平治の乱‐平清盛の全盛期の始まり‐その後には頼朝と義経が

保元の乱で最終勝利者みたいな立場になったのが後白河天皇です。宿敵みたいになってしまった崇徳天皇を排除することに成功しただけでなく、源氏・平氏・藤原氏の内側にいる反対勢力の排除にも成功しました。権力の中の人たちは隅から隅まで後白河天皇派ですから、もしかすると天智天皇や天武天皇以来の強力な天皇だったと言えるかも知れません。

しかし、そのような後白河天皇にとって晴れやかな時代は長くは続きませんでした。政治を実質的に仕切ったのは側近の信西だったからです。おそらく、30歳くらいまで遊んでばかりいた後白河天皇は政策にも儀礼にも明るくなく、面倒なことは秀才の誉れ高いスーパーインテリの信西に頼む以外にはなかったのかも知れません。また、武力という点では平清盛に頼るしかありませんでした。要するに後白河天皇には、天皇という権威以外、何もなかったのです。よくよく観察してみると、孤独で遅咲きだった男が、平安末期の動乱の時代をバランス感覚だけで生き延びるためにどうすればいいか、知恵を絞っていたかわいそうな姿が目に浮かんできそうです。

さて、そのような信西に近づいたのが近衛天皇の母親だった美福門院です。美福門院は実子の近衛天皇が亡くなったことで非常に落ち込んでいたであろうことは想像できますが、彼女にはもう一人、自分で出産したわけではないけれども、我が子同様に育てた男の子がいました。その男の子は後白河天皇の息子であり、同時に美福門院の養子であるという状態だったわけです。そして美福門院にとって、後白河天皇は愛情をちっとも感じない赤の他人でしたから、後白河天皇を早く引退させて、その子を天皇にしようと信西に持ち掛けます。そもそも後白河天皇は、近衛天皇が亡くなった時の会議で、後白河天皇の息子がある程度成長するまでのつなぎとして天皇にするという合意があって即位した人ですから、秀才信西から見ても、後白河天皇の早期の引退は当然のことのように思えたはずです。後白河天皇にそれを拒否するだけの実力はありませんでしたから、おそらくは不承不承に受け入れて息子に譲位したものと想像できます。こうして登場した新たな天皇が二条天皇です。本来なら、後白河天皇はこれで上皇になり、院政ができるはずなんですが、信西にがっちり固められているので、政治には手も足も出ないというわけです。

ですが、後白河上皇は新たな作戦を思いつきます。藤原信頼という人物を抜擢するのです。信頼は通常では考えられないスピードで出世しますが、これは後白河上皇が人事に介入したからですね。但し実力のない後白河上皇の推薦によって出世するのは限界があります。信頼はもしかすると摂政関白くらいを狙ったかも知れませんが、そんなこと後白河上皇にできるわけないんです。途中からそれ以上進めなくなった信頼は不満を募らせるようになったと言われています。そして藤原信頼が挙兵し、京都御所を占拠して後白河上皇と二条天皇を逮捕します。平清盛がいればこんなこと、できなかったに決まっているんですが、清盛は京都を離れて熊野詣をしているところでした。信頼は軍事力を源氏の棟梁である源義朝に頼っていたんですが、義朝の軍事力はさほど強力ではなく、清盛が京都に戻ってくれば誰が勝つかは明らかでした。ただし、信頼側は後白河上皇と二条天皇を軟禁しており、上皇と天皇さえ手元にあれば清盛も手を出せないという計算もありました。信頼と天皇と上皇が一緒にいる以上、信頼に弓をひくことは天皇と敵対することになってしまうため、清盛にもためらいがあったわけです。226事件でも反乱軍が皇居を背後した山王ホテルにたてこもりますが、ロジックとしては同じもので山王ホテルに攻撃があれば、それは皇居に向かって弾を撃つことになるためうかつには手が出せないだろうとの計算があったというわけです。

平清盛が京へ戻ってくるまでの間、生命の危険にさらされていたのが信西です。信西は都の郊外に逃れ、穴を掘って入り、そこで清盛を待つことにしました。しかし、発見されてしまいます。信西は自害しようとしたらしいのですが、発見された時はまだ生きていたそうです。いずれにせよ信西は首を切られ、信西の首をやりにくくりつけた武士たちが京都市中を行進する様子を描いた絵画も残されています。

清盛は一旦、信頼に恭順の意を表します。当時、信頼が天皇と上皇を監視する係で、源義朝は軍事的に周辺を固める係との役割分担があったようなのですが、清盛が帰ってきたと知った後白河上皇はなんと脱出に成功します。そして最後の切り札の二条天皇までもが脱出し、信頼の監視体制の甘さがバレバレになるという事態に発展しました。

