にインドシナを獲れたという意味ではラッキーだったわけです。ただし、それが結果としては太平洋戦争への引き金へと発展していくわけですから人間の運勢と同じく、国運という言葉がついつい頭をよぎります。当時は、自国のブロック経済圏を持たなければやられてしまうという強迫観念のようなものがあったのではないかとも思えてきます。

太平洋戦争で山本五十六が真珠湾攻撃に出たのも、帝国海軍が如何にアメリカ海軍を脅威に感じていたかを示すもので、フィリピンにアメリカ海軍基地が存続するかどうかは当局者にとっては重大な関心事であったに違いありません。アメリカ軍は蛙飛び作戦で重要な島だけを獲って日本本土へ迫る方針で臨みますが、当初フィリピンは無視していいのではないかとの議論があったのに対し、マッカーサーが良心の観点からフィリピンは奪還しなければならないと主張した背景には、アメリカがフィリピン独立を約束していたということでより説得力を持ったのかも知れません。フィリピンでの戦いでは関東軍の主力が投入され、ほぼ全滅という悲惨な結果になりますが、更には関東軍の主力が不在になっていたために終戦直前になってソビエト連邦の侵攻がより容易になったと思うと、日本帝国がひたすら負のスパイラルへと落ち込んで行ったことが分かります。

フィリピンもインドシナも満州も日本から遠く離れた土地で、それらの地域が誰の主権に収まろうと日本人としては知ったことではないとも言えますが、その遠い土地を巡って何百万人もの日本人が命を落としたと思うと、いったいあの戦争はなんなのだと首をかしげざるを得なくなってしまいます。

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広田弘毅内閣

226事件で岡田啓介首相が退陣した後、組閣を命じられたのが広田弘毅です。当初、西園寺公望は近衛文麿を首相に推す意向を持っていたようですが、近衛が固辞し、吉田茂の説得で広田弘毅が組閣を引き受けることになったという経緯があるようです。

広田弘毅という人は見るからに文官風で、東京裁判で裁かれている姿を見ると、違和感というか受け入れがたいというか、何か不可思議な儀式を見せられているような気分になってしまうのですが、広田弘毅内閣の時代に軍部大臣現役武官制を復活させたこと、日独防共協定を結んだこと、それから近衛内閣の時代に外務大臣を務めた際、南京攻略戦後に強行な外交策に出てトラウトマン和平工作を水泡に帰させたことなど、確かに要所要所で日本が滅亡していく方向へと舵を切っていたと見ることも可能かも知れません。

軍部大臣現役武官制については、仮に予備役の軍人を大臣に据えることができたとしても、軍部大臣そのものが大抵の場合、陸海軍の意向を受けて行動もするし、辞表もチラつかせて脅しかけてくるしという面があるので、このことだけで軍国主義への道を開いたと考えるのは酷なように思えます。このような制度を作ろうと作るまいと、犬養毅が統帥権干犯問題で内閣を揺さぶる手法が可能だということを証明した後は、軍のなすがままにならざるを得なかったのではないかと私には思えます。

では、日独防共協定はどうでしょうか。日本としてはソビエト連邦に備えるための外交策で、リッペントロップが積極的に活動して締結されたものですが、後にアドルフヒトラーは独ソ不可侵条約を締結したことで「欧米事情は複雑怪奇」と言わしめるほどに当時の国策を実現していくものではなかったことが分かります。日本はアドルフヒトラーの外交のお遊びにつき合わされて引っ張りまわされただけで、英米からの敵視が増幅するという副作用もあったわけですので、こっちは体を張ってでも拒絶すべきものだったのではないかという気がします。

後に重臣会議のメンバーとなった広田弘毅は日独伊三国同盟の締結について、英米を敵に回すという理由で強く反対したらしいのですが、果たして日独防共協定は推して三国同盟に反対するというのはどういう心境なのかと首を傾げてしまいます。

もちろん「ソビエト連邦の脅威に対抗できるのならばヒトラーと手を組む、そうでなければ手を組まない」というロジックが理解できないわけではありません。しかしながら、最終的には対英米の協和が必須だったことは間違いなく、重要なポイントには取り組まず、小手先でいろいろなんとかしようとしたのが裏目裏目に出たのではないかという気がしなくもありません。大局を見誤っていたとしか言えません。

南京攻略戦後の交渉材料のつり上げによるトラウトマン工作の破綻は、広田弘毅が「外交のプロ」として、敵の首都を陥落させた以上、要求は更に大きくできるという常道を通したのかも知れませんが、実際問題としてはそれも裏目に出たわけで、策士策に溺れるの感が否めません。

東京裁判では広田弘毅は「自ら計らわない」に徹し、一切の自己弁護を行わなかったことで知られています。もしかすると、ヒトラーや蒋介石との外交で策謀を働かせ、次々と裏目に出て国を滅亡に導いてしまったことへの自責のようなものからそのような心境になったのではないかという気がします。

そうはいっても文官が文官としての仕事をして極刑に処されるというのはやはり気の毒というか、感情的に受け入れがたいものがあります。広田弘毅という人物をどう評価するかは、或いはあと30年ぐらい待ってみて、東京裁判の時代に生きていた人がいなくなったくらいからやり直さなくてはいけないのかも知れません。

広田弘毅内閣は馬場鍈一大蔵大臣の超巨大予算で混乱が生じ、寺内寿一陸軍大臣と政友会の浜田国松との間で「軍を侮辱するのか」「軍を侮辱していない。速記録を見返して軍を侮辱した箇所があったら私は腹を切る。もし見つからなかったら寺内君が腹を切れ」というタイマンの張り合いが起き、頭にきた寺内は広田首相に懲罰的な議会の解散を要求しますが、広田内閣は内閣不一致として総辞職します。

当時はもはや軍の影響力を排除した組閣は不可能に近い状態に陥っており、予備役の林銑十郎が次の組閣を担うことになります。

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