義経、死す‐レクイエム

司馬遼太郎は『義経』という作品に於いて、義経は戦争の神様のような男であると同時に、政治的には白痴であると述べています。なぜなら、義経は後白河から検非違使の役職を受けることにより、頼朝から敵視され身を滅ぼすことになったからで、検非違使の役職を受けるとはどういうことかについての認識がなかったというわけです。私はこの指摘は半分正しいと思いますが、残り半分は懐疑的です。今回はそのあたりを少し述べてみたいと思います。

まず、結論から言うと、頼朝はまず間違いなく義経は用済みになったら殺すか追放すると決めていたと私は思っています。一般には、京都の朝廷から独立した政権の構想を抱く頼朝が、後白河から検非違使に任命されることで京都と鎌倉との両属状態になった義経を敵視したために、追放劇があったとされていますが、検非違使の件は義経追放の口実に過ぎなかったであろうと私には思えるのです。

その理由なのですが、一つ目の理由として、義経とともに平家追討の功績を上げた頼朝の弟の範頼も後に殺されているということを挙げたいと思います。頼朝には何人もの異母兄弟がいますが、その多くは若くして亡くなるか、僧侶になって権力から距離をとるかどちらかになっており、現実政治に参加していたのは範頼と義経だけでした。そして平家追討をやり遂げた二人は当然、頼朝にとってライバルであり、頼朝さえ死ねば彼らに源氏の棟梁のチャンスは巡ってくるわけですから、この二人への警戒心は強く、順番に死に追い込んだというのが真相なのではないかと私には思えるのです。もちろん、二人の弟を殺した後、頼朝も不可解な死を遂げていますから、全てを仕組んだのは北条氏なのかも知れません。たとえば北条政子が頼朝に対し、義経と範頼には警戒しなければならないと吹き込み、排除させたのではないでしょうか。本来、頼朝にとって兄弟は一緒に源氏を支える重要な仲間です。父の義朝の時代にいったん滅んだと言ってもよい源氏は、頼朝が再度創業したようなものですが、結果として頼朝が自分の意思で弟たちを死に追いやり、後は頼朝と世間知らずな息子たちと見た北条氏が源氏潰しを始めたと見るのはそこまで見当違いのようにも思えません。頼朝は金も兵隊も北条氏に頼っていましたから、義経と範頼がいなくなった後は裸の王様みたいになっていました。北条氏の権力への明確な意思によって、そのように仕組まれたのだと私はこの時代のことを考えるたびに、そのように思えてしかたがないのです。

次の理由として、頼朝の義経追放の命令書の発表時期の不可解さがあります。義経が後白河によって検非違使に任官されたのは、1184年の8月のことなのですが、頼朝が義経追放の命令を発したのは1185年の4月です。ちなみに平家が滅亡したのは同じ年の3月でした。即ち頼朝は義経が平氏を滅亡させるのを待って追放の命令を出したということになるのです。用済みになったから義経を排除したと考えるのが普通なのではないでしょうか。

義経はその命令書で京都に留まるようにと命じられました。鎌倉への帰還は認めないというのです。私はこの時の義経の動きについて、残念な思いになってしまいます。この時の選択ミスがよくよく考えてみると、義経の命取りになったのではないかと言う気がするのです。義経にとって最大の庇護者は後白河でした。ですからそのまま京都にとどまり後白河の右腕として活躍していれば、義経は京都政界に於いて不動の地位を得ることになり、後白河は頼朝を征夷大将軍に任命することを非常に嫌がっていましたから、義経にしかるべき地位を与えて源氏の棟梁格として扱うことにより、頼朝を中央政治から排除するということもあり得たわけです。義経には清盛のように政権の簒奪を考えるような野望もありませんでしたし、木曽義仲のように部下に粗暴なふるまいもさせなかった、京都育ちの知識人ですから、後白河とはうまくやれた可能性は充分にあります。むしろ鎌倉の武士たちが義経の京都人ぽい雰囲気に反発しまくっていましたから、義経は懐かしいふるさとの京都にとどまっていればよく、敢えて敵地の鎌倉に帰還しようなどという無謀なことを考える理由などなかったのです。