さて、後は清盛が信頼と義朝をなんの憂いもなく征伐すればいいというだけの話になりました。信頼は義朝に日本一の大馬鹿野郎と罵られて逃走します。義朝も東国へ向けて逃走するのですが、義朝は途中で家臣に殺されます。この家臣は平家滅亡後、義朝の息子の頼朝の命で殺されています。信頼の方は仮にも藤原氏のお公家さんですから、よもや殺されることはあるまいと思ったのでしょうか、しかし信西も藤原氏の人物です。信西を殺しておいて自分だけ助かるとはやはり考えが甘いですね。信西は後白河天皇に命乞いするも拒絶され、斬首されました。

このようにしてみると、関係者それぞれが痛みを感じる中、平清盛の一人勝ちみたいにも見えますが、もうちょっと考えてみると、少し違った構造が見えてくるようにも思えます。私は初めてじっくりと平治の乱について勉強した時に、これは最初から仕組まれていて、藤原信頼がはめられたのではないかとの印象を持ちました。黒幕は多分、後白河上皇です。後白河にとっては信西は目の上のたんこぶのような存在であったに違いありません。二条天皇に譲位させられ、自分の院政は形式的なものにすぎませんでした。信西さえいなければ…との悪魔のささやきはあるけれど、かといって表立ってやるわけにはいかない。そこで、自分の飼い犬である藤原信頼をかませ犬にしたというわけです。信頼が信西を殺せば、自分の手を汚さずに済む。信頼のことも用済みになれば見捨てればいいとの考えもあったことでしょう。信頼は後白河に命じられて挙兵したわけですから、後白河に命乞いしたのも助けてくれるとの確信があったのかも知れません。まあ、裏切られたわけですが。信頼の上皇と天皇への監視が甘いのもうなずけます。信頼からすれば、天皇のことはともかく、上皇はお芝居をしているだけで実は共犯ですから、監視なんてしなくてもいいと思えたんです。仲間なんだもの。後白河を信頼してしまったのが落ち度だったのかも知れません。

信西が死に、信頼が死に、後白河上皇は今度こそ自分が最終勝利者になったと思ったかも知れません。しかし、新たな挑戦者が台頭してきます。平清盛です。次回は後白河vs平清盛という感じの内容になると思います。

平清盛は保元の乱、平治の乱を通じて後白河の側に立ち、後白河を支えてきましたが、遂に全ての敵を倒した結果、後白河と最後の聖戦みたいな対決状態に入ってきます。しかし人が失敗する時は、まさかそんなことでと思うことで足元をすくわれるのが普通なのかも知れません。平治の乱の戦後処理で平清盛は痛恨のミスを犯すことになりました。源義朝の息子の頼朝の命を助け、伊豆へ島流しにしたのです。頼朝・義経が平氏と戦争することについてはまたもう少し後にやってみたいと思います。



信西という人生

保元の乱平治の乱について語る時、信西のことを外すことはできません。藤原氏に生まれたものの、高階氏の養子に入り、当代最高級の知識人と周囲に認められていたにも関わらず、出世の道が閉ざされてしまったことに抗議の意を示すために出家します。

ところが、妻の朝子が雅仁親王の乳母をしており、近衛天皇が亡くなったことを受けて雅仁親王が後白河天皇に即位することで、信西は突然出世します。雅仁親王は天皇になる見込みはないと誰もが考えていたため、信西の人生は想定外の展開を見せます。自分には出世の見込みはなく、育てている雅仁親王も天皇に即位する見込みもない、宮廷の中で冷や飯グループだと思っていたはずです。禍福は糾える縄の如しです。

これによって信西が中央政界に躍り出て、更に保元の乱で後白河天皇サイドが勝利し、いよいよ盤石。後白河天皇の即位にも彼は策動していたのではないかとの推測があり、保元の乱の戦略会議でも積極策を提案してそれが図星になるなど、狙った通りに物事が動いていくことに彼は自分でも驚いたのではないかと思います。

ただ、想像ですが賢しらさが目につく人ではなかったかと思えます。試行錯誤を経て訓練されて人間性が磨かれたり、知恵がついていくのなら良いかも知れないのですが、信西の場合はもともと自分の頭脳は優れているという自信があったことにプラスして急に出世したこと、更に実際に狙い通りに物事が動いたことで「自分の目に狂いはない」という過信が生まれたのかも知れません。また、策略家であるが故に、やはり策士策に溺れるという様を呈してしまいがちになったのではないかとも思えます。

