平治の乱の裏シナリオ

平治の乱は、保元の乱の勝者だったはずの人々が分裂し、最後は平清盛が大勢を制したことで、つとに知られている出来事です。個人的には、この政変には裏シナリオがあったのではないかという気がします。

藤原信頼が源義朝と手を組み、信西を殺し、後白河上皇と二条天皇を擁して京都政権を手に入れます。熊野詣に出かけていた平清盛が政変を知り急いで帰郷。二条天皇が平氏の拠点である六波羅に脱出し、それを知った後白河上皇も脱出します。天皇と上皇の両方が脱出したことを後で知った藤原信頼は逃走。後に捕まって斬首されます。源義朝も関東へ帰る途中で家臣に殺されてしまいます。結果、平清盛が全てを手に入れて全盛期を築くという流れになっています。

この流れを見て思うのですが、藤原信頼は、後白河上皇に弓を弾いて、新政権は世論の支持を得ることができると本当に思ったのでしょうか。藤原信頼はそもそもが後白河上皇の近臣ですので、後白河上皇の無力化は即、自分の無力化につながります。信頼がそのことに気づかなかったのが私には不思議なことのように思われます。

平安貴族は二条天皇派と後白河上皇派に割れており、政治の実際的な権限は保元の乱の後は後白河天皇と一緒に中央に出世した信西が握っています。取り合えず信西を排除することで二条天皇派と後白河上皇派が手を結んだともとれますが、信頼が前面に出て後白河上皇の居所を燃やさせるあたり、二条天皇派がシナリオを書いたような気がしなくもありません。

そのように考えると、藤原信頼は随分かわいそうな人で、二条天皇派に踊らされ、裏から糸を引かれて踊っていた哀れな人形のように見えてきます。彼本人に政局観のようなものは多分なく、真珠湾攻撃の後で、山本五十六が周囲に「これからどうする?」と言ったといわれていますが、同様に藤原信頼にも「これからどうするか」を考えていなかったように見えます。あるいは安心しきって二条天皇派の裏でシナリオを書いている人にまかせきってしまっていたのかも知れません。

平清盛は一旦は服従の姿勢を取り、その後、好機を見て天皇と上皇を自分サイドにつけていますが、これも「信西を排除した後は清盛に信頼を排除させて一件落着」の筋書きがあったものの、その後平氏政権が総取りするのは想定外で、慌てて今度は清盛排除を計画し、ところが源氏政権ができて更に想定外…というような流れだったのではないかという気がします。

当初、信西排除というわりとミクロなシナリオだったのが、あまりに大袈裟に仕掛けを作り込み過ぎて幕引きがうまくいかず、策士策に溺れる展開だったのかも知れません。

さて、最初に裏でシナリオを書いたのは美福門院か、それとも藤原経宗か…。美福門院が同じ年に亡くなり、後白河上皇がその分自由に動けるようになったことが不確定要因となって、世の中が変わって行き、全く想定していなかった平氏政権の誕生→源氏政権の誕生→武士の時代と流れて行ったようにも思えます。

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保元の乱に見る勝ち方

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保元の乱は、弟が後白河天皇として即位することで院政への道が閉ざされた崇徳上皇が切れまくり、兄との権力闘争で不利になっていた藤原頼長がそこに加わり、源氏と平氏が分裂して天皇方と上皇方に分かれて戦争になったことは、つとに知られています。人間関係が複雑で、名前も似たような人がいっぱい出てくるので、誰が誰だかよく分からなくなってしまいそうですが、

勝利者      敗者
後白河天皇 vs 崇徳上皇と、
藤原忠通  vs 藤原頼長

とだけ抑えておけば、だいたい理解していると言っていいのではないかと思います。『保元物語』では、上皇方の源為朝が、戦争に負ける側を美しく描くという価値観に則って美化されているため、彼の活躍が目立ちます。天皇方についた義朝もびびって一旦退却するという場面も描かれますが、実際は数時間でけりがついたようです。

この戦いで勝者と敗者を分けたものは何か、という点について『保元物語』では、崇徳上皇サイドがわりと悠長に事を構えていて、為朝が「先手必勝、夜襲をかける」と建言したのを「天皇と上皇の戦争なのにそんな品性のない戦いができるか」と退け、朝になったら出陣して日中堂々と雅に戦おうと計画していたところ、後白河天皇サイドでは義朝が信西と相談して「先手必勝、夜襲をかける」で合意し、早々と兵を出しています。

このように見ると「先に決断をした方が戦争に勝てる」という法則性を見出すことができるかも知れません。とはいえ、21世紀に生きる我々は真珠湾攻撃で先手必勝しようとしつつも無残に日本が敗けたことを知っていますので、先手必勝であればいいというものでもないように思います。

『保元物語』によれば、源為朝が豪傑で敵を寄せ付けず、一進一退を繰り返したとされており、義朝が信西に「崇徳院の居所に火をつけるのがいいと思うが、恐れ多くてできない」という使者を送り、信西の方から「今手をゆるめてどうする、いいから燃やせ」という返事を受け取ってそれを実行し、崇徳上皇たちは脱出。雌雄が決しました。

このように見ると、一旦決心した後は怯むことなく、臆することもなく、前進し、良くも悪くも後先考えず、勝てそうな見込みを得られるものは全部やる、という姿勢によって勝利を得たことが分かります。

太平洋戦争では、国民には強気のメッセージが送られていた反面、真珠湾攻撃後の戦略については指導者たちは弱気と強気が入り混じって煩悶しており、いざいよいよという時に判断の迷いによって追い詰められていく場面が幾度も見られます。

そう思うと、より早く、そしてより強く決心した方が勝つ。ということも言えるかも知れません。

ただし、前提条件として、保元の乱では後白河天皇サイドが兵力において勝っており、後白河天皇が「現政権」に当たりますので正統性という点からも優位で、周囲の協力を得やすいという環境があったということを忘れることはできません。勝てるという環境が整った上で決心するという正攻法的な決断の手順が踏まれているとも言えますので、やはり運頼み、出たとこ勝負では周到に準備している相手には勝てないということの証左になるような気もします。何事も周到さが肝心要なのかも知れません。私のようなしがないブロガーに言えたことではありませんが…。

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