しかし義経は、鎌倉に向けて出発します。そして鎌倉と藤沢の間くらいにある腰越で足止めされてしまうのです。今でも江ノ島電鉄の腰越駅というのがあって、あのあたりを通ると私はきらきらと光る海を見つめながら鎌倉への入境許可がおりるのをじっと待つ義経の様子を想像してしまいます。義経は腰越状と呼ばれる手紙まで書いて頼朝に理解を求めましたがなしのつぶてであり、やむを得ず京都へと引き返すことになります。

義経は京都の自宅でおそらくはくすぶった心境で日々を送っていたはずですが、ここへ頼朝から追手が差し向けられます。追手は義経にやられてしまいましたが、頼朝のやり方に怒りを隠すことできず、義経は同盟者の源行家とともに後白河に頼み込んで頼朝追討の命令を出してもらいます。義経からすれば後白河の命令書があれば自分が正義の側に立てると踏んだのだと思いますが、これは後白河のやり方とは全く違うので、後白河からは決定的にうっとうしいやつ認定された可能性が強いように思います。後白河は正義・不正義、正統・傍流などの考え方で生きてきた人ではないです。もともと天皇になれない運命で諦めていたのが、関係者が死んだことによって偶然権力への道が開けました。平清盛という巨人との権力ゲームでも、常に待つことで状況の改善のきっかけをつかんできました。要するにじっと待ちながらこつこつとやれることやることにより、既成事実を積み上げて気づくと勝利しているというのが後白河のやり方なわけです。それに対して義経は命令書のような体裁を整えることを優先していますから、後白河の目から見て義経には勝てないということは明らかなことであったでしょう。先ほども述べましたが、義経が鎌倉へなんか行かずに京都にとどまり、後白河の希望通り検非違使の仕事をしていれば、ちょっとずつ出世をしてそのうち将軍なり左大臣なりになった可能性は充分にありますし、京都で義経が健在でいた限り頼朝が征夷大将軍の地位を手に入れる可能性は極めて低い、絶望的であったとすら思えます。源氏のトップが2人いるということはあり得ず、後白河の懐に義経がいる以上、源氏の棟梁にふさわしいのは義経で、頼朝は実績も特にない普通の人になってしまったことでしょう。この場合、義経は後白河の権威を充分に受けていますから兵隊も集めやすく、頼朝は手も足も出なくなった可能性すらあります。しかし義経は鎌倉へいったん向かいましたから、このことによって自分は京都の公家社会とは距離を置く鎌倉武士なのだと宣言してしまい、結果として京都での居心地を悪いものにしてしまっていました。平家打倒によって人々が感じた熱は次第に冷め、義経は平家との戦いが始まる前のような無名の人物となんら変わらないような立場へと転落してしまったというわけです。

義経は公式に頼朝打倒を掲げ兵も募集しましたが、兵は集まりませんでした。義経は全国の武士から狙われる身となってしまい、やがてかつて自分を厚遇してくれた奥州藤原氏へと身を寄せます。しかし頼朝の圧力に屈した奥州藤原氏によって包囲・攻撃され、義経は自害するという悲劇的な運命を辿りました。結果としてはこの悲劇性があるがゆえに義経の人気は高まったと言えると思います。日本一人気のある歴史上の人物は疑いなく義経でしょう。