近衛天皇が亡くなることで運を得て出世できたのですが、自分の才覚で出世できたとどこかで勘違いを始めた、どこまでが運でどこからが才覚によって結果を得られたのか分からなくなっていったのかも知れません。あるいは運勢とかそういったものは一切信用せず、全て自分の才覚で上へ行けたと考えたのかも知れません。だからこそより、自分の策だけを頼りにしたのではないかと思えます。もし、近衛天皇が17歳の元気のさかりで亡くなったことも信西のはかりごとによる結果だとすれば、自分の頭脳に湧いてくる策略だけが頼りだと思うのも、無理はないです。

朝廷全体に反信西派が形成され、後白河天皇派と二条天皇派に割れていた貴族たちが平治の乱では一致して信西排除に動いたと見られるあたり、そういう賢しらさが災いしたのではないかという気もします。また、あまりに策略だけで動き過ぎたことで友人がいなくなってしまったということもあるかも知れません。源義朝からの婚礼の申し出を断って、平清盛と婚礼を進めたのも、策をめぐらし過ぎて不信を買ったであろう彼の一側面をうかがわせています。

完全に想像ですが、若いころに不遇だったことで、心の底で出世していくことへの不安も湧いたことでしょうし、何かがおかしい、こんなに物事が簡単に進むはずがないという恐怖も覚えたかも知れません。不安だから更に策をめぐらせるを繰り返し、策はたいていの場合、誰かに見抜かれますから、不信を買うという悪いスパイラルに入って行ったようにも思えます。

平治の乱で郊外に落ちのび、土の中に隠れて敵をやり過ごそうとしますが、発見され最期を迎えます。このような土遁の術のような奇計を思いつくのも、信西らしいと言えば信西らしいやり方かも知れません。

実際に会えば嫌な人だったに違いないとも思いますが、不遇の人生の中で僅かな運と才覚を頼りに出世しようとした信西に同情してしまいます。かわいそうな人です。素直にそう思います。

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平治の乱の裏シナリオ

平治の乱は、保元の乱の勝者だったはずの人々が分裂し、最後は平清盛が大勢を制したことで、つとに知られている出来事です。個人的には、この政変には裏シナリオがあったのではないかという気がします。

藤原信頼が源義朝と手を組み、信西を殺し、後白河上皇と二条天皇を擁して京都政権を手に入れます。熊野詣に出かけていた平清盛が政変を知り急いで帰郷。二条天皇が平氏の拠点である六波羅に脱出し、それを知った後白河上皇も脱出します。天皇と上皇の両方が脱出したことを後で知った藤原信頼は逃走。後に捕まって斬首されます。源義朝も関東へ帰る途中で家臣に殺されてしまいます。結果、平清盛が全てを手に入れて全盛期を築くという流れになっています。

この流れを見て思うのですが、藤原信頼は、後白河上皇に弓を弾いて、新政権は世論の支持を得ることができると本当に思ったのでしょうか。藤原信頼はそもそもが後白河上皇の近臣ですので、後白河上皇の無力化は即、自分の無力化につながります。信頼がそのことに気づかなかったのが私には不思議なことのように思われます。

平安貴族は二条天皇派と後白河上皇派に割れており、政治の実際的な権限は保元の乱の後は後白河天皇と一緒に中央に出世した信西が握っています。取り合えず信西を排除することで二条天皇派と後白河上皇派が手を結んだともとれますが、信頼が前面に出て後白河上皇の居所を燃やさせるあたり、二条天皇派がシナリオを書いたような気がしなくもありません。

そのように考えると、藤原信頼は随分かわいそうな人で、二条天皇派に踊らされ、裏から糸を引かれて踊っていた哀れな人形のように見えてきます。彼本人に政局観のようなものは多分なく、真珠湾攻撃の後で、山本五十六が周囲に「これからどうする?」と言ったといわれていますが、同様に藤原信頼にも「これからどうするか」を考えていなかったように見えます。あるいは安心しきって二条天皇派の裏でシナリオを書いている人にまかせきってしまっていたのかも知れません。

平清盛は一旦は服従の姿勢を取り、その後、好機を見て天皇と上皇を自分サイドにつけていますが、これも「信西を排除した後は清盛に信頼を排除させて一件落着」の筋書きがあったものの、その後平氏政権が総取りするのは想定外で、慌てて今度は清盛排除を計画し、ところが源氏政権ができて更に想定外…というような流れだったのではないかという気がします。

当初、信西排除というわりとミクロなシナリオだったのが、あまりに大袈裟に仕掛けを作り込み過ぎて幕引きがうまくいかず、策士策に溺れる展開だったのかも知れません。

さて、最初に裏でシナリオを書いたのは美福門院か、それとも藤原経宗か…。美福門院が同じ年に亡くなり、後白河上皇がその分自由に動けるようになったことが不確定要因となって、世の中が変わって行き、全く想定していなかった平氏政権の誕生→源氏政権の誕生→武士の時代と流れて行ったようにも思えます。

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