義経美少年伝説というものがありますが、なぜそのような伝説が生まれたのかは気になるところです。義経の肖像画が中尊寺に残されてはいますが、戦国時代か江戸時代に描かれたものだと考えられています。そのため、実物を反映しているとは考えられません。おそらくは能の舞台で義経が登場する時、義経役は必ず幼い男の子でなくてはならないとの決まりが長く守られてきたため、舞台のかわいい男の子のイメージが人々の心の中に定着し、美少年伝説が形成されていったのではないかと思います。義経は短い人生で多くの女性と交際した人で、その数は5人や10人ではすまないくらいの感じだったようです。ですから義経の人生をよりリアルに描こうとすると、その時々に応じていろいろな女性が登場しなくてはいけません。そして官能的なやりとりも描かれざるを得ない場合もあるわけです。しかし、能という芸術は男女の官能というものを表現することを徹底的に嫌いました。ドナルド・キーン先生の『日本人の美意識』では、特に静御前との別れが官能的になりかねないために要注意で、観客にそういったことを一切連想させないために幼い男の子に義経役を演じさせるのだと解説しています。最近では児童労働の問題がありますから、大人の男性が義経役をやることも容認されるように時代に合わせて変化しているそうです。

以上、義経がなぜ死ぬことになってしまったのかを、私なりに考えてみた、義経のためのレクイエムです。



後白河上皇と平清盛

保元・平治の乱を通じ、後白河と平清盛は互いに蜜月であったと言っていいと思います。後白河は清盛の武力を頼りにしていましたし、清盛は後白河の権威を必要としていました。いいコンビだったと言えます。途中までは。

平治の乱が終わってから、後白河上皇と二条天皇の主導権争いは続いてはいましたが、二条天皇が早世して両者の争いは終わりました。二条天皇の息子で後白河の孫にあたる小さな赤ちゃんが六条天皇として即位しますが、この六条天皇もほどなくして退位し、史上最年少の上皇になります。で、六条天皇の次に天皇に即位したのが、高倉天皇なんです。この人は二条天皇の弟で、六条天皇から見るとおじさんということになります。無理に無理を重ねて皇位が高倉天皇のところへ行くように、後白河と清盛が協力していた可能性はあるのではないかと思います。というのも、高倉天皇の父親は後白河で、母親は平氏の女性だったからです。この人物を天皇にすることで後白河と清盛の利害が一致したというわけです。

清盛はこれで満足したわけではありません。彼が強く望んだことは、高倉天皇に自分の娘を送り込み、見事に男子を産んでもらうことで、その男の子を天皇にしようという遠大な計画があったわけです。清盛の娘の徳子が中宮になって、ついに高倉天皇の子どもを出産します。清盛の熱望していた男子の誕生で、高倉天皇はさっそく譲位させられ、清盛の孫が安徳天皇として即位します。清盛の権力の野望はここに絶頂を迎えたと言っていいでしょう。清盛は天皇の祖父になったのです。藤原氏が長年権力を維持してきたモデルと同じことを清盛は実現しました。藤原道長が自分の娘を一条天皇に送り込み、男子が生まれて歓喜したと言われていますが、同じ状態ですね。清盛大フィーバーに違いありません。

しかし、この強引な天皇人事が清盛と後白河の間を疎遠なものにしていきました。高倉天皇は後白河と血縁があり、清盛とは血縁がありません。高倉天皇にとって、清盛は奥さんの実家のお父さんです。ですから、高倉天皇に監督権があるのは天皇家の家長の後白河のみということになります。従って、後白河としてはやりやすかった。しかし安徳天皇の場合、父方の祖父が後白河で、母方の祖父が平清盛ということになりますから、二重権力構造になってしまい、後白河と清盛の間でマウントを取り合うことにならざるを得ません。高倉天皇退位の直前の時期に、清盛打倒工作が朝廷内で進んでいるという疑惑が持ち上がり、公家たちの反清盛派と目される人物たちが粛清されています。もともと両者は互いに警戒しつつ仲良くしていましたが、ここで一挙に双方不信感爆発ということになったわけです。当時、朝廷内部では清盛に対する不満が沸騰していたらしいということも、関係してくるとは思います。清盛が安徳天皇の外祖父になったわけですが、これは藤原摂関家が何百年もやり続けてきたことなわけですから、彼らからすると権力を簒奪されたということになってしまいます。そしてそういった公家社会での不満を引き受けるのは最終的には後白河ということになりますから、もともと清盛とは同盟関係ではあったものの、公家社会の不満を聞いて、自分も清盛の台頭には不満を感じていたわけですから、清盛は邪魔になってきたわけです。また、当時の平氏は日本の荘園の半分を手に入れていて、他の公家や武家を排除する方向に動いており、平氏の人物がついうっかりと、平氏でなければ人にあらずという、失言してしまったのもこの時期になります。

そういうわけで、いよいよ平清盛と後白河の頂上決戦へと話が進んでいくわけですが、けりをつけようとして動いたのは清盛の方でした。清盛は既に安徳天皇を得ていますから、後白河のことは排除すればそれでOKくらいな感じなわけですね。で、何をしたかと言うと、後白河を拘束して軟禁状態にしたわけです。かつて清盛は平治の乱の時に後白河と二条天皇を軟禁した藤原信頼を打倒しましたが、この段階になって、今度は自分が後白河を軟禁することになったわけです。権力闘争とは恐ろしいものです。そして大した後ろ盾もなく能力も大してなく、誰からも特に愛されていた様子もない後白河の方が結局は生き延びたと言うのも、権力闘争の摩訶不思議なところです。

後白河が軟禁状態になったことを受け、後白河の息子で最も冷遇されていた以仁王が平家打倒の令旨を全国に発し、それを口実に源頼朝が挙兵します。平氏は一機に追い詰められ、苦境の打破を狙った清盛は遷都を強行しその直後に熱病で倒れます。平安末期の長い長い戦いの歴史は一機にクライマックスを迎えますが、それは次回に詳しくやりたいと思います。




保元の乱-複雑すぎる人間関係-そして平清盛の時代へ

平安時代の終わりの始まりと言える保元の乱は、知名度の高いできごとであるわりには、内容的なことはさほど知られてはいないと思います。というのも、人間関係が非常に複雑で、更にその時代の慣習に対する理解がないとわけがわからないということが多く、学校の教科書などではとても説明しきれるものではないからなんです。

今回はできるだけ簡潔に、分かりやすく、本質的な肝の部分に集中して述べてみたいと思います。事の発端は天皇家の内紛にあります。当時の天皇家は白河上皇以降、院政をする上皇が政治の実権を握っていました。で、白河上皇の次の堀河上皇の次の鳥羽上皇という人がいて、その人の一番上の息子さんが崇徳天皇になります。崇徳天皇は今回の最重要人物の一人です。この段階で鳥羽上皇が政治の実力者で崇徳天皇は鳥羽上皇の指導監督を受け入れる立場ということになります。ですが、そのことに天皇が不満を抱く必要は本来ありません。自分が天皇を引退して院政をする、その順番を待っているだけのことだからです。ところが、崇徳天皇の場合だけ、そういうわけにはいきませんでした。鳥羽上皇は崇徳天皇を退位させて、上皇を名乗らせるんですが、次の天皇を崇徳天皇の息子である重仁親王ではなく、崇徳天皇の弟を指名し、その人が近衛天皇になります。上皇が院政をする条件は現役天皇の直接の父か祖父であることが原則必須なので、崇徳上皇の弟が天皇になった場合、崇徳上皇の院政をする権利が失われてしまうんですね。崇徳上皇からすれば、親父に騙されたようなものです。もっとも、崇徳上皇は鳥羽上皇の息子ではなく、白河上皇っていう三代前の遊び人上皇の息子説があるので、げ、気持ち悪いって話なんですが、それで鳥羽上皇は崇徳上皇を好きになれなかったという話もあります。本当かどうかは分かりませんけれど、崇徳上皇には罪がないですから、本当だったとしても気の毒ですよね。

で、ですね、この近衛天皇の即位については、母親の影響力の問題もあるんです。崇徳上皇と近衛天皇は兄弟なわけですが、母親が違うんですね。崇徳上皇の母親は待賢門院という人で、近衛天皇の母親は美福門院という人なんです。どちらも鳥羽上皇のお妃さまになるわけですが、母親同士、自分の産んだ息子を天皇にしたいと願う策謀があったとしても理解はできます。近衛天皇の即位はその母親の美福門院の勝利であり、即ち崇徳上皇の母親の待賢門院の敗北を意味しています。このままいけば、近衛天皇の子孫が天皇家を継承していくことになると考えられました。

ところが、番狂わせが起きます。近衛天皇が若くして亡くなってしまうのです。近衛天皇は17歳だったため、皇太子もいなかったのですが、近衛天皇の崩御を受けて、皇室関係者で会議が開かれます。崇徳天皇の息子の重仁親王を押す声もあったようなのですが、鳥羽上皇が全力で拒否し、崇徳天皇のもう一人の弟が後継者として選ばれます。この人が後白河天皇なんですね。源平の戦いとかになると、必ず悪役として語られる超有名なトリックスターです。後白河天皇という人は自分が天皇になれるとは思っていなかったし、周囲もそうは思っていなかったので、遊んで暮らすことしか考えていなかった人で、白拍子の今様とか踊れたとかって話が残ってますから、まあ、現代風に言えばストリートダンスみたいなのが得意な高貴な若者だったような感じだと思うんです。庶民と一緒に遊んでいた人が天皇になるんですから、今だったらけっこう魅力的な人として扱われたかも知れませんね。で、彼が天皇になった時はすでに成人していました。当時は天皇は子どもがなるもので、大人になったら上皇になるのが普通と考えられていましたから、大人になってから天皇になるって実はちょっと変な感じなんですよ。でも、その変な感じなにもかかわらず、みんなでごり押ししちゃったんですね。はっきり言えば、崇徳上皇には権力を渡さないとする鳥羽上皇の強い意志を感じますね。後白河天皇は崇徳上皇と同じ母親を持っていて、先ほど述べた待賢門院なわけですから、待賢門院的には受け入れることができる人選であったと言えるかも知れません。待賢門院と美福門院のばちばちの対決は待賢門院の勝利で決着したわけです。美福門院は反撃するんですけど、それは次回やりますね。

ですが、崇徳上皇は納得できませんでした。後白河天皇が弟である以上、自分が院政をすることができないからです。私だったら政治をするより上皇になったら遊びたいですけど、崇徳上皇は多分、よほど鳥羽上皇にいじめられたんでしょうね。そんなことではすまなかったんだと思います。で、鳥羽上皇が亡くなるのを待って、崇徳上皇は兵を集めることにしました。崇徳上皇が兵を集めているという知らせが後白河天皇のところに届き、後白河天皇のところにも兵が集まり始めます。源氏・平氏の武士も分裂して崇徳上皇のところに集まった武士と後白河天皇のところに集まった武士とにわかれました。これからスーパースターになっていく平清盛は後白河天皇のところに自らの兵を率いて集まったんですね。当時、藤原摂関家も跡目相続の争いが起きていて、一旦は相続を約束されたのに反故にされてしまった藤原頼長という人が崇徳上皇の味方につきます。崇徳上皇サイドはなんというか、排除されてしまった人たちの集合体みたいになっていたんでしょうね。

京都を舞台に後白河天皇派と崇徳上皇派がそれぞれに集まって一触即発ということになり、後はどちらが先に手を出すかという感じになりました。崇徳上皇の陣地では、夜明け前に夜襲をかけ、敵の陣地を焼き払えばいいじゃないかとの意見が出ましたが、それは卑怯な手法だとして却下されます。崇徳上皇の側は政治的に敗けてしまった人たちが集まっているため、ここで卑怯な手法をとってそれでも負けてしまったら、やっぱりあいつらはダメなやつらだったんだと言われかねないと不安になったのではないでしょうか。仮に負けたとしても正々堂々と戦ったという名誉は残したいと思ったのかも知れません。非常に気の毒なのは、歴史は勝利者の都合のいいように書かれるので、敗けても有終の美があるというのは、甘美な幻想に近いところがあるんですが、それに崇徳上皇は気づいていなかったというか、そういったイメージにしがみつきたいくらい不安だったのかも知れませんね。

一方の後白河天皇の方でも軍議が開かれ、平清盛は夜襲を主張し、それが受け入れられて彼らは実行に移します。後白河天皇としては崇徳上皇に院政の権利がない以上、自分たちが正統な政権であり、正規の軍事行動によって暴徒を鎮圧するのだから夜襲であっても卑怯でもなんでもないというロジックがあったのかも知れません。

未明になって後白河軍が出撃し、両軍は鴨川を挟んで一進一退したと言われていますが、後白河サイドが崇徳サイドの建物に放火し、崇徳上皇と藤原頼長が脱出して勝負が決まります。藤原頼長は重傷を負い、奈良に逃げてそこで命を失います。崇徳上皇は捕らえられて讃岐に島流しです。崇徳上皇は讃岐でなくなりますが、激しい恨みと憤りを抱えたまま亡くなったために怨霊になったとも言われます。今は崇徳上皇の御霊は手厚く神様としてお祭りされています。

保元の乱はこのようにして幕を閉じましたが、政治の実権は後白河天皇の側に就いた当時最強のインテリである信西が握りました。側近政治が始まったと言っていいでしょう。それまでは天皇家との血縁の距離が政治力を決めましたが、信西は血縁を越えたわけです。当時の常識をくつがえすできごとであったために軋轢がうまれ、反発もうまれ、次の平治の乱で信西は殺されて平清盛の時代へと続きます。保元の乱で実際に戦闘をしたのは武士階級の兵士たちです。たとえ皇族であろうと貴族であろうと、武士が集まって来なければ敗けてしまいますから、実質的に武士が政治のキャスティングボードを握る時代に入ったということもできます。それまでひたすら貴族に従っていた武士が、あ、あれ、俺たちって強いよね?と気づいたと言ってもいいかも知れません。武士の時代の始まりの始まりのスタートラインが保元の乱であったわけです。



平清盛の登場

平清盛はお母さんが誰なのか漠然としか分かってはいません。有名な『平家物語』では、祇園女御という女の人が母親だということになっています。で、この祇園女御という人はですね、白河天皇のおそばに仕える女性であったようです。平清盛の父親は平忠盛という人なんですが、当時のお公家さんが書いた日記によると、この人の奥さんは白河天皇のお近くで仕えていた女性だったということらしいので、平忠盛と祇園女御の間に清盛が生まれたということであれば、それでめでたしなのですが、実は清盛の本当の父親は白河天皇なのではないかと、ひそかに噂されていたようです。

というのも、白河天皇は天皇を引退して上皇になってからというもの、それはそれは手あたり次第に女性と関係する人で有名だったようなのです。そのため、祇園女御が妊娠したことがわかると、白河天皇の北面の武士として忠実に使えていた平忠盛に与えたという話になるんですね。白河天皇というか白河上皇の女性好きはちょっと信じがたい伝説にもなっていて、崇徳天皇は一応鳥羽天皇の息子ということになってるけど、実はその前の前の天皇の白河上皇が本当の父親というようなへんな噂です。本当だったら意味不明で気持ち悪いです。

この白河天皇の名前がわりと有名な理由は、院政を本格的に始めたのがこの人だからなんですね。それ以前も院政が行われていたんじゃないかとの指摘もあるようなんですが、本当にパワーを発揮したのはこの人からということで、藤原摂関家と上皇が協力して政治をするというのがサイクルになっていたと考えられています。表面的には協力という表現になりますけど、実際には互いに権力という綱を引っ張り合っていたという感じではないでしょうか。ちょっと藤原摂関家で不幸が続いてしまい、藤原氏の方がパワーダウンしてしまった間隙を突くように、白河上皇が権力ゲームの最終勝利者みたいになったようです。院政の特徴は、上皇という天皇家の家長が天皇を監督するという形で政治を行うため、藤原氏の摂関政治よりはるかに強権的に物事を進めることができたということのようです。従って、多くの荘園の寄進があったりして、儲かる儲かるフィーバー、みたいなところもあったかも知れません。

まあ、それくらいパワーのある人だったので、平忠盛も祇園女御を与えられて、ますます忠誠に励んだのかも知れません。一応、祇園女御の妹が実は平清盛の本当の母親という説もあるにはあるんですが、なんか、どっちでもいいというか、知れば知るほどどろどろしていて疲れてしまいます。

いずれにせよ、この平清盛は出世が早いんですよ。12歳で従五位になります。従五位というのはお公家さんの一番下の位なんですが、要するに清盛は武士の出身なのに公卿になることができたというわけなんです。この異例の大出世の理由としては、祇園女御が相当なパワーを持っていて、清盛を押したからだとも言われますし、そのような押しがきいたのは、祇園女御が元白河天皇の恋人だったから、あるいは、やっぱり清盛は本当に白河天皇の息子だったから。というようなゴシップぽい話になるわけです。

今回は推測だらけで誠に申し訳ないとも思うのですが、それくらい謎に包まれた平清盛が天下を獲るというのは、とても魅力的なおもしろいことだと思うので、次回以降、平清盛を中心に保元の乱、平治の乱、そして清盛の天下獲りから平家の衰亡へと話を進めていきたいと思います。平安時代末期は武士が台頭して戦乱の時代になるわけですが、清盛はめっちゃ強いんですね。そういう謎な面と優秀な面を持ち、トップに駆け上がったというのが、繰り返しになりますけど、魅力的に思えてなりません。



源氏物語と摂関政治

平安時代、天皇が直接政治に関わって意思決定をする時代は終わり、代わりに藤原氏による摂関政治が通常運用されていくようになります。

藤原氏による摂関政治がどういうものかをなるべく手短に述べてみたいのですが、まず天皇の皇后を必ず藤原氏の女性にします。で、皇后が生んだ男子を次の天皇に即位させます。そうすると、皇后の実家の藤原氏のお父さんは、天皇の母方の祖父という立場になります。ですから、眷属という観点から言えば、この藤原氏のおじいちゃんは天皇よりも立場が上になります。ですので、天皇が幼少の間はこのおじいちゃんが摂政として天皇の代わりに政治を行うわけです。摂政は天皇代理ですね。で、天皇がだんだん成長して大きくなってくると、摂政は必要ありません。天皇は大人になったらなんでも自分でできるからです。ですから、建前上、摂政は終了します。代わりに関白が天皇の代わりに政治をします。関白の場合は、天皇代理ではなく、天皇に対して政治の責任を負うという感じですね。戦前の内閣が天皇に対して責任を負っていたのとイメージとしては近いと思います。建前としては、天皇は素晴らしいので、摂政に頼らなくていいんだけれど、政治のような汚れ仕事は関白がやりますから、どうか帝は毎日楽しく過ごしてくださいという感じでしょうかね。誰が関白をやるかというと、天皇の母方の祖父として摂政をしていた人が引き続き関白をやります。メンバーは同じなんですね。要するに形式を整えて藤原氏が政治権力を完全に握り、天皇は実権を失っていきます。とはいえ、これで両者が持ちつ持たれつ、うまくやっていたのが摂関政治とも言えるでしょう。天皇家に政治の実権を奪い返そうとしたのが白河上皇による院政の開始ということになりますが、これまた次回以降になると思います。で、このシステムが機能し続ける限り、天皇の母親は必ず藤原氏の摂関家の人でなくてはいけませんでしたから、逆に言うと天皇の息子でも、お母さんが藤原摂関家の人でなければ用済みというか、生きていると逆に命を狙われるかも知れないので一休さんみたいに早々に出家したりするということになるんですね。

さて、この摂関政治の最盛期がいつかと言えば、非常に有名ですけれど、藤原道長の時代だったわけです。ただし、道長自身はもともと藤原摂関家のトップだったわけではないんですね。藤原摂関家のトップを氏の長者と言ったりしますけれど、道長にはお兄さんがいました。で、このお兄さんが道隆という人なんですが、お酒が大好きな人で、関白まで上り詰めるものの、糖尿病で死んでしまいます。で、道長にチャンス到来というわけです。おそらくはあちこちに賄賂も送って様々な工作に明け暮れたと思うのですが、兄道隆の息子が藤原氏の氏長者になることを阻止することに政治生命をかけて成功し、自分が氏長者になることを一条天皇に認めてもらいます。道長は権力強化のために、自分の娘彰子を一条天皇の皇后にします。実はこれはかなり強硬策だったのです。というのも、一条天皇には既に、藤原道隆の娘の藤原定子という女性を皇后にしていたんです。天皇は権力者ですから側室を複数持つことは問題なかったんですが、皇后二人は一条天皇以前にはありませんでした。つまり初めてのことでした。皇后は天皇の正妻さんなわけですが、一条天皇には正妻が二人いたわけです。清朝最後の皇帝だった溥儀には第一夫人と第二夫人がいたのは、ラストエンペラーという映画でも描かれていますが、溥儀の正式な妻は飽くまでも第一夫人だけであって、第二夫人とはランクが違っていました。それくらい正式な妻は一人というのが近代以前の東洋でも普通な概念なわけですが、一条天皇には同格の皇后が二人いたわけです。その異例ぶりをご理解いただけますでしょうか。

そして、道長の娘の彰子の家庭教師になったのが、源氏物語を書いた紫式部というわけですね。ちなみに、ライバルの皇后である定子の家庭教師が清少納言です。時々、おもしろがって紫式部vs清少納言みたいな語られ方をすることがありますが、世代的には清少納言の方が若干上で、両者は面識はなかったみたいです。紫式部は清少納言をライバル視していたみたいですが、清少納言からすれば自分の引退後に紫式部が出てきたみたいな感じなので、どうでもよかったんじゃないですかね。

紫式部は宮中に仕えながら源氏物語を書いたわけですが、これが平安貴族の間で大ヒットし、紫式部は一挙にスターみたいになったそうです。一条天皇も源氏物語を愛読していて、紫式部の生徒である彰子とは、源氏物語が共通の話題になり、そのおかげで仲良しになったみたいなイメージでとらえられているみたいです。

源氏物語を真面目に読めば気づきますが、主人公の光源氏ってキャラクター的には結構、テキトーなんですね。光源氏が政治の世界でどうやって生き延びていくかとか、そういった男性目線からの切実な内容は省略されています。光源氏は出世も失脚も復活もするんですが、細かいことは書かれていません。紫式部にとって、そんなことはどうでもいいからです。顔はいいけど、中身は最低というキャラクターで、紫式部は意識してそんな風に書いています。なぜかというと、紫式部はあちこちの女と遊ぶ悪い男のために涙する女たちの姿を描きたかったからだと私は理解しています。光源氏がものにしていく女性たちのプロフィールや心情、容姿などに関するディテールの細かいこと。具体的で、リアリティがあり、平安時代の貴族の生活が分かるだけでなく、心情ということに関しては、現代でも多くの女性の共感を得られるものになっていると言っていいのではないかと思います。

光源氏のモデルは藤原道長なのではないかという説もあるみたいなんですが、はっきり言ってどうでもいいですよね。仮に光源氏のモデルが道長であったとしても、紫式部は道長を描きたかったわけではないからです。

そういうわけで、藤原道長の摂関政治全盛期に誕生した源氏物語について今回は述べましたが、先に述べましたように、平安後期から末期にかけて、上皇による院政が行われ、摂関政治は衰退していきます。それについてはまた次回やりたいと思います。